ふたりの絆
村井茂×村井布美枝


源兵衛を駅まで見送る布美枝と別れ、茂は戌井とこみち書房を出た。
別れ際、源兵衛がじっとこちらを見るのに気づき、ぺこりと小さく頭を下げると、
あの時の激しい剣幕はすっかり消え失せた、どこか寂しげで切なげな微笑を返してくれた。
ほっとしたような、申し訳ないような、複雑な心持ちがしたけれど、その時はかける言葉も、
向けるべき表情も、これといって思い浮かばず、また慌ててぺこりと一礼しただけだった。

布美枝との生活を、着飾ろうと思ったわけではなかった。
「それなり」に見えればそれでいいと思ったのだ。
けれど、ぼろは何処からか解れてきてしまうもので、
結果的に源兵衛の不興を買うことになってしまった今日のこみち書房での「読者の集い」。
思いも寄らない布美枝の激昂と、太一と美智子の絆が深まったことで、
義父の怒りは落ち着いたようだが、布美枝とふたり歩いていく彼の後ろ姿の
何とも言えない「小ささ」のようなものが、茂にはいつまでも気にかかっていた。

そんなことを考えながら、とぼとぼと言葉もなく戌井とふたり、夕暮れの商店街を歩く。
そういえば、この男にも随分ととばっちりを喰わせてしまったな、と、茂は申し訳なく戌井を振り返った。

「今日はすまんでしたな」
「…え?」

何か考え事でもしていたのか、戌井はやや不意を衝かれたように、無防備に頭を上げた。

「あんたにまで妙な飛び火が行ってしまって」

源兵衛に睨み降ろされる小さな戌井を、不憫に思いながらも助け舟を出せずにいた。

「あ、ああ!いえ、全くそんな。僕ぁ何とも思っていません。それより…」

丸眼鏡をぐいぐい持ち上げ、やたらにこにこした表情で、興奮したように鼻を膨らませる。

「それより僕ぁ感動したんですよ!」
「…は?」

うんうん、と独りで大きく頷き、鼻息荒く腕を組んで戌井は茂を見上げた。

「奥さんです。水木さんのことをあんなに必死に…」

再び何かが込み上げてきたのか、戌井はそわそわとズボンに掌を擦りつけてみたり、
また腕を組んでは、笑顔で「う〜ん」と考え込んでみたりと、忙しない。

「以前、お宅にお伺いしたときに、奥さんが勝手口でぼーっと座ってらしたことがあって」
「はあ」
「どうしたのかと訊くと、どうにも貴方に声をかけられないんだと言うんです」
「…」
「貴方が必死で漫画を描いている後姿に、感動して声がかけられなかったそうです」

そんなことがあったとは、全く知らなかった茂である。
こと、鬼太郎に取り掛かった当初はとにかく夢中で、
そう言われてみれば、布美枝と交わした会話はこれっぽっちも記憶がない。
それほどまでにのめり込んでいたのだなと、我ながら驚いた。
と同時に、その当時はそれだけ彼女のことを、ないがしろにしていたのだな、とも思った。

戌井はその時のことを思い起こしているのか、感慨深くため息を吐く。

「あんなに一生懸命描いているものが、人の心を打たないわけはないって、そう言ってました。
だから貴方がお義父さんにあんな言われ方をするのが、本当に我慢ならなかったんですね」

照れくささに、茂は苦笑して頭を掻いた。

「お義父さんには申し訳ないですけど、貴方のことを『本物の漫画家だ』って奥さんが言い切ったとき、
僕ぁ全身が震えて最高に気持ちが良かった!」

戌井は勢いづいて茂の手をぐっと握り締め、

「僕も自信を持って言えますよ!貴方は本物の漫画家だ!今にきっと、世の中は水木しげるに追いつきます!」

叫びに近い声で訴えながら、本当に身体を震わせている戌井を、茂は何とも言えない思いで見つめた。

今日の布美枝の言葉には、戌井以上に茂自身が、整理しきれないほどの万感の心情を抱え込んでいた。
その所為かどうか、茂の右腕はあれからずっと疼いている。
あの時、茂の傍らに立った布美枝が、ぐっと掴んできた右腕。
震えて、縋るように、しかしその横顔は凛として父を鋭く見つめ上げていた。
今にも泣きそうな表情のくせに、ぐっと押し込んだ涙声を張って言った。

『うちの人は、本物の漫画家ですけん!』

瞬間、寒くもないのに鳥肌が立った。
些細な喧嘩だって幾度かしたけれど、布美枝のあんな大声を聴いたのは初めてだった。
恐らくはその父も、初体験だったのだろう。呆然とした表情が今も忘れられない。
けれど、茂は決して布美枝の大声に驚いたのではない。
自分自身の持つ信念が故に、満足な暮らしもさせてやれずに、
あまつさえ時折、布美枝をも遠ざけてしまうような、野暮で我侭で無愛想な男に、
それでも迷うことなく我が傍らに立ってくれたことそれ自体が驚きであり、
掴まれた右腕から伝わる体温が、熱く胸の内を占拠していくのに、戸惑いもしたのだった。

― ― ―

ゆっくりと帰ってきたつもりだったが、まだ布美枝は戻っていないようだった。
今やもうその主は布美枝となっているこの居間兼、台所は、がらんとした寂しさを茂に訴えかけていた。
ぼんやりと、見るともなしにそこを眺めてから、視線を仕事部屋へ移す。
ごちゃごちゃと色々なものが拡がっている中にも、ふと布美枝の小さな気配を感じた。

黄ばんでいたカーテンは、布美枝の手入れにより本来の涼やかな色合いを取り戻し、ひらりと風に揺れ、
本棚の本は埃ひとつ被っておらず、整然と並んでいる。
茂の隣の作業机は、きちんとした彼女らしく、絵筆が歪みなく整列して待機しており、
その左斜め前には、茂がプレゼントした「墓場鬼太郎」の第一巻が、まるで供え物のように大事に置かれてあった。

日々の役に立つものでもない、彼女を着飾るものでもない、気味の悪いその怪奇漫画を、
隠れるようにして見開いてみては、にまりと笑って慌てて閉じる。
手伝ったくせに、中身は怖くて見られないと言いながら、最初の1ページ目だけは
大事そうになぞる姿を、実は茂は何度も目撃している。それを思い出して、くすりと笑った。
家計簿を前に難しい顔で腕を組む様子も、十八番の歌を口ずさみながら洗濯物を干す光景も、
目を閉じればすぐそこに、簡単に再現できるほどに鮮やかだ。
作業机に向かう懸命な横顔や、ふと顔を上げ、目が合った時に崩す相好の柔らかさ。
長い黒髪を梳かす、どこか妖しい美しさを醸す後ろ姿も、触れれば途端に桜色に染まる頬も…。
この家、この部屋、この傍らには、絶えず温かさがひっそりと佇んでくれている。

『うちの人が精魂込めて描いとるとこ、いっちばん近くで見とるんですけん』

布美枝の声が脳裏をよぎり、茂はぱっと目を開いた。
その「閃き」に、やや驚き、一瞬戸惑い、しかしすぐに悟了した。
独りで漫画を描いていた頃とは違うのだ。
事実上の手伝いをしてもらっているという意味ではなく、
今や茂は布美枝とふたりで、物語を紡ぎ、熟考を重ね、日々を描きだしているのだということに。

――― 今さらながら、ようやく気づいた。

「ただいま戻りました」

玄関から聴こえた声に、早くも懐かしさを覚える。
振り返ると、風呂敷包みを抱えた布美枝が、にこやかな微笑で居間に現れた。

「すみません、遅くなって。父を送ったあと、またこみち書房に寄ってたんです」

風呂敷を茂に掲げて「これ」と、目をきらきらさせて言う。

「お礼を言いに行ったのに、逆にお土産いただいちゃって。美智子さんお手製のポテトサラダ。
美味しいですよ〜。すぐに食事の支度しますけん」

わくわくしながら包みを解く後ろ姿から、十八番の歌が聴こえる。茂は目を細めた。

「埴生の宿も、我が宿…たまのよそおい…うらやまじ」

(埴生の宿…か)

おんぼろの我が家でも、この家が一番。どんな着飾った家も羨ましくない。
確かにな、と茂は思う。
布美枝がいるだけで、そこが最高の家になる。

ふわりと、後ろから布美枝の細い腰に右腕を絡ませ、肩に頭を埋めた。

「えっ…」

ぴたりと止まった歌声と、かちっと固まった身体。
思い切り動揺が伝わったところへ、茂はくすくすと苦笑った。

「ぁ…の…?」
「腹減って死にそうだわ。鼻歌もええが、手を動かせ」

斜め後ろから布美枝の顔を横目で意地悪そうに見つめ、にやりと笑う。

「も、もぅっ…!」

既に真っ赤になっているその頬を、後ろから廻した手でうにうにと挟みこむ。尖らせた口が尚更タコ形になる。

「おお、タコが茹で上がっとる」
「もう!邪魔せんで!ご飯作りませんよ!」

ぶんぶんと振り回してくる布美枝の腕を避けながら、茂は腹を抱えて笑った。
嗚呼本当に歌の通りだなと、しみじみ思いながら。

― ― ―

目を閉じればそこには闇しかないのに、口づけるふたりは何故そうするのか。
互いの唇の温かな感触さえあれば、闇に堕ちても恐怖はない。
それを確かめるためなのかも知れないな。
と、布美枝の唇の柔らかさに吸いつき、酔いしれながら、茂はぼんやりと考えた。
布美枝を両脚の間に抱えるようにして座り、右手の親指で頬をなぞる。
しばらくそのまま何も語らず、妻の輪郭を味わうように見つめていた。
そわそわと落ち着きなく行く先が定まらない瞳を、小さく食いしばる紅い唇を、
月の光を湛えた滑らかな肌を、艶やかにしだれる豊かな黒髪を。
本当に昼間、父に鋭く向かって行ったあの女と、同一人物なのだろうかと疑ってしまうほどに、
今はもじもじと、夫からの次の愛撫を待って、静かにその胸を焦がしている。

が、さすがにいつまでもじろじろと見つめてくることに訝しがって、

「どげしたん、ですか…?」

小首を傾げておそるおそる訊ねられた。

「ん?別に」

本当に、別段意味はない。ただ見ていたいだけだった。
いつもなら、貪るように全てを奪い取り、性急に快感を求めて繋がり合うのに、
今夜はなんだか、そんなせっかちは不要な気がしていた。
緩やかに流れる静かな夜に、ただひたすら愛しい女を見ていたかった。
昼間味わった温かな余韻に、ずっと浸っていたかったのだ。

「…そ、そげにじっと見られたら…穴が開いてしまいます」
「…それは困るな」

小さく笑って、ゆっくりと抱き寄せる。布美枝も、安堵したようにその身をもたせかけた。
肩に顎を乗せ、洗いたての髪の香りに鼻をひくつかせる。
その芳しさを肺に送ってから、浄化された息を深く吐いた。

「疲れとられるんですか…?」

大きなため息を気遣って、遠慮がちな声。
今まさに腕の中に在る愛しい温もりに、「いや…」と小さく答えた。

布美枝の背中を擦りながら眺めていると、ふと源兵衛のことを思い出した。

「…親父さん、あれからどげだった」

不思議と源兵衛の顔は、睨み上げられたときのものより、帰り際の寂寞な表情ばかりが浮かぶ。

「はい、まぁ…頑張れよとか、色々…」

父娘の会話はおそらくもっと深かったのだろうが、
あえて多くを語ろうとしない布美枝から、茂も無理矢理訊きだそうとは思わなかった。

「…今日はすみませんでした。父が…あげな言い方…」
「何を言っとる。その倍ぐらい言い返しとったくせに」

はっとして布美枝は、茂の腕の中で俯いた。尖らせた口先と赤らめた頬に和む。

「だって…貴方が何も言わんのですもん…。頭まで下げて…」
「誤解というても、結果的には騙すようなことしたんだけん。そりゃあ怒鳴られて当たり前だわ」

その言葉に布美枝は、悲しそうな目で茂を見上げる。

「弁解ならあんたがしてくれた。あれで十分でねか」

十分どころか、込み上げる思いは胸の中をいっぱいにして溢れんばかりだ。
茂はぎゅっと腕に力を込めて、今ひとたび布美枝を強く自分の胸に押し込めた。

「…それにしても正直ちょっこし驚いた」
「え?」

胸の中で、布美枝が小さく首を傾げる動作に、少しだけ腕の力を弛めて。

「あんたのあげな大声、初めて聞いた」
「そ、そげに大声でしたか?」
「親父さんに喰ってかかるのもな。あんたは親父さんには逆らわん人だと思っとったけん」

すると布美枝は一瞬きょとんとして茂を見上げ、それからぷっと頬を膨らませた。

「当たり前じゃないですか」
「ん?」
「貴方のことを悪く言われたら、相手が誰だってあたしは怒りますよ。
貴方だって、尊敬しとる人が目の前で罵られとったら、じっとしておれんでしょう?」

茂の寝間着の胸元を掴み、どことなくいじけたような口調だ。
子ども染みた布美枝の顔に、茂は軽く笑いながら諌める。

「尊敬?俺のことか?」
「そげです」
「なら親父さんはどげすーだ。俺がもしあんたの親父さんに罵詈雑言浴びせることでもあったらどっちに就く?」
「む…」

からかい半分で笑う茂を、布美枝は恨めしそうに睨む。

「頼もしいのは有難いことだがな、あの人との30年はそげに軽いもんではないだろう」

口を噤んだ布美枝に目を細め、あえて悪戯を仕掛けるように、軽く頬を抓る。
当然、布美枝は一段と拗ねて乱暴に茂の手を解いた。

「あんたはやっぱりあの人の娘だわ。律儀者で、ちょっこし頑固だ。けど、ぼんやりしとるところは、はて…」

柔和な笑顔はミヤコを思い出すけれど、茂もさほど飯田家の面々に詳しいわけではない。
ふむふむと天井を見上げながら顎を擦っていると、胸のあたりからぼそっと低い声がした。

「貴方は何も解っとらん…」
「ん?」

への字口のまま目だけを持ち上げ、布美枝は静かな低音で呟く。

「あたしは…飯田の娘じゃないですよ…」
「え?」

逸らした瞳に滲む、どこか悔しげな気配に、不意をつかれてどきりとする。
じわじわと湧き上がってくる奇妙な疼きに、背筋が冷えてきた。
これまでの経験からすると、こんな表情のときの布美枝に囚われると、やっかいだ。
朱色の肌に、潤う唇からぶつぶつと「いじわる…」と、茂への抗議が洩れる。
伏し目がちの瞳からは今にも、「分からず屋」と責める声が聴こえてきそうだ。
布美枝は再び口を尖らせて茂を見上げ、もごもごと…。

「…あたしは貴方の…村井茂の女房なんだけん…」
「――――………」

しまった―――と茂は思った。が、思ったときには既に、
堰を切る勢いの独占欲が、一挙に理性の堤防を越えようとしていた。

思えば無意識のうちに、源兵衛を持ち出して探りを入れようとしていたのかも知れない。
昼間の言動に揺るぎがないのか。あのとき、横に立つべき相手が自分で良かったのか。
安来での30年と、東京での半年余りを天秤にかけて、布美枝を試そうとした。
つくづく幼稚だな、と自己嫌悪する。下手な策略など練る必要はなかったのに。
思いも寄らない言葉は引き出せたけれど、苦手なあの眼のおまけつきだった。

布美枝の目玉は、ときにその口よりも雄弁に茂への情熱を語る。
一心にただ、茂だけに向けられた熱視線がそこにはあって、息苦しくも、計り知れない愛しさを思い知る。
この瞳に突き動かされる。それはいつも決定的に茂の胸の内を掴み取って締め上げる。
今夜は本当に、ただその顔を愛でているだけで満足すると思っていたのに…。
茂の欲情を焙り出す、妙な色に光る布美枝の瞳は、重い罪に値する。

親指と人差し指で、俯いたままの布美枝の顎を掬い上げ、窄めたままの唇をなぞる。
彼女自身も、ぼやいた台詞が気恥ずかしかったのか、唇を滑る茂の指に身を竦める。
拗ねて見上げられる表情が堪らず、壊れ物に触れるかのようにして、そっと柔らかさを重ね合わせた。
触れる角度を変え、交差させながら、半開きの唇から舌を滑り込ませる。

「ん…、…っ」

布美枝が息を洩らす。茂の肩に縋る手が戸惑っている。
息を切らせて唇を離すと、熱っぽい表情が茂を窺い、それがまた本人の知らないところで茂を扇情する。

(頼むから…)

「煽るな」
「…ぇ?…??」

上気した表情のまま、茂の言葉に眉尻を下げてためらう挙動。

「…だらず」
「ふ…」

再び口づける。こじ開けて舌を挿し入れる。
絡めながら唾液を交換し、布美枝の味を確かめ、その口腔を彷徨う。

(本当に…性質の悪い…)

心の中で苦笑った。

首筋に吸い付きながら、ゆっくりと褥に横たわる。
従順に目を閉じ、茂からの愛撫を待つその姿に、なおいっそう欲情する。
『貴方の女房』だ、などと言わせておいて、素知らぬふりで居られるわけがない。
布美枝の所為にするのは責任転嫁なのかも知れないけれど、
彼女が無意識に執るひとつひとつの所作はいちいち、茂の性感に直結して刺激する。
余韻に浸って静かに過ごそうとする夜にも、本能を目覚めさせられればブレーキは効きづらい。
所詮は獣の成れの果てなれば、妻を恋しさあまりにその身体を求めてしまうのは、
夫なる者の避けられない宿命と言い訳しておこうか…。

帯を解くと、すぐさまふるっと揺れて、露わになる、白い乳房と先端に実るふたつの薔薇色の実。
つんと反った形のよい乳房を、手にすっぽりと収め、揉みしだく。
その柔らかさを思う存分愉しんでいると、やがて布美枝の喉から遠慮がちな吐息が洩れだした。
熟した実の形を舌でなぞり、尖り始めたところへ甘く咬みつく。
ぴくっと撥ねた身体を諌めるように、舌の腹で絡めとって舐る。
背を仰け反らせて、まるで捧げ物のように胸を差し出され、もう一方の乳首にも同じ愛撫を施した。

「ぁっ…んっ…あ…」

貞淑な布美枝の本性を剥いていくことは、大袈裟に言えば茂の嗜虐的な側面かも知れない。
しかしそれに気づいているのかいないのか、抵抗しながらも布美枝は、妖しく美しく淫れていく。

浮き上がった鎖骨に沿い、唇を落としてくすぐる。そこらじゅうに口づけ、紅の痕を刻印した。
すい、と布美枝の細い指に頬を挟まれ頭を上げると、
火照った顔で物言いたげに見つめられ、誘われるままに唇へ辿り着く。
熱く深く混ざり合いながら、耳にも齧り付き、淫猥たっぷりの吐息を吹き込む。

「ん、っ…は…ん」

身体を捩りながら、それでも縋り付いてくる腕に、力が篭ってくるのが分かる。

「…ちょっこし、苦しいな」
「…え、あ、す、すんませんっ…」

茂の声に、布美枝は慌てて両手を離した。申し訳なさそうに身体を縮こめる。
その様子に茂はくっくっと笑い、「嘘だ」にんまりして言った。

「もうっ」
「けどな、そげにしがみつかれとると、あんたの裸がよう見えん」
「えっ…」

薄暗い中でも、布美枝の頬はきっと朱くなっているのだろう。そう思うとまた笑えてくる。

「み、見ても面白いもんじゃないでしょう」
「面白いというよりは…」

胸の前で腕を交差させ、いつの間にか身体を隠すような態勢を取っていた布美枝に、
再び唇を落としながら、ゆっくりと組んでいた腕を解かせる。
乳房に吸い付きながら、右手を腰から尻へ下降させて、すりすりと撫でた。

「ん…」
「興味深いに近いな。同じ人間だのに、なしてこげに柔いのか」
「そ…げ、なら…そっち、だって…」

愛撫の心地よさにうっとりしながら、布美枝が茂の髪に手櫛をかける。

「なしてそげに…分厚くて、堅くて…強いのか…不思議」
「ふむ。そげなもんかな」

少しおどけた風に言ったのは、茂もやや照れくさかったからで。
布美枝にさらりと髪を撫でられながら、はにかんで彼女を見下ろしていた。

「あたしも…」

しばらく見つめ合って、時折口づけて、そんなやりとりをしていると、ふいに布美枝がぽつりと言った。

「見たい…です。貴方の…身体。ええ、です、か…?」

もう寝間着など、何処へ行ってしまったかわからなくなっている布美枝に対して、
茂の服はかろうじてぐしゃぐしゃとまだ身体にまとわりついている。

「ああ…ええよ」

静かに答えると、布美枝の腕を引っ張り、上半身を起こしてやった。
向かい合わせに座り、改めて茂も布美枝の素肌を見渡す。
細く白い輪郭は、闇にぼんやりと浮かんで、妖艶な光を放っているようにも見えた。
肩から流れ落ちる長い髪を避けて、布美枝の額や頬に口寄せた。
布美枝も、茂の首に廻してあった手をそろそろと降ろし、
寝間着の中へ滑り込ませると、優しく着物を肌蹴させていった。
厚い胸板が露わになると、うっとりと舐めるように見つめ、掌でそっと撫でる。
そこから肩へ手を移動させ、左手は茂の右の二の腕を擦り、右手は左の肩先でぴたりと留めた。

「…普通の男にはそこに左腕というもんがある」

わざと冗談めいて茂は言った。
布美枝はにこっと微笑むと、慈しむように左の空間をいつまでも見つめていた。
腕を失くしたことを、悔やんだりしたことはない。したところでどうにもならない。
けれど、もし両腕があったとしたら、どれほど強く、この妻を抱きしめられるだろうと想像することはあった。
それこそ骨が軋むほどに…。
すると布美枝が、ゆっくりと左肩から視線を持ち上げ、茂を仰いだ。

「あたしは…左腕のない男の人しか知りません」
「…」
「貴方だけが、あたしの知っとる…全部ですけん」

そして、茂の首筋へ潜り、軽い口づけをあちこちに落としていく。
さり気なく体重をかけ、布美枝が茂に覆いかぶさって愛撫を始めた。

顎に吸い付くこそばゆさに目を細めていると、布美枝の右手が脚の付け根をうろつき始めたことに気づく。
細い指が、躊躇しながら起立した竿を滑る。指先で先端を突き、割れ目を確認するように指で捏ねた。
布美枝を窺うと、恥ずかしそうに茂を見る目が「これでいいのか」と訊ねているようで。
茂は苦笑して、小さく頷いてやった。布美枝の表情がふっと緩む。
やがて、肌着の中で窮屈に収まっていた硬直は解放され、根元から包み込まれて扱かれる。
包む掌から緊張が伝わる。それなのに、なお下降していこうとする布美枝に、

