合鍵
村井茂×村井布美枝


「フミエさん、これを預かってくれんかね。」

ある日、仕事部屋にお茶を出しに行ったフミエは、茂の弟でマネージャーの光男から、
小さな銀色の鍵を手渡された。

「あら。どこの鍵ですか?」
「この部屋の鍵ですわ。ネーム部屋のこのドアの。応接間の引き戸も、全部内側から
鍵がかかるようにしたけん、最後にこのドアを閉めれば、戸じまりは完成だ。」
「これを、私に?」
「ああ。しめきり前の徹夜の時はしかたないが、普段の、ここに誰もおらんようになる
夜は、これで全部閉めてごしない。赤土プロに泥棒が入ったことはフミエさんも
知っちょろうが。前々から、この事務所は無用心に過ぎると思うとったんだ。
兄貴は、こげなことはからっきしだけん、フミエさんが頼りだが。」
「・・・わかりました!」

フミエは、小さな鍵を握りしめて、嬉しそうに微笑んだ。仕事場と生活の場が分かれて
以来、自分が茂の仕事に直接役立てる機会が減って、なんとなく疎外感を感じている
フミエにとって、マネージャーの光男に頼りにしていると言われたことは、近来に無く
嬉しいことだった。

「マンガ家のプロダクションには現ナマがうなっとると思われとるらしいな。
実際は、たいして置いてあるわけじゃないのにな。」

茂の言うとおり、原稿料などの報酬は銀行振り込みだし、アシスタント達の給料は、
給料日に光男が銀行でおろしてきてその日に渡してしまう。金庫にたいした金額が
あるわけではないが、金があると思われている以上、泥棒が入る可能性はあり、
家族に危害でも加えられたらたまったものではない。

フミエの後ろ姿を見送りながら、光男はあの夜のことを思い出さずにはいられなかった。
金庫の入った机の鍵が気になり、深夜に水木プロを訪れた際、光男は予期せぬ光景を
目撃してしまった。それは、応接間の階段の前で激しく愛し合う兄夫婦の姿だった・・・。

(フミエさんは真面目だけん、戸じまりはちゃんとしてくれるだろう。夜中に確かめに
来るのはもうごめんだけんな。・・・それに、今度からはちゃんと鍵をかけてから
励んでくれよ・・・。)

光男は、二人のああいう姿を二度と目撃したくはなかったが、別にいやらしいとか
不快だとか思っているわけではなかった。何かほほえましいというか人間くさいというか、
応援してやりたいような気になっただけだった。

(フミエさんが、あげに嬉しそうな顔するの、ひさしぶりに見たな・・・。)

茂が売れっ子になる前は、フミエがアシスタントをしたり、出版社に原稿を届けに
行ったり、手伝うことも多かったらしいが、プロダクションを立ち上げてからは、
プロのアシスタントも大勢いるし、フミエの出る幕はなくなったと言ってよかった。
フミエが少しでも仕事にかかわろうとすると、茂は「お前は口を出さんでええ。」とか
「あっち行っちょれ。」とか言って排除しようとする。

(兄貴は、なしてあげにフミエさんをのけものにするんだろうな・・・。)

子供の頃、兄には痛い目にも会わされたが、戦前の男兄弟というのはみんなそんなもの
だったし、兄を意地悪な人間と思ったことは一度も無い。

(兄貴には、兄貴の考えがあるんだろう・・・。)

夫婦の関係と言うものは他人には計り知れないところがある。あの夜、茂がフミエを
虐げているかのように見えたけれど、実はそうではなかったように・・・。光男は、なんとなく
義憤を感じてはいても、自分がとやかく言うのはやめておこうと思った。

(とにかく・・・!俺はもうこのことは忘れるけん!)

刺激の強すぎるあの出来事を、光男は無理やりに頭から追い払って、仕事に没頭していった。

フミエは自室に入ると、さっき光男に託された鍵に、リボンをとおして結んだ。
こんな小さな鍵は、何かつけておかないと、どこかへ行ってしまいそうで心もとない。
フミエは、鍵を手のひらに乗せて、冷たい金属の感触を味わった。

「光男さんが、『フミエさんが頼りだ。』だって・・・。」

たとえ戸じまりのような単純作業でも、光男に仕事をまかされたことがフミエは
嬉しかった。茫洋としてつかみどころのない長兄の雄一や、才能はあるがきわめて変人
である夫の茂とちがい、末っ子の光男はごく普通の人間で、几帳面で少し小心でもある
ところに、フミエは親近感を抱いていた。次々に舞い込む膨大な仕事を裁き、経営面も
引き受けている光男は、優秀な実務家であり、頼りになる存在であった。

「お母ちゃん、それなあに?」

いつの間にか近づいてのぞきこんでいた喜子に突然声をかけられ、フミエは驚いて
鍵を取り落としそうになった。

「びっくりさせんでよー、喜子。・・・これはね、お父ちゃんの仕事部屋の鍵だよ。
大事なもんだけん、なくさんようにせんとね。」
「カギ・・・?よしこもほしいー。」

悪いところをみつかったものだ。どうせすぐに飽きるのだろうけれど、本物の鍵を
やるわけにもいかない。ちょうど古い机の引き出しについていた鍵があったので、
リボンをとおして喜子にやった。

「これ・・・どこのカギ?」
「これはね、もう金具がこわれてて使えんのよ。だけん、喜子にあげる。」

真鍮色で、少し模様のあるその鍵は、今の無機質な鍵と違って趣があった。嬉しそうに
首にかけて走り去る喜子を、フミエはほほえましく見送った。

鍵と言うものは、なぜこんなにも人の心を引きつけるのだろう・・・。自分だけが、
閉ざされた扉を開けることができるという満足感だろうか。特に、大切な人から
大切な鍵を託された時、その喜びはいやがうえにも増すのかもしれない。

結婚して数ヶ月が経った頃、この家に歓迎されざる客が訪れたことがあった。
数日前から、フミエも茂も、身辺になんとなく不穏な気配・・・誰かに見られているような
気持ちの悪さを感じていた。家の周りをうろついて、茂やフミエの行動や郵便物、出入り
する人物などを探っていたらしい怪しい男たちは、なんと刑事だった。
『少年戦記の会』と大書した看板や、小さな家に不釣合いな大量の郵便物などから、
何か秘密結社のような反社会的な組織を想像した近所の住民が通報したらしかった。
百聞は一見にしかず、茂の戦記マンガを実際に読んでもらい、健全な子供のための
ファンクラブであることを納得してはもらえたが・・・。
警察と言うものが、まず疑ってかかるのが仕事とは言え、若い方の血気盛んらしい
刑事は、まだすっかり信用していない様子だった。年配の方の刑事は、同じ戦場がえり
ということで、真にせまった茂の戦記マンガに感心し納得してくれたけれど、身についた
猜疑心はぬぐえないようだった。その鋭い目つきは最後まで変わらず、底知れぬ不気味さを
たたえて、何も悪いことをしていなくても落ち着かない気持ちにさせられた。

フミエは、それまで出かける時家に鍵をかける必要性を感じていなかった。茂は
ほとんどいつも仕事で家にいるし、フミエも買い物に行くくらいで、二人そろって遠出する
ことなど、たまに自転車で散歩に行くことくらいだった。
実家のある安来では、家に鍵をかける人などほとんどおらず、外からかける鍵が
ない家も多いほどだった。田舎なので犯罪も少ないし、いつも必ず誰かが家におり、
葬式などで家中留守にする場合は近所の老人などに留守番を頼めばよかった。
こちらに来る早々、フミエは置き引きにあってしまったのだが、それは外で起こった
ことで、あまり家に泥棒が入るという発想には結びつかなかった。

「ウチには、な〜んも盗られるものが無いけんな。」

茂はのんきそうにそう言い放っていたが、フミエは今度のことで、なんだか不安に
なってきた。怪しい人影は結局警察だったのだから、不安になるのもおかしなものだが、
自分たちの生活が、いくらなんでも無防備に過ぎるような気がしてきたのだった。

「あの・・・、ウチには、鍵ゆうもんはないんですか?」
「カギ・・・?カギなあ。さて・・・どこにしまったかな?」

茂は古い机の引き出しをガタガタと音を立てて開け閉めし、やっとのことで錆びついた
鍵を探し出した。同じ鍵が三つもあり、やはり錆びた金属のリングについたままの
ところを見ると、この家を義兄から明け渡された当初からほとんど使ったことがないらしい。

「鍵なんぞかけんでも・・・。俺がいつも家におるし、あんたもそう遠くへ行くわけでも
ないだろうが。だいいち、盗られるもんなんかな〜んもありゃせんしな。」
「それでも・・・ないよりはあった方が安心できるんです。」

フミエは錆びついた鍵を一生懸命みがいて、ひとつはブルーのリボンをつけて茂に、
もうひとつはピンクのリボンをつけていつも使っている買い物袋に入れた。残るひとつは
予備としてたんすの引き出しにしまった。
中に鍵が入っていると思うと、長押にかけてある水色の買い物袋がやけに光って見えた。

(なんか、この家の主婦になった、ゆう感じがするなあ・・・。)

初めて茂から原稿料を渡され、これでやりくりを頼む、と言われた時も同じ気持ちがした。
茂が言い出したことではないとは言え、鍵を託されるということは、信頼していると
言われていることであり、フミエの胸に幸せな気持ちが広がった。

その夜。茂の手に引き寄せられ、フミエはやわらかくその身を夫の腕にゆだねていた。
ふたりだけの時間のはじまり・・・。いつものように抱きしめられ、唇をかさね合い、
浴衣ごしの体温と快い重みに陶然となる・・・。だがその時、フミエはふと心配になった。

「あ・・・。」
「なんだ・・・どげした?」
「戸じまり、したかどうか気になって・・・。」
「そげなもの、どうでもええ。泥棒が入ったところで、あんまり何もなくてびっくり
するのが関の山だ。」
「でも・・・。」
「鍵を持ったら、かえって心配になるなんぞ、愚かな人間そのものだな。」
「・・・愚かな人間でもええですけん・・・。」

ブツブツ言いながらも、茂はフミエを解放してくれた。フミエはえりを合わせながら
玄関の戸じまりを確かめに行った。

「すんません。ちゃんとかかっとりました。」
「・・・。」

返事がない。茂は向こうを向いて寝たふりをしているようだ。

「あなた・・・?」

フミエは茂の肩に手をかけ、こっちを向かせようとしたが、茂はびくとも動かない。

「しげぇさん、こっち向いて・・・お願い。」

触れている茂の肩が震えだした。のぞきこむフミエの髪が茂の顔にかかり、くすぐったいのを
がまんできなくなったらしい。

「もぉ・・・いやなひと。」

笑って力が抜けた茂の身体を、フミエはのしかかるようにして仰向かせ、上から口づけた。
茂が下からフミエの帯を解いて、下を向いた胸のとがりを指や手のひらでそっところがした。

「ン・・・んっ・・・は・・・ぁ。」

茂がフミエの頭を押し下げて、次の行為をうながす。フミエは素直に下の方に下がって、
茂の前をくつろげた。屹立する茂自身を、仰ぎ見るような気持ちで、フミエは両手でそれを
そっと包んだ。温かい、独立した生き物のような茂の分身の、滑らかな感触を唇や頬で
楽しんでから、口に含んでいとおしむ。口が享受している快楽をねたむ様に、本来それを
受け入れる場所が激しく疼きだすのをフミエは感じていた。

(ああ・・・ほしい・・・。)

茂を初めて受け入れてから、まだ数ヶ月と言うのに、自分の身体の貪欲さが信じられない。
突き上げる飢餓感に、思わず腰をもじもじと揺らし、茂に気づかれなかったかと心配になる。。
茂がフミエの手をとって上に引き上げた。横たえられ、じっと目をみつめられる。
自分は今、どれほど淫らな目をしているだろう・・・。そんな羞じらいも、熱く疼く秘所からの
欲求の前には、なんの効力もなく、フミエはただ貫かれる瞬間を待った。

だが、次の瞬間、茂の顔は視界から消え、下の疼きに負けないくらい張りつめ、過敏に
なっている乳首を口に含んで舐め吸った。

「ひゃ・・・ん・・・やっ・・・。」

もう片方の乳首も、親指と人差し指がつまんでこすり合わせる。フミエは陸にあがった
魚のように身体をばたつかせ、なんとかしてこの責めから逃れようとあがいた。
だが、茂の鋼のような脚にからみつかれ、身動きもならない。
ふたつの突起から発電される電撃のような快楽が一箇所に集中し、フミエの女陰は
あわれな涙を流し続けた。

「やっ・・・だ・・・だめっ・・・あ―――――!」

ぴったりと閉じあわされた大腿の間で、包まれたままの陰核が断続的に脈うった。

「おい・・・。」

身体の下で激しくあえいでいたフミエが、脚をぴん、と伸ばして硬直したかと思ったら
ぐったりと弛緩した。胸への愛撫をやめて顔を見る。紅潮した頬に幾筋もの涙が流れ、
ゆっくりと目を開けると、徐々に焦点の合ってきた瞳で茂をじっとみつめた。

「なんだ、これだけでイッてしもうたんか。」

感じやすい妻がいとおしく、茂はそのしっとりと汗ばんだ身体を抱きしめてささやいた。

「・・・ほしいか?」
「・・・は・・・い・・・。」

震える声でフミエが答えると、茂はフミエの下唇を甘噛みするように口づけながら、
まだ痺れている身体をひらいて押し入ってきた。

「ぁ・・・ぁああ・・・ぁ・・・。」

フミエの中の、恋情も官能も、すべてが茂に向かって流れ出す。心の中を、すべて
見られてしまうのではないかと心配になる。自分はきっと、茂が愛してくれるよりも
何倍も何十倍も茂に恋着してしまっているにちがいない―――。
茂の心のうちを、知りたいような、知りたくないような・・・。自分の心の中はたやすく
覚られてしまう気がするのに、自分は茂の心がわかるかと言えば、心もとない。

(でも・・・わからんけど、わかるような・・・。)

「好きだ。」とは、決して言ってくれないけれど、こうしてフミエを欲してくれることが、
その代わりと思っていたい。こうしてひとつになる時、茂の存在感はフミエの細胞の
すみずみまでを侵し、言葉はなくとも、その想いを刻み付けられる気がした。
茂という鍵でしか開かない扉のように、フミエは自分の全てをひらいて受け入れ、
ただ惜しみなく与えつづけた。

「あ・・・あっ・・・しげ・・・さ・・・ぁあ―――――!」

茂に向かってなだれ落ちるような絶頂感におそわれ、あとは何もわからなくなった。

徐々に自分を取り戻し、茂の腕の中にいる自分に気づく。自分が自分でなくなる
嵐のような時間の後、彼の腕の中にいることに、フミエはいつも心からやすらいだ。
フミエを、高みから突き落とされるような絶頂に追い上げるのも他ならぬ茂なのだけれど・・・。
ゆっくりと目を開けて大きく吐息をつくと、茂は「ご苦労さん」とでも言うように
口づけて、微笑んだ。

「痛いの恥ずかしいの大騒ぎだったあんたが、成長したもんだな。・・・この頃じゃ、
別の意味で大騒ぎしとるけどな・・・。」
「お・・・大騒ぎなんて、しとりません!」
「まあ、あんたが気持ちええんなら、俺もうれしいけん。」

万事おおらかな茂のこと、夜の生活についてもあけすけなのには閉口するけれど、
これも、茂語で『あんたのことを気に入っとる。』と言ってくれているのだと思うこと
にして、フミエは再び近づいてきた唇をやさしく迎えた。

「あ・・・。」
「ん・・・?なんだ?」
「あなたの鍵、水色のリボンをつけておきましたけん、使って下さいね。」
「・・・俺の鍵?いらんいらん。あんたが出かける時は、俺はだいたい家におるし、
二人で出かける時は、あんたがかければええ。」
「でも・・・。」
「ああ、でも、俺が出かけてあんたが家にひとりでおる時は、かけておけよ。」
「え・・・なしてですか?」
「・・・盗まれるのは、金や品物ばかりとは限らんけんな。」
「え・・・?」

とっさに意味がわからず、怪訝そうな顔をするフミエに、茂はちょっと照れ臭そうに
つけ加えた。

「あんたも・・・若い女の端くれだということを、自覚しとった方がええ。」
「え・・・。や、やだ、そげなこと・・・。」

フミエは、自分がよその男に目をつけられるような魅力のある女だとは考えたことも
なかった。茂がそんな心配をしてくれるのがなんだか面映く、申し訳ないような気に
すらなるのだった。

(こげな風だけど、私のこと、けっこう大切に思ってくれとるのかな・・・?)

茂の思いがけない言葉が、フミエの胸をときめかせた。

「あれ?どげしたんだ、喜子。そげな物・・・。」
「これ、お母ちゃんにもらったの。もう使えない鍵なんだって。お母ちゃんが、
お父ちゃんの部屋の鍵にリボンつけてるの見て、いいなーって言ったら、くれたの。」
「ふうむ・・・。茂の部屋の鍵とな?」

修平は、なんとなく思うところがあるようだった。

「あのな、喜子。鍵と言うのはただの道具ではないぞ。鍵を誰かに渡すということは、
自分を渡すのと同じことじゃ。だけん、みだりにチラつかせてはいけん。大事に
宝箱にしまって、このことは誰にも言わんでおきなさい。」
「・・・宝箱に?」
「ああ、あるじゃろ?・・・無いのなら、おじいちゃんがこのクッキーの空き箱をやろう。」

『宝箱』と言うものは、子供にとっては絶大な魅力のあるものらしく、修平にもらった
ベージュ色の空き缶にさっそく鍵を入れ、喜子は目を輝かせてそれを隠しに部屋に戻った。

「・・・いつまでも仲が良くて、なによりだ・・・。」

この手のことには一族中で一番鼻の利く修平は、茂がフミエに自分の部屋の鍵を与えた
という一事から、何事かを感じとったようで、さっそく喜子の口を封じたものか・・・。

その夜。フミエは応接間の引き戸の鍵を内側から閉め、仕事机に向かっている茂に
声をかけた。

「ほんなら、ドアの鍵だけはあなたがかけてくださいね・・・おやすみなさい。」
「まあ待て。俺にまかせると忘れるぞ?」
「もぉ・・・それくらいやってくださいよ。」
「終わってから、お前がかけたらええんだ。」
「ええ?・・・お仕事が終わるまでここで待っとるんですか?」
「・・・仕事なら、もう終わっとる・・・。」

茂は椅子から立ち上がると、意味がわからずにいるフミエをドアに押しつけるようにして
唇を奪いながら、内側からカチリ、と鍵をかけた・・・。






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