はつ恋
村井茂×村井布美枝


雀がさえずる声に促されるようにして、布美枝はぼんやりと目を開けた。
視界に入り込んできたのは、ぐしゃぐしゃの寝間着と、その合わせ目から覗く堅そうな胸板。
うっすら無精髭の生えた尖った顎。形のよい薄めの唇に、すっきりとした鼻筋。
そして、切れ長の目から、漆黒の瞳がじっとこちらを覗きこんでいた。
目に入ってくるものを、漠然と意識もせずに、ただぼーっと眺めていたが、
それが夫となった村井茂の顔だと脳が認知した次の瞬間。

「…ひゃっ!」

身体中の血液がどっと頭に昇ってきて、勢いよく後ろに身を引いた。
狭い布団の、そのまた端に居たのか、布団からはみ出した身体に、冬の朝の冷気を纏う。
急激に行動を開始した心臓から、循環する熱い血潮が顔面ばかりに集まってくる。
真っ赤に染まった頬と、どくどくと喧しい胸に手を宛てて、座り込んだ布美枝はその場に硬直した。

「…珍しいな。あんたが俺より遅く起きるのは」

茂もその身を起こしながら、やや顔をしかめて右腕をゆっくりと伸ばした。

「いてて…」
「あ、あ、あ…!す、すんません、あたし…」

どうやら彼の唯一の腕を、枕として占領していたらしい。
痺れているのか、曲げたり伸ばしたりを繰り返し、ぶらぶらと振ってみたりしている。

「だい、じょうぶ…ですか」
「心配いりません」

今度は大きく肩を回しながら、茂が小さく微笑んだ。瞬時に見蕩れてぼーっとしてしまう。
「ん?」と見つめ返されて、ようやく我にかえった布美枝は、また顔を赤くして慌てて俯いた。

昨晩、それまで紙切れだけの夫婦だったこの男と、云わば本物の夫婦の契りを交わした…。
はっきり言って、快感などというものはほとんど覚えていない。
ひたすら引き裂かれるような痛みばかりが思い出される。
緊張と恥ずかしさで、ただただ茂を困らせてしまっただけだったかも知れない。
けれど、優しく頬を撫でる右手や、労わるように降りてくる唇の感触を思い起こせば、
ささやかな幸福感のようなものにも包まれる。
ぎこちなくも熱い交わりののち、ひとつの布団に収まり、まだ熱を持った彼の身体に埋もれ、
背に回された右手から伝わる、小さな鼓動を感じながら目を閉じた瞬間は、
甘い甘い、魔法をかけられたような不思議な感覚があった。

寒さに肩をすくめて鼻をすすっている茂をちらりと観察すると、
先ほどまで騒がしかった胸が、今度はきゅっと締め付けるように高鳴る。
恋愛小説や、少女漫画のような大恋愛は、未だかつて経験がない。
夫婦になったとはいえ、恋だの愛だのはすっ飛ばした結婚だったから、
本当にこのひとを愛しているかと問われたら、頷ける自信は正直まだない。
だから、この不思議な感情が、愛と形容するものなのかどうかもわからない。
が、今となってはもう、後にも先にもこのひとしかいないのだな、という覚悟はできた気がする。

(少なくともあたしは―――…)

と思いかけて、茂の視線を感じ、またきゅんと胸が痛くなる。

「腹、減りませんか」
「えっ」

いつまでも俯いたまま、もじもじしている女房がじれったくなったのか、
茂がぽりぽりと顔をひっ掻きながら、催促するように訊ねてきた。

「す、すみません!すぐに、用意します!」

布美枝は慌てて朝餉の準備を始めた。

− − −

――――――それにしても。
こんなに胸のつかえる朝食は人生のうちで初めてだ、と布美枝は思った。
茂と相対して取る食事は初めてではないのに、何故か異様に喉から先へものが進まない。
ぼそぼそと、箸の先で米粒ひとつずつを掴まえて口に運ぶ布美枝を、茂は怪訝そうに見つめていた。

「具合でも悪いですか」

堪えかねた茂の方から、やや遠慮がちに声がかかる。
ぱっと顔を上げた布美枝は、しかしまたさっと俯いた。

「い、いえ、そげなことは…」

慌ててせっせと白飯をかきこんで、無理矢理笑顔で取り繕う。

「おいひいでふ(美味しいです)」
「ぶっ…」

頬と鼻を膨らませた布美枝に、茂が思わず噴き出した。
くっくっと笑われ、また赤面する。すぐに反応が顔に出てしまう自分を、小さく呪った。

茂は昨夜のことを、どう思っているのだろう。どうとも思っていないようにも見えるが。
慣れているのだろうか。それとも虚勢を張っているのか。
わけもわからずに受け入れることだけに必死だったけれど、あれで良かったのだろうか。
あんなことで、このひとは満足してくれたのだろうか。
眺めて愉しめるような身体つきではないし、触れられてもいちいちびくびくしていた気がする。
ガチガチに緊張した身体をほぐしてくれるのは、それなりに骨が折れたのではないだろうか。
考えれば考えるほど、昨夜の我が身が情けなく、そして茂に申し訳なかった。

布美枝が独り、自己嫌悪に落ち込んでいる隣で、茂はさっさと箸を進めている。
やがて、ずずずと味噌汁を吸い込む音がして、「ご馳走さまでした」と軽く頭を下げた。
咄嗟に顔を上げた布美枝と、茂との目線が合う。

「あのっ…」
「ん?」

果たして何と言うつもりだったのか、反射的に声をかけただけで、深い考えはなかった。
しかし、また黙り込んでしまうのも不自然すぎて、何かかける言葉を探しまわった。

「…ゆ、昨夜は、あの、す、すみませんでした!」

探しあてた言葉がこれか…と、言ってからがっくりとしたが、時既に遅し。
さすがに茂からも言葉がかからない。しん、と重い空気が漂った。
何とか打開しようと、あれこれとまた頭の中の引き出しを引っ張り出す。

「あたし、何も分からんもんで…ちゃ、ちゃんと、でき、できとったんでしょうか」
「は…?」

ますます訳のわからないことを言い始めた、ということは頭の片隅で解ったのだが、
今はもう、昨夜のことしか頭に浮かんでこず、そしてその勢いは止まらない。

「よー、覚えとらんですけど、あれで、良かったのかどうか…。さっぱり分からんで。
次、からは、ちゃんとできるように、が、がんばりますけん」
「次…」
「あ、いやあの…次というか、今度、があったら、という意味で。ぅわ、何言っとるんだろ…」

自分の言葉の回収に懸命になればなるほど、頭は真っ白になっていくばかりだ。
そんな状態だから、目の前の夫が小さく肩を震わせていることに、気づくはずもなかった。

「何とかもぅちっと、ましに、というか、えと、…色々、是非ご指導、ご指南いただけたら…」

そして遂に茂は腹を抱えて笑い出した。
布美枝はただただ、茂の笑いが止まるまで、八の字眉でそれを見つめているしかなかった。

「ははっ、あーはは、あー可笑し!」
「あの…」
「いや、失礼。あんたが真面目な人だということはよー分かりました。けど、そういうことは
こげな朝っぱらから、委細細かくあれこれと訊ねるものではありません」
「あ…!す、すみません!!」

くすくすと含み笑いながら、茂はぽんぽんと布美枝の頭を軽く叩き、

「まあ少なくとも、昨日はよー眠れました。あんたは?」
「は…えと、…はぃ、眠れまし、た」

すると茂はふわりと柔らかな笑みを浮かべて「なら良かった」と布美枝の頭を撫でた。
ぎゅっと締め付ける胸の痛みに、布美枝の息が一瞬止まった。
仕事をすると言って襖の向こうへ消えた背中を、ただただぼーっと見送りながら、
これまで経験したことのない、複雑な鼓動を訴える左胸あたりを、ぎゅっと拳で握り締めた。

− − −

そうして日々はぎこちなくも穏やかに過ぎていく。
相変わらず茂は仕事部屋に篭りがちで、さほど口数も多くはなかったけれど、
軽く交わす冗談めいた会話や、時折見せる彼の柔らかな笑顔に、
胸躍らせている自分を、布美枝は次第に自覚していくようになった。
そして夜中まで漫画を描き続ける茂を、襖の隙間から洩れてくる光に目を細めて、
こちら側から覗き見るのが布美枝の夜の日課のようになっていた。
旦那様より先に眠るのは心苦しいし、かと言って話しかけるのは気が引ける。
大きく丸まった背中が、手にしたペンとともに小刻みに揺れる。そんな姿をじっと見つめていた。

茂に見つめられていないときは、緩やかな鼓動がこだまして、じんわりと身体が温まってくる。
時折ぎゅっと締め付けて息苦しくなる感覚が、戸惑いもするし、やや幸せにも思える。
目を閉じれば、そこに思い起こされるのは、見合いの席で見た笑顔。
結婚式のときの、タキシード姿の堂々とした佇まい。
酒に悪酔いしていたのに、父をたててくれた義理堅さ。
境港の夜に垣間見えた、少年のような横顔。颯爽と歩いていく広い背中。
漫画に向き合うひたむきさ。それ故に譲れないこだわりの深さと激しさ。
自分を気遣ってくれる優しさ。風変わりな趣味。けれど一緒に居ることの心地よさ。
逞しい身体。くすぐったい吐息。優しい唇。熱い眼差し…。
たった一月足らずの彼しか知らないのに、もう心臓が壊れそうだ。

しかし結局彼が、あの夜の自分のことをどう思っているのか、分からずじまいで。
拙い相手だと思われたのか、それでも満足してくれたのか。
自問自答を繰り返すうち、ますます不安に駆られていく。
茂の全てが眩しすぎて、それ故に自分はまるで釣り合っていないように思えてもいた。
彼に相応しい妻になりたいと、切実に思う日々。
茂への想いが募れば募るほど、自分への嫌悪感が増していく。
日々の幸せと背中合わせに、時折そうして鬱々としてしまうことがあった。

その日の夜も、仕事をする茂をときどき覗き見ながら、布美枝は布団の中で本を読んでいた。
布団を頭から被って、隙間から洩れ入る仕事部屋からの光だけを頼っていた布美枝に、
襖を開けた茂が驚いて一瞬後ずさった。

「びっくりしたぁ…まだ起きとったのか」
「あれ、今何時ですか」

時計を見ると、深夜の1時を過ぎている。布美枝も我ながら驚いて「わ」と小さく叫んだ。

「のめりこんでしまって…こげな時間とは思わんだった」
「何を読んどるんです」
「貴方の本です。すみません、勝手に棚から…」

ぱたりと本を閉じて、茂に表紙を見せた。「少年戦記」だった。
おや、という顔をして、茂が少しはにかんだように見えた。
怪奇物を夜に読むのは勇気がない、と告げると、軽く苦笑される。その笑顔を見るのが何より嬉しかった。

「漫画が好きなら、ほれ、あの貸本屋で借りてきたらどげです」
「特別好きというわけでは…貴方の本だけん、読んどるんです」
「はあ」
「旦那様がどげなお仕事をされとるのか、ちゃんと知っておきたいので」
「…」

ぽりぽりと頬を掻いて小さく咳払いすると、茂は座った位置から少し、布美枝に近寄った。
どきりとして、身を固くする。
無言のかけひきなど、布美枝にできるはずもなく、そのままぎゅっと目を閉じた。
ふわりと髪を撫でられ、心臓が飛び跳ねる。とことん正直すぎる身体に、いい加減嫌気がさしていた。
頬に置かれた手が、するりと滑って顎を掬い、俯いた顔を持ち上げられた。

―――――ところで、くすくすと笑い声。
じわりと目を開けると、困ったように微笑う夫の顔が見えた。

「…ぁ…の?」
「そろそろ、慣れて欲しい」
「…す、すみません…」

ようやく温かな右手から解放されると、慌てて顔を覆った。何だか情けなくなってくると同時に、
じわりと涙すら溢れてきた。必死になって隠そうとしても、ややあって気づかれる。
涙の訳を問いたげな表情の茂を見ると、またしても視界が潤む。

「すみません…あたし…」

ぐすぐすと、子どものように手の甲で拭った。茂はただ黙って畳の筋を見つめていた。

「…あの」
「ん?」

少し落ち着いたところで、思い切って顔をあげた。

「あたし…貴方の傍におってもええんでしょうか」
「…なして?」

落ち着いた、優しい声が耳から入って、布美枝の内側に沁みる。

「あたし、何のとりえもない、つまらん女です。田舎者で、鈍くさくて。
連れて歩いても見栄えがするわけでもないし。…のっぽだし。
貴方のお仕事のこともようわからん。どれだけ大変なのか、どげな苦労があるのか。
気も利かんから、貴方のこと怒らせたり、呆れさせたりで。家事だって、得意なのは裁縫くらいで…」

黙って聞き入る茂をちらと見て、ごくりと唾を呑み込んで続けた。

「だけん、せめて…せめて、その…よ、夜の、お相手くらいは、ちゃ、ちゃんと…と思って」

喉におもりがぶらさがったように、上手く言葉が出ない。けれど、懸命に声を張る。

「だのに、い、いつまで経っても、こ、こげな調子で…。つまらんです、よね。
この前だって、貴方に気を遣ってもらうばっかりで、あたし、何もつ、妻らしいこと、できんで」
「妻らしいことって?」
「…………旦那様の、お相手は、女房の務めですけん。ちゃんと、貴方が満足できるように…」
「待った」

ぴしゃり、と言った茂の声に、思わず顔を上げた。
少しむっつりと、怒ったような表情でこちらを見ている。

「あんた、この間のことをそげ思っとったんですか」
「え?」
「相手という言い方が気に食わん。俺は金であんたを買ったわけじゃない」
「そ、それは」
「務めって何です?ああいうことをするのは、一緒になった以上、義務みたいなもんだとでも?」
「そんなこと!」

厳しい口調の茂の気迫に、気圧されそうになる。
見つめられる、濃黒色の瞳を、こちらは見つめ返す余裕はない。
はあっと大きくため息を吐いて、茂は大袈裟なくらい頭を掻き毟った。
それから静かに、ぽつりと呟く。

「…少なくとも俺は、務めやら義務やらであんたを抱いたわけじゃない」

ほわりと、胸の中に火が灯った気がして、布美枝は顔を上げた。
どこか照れくさげな夫の横顔を、どきどきしながら見つめた。

――――では、あの日、あの夜、どうしてその腕に抱いてくれたのですか?
す、と寝間着の揺れる音とともに、彼の右手が布美枝の頬を撫でた。

「あんたが」

高まる胸の音に、その声がかき消されないよう、必死で耳をすました。

「あの日俺を受け入れたのは…ただの義務感からだけ?」

ゆっくりとまた緩んでいく涙腺。ぼやけた視界を振り払うようにして、布美枝はかぶりを振った。

「…っ、違…だ、って」

(そうでも言わなければ、貴方に抱いてもらう理由などないと思ったから…)

日に日に募る、夫への想いは、彼にとっては重いものでしかないのではと。
それは勘違いだったと思っていいのですか。
むしろ自惚れてもいいのですか。貴方があたしを欲しがってくれていると。
そう訊きたい衝動を抑え、ゆっくりと重ねられる唇を受け止める。
数日ぶりに触れた夫のそれは少し冷たく。けれど優しく。
騒がしかった胸を落ち着かせてくれる。そして緩やかな、温かい鼓動を呼び起こす。

「あたしで…え、ええんですか?」
「ん?」

茂の右手が、耳にかかった布美枝の髪をさらさらと櫛梳く。
くすぐったさに肩をすぼめて、おそるおそる問う。また顔が近づいてくるのを気配で感じる。

「ま、まだ、ようわからんで…また…困らせるかも知れん…」

ぴたりと、唇まであと数センチというところで止まる。そしてくすっと小さな笑い声。

「あんたはもぅちっと男心を勉強したほうがええかも知れん」
「おと、こ…ごころ?」
「困らされるのが、愉しいということもある」
「どういう意…」
「解らんでええ」

最後まで言わせてもらえずに、唇は塞がれた。
勉強したほうがいいと言われたのに、解らなくてもいいとは…。ますます不可解だった。
ぐるぐる廻る思考回路は、しかし、割り入ってくる温い舌の感触に強制停止させられた。
冷え冷えした部屋に、互いの息遣いだけが熱を帯びて響く。
膝の上で握り締めていた両手を、思い切って茂の首に巻きつけた。より一層口づけが深くなる。
肌と肌を触れ合わせていることが、震えるくらいに嬉しい。
息も出来ぬほど詰まる胸のうちを、必死になって唇から伝えようとしていた。

「ん…っ、ん」

布美枝の背に回されていた茂の右手が、ばしばしと背中を叩く。
はた、と我に返った布美枝の一瞬の隙をついて、茂は「ぶはっ」と顔を離した。

「っはーっ、く、るしぃ…」
「あ!す、すみませ…」

募る想いが腕にこもり過ぎて、茂を羽交い絞めにしていたらしい。
しばし肩で息をしていた茂が、堪えきれずに笑い出した。ほっとして布美枝も笑う。

「すみません…」
「いや、ええ。あんたはそれで」
「けど」
「思ったままに、俺を困らせたらええ」

目を細めて見つめられ、再び軽く口づけられる。
ややあって、腰に巻きついてある帯に手がかけられ、しゅるりと解かれた。
もう迷いはなかった。今も、これから先もずっと、この広い胸にただただこの身を預けるのみだ。

首筋に潜る口づけに、喉を反らせる。顎の先から鎖骨の窪みまで、丁寧に吸い付かれた。
ゆっくりと肌蹴られていく寝間着に少し焦って、ぎゅっと彼の肩に置いた手を握り締めた。
するとその手をそっと取られて、甲に口づけられる。
そのまま見上げられる視線に、布美枝の全ては支配されてしまう。
眼力に圧されて自然と背中方向に傾いていく身体を、右腕が優しく補助してくれた。
闇に映る夫の顔は、昼間のそれとは別人のように鋭い気がした。
けれど決して厳しくはなく、情熱的とも言える表情がたまらなく美しくも思える。
ぼうっと見蕩れていたからか、きょとんと首を傾げて見つめ返された表情が、
今度はやたら幼くなって、ふ、と頬が緩んでしまう。
微笑んだ布美枝を見て安心したのか、茂はそっと寝間着の上から柔らかな胸を撫で擦った。

「…っ…」

徐々に反応し、硬くなっていく乳首を摘みながら、もう一方の乳房へ唇を落とす。
温かな吐息で包み、ねっとりと舐め吸われる。ぞくぞくと背筋に走るものがあった。
やがて露わにされる白い肌と、ピンク色の蕾に、再び舌が絡みつく。

「ゃ…あ」

時折歯を立てられると、びくりと肩が勝手に跳ねる。すると癒すように舐られる。
繰り返し口に含み、舌で弄られる。いつか飴玉のように蕩けていってしまうのではないか。
もう既に、茂の首に回した腕には力が篭らない。彼の唇と舌だけで、理性は簡単に剥かれていく。

「…寒いか」

耳元で、低く問われた。その間も、耳を舐られる音がじゅくじゅくと聴こえる。
布美枝の身体がいつまでも冷たいことに心配したのか、その気遣いがじんと沁みた。

「貴方が…温かいです、けん。大丈夫」

微笑んでみせた。安堵したように、茂も微笑う。
ぐしゃぐしゃと纏わりつくようになっていた互いの寝間着を取ると、茂がぎゅっと抱きしめてくれた。
どうして同じ人間なのに、男というのはこんなにも堅く、逞しいのだろう。
うっとりと目を閉じると、肩越しにふわりと墨の匂いがした。
しばらくして茂は、布美枝の額にひとつ、頬にひとつ、口づけ、表情を窺うようにして見、
そして、す、と下着へ右手を進めた。
一瞬どきりと跳ねた鼓動を、布美枝は無理矢理抑えつけ、ぎゅっと目を閉じる。
下着の上から秘部をなぞり、円を描くように指を滑らせた。

「ふ…」

首を振って悶える。恥ずかしさと、こそばゆさが混じって、自分の指を噛み締めた。
そろそろと下着を降ろされ、繁みを掻き分けた指が、直接割れ目を擦る。
茂の長い指が、わずかに内側へ侵入したとき。

「いっ…」

身を硬くした布美枝に、茂も瞬時に動きを止めた。

「痛いか」
「す、みませ…」
「悪いのはこっちだ」

謝罪の代わりに、瞼に軽く唇で触れた。

緊張は未だ布美枝の身体を包んで、まるで茂を拒んでいるかのように硬い。

「大丈夫、ですけん…」

心は彼に全て支配されているのに、身体は頑なに応じようとしてくれない。
焦る布美枝は、縋るように茂の首に抱きついた。「続けてください」耳の傍で小さく強請った。
茂は自身に絡みつく頼りなく細い腕を、やがて優しく解くと、再び胸の谷間に顔を埋めた。
わざとらしく音を立てて、乳房や脇腹を啄ばみ、臍や腰骨の線を舌と唇で辿る。
言い知れぬこそばゆさに、身を捩る布美枝。
茂はそれを押さえつけ、左脚を腕に抱えると、脚の付け根に顔を埋めた。

