村井茂×村井布美枝
梅雨時のある日。 わずかな晴れ間に自転車で国分寺の戌井を訪ねて行った茂は、夜になっても 帰ってこなかった。 (お父ちゃんはお酒も飲まんけん、戌井さんのところにごやっかいになる 理由もないし・・・。電話がないけん、連絡もつかん。・・・どげしよう?) フミエは心配でまんじりともできずに一夜を過ごした。 夜が白んできたころ、茂はようやく帰ってきたが、水がたれるほど濡れそぼち、 身体は冷え切って疲れ果てているようだった。 「・・・お父ちゃん!いったいどげしたの?・・・こげにずぶぬれで!」 「・・・わからん。霊園を通り抜けて近道しようとしたんだが・・・。どうしたわけか、 出口がみつからんのだ・・・。」 茂は放心したように一点をみつめて、抑揚のない調子で話した。 フミエの脳裏に、真っ暗な中、吹きつける雨に打たれながら必死で自転車を こいでいるのに、周りの風景がまったく変わらない茂の姿がうかんだ。 「慣れとる道のはずなのにな・・・。走っても走っても、出られんだった。」 「お風呂わかしますけん、入ってください。」 「いや。・・・疲れたけん、寝る・・・。」 茂はよろよろと階段を上って行った。 フミエはありったけのタオルを持ってそれを追いかけた。 まずはびしょぬれの服を脱がせ、タオルで冷えきった肌をごしごしこすった。 いつもなら、こうして世話をやかれると「痛い!」だの「くすぐったい!」だの 文句を言いとおしで大さわぎの茂なのだが、茫然とした顔でされるがままに なっているところを見ると、よほど憔悴しているようで、かえって心配になる。 乾いたゆかたを着せ、布団をしくと、茂は倒れこむように横になった。 フミエは、濡れた服やタオルを集めると、階下へおりた。 (お父ちゃん、どげしたんだろう?いくら雨が降っとったからって、迷うような 道じゃないのに・・・。まさか、狸に化かされたとか?) 婚礼の次の日、東京へ向かう列車の中で、茂から「東京にもたぬきの住んでいる 所がある。」という話を聞かされたことを思い出した。昔の話だと言っていたが、 雑木林が多く残るここ調布のような田舎なら、まだいるのかもしれない。 それにしても・・・。 (走っても走っても、抜け出せない暗闇・・・。働いても働いても貧乏から 抜け出せない、私たちの暮らしみたい・・・。) フミエは寒気を感じた。6月とは言え、梅雨寒の言葉どおり、昨日からしとしとと 降り続く雨で、身体に感じる気温は低かった。 (しげぇさん、寒くないだろうか・・・。) 心配になって、二階にいくと、眠っている茂の額に手をあてた。 (熱はないみたいだけど・・・氷みたいに冷たいわ。) そっと掛け布団を持ちあげて茂の手にさわると、やはり冷たくかじかんでいた。 (どげしよう・・・。このままじゃ、風邪ひいてしまうわ。) フミエは両手で茂の手をさすった。 「う・・・う〜ん。」 茂は顔をしかめて向こうを向いてしまった。茂が寝ていた部分に触ってみても、 ちっとも温かくない。フミエはエプロンをとると、そっと茂の布団に入った。 後ろから茂の背中を抱きしめて温める・・・つもりが、背中が広すぎてフミエの 細い身体ではおおいきれない。 (こっち向いてくれんかな〜?) 思ったとたん、また茂がこちらを向いておおいかぶさってきた。 「きゃ・・・。」 つめたい。死人のようだ。フミエはぞっとして浴衣のえりの間から茂の胸を こすった。 (もぉ〜、こうなったらしょうがない!) フミエは起き上がってブラウスと下着を脱ぐと、またブラウスを羽織って 布団に入り、裸の胸と胸をあわせて温めようとした。 (つめたい・・・お父ちゃん、大丈夫だろうか?) 必死で手で背中をこすりながら、脚で茂の脚に触れると、こちらも石のようだ。 恥ずかしいけれど、すべてを脱ぎ、茂のゆかたの帯を解いてその中におさまった。 ゆかたの中で手を背中にまわし、脚もぴったりとくっつける。ほおとほおを合わせ、 思わず口づけると、唇までもが冷たかった。 フミエは、腕が痛くなるのもかまわず、いつまでも茂の肌をさすり続けた・・・。 「うーーーーん。・・・あ、あれ?」 茂は目を覚ましたが、一瞬何がなんだかわからなかった。外はうす明るい。 自分のゆかたの中に、裸のフミエがいる。 「こげなことした覚えはないが・・・。ん〜・・・そういえば。」 ・・・夢の中で、茂はまだ墓場をさまよっていた。 雨に打たれて自転車で走り続けるうち、身体は冷え切り、手足の感覚がなくなってきた。 そのうち、同じところをグルグルまわるどころか、周りの風景がまったく 変わっていないことに気づいてゾッとした。 果てしなくつづく墓の行列のそこかしこに蒼い燐火が燃え、亡者たちの 白い顔が見えるようだ。 (死者の街に、迷い込んでしまったのかもしれん。) お化け、幽霊お手の物の茂だが、気配や音を感じたことはあっても、実際に お目にかかることは初めてだった。それに・・・。 (こいつらには、なんだか悪意を感じるな。) 身体は冷え切っているのに、いやな汗が吹き出してきた。ハンドルを握る手が ぬるぬる滑り、メガネは曇って前がよく見えない。 (自転車から落ちたら、おしまいだ・・・!) なぜかそういう確信があった。たくさんの青白い手が背後にせまってくる気配を感じ、 前だけをみつめて、必死でバランスをとりながらこぎ続けた。 (フミエ・・・!藍子・・・!) 漆黒の闇だけが広がる前方の空に、茂は必死で家族の姿を想いえがいた。 「俺は・・・死なん!」 フミエのことを想うと、なぜか身も心も温かくなり、目の前が明るくなった。 「ん・・・。あ、あな、た・・・やだ、私、寝てしもうた?」 フミエは朝の明るい部屋の中、茂の胸の中で裸でいる自分に気づいてどぎまぎした。 昨夜、帰らない茂が心配で眠れなかったせいで、必死で茂をさするうちに疲れが出て 眠ってしまったらしい。 「お前・・・そうやってあっためとってくれたのか?」 「だって・・・お父ちゃん、石みたいにつめたかったんだもの。私、必死で・・・。」 道理で、温かくなったはずだ・・・。 (還ってこれたのは、フミエのおかげか・・・。) 「どうやら俺は、亡者に招かれとったらしい。」 「ええっ?」 フミエはぞっとして茂にしがみついた。 「・・・だが、なんとか帰ってこられたらしい。でも、なんだかまだ奴らがとり憑いとる ような気がする・・・。」 フミエが不安そうなまなざしで茂をみつめた。 茂は大まじめな顔でいながら、目はなんとなく笑みをふくんで、またフミエの想像を うわまわるようなことを言い始めた。 「ここは、魔をはらうまじないが必要だな。・・・古来より、日本の神々は、夫婦和合、 男女のまぐわいを嘉(よみ)したもう。・・・邪気を祓うには、コレがいちばんだ。」 茂は、あっけにとられているフミエの唇に、勢いよく口づけた。 「それでは、行うぞ。」 「お、おこなうって・・・。こげに明るいのに。あ、藍子にミルクをやらんと・・・。」 「よう寝とる。今のうちだ。」 やっぱり変人だ・・・あんなにまいっていたのに、なんでこうなるの・・・? フミエの心の叫びをよそに、茂は言うところのおまじないをおごそかに執り行いはじめた。 お互いに一糸まとわぬ姿で布団の中で身体をくっつけているのだから、ことは簡単だ。 むさぼるように口づけながら、きつく抱きしめると、胸にあたるフミエの乳首が ぴんと硬くなるのがわかる。 「はっ・・・はぁっ・・・あぁ・・・ん。お・・・とうちゃ・・・あ・・・。」 息ができないほどの口づけに、フミエの目尻に浮かぶ涙が、朝の光の中でうつくしい。 「お日さんが、顔出したな。天の岩戸だ。」 どういう理屈なのかわからないが、フミエはもうそんなことはどうでもよくなっていた。 フミエの下腹部に、茂の猛りが固い感触をつたえる。求められるよろこびに、身体中が とろけるようで、フミエは自ら身体をひらいて茂を迎え入れた。 