二人の道
深沢洋一×加納郁子


「辞めるしかなかったのよ…」

大きな仕事を手掛けることが出来ると期待を膨らませていた、成田出版との合併話を
編集者としての自分の信念と反すると断った深沢に失望して、加納郁子は退職届を出して
嵐星社を去った。その夜郁子は、商社の秘書時代から親しくしている友人を食事に誘った。

「商社を辞めるときはあんなに生き生きとしていたのに、今回は大分悩んだみたいね。
もしかして… その人が好きだったんじゃないの?」

郁子は何も答えずに大きな溜息をついた。

「引き留めてもくれないんだから、もういいのよ。私だって、仕事をして生きていく
覚悟をして辞めたの。両方を手に入れようなんて無理なのよ」
「相変わらず郁子は強いわね」

新しい世界で頑張ってと励ます友人と別れ、郁子は帰る道々、深沢の入院先で初めて
出会ってから、彼の片腕としてゼタで働いていた今日までの日々を思い返していた。

「その人が好きだったんじゃないの?」

友人の声が頭から離れなかったが、今は新しい世界で自分を試したいという気持ちの方が
強かった。

郁子は翌日、ゼタに勤務していた頃から、アルバイトで記事を書いていた雄玄社の
女性誌の編集部に連絡を取り、早速正社員として迎えられることが決まった。
郁子は様々な思いを振り切って仕事に没頭し、ゼタに居た頃とはまた違った充実感を
得るようになっていた。ある日のこと、郁子は編集長から水木プロへの用事を頼まれ
たので、自身の転職の挨拶も兼ねて、調布の水木プロへと出かけて行った。

「水木先生と奥様には、今後ともお世話になりますが宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします。郁子さんは優秀だから、すぐに次の仕事が決まって
よかったですね。深沢さんはこれから大変だと思いますが」

言った後にしまったと思った布美枝だったが、すでにあとの祭りで、気まずい思いで
そっと郁子の顔を窺うように見つめた。

「深沢さんは私を引き留めてくれませんでした。自分から辞めたのに可笑しいと
思われるかもしれませんが、引き留めてくれるのを心のどこかで期待していたのかも
しれませんね」

いつもと変わらず凛とした佇まいの郁子が、少し寂しそうに表情を曇らせた。
すると布美枝が意外なことを言った。

「深沢さんは、本当は合併を断ったことを少し後悔されておられました。大切な人を
失うとわかっていたのに、意地を張ってしまったと。深沢さんも仕事に賭けられる
思いがあるから、郁子さんのお気持ちがわかるのでしょう。だから郁子さんには新しい
世界で存分に仕事をしてもらいたいと、敢えて引き留めなかったのではないでしょうか」

郁子ははっとして布美枝を見つめた。

「そういう大きな愛情もあるのですね。郁子さん…、お辛い思いをされたかも
しれませんが、深沢さんのためにも良い仕事をなさって下さい」
「はい…」

布美枝を見つめる郁子の目には涙が滲んでいた。

それから1年ほどが過ぎて、ある作家の受賞パーティで深沢と郁子は再会した。
大手出版社の酒癖の悪い編集者の1人が、近くにいた顔見知りの深沢に絡んでいた。
大声で騒いでいたので周囲には人が集まってきて、その中には郁子もいたのだが
深沢の姿を見つけると、思わず人々の間を掻き分けて近寄って行った。

「ゼタは相変わらず経営が大変なんだろ? 成田出版との合併話を断るなんて、
お前さんも本当に馬鹿なことをしたもんだ」

何も知らないくせにと郁子は怒りで一杯だったが、深沢は黙って言わせていた。

「時代を見る目がないとは、編集者としての能力も疑問だがね」

へらへらと笑いながら罵る相手に、さすがに深沢の表情も変わった時、
人だかりの中から郁子が走り出てきて、酔った編集者の前に立ちはだかった。

「あなたに何がわかるっていうんですか。深沢さんがどんな思いで雑誌を作っているのか。
深沢さんこそ本物の編集者です。側で見ていた人間には良くわかります」
「加納君…」
「あんたはゼタを辞めた秘書じゃないか? 何で今さら前の上司を庇うんだ? 
まぁそれだけの美人だから、つまりお手付きという訳か」

郁子はあまりの屈辱に怒りで身体が震えたが、下品に笑う相手の顔に乾いた音を
響かせながら深沢の拳が飛んだ。深沢の顔も怒りで真っ青になっていた。

「おい、俺のことはともかく言っていいことと悪いことがある。彼女に謝れ」

編集者の取巻き達が深沢に飛びかかると、深沢も果敢に応戦して乱闘になったが
所詮多勢に無勢で形勢が悪くなると、見かねた周囲の男達が深沢を引き離した。
顔から血を流したまま深沢が会場から出て行くと、続いて郁子も後を追った。

「加納君は会場に戻りなさい。久しぶりに会ったのに嫌な思いをさせて悪かったね」

会場から少し離れた公園で、深沢は水で濡らしたハンカチで顔を押さえながら
自分の後を追ってきた郁子に言った。

「血が出てますからすぐに手当てをしないと。深沢さん、会社に行きましょう」
「自分でやるから大丈夫だよ」
「救急箱がどこにあるかもご存知ないのにどうやって?」

思わず黙ってしまった深沢を促して、二人はそこから歩いてすぐの
嵐星社に行くことにした。

勝手知ったる嵐星社で、郁子はてきぱきと深沢の傷の手当てを終えると、思わず言って
しまった。

「いくら血の気が多いからって、少しはご自分の身体のことも考えて下さい」
「いやぁ、面目ない。参ったな、加納君にはいつまでたっても頭が上がらない」

深沢は苦笑しつつも懐かしそうに郁子を見つめた。

「すみません。元はと言えば私を庇って下さったのに…」
「そんなことは別にいいんだよ。それより雄玄社で元気にやっているようだね」
「はいお陰様で、何とかやっています。あの… 逃げるようにゼタを後にしてしまって
申し訳ありませんでした」
「君には嵐星社を立ち上げてからというもの、資金繰から広告集めまで何でもやって
もらって苦労ばかりかけた。君がいなかったら、僕一人ではとてもここまでやって
こられなかった。君には本当に感謝している。でも知っての通り、赤字だらけで
大事な社員に退職金も払えず済まないことをした。この通りだ」

頭を下げる深沢を慌てて制して、郁子はその言葉だけで充分だと思った。

「正直なことを言うと、最初は心に大きな穴が空いたようでね。つまらない意地なんて
捨てて、君を引き留めればよかったと自分を責めた」
「深沢さん…」
「でもある日、取材中の君を見かけた時、目が回るような忙しさのはずなのに、君は
生き生きと働いて幸せそうだった。ゼタに残っていたら、とてもそんな風には
生きられなかったと思うと、あの時引き留めなくて本当によかった」

郁子は胸が熱くなって、深沢を見つめたまま何も言えなくなっていた。
二人は言葉もなくしばらく見つめ合っていたが、先に深沢が口火を切った。

「今日は会えてよかった。すっかり遅くなってしまって悪かったね。外でタクシーを
拾うから、君はもう帰りなさい。これからもお互い頑張ろうじゃないか」

笑顔で差し出された右手を郁子はじっと見つめていた。

堰を切って溢れ出る想いを抑えきれずに、郁子は深沢の胸に飛び込んだ。

「加納君!」

深沢は動揺を悟られないように、郁子の背中を軽く叩いてなだめたが、郁子は深沢の
首に腕を回し顔を近づけた。美しい唇が間近に迫ると、深沢の鼓動が一層早くなった。

「やめるんだ。こんなことをするなんて君らしくない」

深沢は郁子を傷つけないように優しく諭して、そっと腕を解いたのだが、郁子は
目に涙をいっぱい溜めて深沢を見据えた。

「そうですよね… 私は結局深沢さんを裏切ってしまったのですから。
本当は憎まれても仕方がないのに。馬鹿ですよね、こんなことして…」

郁子は鞄を持つと立ち上がり、深沢の側をすり抜けて帰ろうとしたが、
ドアの前で追いついた深沢に手首を掴まれた。背後から搾り出すような深沢の声が
聞こえた。

「裏切ったとか、そういうことを言わないでくれ」

ドアを背にして郁子を自分の方に向かせると、深沢は思わず郁子を抱き締めた。

「君を忘れられなくなるのが恐かった。でも、忘れられないならそれも運命だ」
「深沢さん…」

深沢は軽々と郁子を抱き上げると、奥のソファーベッドにそっと横たえたが
郁子の細い身体は微かに震えていた。

「無理はさせたくない。今ならまだ引き返せる」

返事の代わりに郁子はそっと目を閉じた。

深沢はゆっくりと唇を重ねてきた。最初は優しかったが次第に熱を帯びてきて
貪るようにこじ開けると舌と舌を絡ませる。それだけで郁子は身体が火照って
くるのを感じずにはいられなかった。深沢は、郁子の身に付けている物を
少しずつ剥ぎ取っていき一糸纏わぬ姿にすると、その均整の取れた肢体の
白い陶器のような美しさに目を奪われた。郁子が小さく震える声で言った。

「私だけは嫌です」

深沢も着ている物を脱ぎ捨てると郁子を抱き締めた。逞しい胸に顔を埋めて
深沢に全てを委ねる喜びと不安に郁子は身を任せた。

唇をそっと重ねて徐々に耳元から首筋に這わせながら、深沢の大きな手は
郁子の胸の膨らみを包み込み、感触を味わうように柔らかく揉む。
指先で胸の先端をそっと摘まれると、身体の奥まで熱くなって思わず吐息が
洩れてしまう。硬くなった先端の一方を唇で吸い上げられ、舌で転がされると
指とは違う感覚に戸惑いながらも感じてしまう。

「あぁっ」

指と舌で同時に愛撫されると、あまりの快感に我慢出来ずに声を出してしまった。
身体の奥から熱い物が溢れてくるようで、郁子が恥ずかしさに耐えていると
とても綺麗だ…と深沢が熱っぽく耳元で囁いてくれた。

