貴方の傍に
村井茂×村井布美枝


まるで珍しい動物でも見るかのように、浦木は台所に立つ布美枝を、
下から上へ、舐めるようにじろじろと見つめ上げた。
やがてその視線に耐えられなくなったのは、見られている本人ではなく、茂の方だったらしく。

「だらっ!見るな!」

大きなゲンコツが思い切り浦木の後頭部に炸裂した。

「…ってーな、乱暴はやめろ。何もしてないだろうが」
「目つきが厭らしい!」
「欲情したわけじゃないぞ」
「黙れ!」

もう一度拳を構える。
浦木はさっと身構えて、ちゃぶ台に沿ってその身をすすす、と茂の対角線へ持っていく。
ふたりの小さな諍いを、やれやれという顔で見やり、布美枝は卓に湯呑みを並べた。
茂に微笑んで気を落ち着かせるよう合図する。その笑みには早くも母性が滲み出ていて。
それを見た茂は、振り上げた拳を乱暴にぼさぼさの髪へ戻し、口を尖らせてがしがしと掻き毟った。
交互に夫婦の顔を窺いながら、浦木はにやりと口の端を持ち上げる。

「まあ、何はともあれめでたいことじゃないの。究極の朴念仁と、日本一の引っ込み思案に、
はてさて、子どもができたとはね。淡白な夫婦だと思っとったが、やることはやっとったんだな」
「この…っ!」

鎮火しかけた火に油を注ぐような言葉を、平気で口にするのが浦木の浦木たる所以だが、
さすがの布美枝もこの台詞には紅潮した顔が強張った。

「それにしても…」

卓に並べられた湯呑みを、穴が開くのかと思うほどに凝視したあと、
顔を上げた浦木は、眉をひそめて不憫そうに布美枝を見上げた。

「うっすい茶ですなあ」
「すんません、ちょっこしでも色が着いとったら、白湯よりましかと」

茶葉も、色が出る極限まで使うことにしている。
富田書房の経営危機のあおりを喰らって、今の村井家の財政は非常に逼迫していた。

「文句言うな」

限りなく白湯に近いお茶をすする茂を一瞥して、はあ、と浦木はため息を吐く。

「おいゲゲ、大丈夫か」
「何が」
「奥さん、腹は膨れてきとるようだが、頬はずいぶんこけたように見えるがなぁ」

どきりとして、布美枝は頬に手を宛てる。

「こ、この間までつわりであんまり食べられんだったけん…。けど、心配ないんですよ。
お医者様も大丈夫だと仰っとられたし、定期健診では順調だと言われとるし…」
「ほぉ〜、それならええですが…」

顎にやった手を、しわしわと動かしながら、浦木は茂に目線を移す。

「相変わらず家計の苦労をさせとるのではないのか?
妊婦が満足に喰えんような生活をしとるのでは、腹の子にも影響するぞ」

ぴたりと茂の動きが止まった。

「ふたりでも喰うや喰わずの生活をしとるのに、子どもなんぞ持って大丈夫か?
まして生まれてからはもっと金がかかるぞ?そういうことをお前は解っとるのか?」

布美枝の胸が徐々に波打ちだした。
茂の神経を逆撫でさせたら天下一のイタチが、また好からぬことをぺらぺらと喋りだした。
このままだと、いつものパターンで浦木はつまみ出され、茂の不機嫌がしばらく続く。
浦木のことはともかく、機嫌の悪い茂は、布美枝をもあまり近寄らせない。
どうかどうか、やめてごしない…。祈る思いで布美枝はその場を見守る。

「どうせ何とかなる主義で誤魔化そうとしとるんだろうが、世の中がそれほど甘くないことは
お前もよーく知っとるはずだ。そろそろ抜本的な現状の打開策をだな」

祈りも虚しく、浦木のこれでもかという厭味の応酬に、茂の周りに黒雲が立ち込める。
目線を落として、軋む音さえ聞こえそうなほど歯噛み、苛々と台の上で指を打ち付けている。
ハラハラと胸を抱えて、布美枝は浦木に目で合図を送るのだが、さっぱり受け取ってくれない。

「ええ機会だ、どうにも売れん貸本漫画など、そろそろ見切りをつけたらどうだ」

思わず布美枝が半分身を乗り出したとき。

―――――ばんっ!!

茂の右手がちゃぶ台を激しく叩き、勢いで湯呑みが倒れ、浦木のズボンに白湯茶が零れた。

「あっつ!ゲゲ!おま、ちょ、落ちつけ」

どうしてこの男は、長年付き合っているという割りに、茂の性分というものを理解していないのだろう。
とうとう爆発してしまった茂が、次に浦木に浴びせる怒声に備えて布美枝は耳を塞いだ。
…が、しばらくしてもしんとしたまま、あの「だらっ!」が聞こえない。

そっと様子を覗うと、茂は閉じていた目をゆっくり開き、浦木を見据えて凄んだ。

「…浦木」
「…お、おぅ」

ようやくその不穏な空気を読み取ったイタチが、恐る恐る返事をする。

「お前何しに来た。用がないなら帰れ」
「え、いや、俺ははるこさんに会いにだな…」

ここに来れば、はるこに会えるかも知れないと思い来た、と説明する浦木を無視して、
茂はのそりと立ち上がると、物も言わずに仕事部屋に篭ってしまった。
言い訳めいたことを必死で訴えてくる浦木をよそに、布美枝は小さく首を傾げた。
いつもなら大声で怒鳴り、浦木を蹴飛ばしてでも家から放り出す茂が、
今日は何故かその怒りが妙に静寂だった。と言うよりも少し、その表情は哀しげでもあった。
夫の異変にざわつく心もちが、ひどく居心地が悪くて仕方なかった。

―――

その日の遅く、ため息を吐きながら寝間に現れた茂が、原稿の仕上がりを告げ、明日出版社に行くと言う。

「お疲れさまです。肩、揉みましょうか」

ぐったりと首をもたげた茂の背中を、愛おしく、慈しみ、温かさに安堵する。
石のように硬くなった首や肩を揉みながら、また今度生姜の湿布を作ろうと思った。

「…あんた」

小さく、茂が呟いた。大きな背中に似つかわしくない小さな声。

「はい?」

何事かと聞き漏らさないよう、耳に髪を引っ掛けた。
次の言葉を待っているのに、なかなかそれは発せられない。
しばらく黙ったままうなだれていたが、急にくるりと向き直り、布美枝に相対する。
こちらを向いた茂は、ぽん、と布美枝の肩に右手を乗せ、きょとんとする妻を見つめた。

「明日原稿料もらったら、その金で安来へ帰れ」
「え」

じっと見つめる黒い瞳の中の真意を、その瞬間は読み取ることができなかった。
呆然と、見つめ返した。

「…もう安定期なんだろ?長旅だが、帰れんこともないと思うんだ」

磔にでもされたかのように、身体が動かず声も出ない。

「あんたのためだ。ここにおってもひもじい思いをするだけだし、それに。
…お産のときも実家の方が何かと安心だろ。こっちには義姉さんしか頼れる人間はおらんのだし」

耳に入ってくる茂の言葉は、ただただ残酷に布美枝の心を黒く蝕んだ。
冷静になれば、茂の言わんとすることは十分解る。それが自分を思ってくれているが故のことだということも。
けれど、どこかで理解などしたくない感情があった。
安来に帰ってお産に備える安心感と、目の前に居る愛しい男の傍。
どうしてそんな、際どい天秤を突きつけるのか。

ぽろぽろと、布美枝の瞳から大粒の涙が溢れた。
ぎょっとして茂は、口をあわあわとさせている。

「な、なんも、離縁すると言っとるわけじゃないぞ!落ち着いたら戻ってきたらええんだけん」

胸がいっぱいで、涙に邪魔され言葉が出ない。
布美枝は言葉の代わりに、茂に抱きつくことで伝えるしかなかった。
広い背中に腕をまわし、厚い胸にぎゅっと頬を押さえつけた。
6ヶ月目に入り、膨らんだ腹がつっかえたが、構わずぎゅうぎゅうと顔を埋めた。
嗚咽が止まらず、しゃくりあげる肩を、大きな右手が包んでくれる。

(解ってください、あたしは、貴方の傍に…!)

「…そ、ば、に…っ」

やっと声が出た。堰を切ったように伝える。

「傍に、居ったらいけんですかっ。…っ、あたし、ここに居ったら…め、いわくっ…ですかっ」
「そげでなくて」
「貴方の…足枷になるくらいなら、っ、…帰ります、けど!」

顔を上げて、強く見つめた。布美枝の勢いに気圧される茂が、息を呑んだのが判った。

「お金のこととか、身体のこととか…そげなことを気にしとられるなら…」

喉の奥を焼かれたように、声を発するたびに熱くて痛かった。
けれどそれ以上に胸の奥の疼痛に耐えかねた。
安来へ戻れと言った茂の心遣い、それを解っていて我侭を言って困らせてしまう。
つくづく嫌気がさす不安定な心情に、またしても涙で言葉を詰まらせた。
手の甲で拭っては鼻をすすりあげ、子どもが駄々を捏ねているみたいだ、と情けなくなる。
見かねた茂が、寝間着の袖でぐしゃぐしゃと顔を拭いてくれた。
きっと鼻の頭は真っ赤だろうな、などと少し惨めにも思えた。