「…待て」

と、小さく制した。

「…あ…ぇっと…」

咎められたと思ったのか、泣きそうな表情で布美枝が顔を上げる。

「ちょっこし後ろ向いてみ」
「…え?」

戸惑う布美枝の手を取り、後ろを向かせる。

「跨れ」
「え?どうする…」
「ほれ、早く」

背を向けたまま、おそるおそる跨ってくる布美枝の腰を掴み、秘部へ指を滑り込ませた。

「えっ…?!」

がくっと力を失った布美枝が、茂の上でうつ伏せる。
自然と臀部が茂の顔へ向き、布美枝の眼前には茂の男根がそそり立つ。

「ぃやっ…こ、こげな…」

羞恥に慌てる布美枝の腰を掴み、淫らな液に濡れて光るその場所へ舌を伸ばした。

「あっ…!…っ…ん…」

快感にひくひくと揺れる入り口へ、指を挿し込む。ぬぷ、と音がして呑みこまれる。
きゅうっと締めつけられるのを感じながら、今度は少し尖らせた舌で潜り込んだ。

「はぅ…んんっ…ゃ…ぁぁ…」

たらたらと零れ落ちていく雫を、余すことなく啜りとって、舌の腹で一帯を舐めまわした。
指で花びらを掻き分け、隠されていた核芯を剥いて摘む。
舐めとったばかりの泉から、再び水が沸き出してくる。

するとようやく状況を理解したのか、はたまたそれ故に理性を狂わされたのか、
今度は布美枝が茂の屹立を掴み、ぱくりと口に含んだ。
口腔の温もりに、逆に寒気が茂の背筋を襲う。
棒飴を舐めるように、淫らな音を立てて上から下へと舌で犯される。
一瞬布美枝への愛撫を忘れて、快感に目を閉じた。
獣のような息遣いと、卑猥な水音に部屋は包まれて、それが互いの興奮に拍車をかける。
先端を含んで、先走りを吸い込まれれば、お返しとばかりに熟んだ花芽を舌で突いた。

「ひ…!」

喘ぎが悲鳴に近い。ぜえぜえと切らす息が、また妄りな欲を一層掻きたてる。

「あ…ふ、…っ…んっ…、は、は、…っ」

上下に扱かれ、先端には舌が割り込もうとし、布美枝の愛撫は激しさを増す。
指と舌で弄り、枯れることのない泉を求める茂の攻めも止まない。
与える快感に悦び、与えられる快感に溺れる。
互いの性感帯を直接貪り、熱にうなされているような狂おしさが続いた。

やがて。

「んんっ…!」

ひときわ布美枝が背を仰け反らせ、がくがくと身体を震わせた。
頂点に達した瞬間を確信した茂は、するりと布美枝の下から身体を抜いて、
勢いそのままに、背後から布美枝の中心を貫いた。

「あああ……っ!」

褥に顔を擦りつけ、布美枝のくぐもった叫びがそこへ吸収されていく。
熱の篭った胎内に一瞬慄き、じっくりと遣り過ごす。
その間も内襞にじりじりと噛み締められていく。

ゆっくりと腰を引き、鞘から粘ついた己を引き出す。そしてまた挿し込む。

「ん、あ…っっ…!」

敷き布を握り締める布美枝の指が、折れてしまうのではないかと思うほど、しなるのが見えた。
今一度律動を与えると、髪を振り乱して背を丸める。
天使の羽のように映える肩甲骨に口づけ、かぷりと咬みつく。

「ぁ…んっ」

身体を支えていた腕が力を失って堕ちてゆき、反対に臀部が持ち上げられる。
いずれのものとも知れない愛液が、布美枝の尻から、茂の太腿にも伝う。
布美枝の右の腰骨に手を置き、肉のぶつかる小気味よい音を何度も繰り返した。

抜き挿しに合わせて、布美枝が腰を揺すってくるのが判る。もっと高みへ自ら昇りつめるかのように。
襞が絡みつく。中で生き物のように蠢いている。茂の動きに合わせて付いてくる。

「あ、あっ、あ、あ、…っん、は、あ、あ…」

揺するたびに揚がる嬌声を、目を閉じて聴く。
搾り取られていく感覚に、いつまでもは抗えなかった。
最後の瞬間を間近に感じ、茂は一層動きを速めた。
早くあの例えようのない快感が欲しいと思った。けれど、もっとずっと繋がっていたいとも思った。
息が薄くなって、意識もやや遠のいていく感覚がした。けれど、布美枝の熱だけはしっかりと感じていた。
揺れる黒髪、白い背中、紅色の頬と、絹の声…。どんどんと離れていく。必死で追いかける。

やがて薄靄の向こうで、弾けていく白い精を意識した。同時に急激に堕ちていく感覚に襲われる。
へなへなと突っ伏していく布美枝の後姿を視界の端に捉えながら、
次の瞬間には、目の前が真っ白になっていた…。

― ― ―

「…そろそろ起きてください?もう昼前ですよ」

耳元で囁かれる優しい声。声の主は仙女か、天女か…。
むにゃむにゃと寝返りながら、その動線に沿って、傍らに座り込んでいた女神を巻き込んだ。

「きゃ!」

ふわっと香ったいつもの芳しさに満足して、また深く眠りに堕ち込んでいこうとする。

結局昨夜はあのまま眠ってしまったようだ。窓から差し込む眩しい光に、目がしばしばする。

「お、き、てっ!…くださいぃ〜〜」

腕の中で布美枝がじたばたする。寝ぼけていても、片腕でも、決して負ける気がしないのは、
あんたが細すぎるからだと、腹の中で笑ってやった。

「中森さんがもうすぐ炊事の水汲みに降りて来ますよっ」
「…んー…まあ、もつれ合っとったら気を利かすだろう」
「もうっ!いけんっ、離してくださいっ」
「…あんたが素直なのは夜の閨の中だけなんだなぁ…」
「っもぅ〜〜〜…」

その言葉にしばし大人しくなった布美枝だったが、茂が油断した隙に、その細身を活かしてするりと抜け出した。
名残惜しく思いつつ、仕方なくもぞもぞと起きだして、ぼさぼさの頭のままちゃぶ台に向かった。

ふと、台の上に置かれた葉書が2枚、目に留まる。
ひらりと手に取ってみると、1枚は境港宛て。毎度のごとく、イカルへの近況報告だ。
もう1枚は、安来宛てのようだった。
父に対する改めての謝罪と、手土産の礼が書かれてあった。
『蜂蜜は茂さんに見つかるとすぐに無くなってしまうので、暫く隠しておくことにしました』

(…このやろ)

食事の支度をする布美枝の後姿を、軽く睨み上げた。

『粗雑なところをお見せしましたこと、お恥ずかしい限りにて。ですが、夫婦ふたり何とかやっておりますので、
今後とも何卒宜しく御願い申し上げます。これからの時節柄、お身体ご自愛下さいますよう。…』

達筆に目を泳がせてから、茂は布美枝に気づかれないよう、そっと葉書を伏せた。

やがてまた茂の脳裏に、あの複雑な表情の源兵衛がよぎる。
そもそも茂が布美枝を娶ったことは、義父にしてみれば、たった5日で大事な娘をさらわれたようなものではないか。
そして次に会った時には、その娘は他所の男の妻となってしまっていた。
随分酷なことをしてしまったかも知れないな、と少々胸が痛んだ。
と同時に、ふと考える。娘を見ず知らずの男に嫁がせる父の気持ちとはどのようなものなのだろう。
どうにも座り心地の悪いものだろうな、という想像だけだ。なにせ娘どころか子どもさえ居ないのだから。
けれどもし、自分が父になる日が来るのだとしたら…。

(娘を持つとしんどいのかも知れん…)

八割がた真剣に、しかしあとの二割でやや気恥ずかしくなって、すぐに考えるのはやめた。

結局、遅い朝食兼、早い昼食をとりながら、布美枝がぶつぶつと愚痴めく。

「朝ごはんか昼ごはんか、わからんじゃないですか」
「2食のところが1食で済んどると思えばええじゃないか」
「その分、貴方は量を食べるから結局同じです」
「お、言うたな」
「言わんと付いていけません」

つん、と顔を向こうにやって味噌汁を啜る姿に、茂は思わず苦笑した。
すると布美枝も、ふふ、と笑ってその場が和む。

こうして日常は廻っていくのだな、と茂は思う。小さな家の、ふたりだけの生活。
その営みはときに穏やかに、ときに情熱的に。
妻が夫を想い、夫が妻を想う、夫婦というありふれたようで、奇跡的な絆に結び付けられた日々。






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