ねこの恩返し
村井茂×村井布美枝


ある春の日。幼稚園から帰ってきた喜子が見せた絵は、フミエをたいそう落胆させた。

「喜子・・・。これが『私のおとうさん』?お父ちゃんはこげなヒゲ面じゃないよ。」
「あれっ?・・・そうだったっけ?」
「あんた・・・お父ちゃんの顔を忘れてしもうたの?」
幼稚園から意気揚々と持って帰った絵が、母親をここまでがっかりさせたことに、
喜子はなんだか自分まで悲しくなってうなだれた。
「なんだ、何を叱っとる?」
「あっ、お父ちゃん。見てくださいよ、喜子の絵・・・。これ、お父ちゃんだって
言うんですよ。」
「はっはっは。うん、こりゃーよう描けとる。喜子は個性的な子だ。子供の描いた絵を
大人がどうのこうの言ったらいかんぞ、お母ちゃん。」
「はい・・・。でも・・・。」

フミエも幼い喜子が一生懸命描いた絵をけなしたいわけではなかった。だが、
自分の父親の顔もちゃんと覚えていないとは、情けないと思わずにはいられなかった。
これと言うのも、茂がほとんど子供たちにかまってやれないほど忙しいからだ。
食事でさえ、他には読むヒマがないと言う理由で新聞を読みながらとる。
小さな喜子が父親の顔を見るのは一日に一回あるかどうか、という有様だった。
茂に絵をほめてもらった喜子は、たちまち元気になって、歯の抜けた顔に
満面の笑みをうかべ、おやつを食べ始めた。
茂は、今夜も遅くなるから出前を取るように頼みに来ただけで、またそそくさと
仕事部屋へと戻って行った。
フミエはため息をつきながら、それでもその絵を子供部屋の壁に飾ってやった。

「兄貴、どこ行くんだ?」
「・・・ちょっと息抜きだ!」

矢継ぎ早にスケジュールを説明する弟の光男に、茂はうんうんとうなずいて
OKを出していたが、急に立ち上がって部屋を出た。
仕事部屋には編集者たちが、自社の原稿だけは逃すまいと朝早くから詰めきっている。
その無言の圧力と、人間の限界を超えた仕事量に、アシスタント達も殺気立っていた。

(ちょっこし一人にならんと、たまらん・・・!)

とは言え、外へ逃亡するのは最後の手段。この家でとりあえずプライバシーが
保てる場所はトイレしかなかった。

(便所の窓から見える木々の緑だけが心のいこいか・・・。まるで囚人だな。)

本来の目的で来たわけではないので、ズボンもおろさず便器に腰をおろすと、
ため息をつきながら窓の外を見た。

目の前の塀の上では、ここら辺でよく見かけるキジ猫が、さかりのついた声を
張り上げ、かわいいメスの白猫をしきりに口説いている。

「・・・猫はええなあ。気楽で・・・。」

現実から逃避したい茂は、心の底から野良猫をうらやましく思った。
キジ猫は、さかんに鳴きながら白猫につきまとったが、白猫はしっぽを
ふん、と振ると、塀の向こうに去ってしまった。

「はは・・・振られたな。」

茂は思わず声を出して笑った。そのとたん、キジ猫が口を開いてしゃべった。

『まだ終わったわけじゃねえよ・・・。あれがあいつの手管なんだ。』
「お前いつぞやの・・・人語を話す猫じゃないか!」
『先生、あいかわらずだニャ。あれだけ働いて、そんな狭いとこにこもるのだけが
楽しみとは、気の毒なこった。』
「一個分隊を養わなきゃならん。お前らみたいに気楽じゃないんだ、人間は。」
『ふふん、俺たちゃ戦争は自分ひとりでするがね。分隊だの指揮だのって、人間て
やつぁ、下にいばり散らすだけで、てめえ一人じゃいくさもできニャイんだな。』

春の陽射しの中で、キジ猫は前足をなめては毛づくろいをし始めた。

『家族のためと言って働いてるうちに、娘に顔も忘れられる始末だしニャ。』
「・・・むむ。そげなことまで知っとるのか。」
『ヒゲ面の男かぁ・・・。案外、奥さんの心の中にいる、別の男だったりして。』
「な、なんだと!そげなこと、あるわけないだろ。」
『わからんよ・・・。子供ってえのは、俺たち猫に近いところがあるからニャ。
おっかさんの心の中が見えたのかもしれんよ。学校に行くようになると、
つまらん大人の価値観を押し付けられて、そんな能力も無くなっちまうけど。』

