プロポーズ
村井茂×村井布美枝


風呂上りに少しだけ、ペンを走らせていた茂にそうっと近寄る影がひとつ。
気づいてそちらを見やると、含み笑いでこちらを窺う布美枝がいた。

「今日は何の日か、覚えとられますか?」

その問いかけに茂はわざと答えずに、ぽりぽりとペンの尻で頭を掻いた。
本当は、昼間から気づいていた。どこかそわそわしている様子に、今日は何かある、と。
よくよく考えてみれば、1月30日だったので合点がいった。
けれど敢えてこちらから言い出すことはしない。というより出来ない。
そういうところが、茂の不器用なところだった。

「…結婚記念日」

ぼそっと呟くと、ぱあっと布美枝の顔が輝いたような気がした。
紅潮した頬に満面の笑みを浮かべて、

「これ」

後ろ手に持っていた包みを、さっと差し出す。
鹿の子柄の包みに、ご丁寧にリボンまで付いている。
店で買った風はなく、どうやら布美枝のお手製のようだ。
リボンを解いて包みを開くと、青墨色の毛糸で編んだマフラーが入っていた。

「散歩のときにどうかと思って」

恥ずかしそうに付け加えた。

「ふうん、ええ色だな。いつの間に編んどったんだ」
「おとうちゃんは仕事に夢中になっとると、こっちには全然無関心だけん。よーはかどりました」

皮肉っぽく言われたけれど、まったく刺々しさがない。
くすくすと笑う声に、茂も苦笑った。

「すまんが、俺はなんも用意しとらん」
「ええです。あたしが勝手にやっとるだけですけん」
「何でも欲しいもん、買ったらええ。服とか、化粧品とか」

昨年末に、雄玄社の漫画賞を受賞したばかりだ。
雑誌に連載を持ち、暮らし向きは上がってきているし、それくらいの余裕はあるはずだった。

「欲しい物なんてないです。服も化粧品も、家と商店街の往復しかしとらんあたしには無用の長物です」

この女房は、いつまで経ってもそういう風だから、呆れてしまう。
たまの贅沢は精神に潤いをもたらす、という茂の持論は、
布美枝の前では右から左へ流されていってしまうのだった。
ため息を吐いて、ペンを置く。

「今日はもう閉店」

言ってからちらりと布美枝に意味深な視線を送ると、
敏感にその暗号を受信して、思わず口元を緩めて頬を染めたのが判った。

― ― ―

茂があとから寝間に現れると、布美枝は藍子の傍らでその髪を撫でていた。
伏し目がちに娘を愛でる横顔が、つくづく美しいとは思うものの、口に出してはとても言えない。
惚気た自分を慌てて繕うように、ごほん、と咳払いをして布団に座った。
布美枝は藍子の様子を窺う振りをして、その実、背中でこちらとの間合いを測っている。
そんな小細工などせずに、寄り添ってくれば良いのに、と思う反面、
強引に腕を引っ張って抱き寄せ、胸の中で羞恥にたじろぐ様を見るのも愉しい。
そんなことを考えていたものだから、思わず零れた下心の含み笑いが、布美枝をきょとんとさせて、

「おとうちゃん?」

訝しげに覗きこまれた。

「何か可笑しい?」
「あ、いや、あの、あれだ。えーと…」

要するに、さっさと来い、ということだ。
茂は布美枝の腕を引っ張って、自らの胸に埋め込んだ。
布美枝は驚いたように小さく叫んで、しかし為すがままに身を預けた。
さらりと伸びる黒髪を、手櫛で梳かしながら、女体の柔らかと香しさにぼんやりと蕩ける。

