番外編
T.エッカーマン未満 「あれ」 襖を開けた茂は、居間を見渡す。 女房に娘を連れて里帰りさせて以来、無頓着に散らかしていた部屋が、すっきりと片付いている。 洗いものも、洗濯も済ませてある。 そういえば、知り合いの娘が訪ねてきて、掃除やら何やらしていた気配はあった。 その後、幼なじみの男まで上がり込んでは、隣室で言い合いをされるのが煩わしく、つい一喝してしまったが。 卓袱台の上には、小さな置き手紙。 “お仕事の邪魔してすみませんでした”。 ぽりぽりと襟足を掻く。 「…ちょっこし、強く言い過ぎたかな」 仕事に没頭すると周囲への配慮を怠ってしまうのは、昔からの悪癖だ。 わかってはいても、治るものでもない。 せめて、せっかく綺麗にしてくれた部屋を、なるべく汚さずに使おうかと考えてみる。 深沢の許で知り合った若い少女漫画家は、気の置けない後輩だ。 向こう見ずなところもあるが、猪突猛進の勢いで漫画に打ち込む情熱は、微笑ましいものがある。 以前、締め切り前の窮地を手助けしてもらったこともあり、身内めいた意識もあって、彼女の貸本にも目を通していたりする。 暢気に先輩ぶれるほど、こちらも安定した立場ではないが、彼女にもいずれ芽が出れば良いと、見守る思いで気にはかけていた。 *** 上京した当初、三海社の消滅と共に頼れる当てがなくなり、途方に暮れた時。 脳裏に浮かんだのは、唯一面識のある漫画家の、水木しげるその人だった。 自宅へ押しかけた自分に、急場凌ぎとはいえ、仕事を手伝わせてくれた上、アルバイト代まで出してくれた。 デビューどころか入賞もしていない新人の卵に、そこまでしてもらえるとは予想しなかったので驚いた。 対等な同業者として扱い、労力に対する正当な報酬を払ってくれたのかと思うと、本格的にこの業界に足を踏み入れた実感が湧き、改めて奮い立った。 まだ漫画への理解が浸透したとは言えない御時世、東京で独立すべく一念発起はしたものの、度胸や努力だけでは補えないものもある。 自分にとって彼は、夢を目指すための心張り棒だった。 あの人のいる空間、時間。 そこに僅かでも関われるだけで、嬉しかったし、励みになった。 一心不乱に仕事に打ち込む広い背中に、身動(じろ)ぎできないほど魅了された。 あの背を毎日見つめることのできる、彼の妻がたまらなく羨ましく、また、男が酷く遠くも感じられた。 惹かれるな、なんて、どうしたって無理だ。 陽射しに温もりを感じるな、というくらいに無茶な話だ。 細君が実家に帰っていると聞いた時、まさか彼らに限ってと驚いた反面、少し…ほんの少し、何かを期待する漣(さざなみ)が胸の内を揺らしたのも事実だった。 その波に直面し、敬愛の名の下(もと)に埋(うず)めていた初心な恋情が、ひょっこり顔を覗かせるのを自覚してしまった。 自分は、迷い猫だ。 故郷を飛び出し、都会で一人、夢に生きる道を必死に模索した。 あの人のいる家を仰ぎ、偶に会って笑顔を見られれば、心は軽くなり、元気が充電される。 隣になんて、立てなくてもいい。 そんなことは、端(はな)から無理とわかっている。 温かく朗らかなその家の空気は、時にいたたまれなくて、敷居が高くもなるけれど。 ただ、あの優しい黒檀色の眸が、時折向けられるだけで良かった。 それで充分だと、己の甘えを戒めては、押し殺した。 せめて訪ねる際は、多少なりとも仕事の進展を、胸張って報告できる自分でありたい。 堂々と背中を追えるようになりたい。 そう、思っていた。 *** 他人の事情に自ら首を突っ込むなど柄でもないと、内心では照れ臭い気もした。 だが訪問早々、悄然と去っていこうとする背中が、いつも以上に小さく見えて、妙に引っ掛かり。 男の自分でさえ生半にはこたえる生業を、若い女の身で懸命に背負う姿がいじらしくもあった。 しかし、同業者だからこそ、安易な慰めなど無意味と知っている。 力量はあっても、運と機会を掴みきれずにやむなく筆を折った者たちを、これまで数々見てきた。 厳しくも、それが現実だ。 が、冷徹には片付かない、距離感を測りかねた戸惑いも、この子に対してはあった。 まして、涙には困る。 泣く女に、男は最初から負けているようで、太刀打ちできない。 か細い肩を震わせる、仔猫みたいな娘に縋りつかれ、どうしてやればいいのかと狼狽する。 それは、師弟めいた関わりの淵に不意に立たされた、無意識の危機感に近かったかもしれない。 *** どの雑誌社でもまともに扱ってもらえなかった原稿を、彼だけは無下にしなかった。 同業者として、それは漫画家の精魂を注ぎ入れた血肉に等しいという、礼儀や共感に過ぎなかったとしても。 感激を通り越して、…痛かった。 一人前になろうと尽力していたはずなのに、甘えて泣きつくなんて真似を晒してしまったのが恥ずかしい。 東京を離れる前日。 報告と挨拶に出向いた日、細君の在宅にほっとした。 最後まで一後輩として、自制を失わず、きちんと暇(いとま)を告げることができる。 「気持ちが残ってたって、つらいだけですから」 漫画への未練も、彼への想いも、この場所ですべて、終わらせるつもりだったのに。 懇切に諭してくれる笑顔に、自分はこの人にとって、どうでもいい相手ではなかったのだと知った。 まるで、想いまでも諦めなくていいと言われているようで。 妻女の同席がなかったら、きっとまた泣き出していただろう。 一度でいいから、この人を――好きだと、声に出してみたかった。 咲いて散るだけの、永遠に実ることのない、憧憬。 それでも、その存在に支えられた歳月は嘘ではない。 共に過ごせた僅かな時間、かけられた言葉、微笑み、まなざし。 少ない想い出を、一つも取り零さず抱きしめて。 新しい道を探してみよう。 たとえ、もう一度、人生を選び直せるのだとしても。 また苦しむのだと、最初から知っていても。 やはり、この人に出逢いたいから。 彼に感化された、情熱の軌跡を誇りたい。 未熟な弟子を支え、導いてくれた、大切な――。 (先生) 一度も名を呼ぶことのないまま、呼称の輪郭のみを残し、その中味を守ってゆく。 彼とこそ同行したかった寺巡りも、空想の内に留め。 最後まで迷った、御守代わりの家族写真も、東京に置いていくことにした。 気持ちを残すことだけ許してもらえたら、欲しいものはもう無い。 立つ鳥、跡を濁さず。 それが、精一杯のけじめだ。 *** 夢破れた同業者を見送るのは、珍しくない。 なのに、あの娘に限って、多弁に励ましめいた言葉をかけていた。 “何とかなる…か。そうですね” やはり女は、泣いているより、笑っている方が良い。 彼女のその後の消息を知ったのは、年の暮れ、漫画賞受賞の折だった。 授賞式の記事が新聞に載り、電報が届いた。 祝いに連ねて、教師を目指して勉強中であることが添えられていた。 努力を弛(たゆ)まぬ強さを持った娘の、真っ直ぐな目を思い出す。 創作とは、孤独な作業だ。 誰にも代わってもらえず、心身が枯渇するまで絞りきって尚も生み出し、立ち止まらずに走り続けねばならない。 苦労しても認められるとは限らない。 労力に比例する上乗せ報酬もない。 それでも。 己が心血注いだことを、自分自身は知っている。 全身全霊で燃焼させた漫画家魂は、形を変えても存続する。 突撃は命懸けだが、退却も勇気の要ることだ。 命を懸けるにしろ、勇気を持つにしろ、どちらかでもあれば、どこであっても何をしても、生きていける。 茂は、電報を畳み直し、受賞の記念楯と共に置いた。 頑張れ、とは言わない。 頑張っているのは、他の者も同じ。 生きることは闘いだ。 常に、闘志と矜持と、楽しむ心を。 (――忘れるな) 唯一人の女弟子へ。 自らの生を語る術(すべ)を失ってくれるなと、願う。 U.二十年愛 妻子や肉親に向けるのとは違う。 助手や編集者への態度とも異なる。 そんな父が、なぜか見知らぬ男性めいて、胸がざわめいた。 プロダクション設立二十周年記念パーティは、予想以上に盛況であった。 父の長年の稼業を見守り、助力してきた人々が、引きも切らずに言祝(ことほ)ぎ、村井一族の面々は対応に追われた。 娘の自分にも挨拶してくれる人は少なくなく、懐かしい顔ぶれとの再会に喜び、直接の面識はなかった相手からも温かい言葉をかけられ、 改めて父の偉業と母の内助を顧みた。 妹と共に感慨に耽っていた藍子はふと、会場の人混みの中、一人の女性と語らう父の姿を見出した。 母よりも若く、ショートボブの似合う、小柄で愛らしい人だ。 彼女の話を、父は穏やかな表情で聞いている。 その横顔に、心臓が小さく鳴った。 「誰かな」 妹より四年分長く、父の周辺を見てきた自分は、かろうじて覚えている。 「…昔、漫画を描いていた人で、お父ちゃんのアシスタントやったこともあるって」 「あ〜、あの人がそうかあ。お父ちゃんが招待したんだよね。学校の遠足にも呼ばれたんじゃなかったっけ」 かつて、スランプに陥った父を再生させる、きっかけをもたらした人。 だが、それよりも。 鮮烈に記憶に焼きついている場面がある。 母以外の女性に、寄り添われた父。 その実、二人の間には何もなかったようだし、父もまったく頓着していないけれど。 幼い直感の延長は、おそらく外れてはいないだろう。 話を終えた様子で、父はこちらを指し示している。 彼女の円(つぶ)らな猫目が、姉妹を見てふわりと和んだ。 「こんにちは、藍子ちゃん」 懐かしげに目を細めた女性が、歩み寄ってくる。 黙って、会釈を返した。 「前にお宅にお邪魔した時は、挨拶だけでゆっくり話せなかったけど。本当に大きくなったね。って言っても、覚えてないか」 「…いえ」 「こちらは喜子ちゃんね。お父さまに雰囲気が似てる」 「こんにちは」 妹は明るく返事する。 「水木先生に聞いたの。藍子ちゃんとは同業者になったのね。子どもたち相手の仕事は神経使うし、体力的にも大変でしょう」 「…はい」 「あたしは最初に目指した道とは違うから、慣れるまで結構かかったけど、それでもなんとかやれているし。藍子ちゃんも、気を楽に、ゆったり構えてね」 こくりと、首で頷くだけに留めた。 反応の悪い自分を、隣で妹が訝っている。 会場の喧噪が遠のき、いつかの光景が脳裡に点滅した。 「河合、さん」 「なあに」 「不躾かもしれませんが。まだ、父のことを…想っていらっしゃいますか」 「え」 瞬く眸に、僅かに翳りが差す。 父に向けられた、異性としての慕情の健在を、その時確信した。 「そ、っか。藍子ちゃん、覚えてるんだね。あの時は、みっともないトコ見られちゃったな。 先生にもご迷惑かけたし、ご家族の方たちまで驚かせてしまって。本当に、ごめんなさい」 ぺこりと詫びる相手と姉を、喜子が見比べているが、説明する気にはなれなかった。 「父はもう、イイ歳をしたおじさんですよ」 「そうね」 「頑固だし、わがままだし、寝ぼすけだし、食いしん坊だし。しょっちゅうおならするし、南国ボケするし、お墓巡りが趣味の、おばけ大好きな変人です」 「ええ」 「第一」 父には、母がいる。 両の拳をきゅっと握り締めて、俯いた。 彼女のまなざしは、静かだ。 もっと後ろめたげにうろたえてくれたら、本気でなじれるのに。 「…」 向こうよりも、なぜかこちらに、気まずい空気が流れた。 「あたし、ね」 はるこは、姉妹を交互に見やる。 「初めて水木先生の漫画を読んだ時、…凄いと思った。こんな人がいるんだ、こんなふうに描ける人がいるんだって、衝撃を受けた。 あたしにとって先生は、誰かの夫であるとか父親である前に、最も尊敬する、第一級の漫画家だった」 彼女の面差しが、未来を語る少女のそれに戻る。 「元々、漫画家になるのは、子どもの頃からの夢だったけど。先生に逢って、目標ができた。 いつか、あの人と同じ土俵に上がれるような、プロの漫画家になるんだって」 「力不足だったけど」と、おどけて肩を竦めてみせる。 「それでも、東京で漫画修業をした三年間は、無我夢中だった。あんなに必死になれた時間は、他にないくらい。 結局、結果は出なかったけど、根性だけは培ったと思ってる。あの頃の苦しさに比べたら、大抵のことはなんとかなるって」 夢にも恋にも苦しんだろう、その人は今、晴れやかな笑みを浮かべる。 「漫画を諦めて、郷里に帰ることになった時も、先生に励まされた。漫画を描く以外の生き方を考えてなくて、 抜け殻になってたあたしに、不滅の漫画家魂を吹き込んでくれた」 それは父の、不屈の情熱の片鱗。 「先生の近くにいられたのは、三年。ご家族との二十年以上の歴史に比べたら、たった三年きり。でもね、あの三年間がなかったら」 不意に、強い瞳に射抜かれる。 「あたしは、――あたしではいられなかった」 まるで父に似た光のようで、藍子は怯んだ。 「だから、決めたの。夢が叶わなかったからといって、人生に捨て鉢になるのはやめようって。頑張ることも、諦めることも、それでも挫けないことも。 あたしは全部、知っている。幸運な人や、成功した人とは、違うやり方ができるかもしれないって」 夢も恋も、叶わなくとも。 擦れ違うだけの出逢いでも、確かに意義はあったのだと。 「先生と逢えたから、先生に教わったから、できたこともあるんだって、一つでも見つけて成し遂げて、報告に行こうとずっと思っていた。 それが、せめてもの恩返しだから」 新たな道を選び直し、一人前になった姿を、父はきちんと認めてくれたのだという。 「あのね。あたし、結婚することになったの」 「え?」 声を揃える姉妹に、はるこは頷く。 「あたしももうイイ歳なのに、今更貰ってくれるような奇特な人も、世の中には案外いたみたいね」 相手は、同じ職場の教員なのだとか。 「あたしの漫画家魂の話を、真面目に、莫迦にしないで聞いてくれた。あたしの中の、先生の存在を受け入れてくれた」 「そのこと、父には」 「さっき、お話しした。“めでたいな”って言ってくれた。それと、“あんたの地元は良ぇ所だな”って。いつか、ご家族の皆さんを連れていきたいって」 父が妖(あやか)しに遭遇したという、清やかな緑深き郷(さと)へ。 「実はね」 と声を潜め、はるこは唇に人差し指を立てる。 「その人、笑った時の印象が、少し水木先生に似てるの」 「先生には内緒ね」 と悪戯っぽく目を輝かせている。 (…ああ) 藍子は、すんなりと肩の力を抜くことができた。 二十年の歳月が流れたのは、村井家だけではない。 父を想う、数多(あまた)の人々それぞれに、日々の暮らしがあり、歩みがあったのだ。 「藍子ちゃんが心配するようなことは、何もないし、何も起こらないよ。先生もご家族も、もう困らせたりしない」 凛と佇む彼女を、藍子は率直に、綺麗だと思った。 姉妹の許を辞去する後ろ姿を見つめ、喜子がぽつりと呟く。 「あの人、男の人を見る目はあったってことだね」 「河合さん!」 思わず、藍子は呼びとめた。 振り向いたはるこが、首を傾ける。 「本日はお越しいただいて、父を祝ってくださって、ありがとうございました。あたしも、仕事頑張ります、負けないくらいに。それから」 父を慕ってくれた人の、不幸を願う気性など、持ち合わせてはいない。 「どうぞ――お幸せになってください」 彼女の柔らかな微笑みに、ようやく笑顔を返せた。 どうか、父を支えてくれた総ての人たちに、嘉(よ)き未来が訪れますように――。 SS一覧に戻る メインページに戻る |