キジ猫の目がほそーくなって、ニヤニヤ笑いながら茂を見た。

『・・・あんた、奥さんをちゃんとつかまえてんのかい?』
「・・・ちゃんと満足させてやっとる!」
『ふふん。・・・イカせりゃいいってもんじゃないぜ。普段は放ったらかしのくせして、
忘れた頃に抱いてやりゃあ満足だろうなんて、女ごころがわかってないのにも
程があるニャ。それじゃあ、俺達がナワバリを主張するためにオシッコかけるのと
おんなじだぜ。』
「なっ・・・このエロ猫が!」
『俺たちゃ、人間と違って女房子供を養ったりしねえ。だから、メスどもも
食わせてもらってるから仕方なくお相手するか・・・なんて思わねえ。
一世一代いいとこ見せて、命がけで口説かなきゃあたった一度の逢引もできねえのさ。
人間は、一年中発情してるわりに、ひとつひとつを大事にしねえんだな。』
「大事にしとらんって・・・。お前まさか、のぞいてでもおるのか?」
『見なくったってわからあ。・・・もっとも、この家も昔に比べるとスキマが
なくなったけどニャア。』
「・・・いったい何年生きとるんだ?!この化け猫め!」

その時、白いメスねこが塀の上に再び現れ、思わせぶりにキジ猫の方をふり返った。

「ニャ〜〜〜〜〜ァオン。」

キジ猫は、これ以上ないくらい甘い声を出してその後を追いかけた。

「あっ!おい、ちょっと待て!」

茂はあわてて呼び止めたが、キジ猫は塀の向こうに姿を消した。

「先生!先生!そろそろお願いします!」

編集者の北村がトイレのドアをノックして催促する。

(ちくしょーーーー!!猫に説教された!)

人語を話す猫にまた会ってしまった・・・そのことよりも、猫に上から目線で
諭されたことのくやしさの方が勝っていた。

その夜。

茂は今夜も夜ふけまでアシスタント達と仕事に没頭している。フミエは子供達を
寝かせた後、いつものようにひとりで床についた。
今日は外でしきりと猫の求愛の声がしている。常の鳴き声と違う、発情期の
声は聞きぐるしく、いやがる人もいるが、せっぱつまったその声に、

(猫も必死なんだけん、なんだかかわいそう・・・。)

この時期になると、身体の内側からの欲求に狂わされるように、恋の相手を求めて
さ迷わずにはいられない猫たちを、フミエはあわれに思った。
このごろの暖かさには心も身体もほぐれるようだった。だが、愛するひとが
隣りにいないさびしさは、春の夜のこ惑的な空気の中では、いっそう身に沁みた。
狂おしく鳴く猫の声が、そのさびしさに重なるようで、フミエは思わず自分で
自分の身体を抱きしめた。

・・・茂のゆびの感触を思い出しながら、曲線に沿ってわが手をすべらせる。
くちびるに指でふれ、口づけの恍惚をなつかしむ。乳首をつまむ二指をこすり
あわせても、与えられる快感は予期する以上のものではない。もどかしく思いながら、
下へ這わせる手が、秘められた場所へと降りていった。
茂を思いながらわが身に触れるうち、そこはとろりとした潤いをたくわえていた。
あのひとはいつもどんな風にしてくれたっけ・・・。フミエは慣れない指づかいで
快感を追い始めた。

フミエが自らを慰めなくてはならないほど渇きを覚えることは多くはない。
殺人的な忙しさの中でも、茂は時おりフミエをもとめてくれる。けれど、いつも
何かに追われているようで、昔のような語らいの時間はのぞむべくもなかった。
慣れ親しんだ身体は、簡単な愛撫にとろけ、フミエを陶酔の頂きに押し上げてはくれる。
少しあじけないけれど、昼間、話もできない分、身体を交わす間だけでも
茂とつながれている気がして、気まぐれな訪れを心待ちにしている自分がいた。

・・・だが今夜、人を誘惑するような春の大気と、せつなげな猫たちの声に、フミエの
心と身体はまどわされていた。

「・・・俺よりも、そっちの方がええのか?」

わびしいひとり遊びでもいつしか高まって、眉根を寄せ、喉をさらして吐息を
もらし始めていたフミエは、突然声をかけられ、凍りついた。
布団の傍らには、今まさにその愛撫を思い描いていた男がいた。
いつから見られていたのだろう・・・。掛け布団に覆われていても、フミエが
何をしていたかは明らかだったにちがいない。フミエは恥ずかしさに、金縛りにあった
ように身動きできずにいた。
茂は布団の中に手を入れて、フミエが自らを慰めていた右手をつかむと、
その指を口に含んだ。

「やっ、だめっ・・・いけん!」

フミエは手を引っ込めようとしたが、茂は放さずに指をべろりとなめた。

「・・・ひとりでしてもええけどな・・・。」

指を口から離すと、手首をつかんだままぐっとフミエの顔のそばに押し付け、
真上からフミエの目をじっと見つめて言った。

「俺のことを思いながらにせえよ。」

(・・・あなたのこと以外に、何を思えと言うの?・・・)

フミエの瞳がそう語っている。茂はその瞳に吸い寄せられるように唇を奪った。

「ん・・・ぐ・・・ふぅ。・・・は・・・ぁ・・・はぁ・・・。」

時おり息をすることを許しながら、茂は深く執拗にフミエの唇をむさぼり続けた。
ひとり遊びを茂に見られてしまった・・・消え入りたいほど恥ずかしく、一方で
俺のことを考えながらしろ、なんて、しれっと言い放つ茂がうらめしかった。

(あなたが、そばにいてくださらんから・・・!)

茂の気まぐれに振り回される自分が腹立たしい。だが、焦がれていたほんものの
口づけに、フミエの全身は痺れ、気がつけば着ているものを全て剥ぎとられ、
一糸まとわぬ姿になっていた。掛け布団に隠れようとする抵抗もむなしく、さらされた
無防備な肌に、服を着たままの茂がおおいかぶさってくる。茂のシャツやズボンの感触が
素肌につめたく、フミエはさびしさと、なんだか自分がおもちゃにされているような、
もの悲しい気分を覚えた。
けれども、フミエのいいところを熟知している手と唇があたえる快感は、自分で
触れたときとは比べものにならないくらい深く大きく、フミエの官能を芯からゆさぶった。

「はぁ・・・は・・・やっ・・・い、やぁ・・・。」

腰骨のあたりを吸い上げていた唇が、中心部に近づく。脚を広げさせ、太腿の内側に
歯を立てると、フミエが悲鳴を上げて脚を閉じ、両手で茂の頭を押しやろうとした。

「暴れるな・・・。それに、子供やちが寝とるけん、静かにな・・・。」

フミエが思わず両手で口を押さえたそのスキに、茂は濡れそぼつ中心部に口づけた。

「――――――――――!!」

逃れようとするフミエの脚を腕で押さえつけ、

「そのまんま口を押さえとれよ。」

命じると、フミエのいちばん弱いところを唇と舌で愛し始めた。

「やめてっ・・・やめて・・・ください・・・おねがい・・・。」

茂にこんなことをさせてはいけない・・・勝手に腰が踊ってしまうほどのつよい快感と
闘いながら、フミエは小声で哀願した。

「ええけんじっとしとれ。・・・イクまでやめんぞ。」
「うぅ・・・う・・・くぅ・・・んっ・・・んん――――!」

手では押さえきれない悲鳴を、フミエは枕のはじをかんで押し殺した。
茂の舌がフミエのいちばん感じる核心を圧迫すると、フミエは声にならない声を
あげながら、びくびくと身体を震わせた。
茂は唇を離すと、自分の衣服をすべて脱いだ。そして震えているフミエの裸身を
ゆっくりと抱きしめた。あたたかい空気の中、絶頂をむかえたフミエの肌はすこし
汗ばんで、茂の肌にしっとりとなじんだ。

・・・とろりとした陶酔にひたっていたフミエの瞳に、意外そうな表情がうかんだ。
すべてを脱いで素肌と素肌を重ねたのはいつ以来か・・・。

(今日は、どげしたの?・・・しげぇさん。)