「…なぁ」
「…はい?」

やはり少しだけ気がかりで、改めて問うてみる。

「遠慮せんでも、欲しいもんがあったら言うてみろ」
「はあ…」

茂の言葉が意外だったのか、布美枝は気の抜けたような返事をしてから、

「そげですね…」

と呟き、眉間に皺を寄せて頭を捻りだした。

「ないのか、何も」

茂の問いかけに、布美枝は目を閉じて天を仰ぎ、うんうんと呻る。

「色々あるだろう、ネックレスとか、イヤリングとか」

ぶるぶると首を振って、また首を傾げて考え始める。

「食うもんでもええぞ。豊川さんが前に土産に持ってきた、あれなんだ、洋菓子、美味かったな」

今度は腕組みまでして本格的に悩み始めた。
この女はどこまで欲がないのだろう、と感心するのを通り越して呆れ果てた。

しばらくそうしていると、やがて、はた、と何かに閃いた布美枝が
ぱっちりと目を開け、ゆっくりと大きな目玉で茂を仰いだ。

「思いついたか」
「…」

口を半分開けたまま、何かを言おうとした布美枝だったが、

「…やっぱり、ええです」

はにかむように笑って顔を背けた。

「何だ?気になるでないか」
「えへへ…」

何か妄想でもしているのか、独りにやけている布美枝を急かすように突っついた。

「言ってみろ、少々値が張ってもええ」
「お金は…要らんのだけど」
「?…なんだ、それ」
「いやぁ〜…」
「あーあー、もうっ。気になる!早やこと言え」
「けど…」

じりじりと座り心地が悪くなって、布美枝に迫るように上半身を圧しつける。
近づいてくる茂の顔を両手で押さえながら、布美枝はにやけ顔を元に戻せないでいる。

「言ったら…絶対にくれますか」
「俺ができることならな」
「じゃあ…」

思い直したように、布美枝は茂を押し戻し、姿勢を正して座ると、俯き加減でぼそぼそと喋り始めた。

「あの…えーと、えと、…プ…」
「ぷ?」
「…プロポーズ、して欲しい、…です」
「―――――――――は?」

思いもよらない意外な要求に、一瞬真っ白になった茂の頭の中では、
やがて字引がパラパラとめくられて、「プロポーズ」を検索する。
よくよくじっくりと調べてから、ようやく言葉が声となって伝達された。

「何を言っとるんだ。それは求婚するときに言うもんだ」
「はい」

ごもっとも、という顔で布美枝は茂を見上げる。

「もう一緒になって随分経っとるんだぞ」
「けど、あたし一遍も言われたことないですけん」
「…なして今更」
「一生に一遍のことですけん、言われてみたいんです」
「何の得をするんだ」
「損得の問題じゃなくて」

今度は逆に、茂が布美枝にじわじわと詰め寄られてきていた。
のらくらと本題をかわそうとする茂に気づいたのか、布美枝はじれったく身を揺する。
妙なことになったと思いながら、茂はじっと見つめ上げてくる目玉に動揺していた。
無言の圧力に押されながら、目を逸らすことは出来ずに、ごくりと唾を飲む。

「…ほ、他のもんではいかんのか」
「他?…なしてですか?言ったら…くれるって仰ったじゃないですか」

子どものようにふてくされた顔で、じろっと睨み上げられる。
茂は今まさに、自身の最も苦手とする分野の頼みを迫られているのである。

誤魔化して一蹴したって良い。けれど、圧倒的に今回はこちらが形勢不利だ。
何よりこの目玉には弱い。じっと見据えられると、逃げられなくなる。
こういうときには、つくづく浦木が羨ましい。
あのぺらぺらと、どこから引っ張り出せるのか、薄っぺらい世辞を並べられる能力は、
不器用な茂には到底真似のできる芸当ではない。
そういえば大昔にヤツが持ってきた、跪いて愛してると言えとかいうふざけた内容の本があったな。
あれをもう少しきちんと読んでおけば良かったかも知れない、などと。
思考回路がぐるぐると目まぐるしく回転する中で、余計なことには神経が回る。
肝心な言葉は何も浮かんでこないのに…。

「…もうええです」
「え?」

痺れをきらしたように、布美枝は身体ごと、ぷいと横を向いた。

「そげに困るようなことなら、もうええです」

つっけんどんな言い方に、茂の心臓がずく、と疼いた。

「意味ないですよね、こげなこと。…馬鹿みたい…」

苦笑して作られた笑顔が、あからさまにがっかりしていることは、流石の茂にも判った。
思わず、かっとなる。

「だらっ!」

吐き捨てるようにして怒鳴ったので、布美枝もややむっとして見つめ返してきた。

「お前が…っ、意味ないとか言うな!…どげな高価なもんよりお前が欲しいって言うけん、
こっちは真剣に考えとるんだろーが!そげに簡単に言えてたまるかっ!」

考えるより先に口が勝手に動いた、というのはこういうことなのだと、後になって気づいた。
ぽかんと口を開けた布美枝の顔が、みるみる紅潮していくのが分かって、
茂もようやく自分の口から出た言葉に驚き、うろたえた。
けれど、同時に何かを掴んだ気もした。
うわべだけの甘い言葉や、嘘臭い愛の語らいなどは出来るはずもないし、
そもそも布美枝はそんなものを欲しがっていたわけじゃないはずだ。
ただひたすら、夫からの真心のようなものを、示して欲しかっただけなのだろう。

気まずい空気が流れたところに、藍子がぱたりと寝返りを打った。
慌てて布美枝はそちらを振り返ったが、すやすやと眠る姿を確認すると、ほっと息を吐いた。
背中を向けた女房に向かって、いよいよ茂は静かに語り始めた。

「…っぅ、う、上手くは言えんが、あー、お前は、よー、やっとる、と、思う」

一言一言、言葉を、単語を、選びながら。

「何とか喰っていけるようになったが…それでも、明日はどげなるか分からん。そういう商売だけん」

じっと聴き入る布美枝の背中が、微かに震えたようにも見えた。

「………もしまた貧乏で電気が点かんような生活に戻ったとしても」

肩に力が入って、どうにも居心地が悪いな、と首を傾げながら。

「………お前、なら、多分。……また、何とかなるって、言うてくれるんだろう、と、思っとる」

遂にくるりと布美枝が振り向いた。
慌てて目を逸らす。まともに顔を見て続けることなどできなかった。

「えー、あー、………っと、とにかく、あれだ、その」
「おとうちゃん」

震わせた布美枝の声が、掠れ気味に聞こえた。
ちら、と目だけ持ち上げて窺うと、件の女房は早くも瞳を潤ませてぐっと口元を引き締めている。

「…ほれ見ろ、すぐに泣く」
「だって…」

ゆっくりと近づいてくる細身を、腕を拡げて迎え入れる。
ぎゅっと抱きしめて、額に口づけた。

「……ずっと………付いてこい。一生、…お前の一生かけて、付いてこい…」
「…はいっ」

泣き笑いでぐしゃぐしゃになった笑顔に、茂も照れて苦笑した。
寝間着の袖で雫を拭い、また子どものように笑う布美枝に口づける。
言葉で伝えられるのは、思いの全てではない。
こうして唇から、そして全身で、その身でしか与えられない思いもある。
そしてそれは布美枝も十分よく知ってくれている。何もかも、ふたりはふたりの絆で解りあっていた。

息継ぎの間に零れる布美枝の吐息が、茂の欲を奮い起こし、尚更息苦しくさせる。
けれど何故だか無性に離しがたくて、口づけたままで布美枝の方へ体重をかけた。
褥に身体を横たえると、布美枝が身悶えて首を捻った。ようやく唇が離れる。
そうして隙ができた細い首筋に、すかさず齧り付いた。青い脈に沿って耳元まで舐り、
わざとらしく、ぬめった音を立てて舌を這わせ、耳たぶを噛む。
弾む息の合間に微かな嬌声が混じりはじめ、茂を扇動するかのように頭の中でこだまする。
服を剥くのと同じように、少しずつ少しずつ、妖しく淫らになっていく様にこちらが酔わされる。
僅かに潤んだ瞳に見上げられ、危うく囚われるところでまた激しく唇を貪った。

「ふ、…ぅ…っん」

寝間着の合わせ目から右手を挿し入れ、柔らかな乳房を弄る。
顎と口で肩を肌蹴させ、白い肌に唇で自らの痕跡を残した。
武骨な指の合間から覗く、野いちごのような赤い実にたどり着き、赤子のように吸い付く。
気のせいだとしても、本物の果実のように茂には甘く感じられた。
布美枝が背を仰け反らせたところで、纏わりついていた寝間着を奪う。
恥ずかしがって顔に持って行こうとするその手をも奪って、ぎゅっと握り締めた。
八の字眉でこちらを見上げる、少し逆上せた表情が、茂の内側を掻き毟って、
再び白い肌に唇を寄せ、触れていない場所などないほどに、そこかしこに口づけた。

「は…ぁ…っ、っふ、…」

最大限、藍子に遠慮した小さな喘ぎ。父親失格と言われても、この時だけは娘に嫉妬する。
愛し合う時間の束の間は、全ての神経を自分にだけ捧げて欲しい、強烈な独占欲。
「おかあちゃん」の布美枝が、女の顔になる時はただ独り、自分だけが知っている瞬間だ。
茂は、もどかしく纏う物を脱ぎ捨てると、布美枝に再び覆い被さり、
隙間がなくなるほどぴったりと身体を合わせた。
おずおずと背中に回された布美枝の腕が、堅い肌を優しく撫でる。
蒸気した熱で、ふわりと漂う女の甘い匂いにくらくらと惑わされ、胸に埋めた顔を上げた。
闇の中で、月光を反射して黒光りする瞳とかち合い、ふ、と口元が緩んだ。
つられて微笑んだ布美枝が、背に回した腕を茂の後頭部まで持っていき、自らの方へ引き寄せた。
もう何度も交わしているのに、いつまで経っても物足りないという風に、
頭を交差しながら深く深く、互いの口唇を奪い続けた。

繰り返す愛撫のうちに、布美枝の腿の下へ自らの膝を潜りこませる。
下腹に、冷たい愛液の潤いを感じて指で弄った。

「や…っ、あ…」

充血した陰核を探りあて、二指で摘んで捏ねてみる。その都度昂ぶる喘ぎが切迫してくる。

「おと…ちゃ…」

途切れ途切れの微かな悲鳴。興奮は茂の雄を極めさせる。
割れ目を掻き分け、雫の滴る源泉へ指を挿し入れると、ずくずくと内側に持っていかれる。
その指の間をすり抜け、止めどなく溢れてくる液が、茂の掌に拡がっていく。
ぬめる亀頭を核に宛がって、揺さぶりをかけた。

「…は…ぁ、あ…」

やがてふたりの淫液が潤滑油の代わりとなって、茂の勃立した下半身はするりと中へ吸い込まれた。

「あっ…!」

ぎゅっと目を閉じて、硬い熱の侵入に布美枝が一次身を強ばらせたのが判った。
けれどやがてしゅう、と弛緩していく。ゆっくりと目を開けたところへ、すかさず覗き込む。

「は…ぁ…おとうちゃ…」
「名前で」

と、思わず命令するように口にしてしまった。
そんなこと、こちらから乞わなくてもいつも喘ぎの中に混じってくるのに。
突発的に口をついた、ある種の「おねだり」のようなものに、勝手に焦った茂には気づかず、
布美枝は「しげさん…」と優しく呟く。
照れ隠すように、ぐい、と最奥まで腰を打ちつけた。

「あ!…っぁ…しげ…ぇさ…」

絡めてくる腕に誘われて、また身体をぴったりと重ねた。
緩やかに抜き挿しすると、動きに合わせて官能の声が上がり、何度も名を呼ばれる。
左脚を抱えて、密着の度合いを更に強める。卑猥な水音が繋がった部分から洩れ聞こえた。