深沢の手が身体中を撫で回し、白い肌に唇を寄せて花びらを散らすように
愛撫の痕跡を残す。穏やかな愛撫に次第に不安な気持ちも消えていき、郁子は
ひたすら深沢に身を任せていたが、太腿を撫でていた深沢の手がそっと脚を広げ、
間に指を沈めようとすると、反射的に身体が強張ってその動きを拒んだ。

心では受け入れているのに身体が拒むもどかしさ。しかし深沢は無理強いせずに
中をゆっくりと揉みほぐすようにしながら、少しずつ馴染ませていった。

「あ… はぁ…」

深沢の指に中を軽く掻き混ぜられると、奥から熱いものが溢れ出してきて
指に絡みついて水音を立てる。やがて深沢の指がそっと抜かれると
脚を大きく開かされて、郁子は逞しい身体に組み敷かれながら彼を受け入れた。

「あぁっ、い、いやぁっ」

身体が引き裂かれるような痛みに思わず声を上げてしまい、申し訳なさで深沢を
見つめると、深沢は身体を離そうとしたので郁子は離れないで欲しいと言った。
再び深沢がゆっくりと身体を沈め、郁子の中に押し入ってくると、
深沢の手をぎゅっと握り締めて痛みを堪えながら全てを受け入れた。
優しく唇を重ねられると、身体の芯を貫く痛みが少しずつ和らいでくるようであった。

「少し動くよ」

深沢が郁子の反応を見ながら、腰を動かしてゆっくりと身体の奥を突くと
郁子は痛いような気持ちいいような不思議な感覚に襲われた。

「はぁ… ん…」

僅かに甘さが混ざった喘ぎ声に刺激されて深沢は腰の動きを早めた。
このままどこに連れて行かれるのか… 不安になりながらも、郁子は今はただ
大切な人を受け入れた喜びに満たされていた。
深沢の呼吸が次第に速くなり、小さく呻くと郁子の肢体の上で果てた。

深沢が郁子の身体を拭ってやると、郁子ははにかむような微笑を向けてきた。
だがその頬に一筋の涙が伝うと、深沢は急に罪悪感に駆られたのだった。

「君の大切なものを僕が奪ってしまった…」
「いいえ、深沢さんでよかったんです… 深沢さんで… でも、もう…」

それ以上は言わなくてもわかっていた。夜が明けたら、また二人は別の道を
歩いて行くのだ。愛しているとも言えずに。それなら、この僅かな瞬間に
身体中の力が抜けてしまうほど愛し合いたい。深沢は郁子を強く抱き締めて
唇を重ねた。脚の間に手を伸ばし、まだ自分を受け入れた余韻の残るその場所を
探り、再び郁子を昇らせていく。

「あぁ… だめ…」

深沢は郁子に伸し掛かかると一気に身体の奥まで貫いた。荒々しく突き上げられ
郁子は洩れ出る声が抑えられなかった。深沢の広い背中に手を回し、引き寄せる
ように抱き締めると、深沢もしっかりと抱き締めてくれた。深沢の胸に顔を埋め
ながら郁子は身体中に彼を感じ、やがて頭の中が真っ白になると、それから先は
何も覚えていなかった。

深沢はコーヒーの香りで目を覚ました。いつものように寸分の隙もない郁子がそこに居た。

「おはようございます。そろそろ起こそうと思っていました」

少し恥ずかしそうに伏目がちで挨拶をしながら、コーヒーを淹れていた。

「君がそんなことをしなくていいんだよ」
「久しぶりにやらせて下さい」

「加納君が淹れてくれたコーヒーはやっぱり旨いな」

美味しそうにコーヒーを飲む深沢の横顔を、郁子は黙って見つめていた。

「あの… 私、そろそろ行きます」

やっとの思いでそう言うと立ち上がって、深沢に深々と頭を下げた。

「そうだね。すっかり引き留めてしまった」

深沢も立ち上がると、いつもの笑顔で郁子に手を差し出した。

「道は違っても君はきっと良い仕事をすると信じている。でもくれぐれも無理せず
身体を大事にするんだよ。編集者は身体も資本だからね」
「はい…」
「あと… 仕事もいいけど、君を支えられる人と巡り会って幸せになって欲しい」

「深沢さん…」

郁子は差し出された手をそっと握ると笑顔で深沢を見つめたが、その目は泣いていた。

「深沢さんも、くれぐれもお身体を大切になさって下さい」

二人はしばらくの間、言葉も交わさずに見つめ合っていたが、郁子はもう一度頭を
下げると部屋を後にした。振り返ると涙が溢れそうだったので、ただ前を見て
早足で歩いた。廊下にはヒールの音が響いていた。

部屋に残された深沢は、一服しようと煙草に火を点けた。
俺は彼女を忘れられるかな…  窓の外を見やりながら自らに問いた。

私には深沢さんのようなことは言えない。郁子は歩きながらそう思っていた。
自分でもずるいと思うけど、彼にはずっと一人でいて欲しい。誰にも心奪われずに…
溢れる涙を抑えることも忘れて、郁子は歩き続けていた。






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