「・・・お前も、俺のことを忘れるんじゃないかと思ってな・・・。」

忘れるなんて・・・そう思いながらも、魂を奪われるような口づけや、素肌と素肌の
ふれあう幸福感を、しばらく味わっていなかったことに気づかされる。

茂が、甘く口づけながらフミエの身体をひらき、ゆっくりと押し入ってきた。

「あ・・・ぁぁ・・・ン。」

思わず鼻にかかった鳴き声をもらし、フミエはあわてて口を押さえた。
茂はそんなフミエの様子を満足げに見下ろしながら、大きく腰をつかい始めた。
フミエの惑乱が激しくなる・・・。両脚を茂の腰にからめ、茂の動きにあわせて
フミエの腰も大きくゆらめいた。

「も・・・もぅ・・・だめ・・・。」

声が、おさえられない。涙でいっぱいの瞳に、茂はつ、と顔を近づける。
フミエが、口を押さえていた手を離して茂に抱きつく、と同時に、唇をふさがれた。

「・・・・・――――っっ!!!」

フミエの絶頂の叫びは茂の中に吸い込まれ、茂の腕の中でフミエはがくがくと
震えながら滂沱と涙を流した。
フミエの絶頂のすべてを吸い取りながら、茂も存分にそそぎ込んだ。

・・・忘我のときが過ぎ、荒い息がおさまると、茂は仰向けになって目を閉じた。

「・・・ちょっこし寝るけん。お前が起きる時に起こしてくれ。早番の奴に
指示を出さんといけん。」

素肌と素肌をあわせたまま、茂の腕の中で眠りたいのはやまやまだけれど、
子供たちがいてはそうもいかない。フミエはそっと身体を離すと、寝巻きを
着なおした。茂に掛け布団をかけようとふり返ると、もう寝息をたてている。

(ちょっこし、無理されたかな・・・?)

慢性的な睡眠不足と働きすぎで、なんだかやつれて見える顔をのぞきこみ、
フミエはそのほほのあたりにそっと口づけた。

(・・・ほんものの方が、ええに決まっとるでしょ?)

疲れているだろうに、無理をしてフミエを愛してくれたのだ・・・。せつないほどの
いとしさがこみあげて、また新たな涙があふれ出した。

つぎの朝。子供たちを学校と幼稚園に送り出したあと、フミエは庭先を掃いていた。
そこへ、顔見知りのキジ猫がやってきた。

「あら?キジ猫ちゃん、ひさしぶりだね。ニボシ食べる?」

フミエがニボシをやると、キジ猫はゴロゴロ言いながら食べ始めた。

「ゆうべ鳴いとったのはあんたなの?お嫁さんみつかった?」
『奥さんこそ、昨夜はダンナとよろしくやったかい?』

だが、キジ猫の言葉は、フミエにはニャアニャア、としか聞こえない。

『目に泣いたあとがあるが・・・悲しい涙じゃないらしい。ダンナには、
俺がよ〜く意見しといてやったからニャ。』

キジ猫は、まぶたは少しはれぼったいが穏やかな微笑をうかべるフミエの顔を
見て、安心したように微笑んだが、フミエにはあくびの様にしか見えなかった。

「・・・猫ちゃん。そう言えば、私がこの家に来たばっかりのころ、あんたに
そっくりな猫がこの辺にいたわ。・・・あんた、あの子の息子だったりしてね。」
『・・・奥さん、それも俺なの。あん時も、世話になったね。だけど俺、今度は
長い旅になりそうなんだ。気が向いたら、いつかまた戻ってくるけどニャ。』

キジ猫は、ニボシを食べ終わると、前足をさかんになめては口元をぬぐい、
すっくり立ち上がってしっぽをピン、と立てた。

『あんな男だけど、奥さんのことを大事に思ってるのだけは間違いないみたいだ
からニャ。見捨てないでやってくれよ。』

フミエには、相変わらずニャゴニャゴ言っているようにしか聞こえないのだが、
キジ猫はフミエに別れの挨拶をすると、オダマキの咲き乱れるしげみに
するり、と姿を消した。

『じゃあニャ。・・・あばよ。』
「・・・あ、あれ?今だれか『あばよ。』って言った?」

フミエは、キジ猫に別れを言われた気がして、あわてて後を追ったが、もうどこにも
その姿は見当たらなかった。






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