「あっ…あ、あ…ぁ、お、ねが…」

苦しそうに寄せられた眉間の皺に口づけたとき、僅かに布美枝が囁いた。

「しげ…さ、おねがい…っ」
「…なんだ」
「呼んで…?」
「え?」
「なま、え…」

蚊の鳴くような声に、しかし思わず動きを止めてしまった。
茂の額に浮かんだ汗を、優しく拭ってくれる布美枝が、はにかむように微笑んだ。
甘美な微笑にしばし見蕩れていると、そっと細い腕が茂の腰に絡んできて、ぎゅっと押し付ける。
続きを強請る仕草に、胸が締め付けられた。

結婚記念日の記念品然り、いつも欲しいものを欲しいと言わない布美枝の遠慮深さは、
数多の情事の際にも何も求めてこようとはしなかった。
けれどこうして哀願される切なくも美しい表情は、
布美枝への愛しさ、興奮、欲、淫ら、ありとあらゆる昂ぶる感情を取り混ぜて、
茂の身体中の神経という神経を刺激し、その全てが布美枝に占拠される。
名を呼ぶなんて、単純で簡単なこと。けれど茂には最も難しいこと。惚れた女でなければ。

(絶対に、呼んでたまるかっ…)

「…布美枝っ」

込み上げてきた声とともに、刹那、強く貫いた。

「は…ぅ…っ!」
「ふ、みえっ…布美枝…ふ、…」

打ち付ける腰の速度を上げて、熱病でうなされる病人のごとく、荒い息の中、何度も何度も呼んだ。
仰け反った布美枝の顎から、首筋から、胸元から、音を立てて吸い付く。
布美枝の中で蠢く襞に、必死で抗ってみても、その実極めさせられているのか。
判然としなくなってきた意識の中で、自分を呼ぶ布美枝の声だけが頼りだった。
意識ははっきりしてなくても、本能的なものだけで身体は動くのだな、
などと、やたら冷静なことが頭を掠めたが、やがて布美枝の声も耳に届かなくなり、
滾る欲望の塊が、限界に近いほど膨れ上がってきたのを感覚で受け止める。
しなやかに捩れる姿態を見下ろしながら、白けていく視界のうちに、
自ら吐き出した欲の熱をうっすら感じて目を閉じた。

― ― ―

やたら疲れたのは、ここのところ仕事が詰まってきているせいだ。
年のせいなんかじゃない、はず…。自分に言い聞かせながら、茂はぐったりと寝転んだ。
右腕に抱いた細い身体から、すすす、と腕が伸びてきて、目にかかる前髪をさらさらと掃う。

「髪、伸びましたね」

布美枝の声が、こんな近距離に居ながら随分遠くから聴こえてくるような気がした。

「明日切りましょうか」

目を閉じたまま、答えるのも気怠るくて無言でいると、

「もう寝たのかな…」

と独りごちて、つまらなそうにしている空気が伝わる。
本当は起きているけれど、今日は少し気恥ずかしくて目を開けられないのが本音だった。
哀願されるままに、乞われた以上に名を呼んで果てた今夜の情事は、
快感を与えて悦に入るいつもの事後の満足感を、せせら笑うように覆す。
敗北感にも似た、脱力。「惚れたが負け」などと俗に言うやつだ。

(いつからこげな…)

名を呼ぶだけで、愛しさが増すようになったのだろう。

茂が悶々として、自らの心と探りあいをしていると、ふわりと軽く、唇に柔らかなものが降りてきた。
すぐに離れた布美枝の唇は、茂の唇の上でじんわりと温かく、甘い跡を残す。

「…すき」

鼓膜が異常を起こしていなければ、確かにそう聴こえた。
そそくさと、茂の腕に潜りこむ布美枝に、しかし問い返すことは出来ない。
向こうはこちらが眠っていると思っているのだろうから。
心臓が左側にあって良かった。
少年のように反応してしまったこの鼓動の音に、絶対に気づいてくれるなと、茂は必死に祈った。
やがて規則的な寝息をたて始めた布美枝を、ようやく見やることができた。
努力などせずとも、すとんと落ちていける眠りの世界に、
今夜だけは昂ぶった神経と格闘し、なかなか入って行けない茂が、大きくため息を吐いた。






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