目覚まし女房(非エロ)
村井茂×村井布美枝


「どげしたもんかなぁ…」

東京、調布に嫁に来て三日目。布団にくるまりすやすやと寝ている茂を眺めながら、
布美枝は途方に暮れていた。

***

そもそも事の始まりは、布美枝が東京に来た翌日のことである。
その前日の夜、つまり東京に来て初めての夜、茂は夜更けまでずっと仕事を
していた。旦那が仕事をしているのに先に寝てはいけないと、布美枝はチラシで
折り鶴を折ったりなどして時間を潰していたのだが、水を飲みに仕事部屋から出て
きた茂にそんなところを見付かり、早く寝ろと逆に怒られてしまった。
茂の布団は居間に敷いてほしいと言われたのでちゃぶ台をどかして敷き、自分の
布団は悩んだすえ二階に敷いた。一人で風呂を沸かして入り、濡れた髪を拭き
ながら仕事部屋の茂に先に寝ると声を掛けたが返事はなかった。おそらく聞こえて
いないんだろうな、と寂しい気持ちになりながら、初めての東京の夜を一人で過ごし
たのだ。

その翌朝、いや、翌昼と言ってもいい時間、つまり東京二日目の昼のことだ。
結婚式後の境港での一件があったため、布美枝は茂が寝ぼすけだということは
承知していたし、自分ではまだ起こすことはできないだろうとわかっていた。なので、
居間でまだぐっすり寝入っている茂を起こさないように自分だけ軽い朝食をすまし、
なるべく音を立てないように掃除と洗濯をした。多少の物音が立ったからといって、
茂が起きる気配など一向になかったのだが。

(でも、さすがにお昼には起こさんと。〆切が近いようだし…昼御飯まで抜いて
しまったら身体に悪いけん…)

境港の義母のように起こせるだろうか、と、布美枝は茂の枕元に座り気合いを入れ
茂の顔を覗き込んだ―――…。

ぱちり。

「……わっ!」

今までしっかり閉じていた茂の眼が開き、覗き込んでいた布美枝は思わず飛び
上がった。実際には飛び上がってなどいないが、布美枝の気持ち的には30センチは
飛び上がったくらいの驚きだった。

「んん…あんたか…、あぁもう朝か…」

まだきちんと覚めきっていないのだろう、茂は起きあがり目を擦りながらぼんやりして
いる。窓から射す光を見ながら「いまなんじ…」とごにょごにょ言っていた、が。

「いけん…!!」

窓に置いてあった時計を見るなり大声で叫んで立ち上がると、「寝すぎた…」「また
遅れた…」などとぶつぶつ言いながら仕事部屋へ大股で進んでいく。

「あ、あの…!」

気付いたら呼び止めていた。昨日からまともに会話をしていない。少しだけでも、
話したかった。

「どげしました?」
「あ、いや…」

呼び止めたはいいものの、肝心の話題がなかった。聞きたいことは山ほどあったが、
一分一秒でも惜しいという目でこちらを見られたら、何を言ったらいいのかわからなく
なってしまう。

「…もうすぐでお昼ですけん、御飯できたら、声掛けますね」

それだけ言うのが、精一杯だった。

「あぁ、いらんです」
「え?」
「寝すぎてしまいましたけん、飯を食うてる時間も惜しいんです。あんただけ食べてて
ください」
「そ、そういうわけには…、朝御飯も食べとらんのですよ?」
「大丈夫ですけん、今までだって三食きちんと食ってなんかおらんかったし」
「そんな…」

境港の義母に茂の健康をよろしくと頼まれていたのに、御飯もまともに食べさせられ
ないだなんて。自分がこの家にいる意味をひとつ奪われてしまったような気がして
悲しみが込み上げてきた。
その時。

ぐ―――きゅるるる―――……

気まずい部屋に場違いな音が鳴り響いた。
布美枝は一瞬何の音か理解できなかったが、一気に赤くなった茂の顔にそれが
なんだか理解する。

「村井さん…」
「あ、いや、これは…」

さっきまでの堅い態度は何だったのか、あたふたし始めた茂におかしくなったが、
笑っていいものかどうか判断できず布美枝は少し思案した後、自分の言い分を通す
ことにした。

「腹が減っては戦はできず、ですけん。昨日の残った御飯でおにぎり作りますね。
それならすぐ食べられますよね?」
「はぁ、すんません、お願いします…」

そう言うと、茂はぼりぼりと頭をかきながら仕事部屋へ引っ込んでしまった。

おにぎりと味噌汁とお新香。寂しい食卓であったが、茂が食べてくれるならそんなこと
問題ないように思えた。

「あの、すみません、御飯できましたけん…」

仕事部屋の襖を開けて声を掛けると、珍しく一度で聞こえたらしい茂は居間へやってきて
ちゃぶ台の前に座った。

「味噌汁も作ったんですか」
「おにぎりだけじゃ寂しいと思って…いらんかったですか?」
「いや、構わんです」

言うと、茂は味噌汁を一気に全部吸ったあと、おにぎりが乗った皿にお新香を乗せて
立ちあがった。

「後は原稿しながら食うけん」

そのまま仕事部屋に入ろうとした茂に、あのぴっちりと閉まった襖を思い出して布美枝は
また悲しくなった。
だが、茂はおにぎりが乗った皿を持ったまま何か考えているかのように立ちつくした後、
また座り直し布美枝の顔を真っ直ぐに見た。

「ど、どげしました?」
「あんたにひとつ頼みごとがある」

頼みごと、と聞いて、もしかして余計なことはするなとかそんなことではないかと布美枝は
不安になった。

「朝、起こしてくれないか?」
「……え?」
「イカルに聞いて知っとると思うが、俺は朝に弱い。放っておくと今日みたいに昼まで
寝てしまうけん。普段ならいいがこう〆切に追われている身だとそれではいけん。そこで
あんたに目覚まし代わりになってもらいたい」
「私が…、ですか?」
「あんた以外に誰がおる。それともあれか、あんたも朝に弱いたちか?」
「い、いえ!ラジオ体操にも毎朝行ってましたけん、大丈夫だとは思いますが…」
「ラジオ体操…?まぁ、ラジオでもアラジオでもアマジオでもなんでもいいですけん。
頼みます」
「は、はい」

布美枝の返事を聞くと、茂は今度こそ仕事部屋に籠ってしまった。
この家に、茂に自分は必要なのだろうかと悩んでいた布美枝だったが、茂に頼りに
されたことよりも、あの茂の深い眠りから自分はどうやって目を覚まさせたらいいのか、
境港の義母のようにできるかという不安の方が大きかった。

***

茂を起こさないといけないというプレッシャーからか緊張してあまり眠れず、布美枝は
空がまだ明るくなる前に目覚めてしまった。
昨夜も茂は夜更けまで仕事をしていたようだしこんなに早く起こすのも気を引けて、朝食の
準備やら洗濯やらの家事をして時間を潰す。朝食が出来上がったころ、姉から貰った
時計が鐘を鳴らして七時になったことを告げた。

(そろそろ…かな…?)

昨日と同じく居間で寝息を立てている茂の枕元に座ると、ためしに小さく揺さぶってみる。
そんなことで起きるわけなく、今度は力強く揺さぶった、が、やはり起きない。

「どげしたもんかなぁ…」

今度は茂の顔を覗き込み、鼻を摘まんだり頬を抓ったり(意外にも柔らかくて驚いた)
してみたが、それでも反応はなかった。
布美枝はひとつ大きな深呼吸をした。そして布団を思いっきり引っぺがそうとしたが、
何かを察知したらしい茂は布団を掴んで離そうとしない。

「…起きて…、ごしない…っ」

境港の義母のように大声で怒鳴る勇気はまだなかったが、そのかわり全力で布団を
引っ張る。しかし男と女の差はあれど、寝ているくせにどこにそんな力があるのかと
思うくらいの茂の引きの強さに布美枝が先に力尽きてしまった。

「うぅ〜ん…」

唸ると茂は布美枝に背を向けてしまったが、少し睡眠から浮上したらしいその姿に、
布美枝はまたしても茂の身体を強く揺さぶる。

「起きてごしない…!〆切が、近いんでしょう…!?」

ぴくり、と茂の肩が動いた。〆切という言葉に反応したらしい茂は、仰向けになると薄く
目を開く。

「しめ…きり…?」
「そうですけん、〆切です。原稿をやらんといけんのでしょう?起きてごしない…っ」

開いた目を閉じさせないように必死に揺さぶりながら、布美枝は茂に懇願する。

「げんこう、は、だいじょうぶ…だけん」
「…へ?でも昨日…」
「あのとき、は、そうだったが、いまは…ええんだけん。もうすこし…」

そう言うと茂はまた目を閉じてしまった。

「大丈夫…なんですか…?」

揺さぶっていた手を止めて布美枝は考える。昨日まであんなに時間に追われていたのに、
大丈夫になった?そんなようには見えなかったが…。

しかし茂本人がそう言っているのだし、数日間一緒にいただけの自分にそんなこと判断
できるわけもない。もし本当に大丈夫なようなら、無理矢理起こすより少しでも多く寝て
いてほしいのは事実だった。
疑問は残ったが、とりあえず昨日と同じ昼近くなったら起こそうと、布美枝は洗濯物の
続きをしに行った。

「うわああああああ――――!!!」

廊下の雑巾掛けをしていると茂の叫び声が聞こえ、布美枝は慌てて居間へ向かった。

「どげしました!?」

居間に入ると、茂は布団から起き上がり真っ青な顔をしながら窓際の時計を見ていた。

「あ、あんた、朝に起こせと…」
「えっ?起こしましたよ?」
「じゃあ何故この時計は十一時を指しているんだ?壊れたのか?」
「いえ、今は十一時ですよ」
「俺は…朝に起こせと言わんかったか…?」
「はい、言いました。だけん七時に起こしたじゃないですか。でも原稿は大丈夫だって…
覚えとらんのですか?」

言うと、茂は信じられないという顔をして布美枝を見つめ、何かを手繰り寄せるように
考えた後、はっと思い出したようだった。

「………言っ……た……。しかし、それは……嘘だ」
「うそ…?」

それ以上茂は何も言わず、布団の上で頭を抱えてうんうん唸っていた。
状況がまだうまく飲み込めない布美枝だったが、きちんと起こさなかったことがいけなかった
ということはわかった。茂に初めて言われた頼みごとを言われた通りにできなかった自分が
悪いと気付いて、なんでこんな簡単なこともできないのかと自責の思いが一気に膨らんで
いった。

「あ、すみません…私が、ちゃんと起こせば…」

言うと、茂は布美枝の顔を見ないまま布団の横の畳をトントン、と叩いた。

「ちょっこし、こっちにきてくれ」

布美枝はびくびくしながらも言われた通りに布団の横に座った。情けなくて申し訳なくて
茂の顔を見れずに俯く。涙が零れそうになったが、泣いたって許されるわけじゃないと
必死に堪えた。

「あんたにひとつ言っとかなければならんことがある」
「はい」
「寝起きの俺を信用してはいけんです」
「はい。……――――はい?」

ぱちくり、という効果音が似合うように大きな眼を見開いた布美枝は、俯いた顔を上げて
茂を見た。

「原稿が大丈夫なわけがないが、寝起きの俺は睡眠が最優先だけん、大丈夫じゃない
もんも大丈夫と言ってしまう。だらずだからな。しかしそれに惑わされたらいけん。あんたが
信じていいのは起きてる時の俺だけです」
「は、はい…」
「だけん、起こしてくれと頼んだら、次の日寝惚けた俺が大丈夫だと言ってもなんとしても
起こさなければいけん。それがあんたの使命だけん。全うしてくれ」
「そげです、か」
「悪かったですな、寝汚いのは子供のころからで治らん。あんたにしっかりしてもらわんと
終わる原稿も終わらなくなってしまいますけん」

てっきり怒られると思っていた布美枝は、呆気にとられたような気持で茂を見た。茂は困った
ような可笑しいような、そんな顔をしている。

「わかったら、返事」
「は、はい!」

布美枝が言うと、茂は大きく伸びをして布団からのっそり出てきた。

「さて、遅れた分を取り戻してきますけん」
「はい、頑張ってごしない」
「……おにぎり」
「はい?」

布美枝がきょとん、と見返すと、茂はそっぽを向きながらぼりぼりと頭をかいていた。

「昼飯はおにぎりお願いします。あれは原稿しながら食うのにちょうどええ」

腹が減っては戦はできずだけんな、と言うと茂は、見合いの時のようなあのあどけない笑顔で、
笑った。






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