村井茂×村井布美枝
![]() その後ろ姿を見て、布美枝は軽く噴き出した。 腹ばいに寝そべり、曲げた両足をそわそわと交差させながら、 頬杖をついた顔は、藍子に喰いつくかのように、その鼻先で微動だにしていなかった。 (子どもみたい…) 抵抗などできるはずもない生まれたばかりの娘は、 ざらざらの無精髭にやや顔をしかめながら、それでも、 眼前の父の温もりと匂いに、安らぎを認めて泣きもせずじっとしている。 「何しとるんですか?」 布美枝の問いかけに頬を緩め、茂は戦時中の話をしてくれた。 「生命の匂いだ」 赤子特有の香りを、茂はそう言った。 ああ、言い得て妙だなと布美枝は思った。 飽きもせず、茂はずっと藍子の香りを嗅いでいる。 時折頬や鼻先を啄ばんで反応を見、くすくすと笑った。 この男がこんなにも、我が子に対して相好を崩して接するとは思いもよらなかった。 妊娠を告げたときのあの素っ気なさを、映写機にでもかけて見せてやりたいと、 少し憎らしく思う程に。 藍子も藍子で、まだ笑うことはできないものの、決して泣き出すことはなく、 不思議そうに茂の眼を見つめ、触れられれば小さく「きゃ」と啼いた。 布美枝はぽつんと座り込んだまま、しばらくふたりの様子を伺っていた。 こうなると妙な気持ちになるもので、知らず知らず「ほう」とため息を吐いたところ。 「なんだ」 茂がひょいと振り返った。 「疲れとるなら寝とってもええぞ」 「いえ…そげでなくて」 「ん?」 何と言えばいいのか、布美枝にも解らなかったけれど。 稚拙な言葉を使うなら… 「…ええなぁ、と思って」 「何が」 「…」 嫉妬、とでも。 尖らせた唇の向こう側に、いささか不服言があるのを見て取った茂が、ぷっと噴き出した。 「拗ねとるのか」 「もうっ」 茂はごろりと仰向けになり、布美枝の膝枕から膨れっ面の頬を軽く捻った。 優しく微笑むその表情は、藍子に向けられていたものとはまた少し違って。 「――― お前は」 一瞬、布美枝の胸がどきっと高鳴った。 ときめいたというよりは、驚いた。 「すぐに妬く」 呟きながら、肩からしだれたまとめ髪を、さらりと撫でられる。 布美枝の鼓動は高鳴ったまま、まるで初めて会った頃のように。 けれど理由は茂の微笑みの所為だけでなく。 「お前」と呼ばれた、初めての声音に戸惑ったからだ。 不快などではなくむしろ、高揚感に逆上せてしまう程だ。 用があるときにでも名前などもってのほかで、茂が布美枝を呼ぶのは常に「あんた」。 他人行儀な気がしなくはない、けれど、男性というのはそういうものかなとずっと思っていた。 けれど「お前」は全然違う。 言うなれば、父、源兵衛が母をそう呼び、兄が邦子をそう呼んでいたように。 特別の、証。 「だら」 布美枝の髪の毛先をくるくると弄び、怒るわけでもなく独りごちた茂に、 ふいに布美枝は口づけた。 衝動は、彼を愛しいと思うたびに、しばしば布美枝の理性を奪って身体を乗っ取る。 けれど茂はたじろぐこともなく、それを受け止め、むしろ利用するように甘い時間を紡ぎ始める。 愉しんでさえいるような、したり顔が憎らしい。 「正月は明後日だ。餅を焼くにはまだ早い。まして自分の娘にはな」 そのからかい口調に、また拗ねてみせると、茂は可笑しそうに小さく肩を震わせた。 そして顎でちょいと合図をしてみせ、布美枝を呼び寄せる。 触れ合う唇からわずかに藍子の香り。 茂が生み出し、布美枝が育んだ生命の香りが。 合わさって、交わし合う、言葉にはならない、最上の睦言。 「…おとうちゃん?」 「ん」 「藍子に見られとるね」 「…ま、それも教育だ」 やっと照れてみせた茂の表情に、ふっと頬が緩む。 不思議顔の藍子にふたりして微笑みかけ、まだ薄い髪を撫でた。 愛しい男の生命を継ぎ、愛しい娘が温かな鼓動を打つ。 どうぞこの時間が、永遠のものでありますようにと、布美枝は誰にともなく祈った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |