カミングスーン(非エロ)
村井茂×村井布美枝


正直なところ、妻の妊娠は必ずしも望んだ事態ではなかった。

深沢が結核に倒れ、出版社が閉められて生活が苦しくなると懸念した
矢先の事だったからだ。妊娠の報告を聞かされた瞬間心を占めたのは
喜びではなく、動揺と不安と、そして微かな後悔だった。
ならばその原因となる行為をしなければ良かったのだろうが
そこは男女の事だし、自分は新妻を愛でただけだ。―――――計画など
大して考えてなかったというのが本音だが。

『……なたっ……、はぁ…ん、う…ぁあ……んん………!』

唐突に妻・布美枝の閨での姿態が頭をよぎり、ぶるぶるとかぶりを振る。

なんにせよ、一度授かった命をこの世に迎える覚悟はできた。
40過ぎて父親になるとは思っていなかったし、まだ実感はないが、

「なんとかなる」

魔法の言葉を呟き、茂は帰路を急いだ。


「帰ったぞ」

ある出版社に原稿を届けた帰りの10月の午後。茂は家のドアを開けた。
おかえりなさいと応える声がいつもなら返ってくるはずなのに、それがない。

(……?)

自転車があるから出かけてはいないらしいが、中にいないのか、と
茂は外へ出て家の裏に回った。すると―――――――。

布美枝が、大きな腹をかばいながら物干し竿にせっせと柿を干している
ところだった。
村井家の庭には西条柿の木があり、隔年で実をつける。それを渋抜き
した後に干し柿にして保存しておくのだ。
身体が重いのか、布美枝は時おり腰に手をあてている。
なんとなく声をかけないまま―――――理由はよく分からなかったが、
きっと眺めていたかったからだろう―――――、それを眺めていた。

柿をくくった紐を全て吊るし終わった時、柿の暖簾が風にざらん、と揺れた。
秋晴れの空の藍色に、橙のコントラストが眩しい。

「壮観だな」

声に気付いた布美枝が後ろを振り向き、帰宅した夫に笑顔を見せた。

「おかえりなさい」

瞬間。ざあぁっと乾いた風が足元から吹いた。
一人の妊婦が、牧歌的な風景の中にくっきりと浮かび上がった。

「……ああ。帰ったぞ」

(――――――母親だ)

まだ産んでもいないのに、布美枝が母親の顔になっている。
ごく平凡なはずの目の前の女は、こんなに美しかっただろうか?
見慣れた妻は何か遠い存在のようで、神々しく、そのくせ儚げにも見えて
胸が詰まった。これは本当に、自分の女房だろうか。

寒い中ご苦労さまでした。ちょうど良かった、こっちも終わったとこですけん
今お茶淹れますね――――――そう言って妻は駆け寄ってくる。

「うん…」

釘付けになった目を逸らすタイミングを完全に失ったその時。


「あっ!!」

布美枝が声を上げた。茂を縛っていたものが解けて、場が動き出す。

「ど、どげした」
「赤ちゃんがお腹蹴ったっ」
「え」

膨らんだ腹をまじまじと見た。

「もう蹴るのか」
「最近よう動くんですよ、この子」
「だら、なしてそれを早く言わんのだ」
「だってその時あなた、近くにおらんかっ……」
「どれ」

話を遮り、手の平をぺたっと腹に当ててみる。

「…」
「…」

「動かんぞ」
「あら。今の、寝返りだったのかな…」
「腹の中で寝返りなんてするのか」
「らしいですよ。先生がおっしゃってました」


しばらく静かに待っていたが、やはり動いた感触はない。

「ふむ」

興を削がれて手を離した。

「あっ!」
「えっ?」
「また動いたっ」
「お」

もう一度付ける。


「…また静かになっただねか」
「上手くいきませんねぇ」
「おーい」

ごく軽くポンポンと腹部を叩く。

「元気しとるか」

中からの返事を息を詰めて待っていても、やはりぴくりともしない。

「俺には挨拶せんのだな」

茂がむっつりとした顔を作ると、布美枝が噴きだした。

「…随分と恥ずかしがり屋だけん、女の子かもしれんね」

(女の子……)

もちろん布美枝の台詞は他愛ない冗談に過ぎなかったが、
初めての子だし、特にどちらが欲しいとも考えていなかった茂は
虚を突かれて妻の顔を見つめた。

「ふーむ」

赤ん坊が腹の中にいる時に、母親の顔がきつくなったら男の子、
優しくなったら女の子、などとよく言われるが布美枝の場合はどうなのか。

(いつでものんびりしとって、ようわからんな)

「…恥ずかしがり屋なのは、あんたに似とるせいじゃないか?」
「あらっ」

茂の適当な発言に、布美枝は少しおどけて返した。

「よう寝るのは、あなたに似て寝ぼすけなんですよ、きっと」
「それか、内気で本番に弱いタチだな。あんたも子供の頃、そんなだったろう」
「う……」

どうやら図星らしい。口では茂の方が一枚上手だ。

「んもう、そげなことばっかり……っくしゅんっ!」

布美枝が寒さに肩をすくめた。晴れているとはいえ、外の風は冷たい。

「あーあー、ほれ、早こと中に入れ。身体冷やすと毒だけん」

布美枝の腰に手を廻して支えてやると妻はこちらを見上げだんだん、と頷いた。
微かに照れた色がその瞳に浮かんでいた。

さっきまで近付きがたい雰囲気をまとっていた布美枝が、自分の腕の中に
帰ってきた気分だった。
母になる彼女と、妻である彼女が、茂の中でひとつになった。

ああ、なるほど。

さっきは、不安だったのかもしれない。ひと足先に自分の知らない顔に
なった布美枝に、置いてきぼりにされたようで。

けれど鏡を見ればきっと、今の自分は父親の顔になっているのだろう。
布美枝が母親の顔になっているのと同じように。

(……悪く、ない)

「そこ足元、気を付けて上がれよ」
「はい……ふふっ」

今は知らんふりしている赤ん坊にもうすぐ逢えるのだと、いよいよ
実感し始めた、ある日の話。






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