いぬまんま(いちせん夫婦ネタ)
番外編


初めての喧嘩と家出は、振り返ってみれば、何やら気恥かしくもある。
父親のとりなしで誤解も解け、戻ってきた婚家が、妙に懐かしく思えた。
夫のそばにいたいのに、いたたまれずに夕飯の買い出しを口実に出てきてしまった自分が情けない。
残された彼がどんな顔をしていたか、その時まだ、綾子は知らなかった。

□□□

買い物から帰ると、待ちかねたように夫が仕事場から顔を覗かせた。

「今日は、鰤の照焼にするね」

話しかけられるのを遮るように早口で、支度にとりかかる。
冷蔵庫を開けた時、ふと昨日はなかったものを見つけた。
パック詰めの、苺。
離れていた間、妻の好物をどんな気持ちで用意して、彼は一人、待っていてくれたのだろう。
胸にこみ上げるものをこらえるように、立ち上がった。
エプロンの紐を腰に回そうとした手を、不意に掴まれる。
振り返ろうとして、できなかった。
肩口に鼻先を埋めた夫に、背後から抱きしめられる。

「…祐ちゃん?」

返事はなく、ただ腕に力がこもった。
交差する彼の肘に、そっと触れる。

「ごはん、作るから」
「…」
「支度、できないよ…?」

ぎゅうっと固く包み込まれて、立ち尽くす。
沈黙に、体のどこかが急かされるような気がした。

「…た」
「え」

くぐもった声が、ぽつりと零れる。

「…どうしようって思ってた。昨夜、何度も考えた。もし、もしも帰ってこなかったら――」
「そんなこと」

あるわけないと言おうとし、綾子は、己の迂闊さに気づいた。
想像よりずっと、自分の存在が彼を支えていることに。
少しは困ってほしいなんて、安易に家を空けて。
結婚して以来、ひと晩だって彼を独りにさせたことなどなかったのに。
子供が母親に縋りつくような強さで掻き抱かれ、相反する感情が混ざり合う。
いっときでも置き去りにしてしまった罪悪感と。
彼に必要とされ、その心を占めている優越感。

(――あたしは)

ずるい女だ。
すまなさと悦びに苛まれ、綾子は目を伏せる。

すいと顎を取られた。

「ッ…」

深く絡んでくる舌。
息継ぎさえ許してくれない強引さで、腕の内に閉じ込められる。
この狭さが、綾子が選んだ楽園だ。

“新婚旅行も行けなかったから、余裕の出てきた今くらい、どこかへ連れて行ってやりたくて――”

ぼそぼそと照れくさげに、彼は打ち明けてくれたけれど。
どこへ行っても、行かなくても。
この人のそばに勝るエデンはない。
窒息ぎみに崩れ折れた綾子の体を、力強い腕が抱きとめている。
大きな手。
香ばしい匂いがしみついた手。
綾子の未来を委ねた手。
腕の中の妻を、じっと見つめていた祐一が呟いた。

「綾子に触るの、久しぶりな気がする」
「そ…かな?」
「ここんトコ、忙しかったし」
「お客さん、増えたよね」
「うん」
「雑誌に取材もされたし」
「あれはびっくりした」
「今日出てたよ。祐ちゃんのこと、≪老舗の三代目は韓流イケメン≫って見出しで紹介してた」
「読んだんだ?」

家出中だったのに、と言外に聞かれ、慌てて繕う。

「お父さんが本屋寄りたいって言うから付き合って、そしたらたまたま目について、
あたしも一緒に写真撮ってもらったし、お店の宣伝なんだし、一応確認しとこうって」

矢継ぎ早の言い訳が、ぴたりと止まる。

「…嘘」

彼の二の腕を、きゅっと掴んだ。

「ホントは、顔、見たかった…」

写真だけでも。

「うん、俺も」

腕の囲いが強くなり、さらさらとした髪がうなじをかすり、綾子は僅かに首を竦める。

「怒鳴ったりして、悪かった」
「おあいこだから」

互いのことばかり考え過ぎて、相手に想われている自分を忘れていた。

「祐ちゃん」
「ン」
「困らせて、ごめんね。それと」

困ってくれて。

「――ありがとう」

□□□

頚動脈に頬を寄せ、共鳴する鼓動を感じた。
伸びをして、彼の首を抱く。
触れられるだけでなく、自分も触りたい。
彼の熱っぽい瞳を見上げ、それ以上の火種を宿した目で見返す。
体の燠(おき)が、じわじわと燻ぶった。
互いの間にまとわりつく布を剥がし、二人は裸になる。
波打つ布団の上で、指先を絡め合った。
真上の男の四肢の熱さに、綾子は、熔けるようなため息をつく。
性急さを押し殺した夫の指と唇が、肌のあちこちに点火する。
顎を上げて首を反らせると、カーテンの隙間から注ぐ、淡い陽光を浴びた。

(ここが)

自分だけが手に入れた、幻でない楽園だ。
うっすらと微笑む綾子に、覆い被さった祐一が口づける。
まだどことなく不安そうな、彼の後れ毛を掻き上げた。

「あたしはちゃんと、ここに、いるよ…?だから、祐ちゃんも」

ここに、――きて。
なじんだ愛しい唇に、伸び上がって応えた。

芯を貫く、焼けそうな異物感に酔う。
両手で掴み寄せられた腰が麻痺したようで、綾子は髪を打ち振るった。

「…ん、――ッう、…あ、――ぁ、ん…」

粘ついた音をたてる巧緻な動きに、力を失くした体を預ける。
きれぎれの呼吸で名前を呼べば、いくども優しいキスが降り、反対に、奪う勢いは速まった。

「――ぅ、ちゃ…」

朦朧とする意識に抗い、すべてを欲し、見届けようと懸命になる。
熱い情が放たれた直後、汗ばんだ身を添わせ、何も逃すまい離すまいと、互いにきつく抱きしめ合っていた。

□□□

携帯に着信したメールを開く。
昼間別れた父からだ。
言い残した説教だろうかとの予想に反し、短い本文は、割れせんべいの命名候補。

「…≪いぬまんま≫?」

考え込んでから、綾子は噴き出した。
犬も食わない夫婦喧嘩、ならぬ。

「犬でも食える、仲直りか」

『仲良し』の頃合いまで計られているのは、少し癪だし、恥ずかしいけれど。
お節介で人の好い父には感謝している。
夫に提案してみたら、どんな顔をするだろう。
楽しみと幸福感を胸に、傍らで子供みたいな寝顔を晒す、彼の目許にそっと唇を寄せた。






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