「えっ!」

あまりのことに、身が竦んだ。
けれど、すぐそのあとには、如何とも形容し難い痺れが下半身から脳天を貫いた。

「やっ…っ!」

秘所を直接刺激される舌の動きに、布美枝の全身の肌が粟立った。

「や、やめてくださ…っ、そげなとこっ」

我が身であってもじっくりと見たこともないその場所を、夫が弄り、舐り、食んでいる。
必死の思いで抵抗をしたが、左脚ごと片尻も持ち上げられており、上手く力が働かない。
そのうち、右脚も左肩に圧し掛かられ、開脚に甘んじる体勢になってしまった。

「は…っ、ん、ふ、っんんっ」

放り投げられていた茂の寝間着を掴み、抱きかかえて口にあて、声を押し殺した。
しかし、寝間着から香る茂の匂いが、却って興奮に拍車をかけ、背を仰け反らせて喘いだ。
幾重かの花弁に包まれた紅色の場所に、ぬるぬると舌が這い、花芽を突つかれる。
やがて沁み出してくる愛液を、音をたてて吸い上げられた。
小粒の陰唇に歯を立て、布美枝がびくりと震えると、ざらりと舌で舐め掬う。
そして溢れる液を自ら求めるように、その源泉へと舌を蠢かせて探り入れられた。

「ぁっ…!んぅ…っあぁっ…」

いつしか抗う力は抜け、羞恥の壁も越えた。
粘つく水音を聴きながら、夫の匂いに蒸せられる。
やや上気した茂の荒い息遣いと、それでも止まない愛撫の執拗さに、感覚が遠のく。

無意識に左手を天井に向けて伸ばすと、気づいた茂が指を絡ませて受け止めくれた。
ぐい、と二の腕で口を拭うと、先ほど辿って行った路とは逆に、
腹から乳房へ唇を移動させ、首筋から耳元へ口づけながら、布美枝の横顔まで戻ってきた。

「は……」

直視できない夫の顔を側面に感じながら、勝手に溢れてくる涙を抑えきれずに零す。
茂は丁寧にその一粒ずつを唇で掬い、急かすこともなく布美枝が落ち着くのを待った。

優しい接吻は額や頬をくすぐり、大きな右手がさらさらと、褥に広がる髪を撫でる。
ようやく息を整えた布美枝が、逆上せた表情で茂を見上げた。

「…ええ、か」

厭だなどと言うわけがない。
布美枝の中の空洞が、茂の侵入を待ち望んで疼いているのが分かる。
ひたすら痛みに耐えた前回と決定的に違うのは、脳ではない場所がそれを欲していることだった。
言うなれば本能とでも。
そこを埋めることができるのは彼しかいないと、布美枝の内側は知っていた。

ゆっくりと、脚の間に腰を沈められ、その場所へ角度をつけた硬直が宛がわれた。
一、二度、ゆるゆると先端で確かめられ、そしてぎゅっと挿し込まれる。

「…っは…」

大きく息を吸い込んだ布美枝が、頭を仰け反らせた。
掴んだままの茂の寝間着を、また一段と強く握り締める。

「痛むか」

目を閉じたまま、首を横に振った。
それに安心したのか、もう一歩踏み込んでくる。

「んっ…ぁ」

茂が入り込んでくるたびに、そこから押し出される愛液が尻まで伝った。
うっすら目を開けて茂を仰ぐ。眉根を寄せて、布美枝の内の熱に耐えるさまが、やたら艶だった。
なまめかしい男の表情に、布美枝の女が反応して、秘部辺りの肉がひくひくと痙攣する。
一段と硬度を極めた男根が、その全てを布美枝の中に埋めた。

「…大丈夫か」
「は、っ…い」

答えると同時に、茂の匂いの寝間着を抱きすくめて目を閉じた。

「こら、そげなもん邪魔だわ」
「え…ぁ」

そういうと茂は、顎でぐいぐいと寝間着を避け、布美枝の左手を取って自らの身体へ絡ませた。
布美枝に覆いかぶさり、右腕を頭の下へ潜らせ、ぎゅっと抱きしめる。

「寝間着なんぞ抱きしめとらんで、俺に掴まっとけ」

わざわざ枕に顔を埋めた状態でぼそぼそと呟く。

(…照れとられるんだろか…)