「あ・・・しげぇ・・・さん、きも・・・ち・・・い・・・。」 茂とひとつになると、生きていることの充足感に、かえって茂のくぐりぬけてきた 危険の恐ろしさを思い知らされる。フミエは、凍てついた茂をあたためていた時と 同じ気持ちで茂をつつみこんだ。 フミエの肌身のあたたかさ、内部の熱に、茂も生きている実感をつよく覚えた。 (・・・戻ってこれた・・・。コイツのおかげで・・・。) こみあげる想いを言葉にはできず、茂は身体ごとフミエを愛しつづけた。 「あっ・・・あぁ・・・いや・・・しげぇさ・・・い、やぁっ・・・!」 「いや。」と言うのは、フミエのイイ時の口ぐせ・・・茂の名を呼ぶのもそうだ。 「イヤ、じゃないだろう?がまんせんで、イッたらええ。」 茂はフミエの唇をなめあげるように口づけながら、いっそう激しく責めた。 「いや、いやぁ・・・ああああぁ―――――!」 世界中に、茂の存在しか感じられなくなるこの瞬間、まっ白な意識の中で、 自分の最奥に茂の情熱を浴びせられる・・・。 (しげぇさん・・・しげ・・・さ・・・ん。) 痺れるような幸福感の中で、フミエは夫の名を心の中で繰り返した。 事後のけだるさの中で、ふたりは口づけを繰り返していた。深く執拗な唇の愛撫に、 「だ、め・・・。また・・・ちゃうから・・・。」 フミエが追ってくる茂の唇を避け、ふるえる声で抗議した。 「ん?なんだ?よう聞こえんぞ。」 「・・・もぉ〜。時計、見てください!今度こそ起きんと。」 「そういえば、腹が減ったな。昨夜から、なんにも食っとらん。」 「そうですよ。何かお腹にいれんとあったまりませんよ。」 「あっつい味噌汁が、のみたいな。」 「はい、はい・・・。」 フミエは、起き上がって衣服を身につけ始めた。 ほぎゃあ、ほぎゃあ、と藍子の泣き声がする。 「ああ〜、藍子が起きてしもうた。ごめんね〜、藍子。」 上半身にブラウスを羽織って、フミエは藍子を抱き上げた。お腹をすかせた 藍子は必死で口で乳首を求め、吸い始めた。 「ごめんね・・・出んのよ・・・。」 本来なら乳が出るはずだが、ミルクに切り替えたため、もう母乳は出ない。 いったんはおさまった藍子が、また激しく泣き始めた。 「俺が抱いとってやるけん、早ことミルクつくってやれ。」 茂が藍子を抱きとってあやし始めた。 腕の中で、熱くなるほど激しく泣いている赤子を見ながら、茂はその生命力の 強さに圧倒されていた。 (赤ん坊の泣き声・・・これも魔除けになると言われとるな。なるほど力強いもんだ。) 死霊の手にからめとられそうになっていた時、必死で藍子とフミエの顔を 思いうかべて闘った。出口の見えない闇の中を、手探りするような生活の自分たち だけれど・・・。 (こいつらがおるかぎり・・・、俺は、負けん!) 生きる力がわいてくるのを感じ、茂は藍子のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。 梅雨の晴れ間のまぶしい太陽の下、フミエは藍子をおんぶして洗濯物を干した。 茂の濡れた衣類と、予定外のシーツまで洗うはめになり・・・。 (お日さまってありがたいなあ。ゆうべのことがうそみたい・・・。) 唇までも冷え切っていた茂の身体、語られた霊園での恐ろしい体験・・・。 フミエは思い出してぞっとしたが、同時に、ついさっき自分の身体を奔りぬけた 茂の熱と力強さもがよみがえり、また別の戦慄におそわれた。 (お父ちゃんはつよいひとだけど・・・。ときどき無茶するけん。寿命がちぢまるわ。) フミエは茂がいつも来ているシャツを物干し竿にかけると、すそをつかんでぴん!と 伸ばし、本人に対するように向かい合って言った。 「もう、危ないことは、せんでごしないね?」 背中の藍子が、ごきげんでキャッキャと笑い、木々の葉のつゆが陽射しにきらめいた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |