村井茂×村井布美枝
秋の乾いた空の下。散歩に行く夫をきちんと見送ることもできず、 洗濯物を干しながら、布美枝は後悔していた。 (なんであげなこと言ったんだろう) 昨夜の、初めての本格的な夫婦喧嘩。きっかけは些細な会話だった。 実家から父が上京してくるということで、夫の茂と話していた時だ。 『いつまでも、体裁繕ってはおられんけん』 茂の言葉が、妙に癇に障った。体裁を繕っていたわけではないのに。 自分達は順調にやっているのだと親に心配かけまいとする気遣いを 曲解されたようで、ついつっかかっていってしまった。――――――親友の チヨ子に、まさにその日つまらない見栄をはった自分を棚に上げて。 挙句、夫が義父にキャンディーを送ったことまで持ち出す始末だ。もっとも これは、先日の夫の散財がよほど頭に残っていたのかもしれないが。 (私だってチヨちゃんに、自分じゃ買わないお菓子、持たせたりしたくせに……) 時間が経つほどに後悔は膨らんでいく。やはり謝るべきなのだろうか。 でも、今更どんな風に切り出せば?それに、茂に以前からの散財癖があるのは 事実なのに、その点までこちらから折れた形になるのは大いに困る。 葛藤のため息をつく布美枝の耳に、家の前から耳慣れた声が飛び込んだ。 数十分後。 茂が受けた貸本屋の女主人からの頼みごとにより、布美枝は、ガリ版の インクをローラーで伸ばしていた。 「これ頼む」「はい」 茂が作った原本の紙をごく自然に受け取り、普通に喋ることができるのが とても嬉しかった。仲直りなんて難しく考えなくてもいいのかもしれないな、と ひとつ学べた気分で渡された紙の文面を眺める。 思わず笑ってしまった。 『調布の星』の文句に布美枝が笑ってしまったのがやはり良くなかったらしい。 茂が、原本を直したいと言って手を伸ばしてきた。 「ええですって。早こと刷って届けんといけんのですけん」 「…そげか」 それもそうかという風に茂がしぶしぶ頷いた次の瞬間、またも噴き出して しまった。 「だらっ、笑うんなら返せっ」 「宣伝ですけん?」 「いいから戻……」 や、と布美枝は紙を奪われまいととっさに体を捻る。茂が身を乗り出してきた。 「あ、ちょっ……」 「お」 「破れっ、やぶ…」 「このっ」 「あー!あー!」 半透明の紙が茂と布美枝の頭上でぴらぴらと舞う。茂が、冗談を通り越して 半分本気で奪い取ろうとしているのを感じとり、布美枝も負けじとムキになって 体を反らした。 (あ、危な……) 「よこせっ……!」 茂の右手が勢いよく伸ばされた瞬間、布美枝は持っていた紙を右手から左手に 移した。それが茂にとってフェイントのような形になった。 前のめりになった茂が手で空を掻く。 「うわっ」 「ひゃっ……!?」 バランスを崩され、茂はとっさに畳に手を付こうとした。―――――が、 間に合わなかった。 そのまま布美枝の方にもたれこまれると、とても男の体重を支えきれない。 ドサリと二人折り重なって倒れこんだ。 「……すまん」 仰向けになった布美枝の肩口で、くぐもった声が聞こえた。目の前に茂の つむじが見えた。 はっと我にかえった。左腕のない夫には 倒れたときに反射的にとる受け身がとり辛いのではないか。今のでどこか 打ったりひねったりしていないだろうか。ついムキになっていた自分を恥じた。 「す、すんません、ふざけすぎて。怪我は…」 ないですか、と訊こうとした布美枝の体の上で、茂がむくりと起き上がった。 「あ、いや…」 その右手が、布美枝の左の乳房を掴んでいた。 「あ、あなた」 先に気付いたのは布美枝の方だった。 「ん?」 茂が、何か言いたそうな真っ赤な顔の妻の、その視線の先を追いかける。 倒れた際にとっさに目の前のそれを掴んでしまったのだろう。 「………あ」 やっと夫も気付いたようだ。 「け、怪我はなくて、良かった」 胸を触られて動揺するなんて、夫婦の間では今更すぎるとわかっている。 けれど、いや、だからこそというべきか、二人重なったこの体勢は 布美枝に夫婦の夜を連想させた。事故なのに意識している自分が恥ずかしい。 『恥ずかしい』を燃料にして頭の中でぐるぐると熱が生まれる。 ひとりのぼせ上がった布美枝の胸の上を、かっぽう着越しに 茂の手が移動した。 「あなた…?」 いつまでも自分の上からどかない茂のその動きに、そこで初めて 布美枝は不穏な気配を感じた。 「そういやあんたとは、喧嘩しとる最中だったな」 「え…」 今それを持ち出すのか、とギクリとした。確かに昨夜の言い争いから ろくに口をきいていなかったし、内心その気まずさに音を上げそうだった。 しかし、美智子や戌井が村井家を訪問してきた後は何となくその気まずさも 消えてしまったのだと思っていた。うやむやな決着だけれど、これはこれで 穏便に終わって良かったのかもしれないと。 それなのに茂がまた蒸し返してきた意図が掴めないのと、密着している この体勢も相まって、再び焦ってきた。 「け、喧嘩ってほどでもないですけど、あ、ほんとは喧嘩だったのかもしれん けど、私もちょっこしいらんこと言っちょったし…あ、でもやっぱり、キャン… キャンディーとかはっ」 自分でも整理できないまま言葉を繰り出す布美枝の唇が、茂の指に ぎゅ、とつままれた。 「んむ…?」 「もうええ」 つまんだ指の力を緩めた夫の声音は穏やかだった。 「俺も、キャンディーはちょっこし奮発しすぎたかもしれんしな」 布美枝からしてみれば、全然『ちょっこし』『かもしれん』ではないと 言いたかったが、せっかく謝ってくれているのだからこの際素直に 聞いておくべきだろう。喧嘩のそもそもの原因は義父にキャンディーを 送ったことではなかった気がするが、昨晩の気まずい空気を引きずるのは もう嫌だった。そして、相手に下手に出られると、こちらも神妙になってしまう のが情というものだ。 「そんな、私こそ…」 「だけん」 布美枝の詫びの台詞を、やけにきっぱりとした茂の声がさえぎった。 「仲直りするか」 「え?」 まさに今その仲直りをしている最中ではないか、夫は何を 言っているのだ―――――と怪訝に思った次の瞬間、唐突に布美枝は その『仲直り』の意味を理解した。普段、ぼんやりしていると他人から よく言われる布美枝だが、真上にいる夫の悪戯めいた瞳と、さっそく 自分の身体をまさぐる不埒な右手を見れば、さすがに嫌でも察する。 「な、何考えとるんですか」 「だから、仲直りを」 「こんな昼間っから、な…」 「夕べの替わりだけん」 頬がさあっと熱くなる。 「そげなことええからっ、は、早くどいてください!こげなとこ誰かに見られたら… 中森さんだって降りてくるかも…」 「あの人は今日おらんよ。出版社周りに行っとる」 ここは毅然とした態度をとらねばならない。布美枝は声を張った。 「私、急いでチラシ刷って美智子さんの所に届けんといけんのですよ!? ふざけとる時間ないんですけん!早…」 「ほんなら、早こと済ますか」 喋っている間に、茂の手がスカートの中に侵入してきた。 「!」 身をよじって逃げようとするが、上半身は茂の胸でびったりと固定され、 左脚は右手で捕まえられている。 「ちょっ…」 その右手が太腿をすべり、脚の間を目指す。 「…ほんとに、やめ…」 腿の内側のその奥を茂の指が掠めた。 「やっ!!」 勢いよくばふっと脚を閉じた時には既に遅く、茂の手を腿に挟んでしまった。 「なんだ」 茂が嬉しそうに笑った。 「濡れとるじゃないか」 「〜〜っ…!」 行為の淫らさに反して、それはまったく邪気のない笑みだった。 (ひどい) 喧嘩をしていた期間は丸一日にも満たなかったが、茂の〆切りやら 月の障りやらで、夫婦の行為に至るのは実は久しぶりだった。 予期せぬとはいえこうやって組み敷かれれば、身体が反応してしまうのは 仕方がないではないか…心の中で自己弁護する。 反面、口では拒みつつもしっかり感じている自分は、酷くスキモノかも しれないと思うと情けなかった。 日の高いうちからこんなみだらな行為をしようとしているのに、背徳感とかを 夫は感じないのだろうか。 「ええだろ」 …結局、彼には抗えない。 好きなのかもしれない、この夫に性急に求められるのが。彼という気まぐれな 波に翻弄され、流されることを望んでいるのは布美枝自身だった。 閉じた脚の力を緩めて軽く曲げる。それが布美枝からの意思表示だった。 「…すぐ、済ませる」 チラシを届ける為の時間を気にしてというより、茂自身が急いているように 見えた。先ほどまでの余裕ある笑みは消えて早くも少し息が荒い。 実は彼も我慢していたのだとすれば、それはお互い様だ。布美枝の秘所は 既に、慣らす必要がないほど濡れていた。 貞淑ぶってみても、身体はこんなにも正直なのだと我ながらそら恐ろしくなる。 一刻も早く夫を飲み込みたくてだらしなく唾液を垂らしているこの身体は、 自分のものでありながら自分のものではなくなってしまったのだ。 