「…言わんで」

声が震えた。その声を自分で聴いて、またじわっと視界が潤んでくる。

「帰れなんて…言わんでごしない…」

俯いた布美枝の顔を、温かな右手が掬った。

何かのまじないのように、両の目尻に軽く口づけられると、やがてぴたりと涙が止まった。
親指で頬を撫でられ、促されて見上げた夫の顔に、きゅっと胸が締め付けられた。
切なく、哀しげな、そして温かく、優しい眼に、囚われて閉じ込められる。
ゆっくりと近づく唇を、目を伏せて受け止めると、ふわ、と茂の匂いに包まれた。
このひとときを、失うことが何より辛い。例えそれが愛しき故郷と引き換えだと言われても。
交わす口づけの甘さに浸り、蕩ける内側をじんわりと意識する。
何度も何度も唇を包み込まれ、柔い舌が入り込み、強く淫らに吸い上げられる。
布美枝の肩に置かれた右手が、ゆっくりと降りてゆき、左胸を揉み揺らした。
寝間着越しに、反応した先端が尖り始め、親指の腹で捏ねられる。

「ん…っ…ぅ」

息も絶え絶え翻弄される唇の隙間から、思わず快の呻きが零れた。
とたんに茂ははっとして身体を強ばらせ、布美枝の肩を押して自分から引き離した。

「…っ、…すまん」

俯き加減で顔を背け、ぱちぱちと頬を叩いている。

茂は自らに禁忌を課しているようで、身篭って以来、布美枝を求めてくることはなかった。
もちろん、ちょっとしたじゃれ合いや口づけの愛撫を受けることはあったが、
それ以上は一切踏み入ってこなかった。
夫の思いやりは、常日頃淡々としているあたりからは想像できないほど、深くて広い。
けれど。
ずっと我慢を強いているような気がして、布美枝の方が気が引けた。
それに、時折疼く身体を互いに押さえ込んでやり過ごす夜は、やはりこれ以上もなく虚しかった。

布美枝はそっと両手を伸ばすと、茂の頬を包み、軽く口づけた。
唇を離す代わりに、額を合わせて請うように囁いた。

「…これ以上は…いけんの、ですか」
「え…」

恥ずかしさに、ぎゅっと目を閉じた。
ややあって、再び布美枝を優しく引き離し、わざとらしい明るい声で茂は軽く笑った。

「…俺に、気を遣っとるならええんだ。あんたの身体の方が大事なんだけん」

気を遣っているのはそちらのくせに…。布美枝の八の字眉が、茂を見上げる。

「…そんな目で見るな」

目を逸らして、右手で顔を覆う仕草。
そのまま髪を掻き毟り、「ああ、もう」と乱暴に吐き捨てる。

「見るな…っ!」

ひときわ大声で怒鳴られ、反射的にぎゅっと目を閉じた。

―――――それなのに。相反して口づけられた。
唇から伝わる、矛盾する「男」の本音。
ただそれが、今の布美枝には心底嬉しかった。

「…もう…どげなっても知らんぞ…」
「……はぃ」
「…だら、そげなことではいかんだろうが」
「ど、どっちなんですか」

怒ったように顔を見合わせて、やがて同時にぶっと噴出した。
「笑い事ではない」軽く額で小突かれる。
「貴方こそ」応戦して、両頬を捻ってやった。
少し考えこんだあと、茂は緩やかな丘陵の腹に手をやり、すりすりと撫でながら、

「…途中で辛くなったらちゃんと言え。ええな」
「…はい」

再び、甘い唇で布美枝の全てを包み込んだ。

つっかえるお腹を考慮して、茂が背後に回ってくれた。うなじに落とされる唇がくすぐったい。
脇の下から持ち上げるようにして包まれた乳房を、揺する右手がどこかぎこちなかった。
やはり最大限の遠慮が、指の先一本一本から伝わってくる。
帯を解いて、肩からするりと寝間着を落とすと、岩田帯に包まれたぽってりした腹が現れた。
もどかしげに帯を解く右手を手伝うと、優しく目を細める茂が肩の向こうに見える。
露わになった腹を、またすりすりと撫でながら、くすくすと背中で笑い声。

「…なんですか」
「いや、なんか…ここから見下ろすと面白いぞ。胸より出とる」
「ん、もぅ」

首だけ捻って睨みつけると、また笑いながら頬を啄ばまれる。
背中に押し当てた唇から、舌が背骨に沿って首の裏まで舐め上げ、ぶわっと一気に鳥肌が起った。

「あ…ふっ…っ」

腹を撫でていた手がするりと下方へ移動し、柔毛の辺りで少し躊躇する。

「だい…じょぅぶ、です」

布美枝の声に後押しされるように、割れ目をなぞり、襞をかき避け、指が侵入する。
一方で、布美枝の耳元では熱い吐息が舌とともに、直接脳へと淫猥を働きかけ、
狂わされた神経が制御を忘れ、身体が勝手に反応し、熱が内側に篭って疼きだす。
長い間、放ったらかしにされて乾いてしまっていた身体が、今再び潤いを取り戻し始めた。

「…ぁっ…あっ…!」

羞恥心も忘れ、脚を開いてその身を茂に預けた。
指先に花の芯を捉えられ、擦られる度にその場所がじんじんと充血していくのが分かる。
ずるずると落ちていってしまう布美枝の身体を、支えきれないと思ったか

「横になるか?」

茂が優しく問いかけた。

ここのところ仰向けになりにくい布美枝を、茂はよく知っていた。

「楽な格好でええ」

と言って、横臥のままにさせ、いったん布美枝の臍のあたりに唇を落とす。
ちら、と布美枝の顔を見、布美枝も「大丈夫」と笑顔を返した。
ゆっくり上側の脚を持ち上げられ、肩に乗せると、内股に顔が埋まり、繁みの奥へと舌が伸びた。

「ぁ…ん」

潜り込んでくる舌の動きに思わず腰が引けたが、文字通り身重の身体は、思うように動かせない。
久方ぶりの刺激に、下半身が既に半分麻痺している。

「ん…ふぅ…あっ…」

陰唇に押し当てられる、やや硬めの舌先に、絡めとられていく愛液の音が卑猥に響いた。
唾液の艶を纏った萌芽を、上歯が齧り、舌が舐る。
びくびくと反応すると、はた、と茂の動きが止まり、様子を窺われる。
その間が耐えがたく恥ずかしかった。
会陰全体を貪られるこれ以上のない快感に、褥に顔を擦りつけ、指を噛んで抗う。
自分の身体なのに、この場所だけは茂の方が何もかもを良く知っている。
どんな色で染まるのか、どんな形に変わるのか、どこが最も感じるのか…。
後にも先にも、誰にも見せることのない、ただ茂にだけに暴かれる秘密。
その指で、舌で、息で、追い詰められる奮える最高潮へ。

「っ…ぁ………っ」

静かに、昇りつめた。

しばらくぼうっと横たわったまま、やがて目線だけで夫を仰いだ。
寝間着を脱ぎ捨てたものの、果たしてどうしたらよいのか、と戸惑う様子が見えた。
腕を伸ばすと、それに気づいて右手で掬ってくれる。指が絡み合い、ぎゅっと握る。

「…きて…」

布美枝は、その気怠るい身を四つん這いに起こして、頭をぐっと下げた。
寒いわけでもないのに、勝手に腰が震える。
引き攣るその場所へ、後ろから熱い肉塊が宛がわれ、ぐっと踏み込んだ。

「っ…!」

押し込まれた反動に、思わず前に一寸よろける。

「おいっ」
「だいっ…じょぶ、です…」

腹に力が込められないぶん、支える腕に集中させる。

「もっと…きて…」

さらに進んでくる。が、もどかしいほどに侵入の速度が極端に緩い。
布美枝を気遣ってのことなのだろうが、却って内側がずくずくと疼いて辛い。

「もっ…と…」
「ああ」

躊躇しつつ、のそりのそり進んでは後戻りする。
奥まで届かない場所で、軽く揺さぶられる。

「あっ…ん」
「大丈夫か」
「は、ぃ…ぃ…っ!」

とことんまで思慮深い振動が、布美枝の長い髪を揺らした。

「…ぁ…っ…も、っと、好きに、しても…っ」

短い摩擦の繰り返しが、逆に焦らされているようで堪らない。

「…ぁっ……、…あっん…」

いつもとは違う、優しすぎる交わりに、たまらず目を閉じる。
背中で少し昂ぶった声がして、急に速度が上がった。

「もう…終わらせ、る」
「あ…あたしは、だいじょ…ぅ」
「いや、俺のが、持たん」
「え」

何やらもごもごと「久々過ぎて…」などと呟いたかと思うと、一層の加速度で突き上げられた。

「あっ!ああ…っ!」

2度3度、大きく揺さぶられた。瞬間。
大きな脈動と熱を感じた。深く息を吐く音を背中で聴く。
ぬるりと、身から熱が取り出され、精が溢れ出る感触に小さく震え、茂を振り返った。

「何ともないか」
「…はい」
「はあ…なんか…今日はくたびれた」

尻もちをつくようにして脚を放り投げ、ため息を吐いている。
何だか少し可笑しくなって、互いに照れたように微笑った。

―――

「あ、ん…ちょっこし、きつい、かな」
「あーもう、加減がわからん」

茂が布美枝の周りを回って、岩田帯を巻き戻す。
文句を言いながらでも、手伝ってくれているのが嬉しかった。

「昼間…」
「ん?」
「浦木さんの言っとられたことを、気にされとったですか」
「………ん、まぁな」

帯のヨレを直しながら、茂が頷いた。

「毎日見とるけん、わからんだった。よー見たら腕なんか骨と皮だけになっとる」
「肉がないのは昔からですけん…」

帯の端を渡され、きゅっと締め上げると、後ろからふわりと寝間着がかけられた。

「だんだん」

ぺこりと頭を下げる。
そういえば、安来へ帰れの件はどうなったのだっけ、とふと思い出す。
急に不安になって、茂を見上げた。
布美枝が物問いたげにしているのを察して、ごほんとわざとらしく咳払いし、

「よー考えたら、明日まともに金がもらえても、せいぜい姫路くらいまでしか行けんかもな」
「え…」
「水道の払い、溜まっとるんだったか?」
「は、はい、ガス代も、待ってもらっとります」

顔をしかめて首を振り、「参ったな」と繰り返す。

「あの…あたし…。ここに居っても…?」
「金が足りんのでは、放り出すわけにいかんからな」

胡坐をかいて、やや照れくさそうに顔を背ける茂を見て、ほうっと安堵のため息が出る。
互いに安心したようで、自然と笑みが零れた。

しなやかな茂の腕枕の中で、うっとりと目を閉じてその匂いに浸る。
頭上では「そういえば」と呟く声。

「浦木のやつ、何しに来たんだった?どうせ晩飯にでもありつくつもりだったんだろうが、
もうしばらくあいつを家に上げんでええからな」

どうやら昼間の怒りが再燃しているようだ。
布美枝はくすっと微笑って、茂を仰ぎ見る。

「『ゲゲを持ち上げるわけではありませんが…』」
「ん?」

わざと抑揚をつけて、浦木の口調を真似てみた。

「浦木さん、帰りしなに言っとられましたよ。貴方は小さい頃ガキ大将で…」
「それがどげした」
「『それなりに広い縄張りのガキ大将をしとると、当然子分も多く養っていくことになります。
縁もゆかりもない、近所のガキばかりでしたが、ゲゲはガキの扱いが上手かったですよ。』」

浦木の言葉を、思い出しながら話して聴かせた。
自分の知らない頃の茂を知らせてくれる浦木は、正直厄介者ではあるけれど、
布美枝にとってはとても有難い存在でもあるのだ。

「『近所のガキでも親身になってあれこれと世話を焼ける男です。ましてそれが我が子となれば。
…生まれてからのことは、まあ、心配要らんのかも知れませんな。』…ですって」

茂は眉をひそめて訝しげに布美枝を見、「ふうん」とため息まじりに呻った。

「あいつの言うことを真に受けるな」
「あら、すっかり間に受けて落ち込んどられたのはどちら様でしたっけ」

意地悪く問い詰めると、口を曲げて睨まれた。
その子どもっぽい表情が可笑しくて、肩を揺らして笑った。

「浦木さんも、ちょっこし反省しとられたのでは?貴方が向こうへ行かれてしまってから、
妙にそわそわしとられましたよ?」
「放っとけ。どうせまたひょこひょこ何事もなかったようにやって来るぞ」

それもそうだな…と、布美枝は思った。やはりそれが、彼の彼らしいところなのだろう。
大きく深呼吸をした茂が、布美枝の背に回した腕をそっと我が身の方へ引き寄せた。
布美枝の額のあたりに唇が触れ、髪を避けるようにして頬ずりされる。

「…100年に1度くらいは、あいつもまともなことを言うもんだ」

独り言のようにぽつりとこぼした言葉は、きっと照れ隠しなのだろう。
けれど、茂だけでなく、布美枝もまた浦木の言葉に救われた気持ちだった。
くすくす、と笑いが互いに伝染する。
見つめるすぐ先の愛しい笑顔は、布美枝と、そしてその胎内に眠る小さな命の未来を、
鮮やかに彩ってくれるかのように輝いて見えた。






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