胸がきゅっと鳴った。微笑んで布美枝は、広い背中に両腕を廻した。

「動くぞ」

言うなり、軽く腰を引かれ、そして打ち込まれる。

「あ…!」

経路に隙間が出来る一瞬が、やたら感じて身悶えた。
今度はもっと激しく揺さぶられた。背に廻した腕に、力が入る。

「あ、あっ、ん、ふっ…」

顔を上げた茂が、喰らいつくようにして布美枝の唇を貪った。
それでも腰の動きは止まない。息苦しいのに、もっと欲しいと思った。
茂の、少し長めの後ろ髪に指を絡ませ、より激しさを乞う。

耳たぶを食まれ、吐息を吹き込まれる。熱い息なのに、ぞくぞくする。
やがて口づけは、茂の身体に絡まった腕に移り、優しくそれを解かれる。
やや離れた身体に寂しさを隠しきれずにいると、曲げた脚を彼の胸の前で閉じさせられ、
膝が顎にぶつかりそうになりながら再び揺すられ始めた。

「は…ぁっ…んっ、あっ、あっ…!」

締めた場所に無理矢理出入りする肉塊の、力強さに悶える。
解かれたまま、心もとなく自分の膝に置いてあった左手を、
茂の右手が絡み取って、力強く握り締められ、ぐっと布団に押さえ込まれた。
同時に茂の上体が伸し上がって、ほぼ上から落とされるように腰を打ち付けられる。
ぐちゃぐちゃと卑猥な音が、繋がった場所から聴こえても、
先ほどまでの恥じらいなど戻ってきそうもない。
互いに欠けている部分を擦り合わせ、何処とも知れない高みへ昇らされる。

「あっ、は…あ、ぅ…ぁなっ…た…っ!」

火照り、昂ぶっていく正直な身体に、ここまできては抵抗などできるはずもない。
遠のく意識と感覚に戸惑いながら、曇る視界の向こうの夫を仰ぎ見た。
うっすら汗を滲ませた官能の表情が、儚げな女性のように、やけに色気づいて見えた。

「…イけ」

命じられたことの意味は解らなかった。
けれど、退いては挿される茂の膨張の熱が、やがて自らの内側で爆ぜていくのを感じながら、
布美枝は真っ白の世界へ堕ちて行った。

− − −

熱情の波が引いてしまうと、途端に恥ずかしさに苛まれて、
布美枝は布団に包まり、丸くなって茂に背を向けていた。
もぞもぞと潜り込んできた茂が、背後から肩甲骨に唇を宛てる。

「こっち向け」

首の下に右腕を入れられ、無理矢理抱き寄せられてくるりと回転した。

「…あっ」

慌てて顔を覆って、茂の胸の中へ逃げ込む。
悪戯な右手は、布美枝の背中をこちょこちょと愉しそうに這い回っていた。
くすぐったがって身を捩ると、意地悪そうににやにやと笑う。

「もぉ…っ」

拗ねてみせて、拳で胸板をどんと叩くと、茂はわざとらしく咳き込んで笑った。

甘い余韻にしばし浸る。やがて訪れた静寂の空気に、わずかに寂しさを覚え、
ひょいと布美枝は顔をあげ、茂の様子を窺った。
茂は、ちらりと布美枝に視線を落とすと、すぐにその頭を抑えこみ、
再び自らの胸の中へ埋め戻した。ぎゅっと、力が篭められる。
先ほどまでとの雰囲気の違いに、布美枝はどきどきした。

「あんたにひとつだけ言っとく」

頭上で、低い声がくぐもって聞こえた。

「俺は誰でもええと思って一緒になったわけじゃないけん」
「…」
「つまらん女だとか、自分でええのかとか、そういう言い方はもうやめなさい」

そしてもう一段強く、抱きしめられた。
茂の胸元からは、寝間着についていた彼の香りがもっと強く漂ってくる。
布美枝を酔わせる媚薬のように、くらくらと蕩けそうだ。
力を失うように、布美枝はこてん、と額を茂の胸に宛て、その奥の鼓動に耳を澄ます。
目を閉じ、ぎゅっと抱きついた。

(好き…)

言葉にすると、小さすぎる気がした。
そんなことでは表わせない想いが、布美枝の中には確かに在った。
梅桃の花の咲く季節に同じく、布美枝の遅い春に膨らみ始めた初恋の淡い蕾は、
やがて花開き、この先一生枯れることなく、茂の隣で咲き続けることとなる。
これはその序章のお話。






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