初めて夫に抱かれた、あの夜から。 茂がもどかしそうにスラックスを下にずらした。布美枝も、スカートは着けたまま 腰を浮かせて濡れた下着を下ろした。脱がせられるのを待たずに自らそうする のは初めてだった。開かせた布美枝の脚の間に位置どると、茂が一気に 布美枝の中に入ってきた。 「あ………っん…!」 電流が布美枝の背中から頭の裏側を駆け抜けた。欲しいものが与えられる 喜び。茂が性急に突いて布美枝の入り口と奥を行き来した。 いつもより余裕のないその動きに呼応して、布美枝も自然と腰を動かした。 内側の壁がひくついて茂に絡みつく。 仰向けになった胸はブラジャーの中を泳ぎ、布地を擦った先端が充血して 硬く尖った。その刺激も布美枝を快楽へと導いた。 服を着たまま下半身を繋げているはしたなさも、昼日中から行為に耽っている ことへの罪悪感も、むしろ欲の炎を煽る風に変わる。 (何も、悪くない……なんも) 「あぅ……んっ!あんっ!!」 『仲直り』だと茂は言った。それは行為に及ぶ為の口実と思っていたが、 なるほどこれ以上の仲直りはないと今この時実感する。こうして肌をぴったりと 付けて、温かなもので満たされてしまえば、見栄も、矜持も、熱い息に 溶けて消えてしまう。夫婦だけに許された特権だ。 「―――――――ぐ」 ここで、茂はいったん身体を離すと、布美枝の腰を掴んでうつぶせにさせた。 「あ……?」 「膝。…立ててくれ」 のろのろと言われた通りにすると、ちょうど彼の目の前に裸の尻を突き出す 格好になった。 犬みたい、とちらりと思ったが不思議に抵抗はなかった。 再び侵入してくる茂を、布美枝はなめらかにくるむ。ほら、自分の胎内は こんなにも彼の仕様ではないか。確かめるつもりは一生ないけれど、おそらく この器は、もう夫以外の男性は受け入れないように仕上げられたに違いない。 「ああ…っは…っあ、ふぁ…」 「う……」 動物の交尾さながらの交わりは、いつも以上に本能を呼び覚ましていく。 「あう………っ!!!」 布美枝がばさりと髪の毛を振り乱した。後ろに大きく反り返った瞬間を 追いかけて、茂は素早く布美枝の中から自身を引き抜いた。先から迸るものが 布美枝の白い尻を濡らすと、それは外からの陽光を受けて奇妙に映えた。 布美枝は今度こそ急いでチラシを刷っていた。猫の手も借りたいとは このことだ。茂は呑気に、奇麗にできとるなとかなんとか感想を述べながら ちゃぶ台に肘をついて見物ときている。 「もう、ただでさえ時間ないのに……」 布美枝がぼそっと呟いたのを茂は聞き逃さなかった。 「『ないのに』?昼間っからあんなことしてって?」 わざと言葉尻を拾われたのだ。赤くなっただろう頬を、下を向いて隠した。 「喧嘩の後の仲直りは大事だけん。それに、大して時間くっとらんだろ」 「も…もうええですって」 忙しさを強調する為にことさらせわしなく手を動かす。雰囲気に呑まれた とはいえ、すっかり乱された先ほどの自分を切り離したかった。 ずるいなぁこの人、と内心布美枝は脱力する。こんな仲直りの方法が この世にあるなんて、結婚するまでは考えもつかなかった。また未来に 訪れるかもしれないいくつかの諍いも、今回のように流されて終わるのかも しれない。それでもいいと思ってしまう辺り、だいぶ自分は夫のいい加減さに 毒されてきたような気がする。 (ほんと…ずるい) 自由奔放で、少しええ格好しいで、無駄遣いする夫。それでも、全身全霊で 仕事に打ち込む姿を見ているからこそ何とかして力になりたいと日々願って いるし、太一を貸本屋に足を運ばせるというもう一つの目的はさておき、 こうしてチラシを刷って客を集めて読者の集いを成功させようと奮迅している 自分がいるのだ。 (しょうがないね、大好きな旦那様の為だけん) 「おい、何一人で笑っとる」 「えぇっ!!?」 茂の指摘に、知らず緩んだ頬を無理やり引き締めた。 この時の布美枝は知らなかった。読者の集いを開いたために、結局は 父の源兵衛の不興を買ってしまうこと。父は夫を責め、逆に布美枝は父から 夫を庇い、そしてその姿が父の信頼を勝ち取るという予想外の顛末。 けして完璧ではない茂と布美枝の夫婦が、地域の人々と共に一生懸命 やれることをやっていく。読者の集いという行事が始まろうとしていた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |