番外編
男の人を、綺麗だと感じたのは初めてだ。 バイト先の居酒屋のキッチンで働いていた彼の姿は、多忙な店内にあっても、不思議と端然だった。 賑わうホールの忙しなさに振り回されそうになる時も、てきぱきと注文を捌(さば)くその落ち着きぶりに、よく励まされた。 黙々と調理に打ち込む真剣なまなざしを、ずっと見ていたいような、振り向いてほしいような。 そんなもどかしさが、しばしば身を熱くさせた。 言葉を交わす機会が増え、少しずつ親しむ雰囲気が深まり。 大人びた佇まいとは裏腹に、少年みたいな笑顔を向けられるたび、胸の奥がさざめいた。 途方に暮れたように、明かりが灯るように、想いはしっとりと自覚される。 2人が付き合い始める、半年前のことだった。 「店、継ごうと思うんだ」 バイトからの帰り道、連れ立って駅まで向かう途中、祐一がぽつりと語った。 彼の家が、地元でも有数の老舗であることは、前から聞いていた。 密かに進路に迷っていたことも。 生半な決断ではないだろう。 それでもこの人は、自らが進む道を決めたのだ。 淡々と将来を志す横顔は、いつも以上に爽やかで、綺麗で。 「大丈夫よ」 餞(はなむけ)には、自分の言葉など無力かもしれない。 「職人さんの大変さとか、伝統とか、難しいことはあたしにはわからないけど」 静かに眩しい人に、何か伝えたかった。 「一緒に働いてて、あたしも皆も、いつも祐一くんを頼りにしてた。周りの人の頑張りも、ちゃんと見ててくれた。 それがすごく、励みになってたんだよ」 派手に前に出るタイプではないが、常に全体を見、必要なことを指示し、率先して動き、他人の努力を認めてくれる人。 自らが背負うものの意味も、きっとわかっている彼ならば、半世紀の重みも継いでいけるだろう。 「祐一くんなら、大丈夫だよ」 彼がバイトを辞めれば、今までのようには会えなくなる。 けれど。 これから新しい道を歩こうとする人に、余計な気持ちを告げて、紛らわせたくはない。 ただ、精一杯の笑顔で、背中を見送ろう。 「頑張ってね」 困らせないように、寂しげには見えないようにと、願う。 「…」 彼は、黙ってこちらを見ている。 駅はもうすぐだ。 離れたくない本心が、自然と足取りを遅くさせた。 ぴたりと祐一が立ち止まる。 ふぅっと肩で呼吸する彼を、隣で仰いだ。 「――付き合おうか」 何度も惹かれた、柔らかな微笑み。 「え。…って、どこに? これから?」 真面目に訊き返せば、直後、彼は噴き出した。 くつくつと笑われて、戸惑う。 「しっかりしてるかと思えば、結構天然だもんなあ、綾ちゃん」 大きな掌に、ぽん、と頭を撫でられる。 「そういうところも、――好きだよ」 夜陰に流れる風を縫って、優しい声が届く。 この日、彼は綾子の恋人になり、やがて老舗の3代目となり、数年後には夫となった。 □□□ 2人の誕生日は、1日違いだ。 2月7日が祐一、8日は綾子。 結婚する前から、合同で祝うのが恒例だった。 今年は8日が店の定休日に当たるので、7日の夜に祝いも兼ねてのんびりしようと決めている。 料理全般が得意な祐一は、毎年ケーキやデザートを作ってくれ、そのレパートリーを綾子はいつも楽しみにしていた。 お酒好きの彼と一緒に飲もうと、スパークリング・ワインも買ってある。 もう1つサプライズがあるが、それはまだ内緒だ。 聡い相手に気づかれぬよう、さりげなく振る舞うのは結構難しい。 「なにニヤニヤしてんの」 店番中のカウンターの背後から、ひょいと声が掛かる。 「祐ちゃんの手作りケーキ、楽しみだなあって考えてたの」 「新作、自信あるよ」 スマートなウィンクを1つ。 佐々木家の若旦那は、いちいち男前だ。 「そろそろ店仕舞いにしようか。夕飯、俺が作るから」 心遣いが嬉しく、こちらからのお披露目にも驚いてほしいし、喜んでほしいと祈った。 濃いピンクにデコレートされたホールケーキが、シュガー製のリボンに覆われている。 リボン地も淡いピンクの水玉模様に見立てられ、間に瑞々しい苺がいくつも飾られている。 まるでケーキ型のプレゼントBOXのようだ。 「可愛い…」 食べてしまうのがもったいない。 携帯で撮って、実家の父親にもメールしておくことにする。 甘いもの好きで食いしん坊な父は常々、婿の手料理を羨ましがっていたから、妻の特権で自慢したい。 ワインを開けてもらい、フリュート・グラスが満たされる。 金のボトルから注がれるシャンパンゴールドに、繊細な泡が立ち上(のぼ)った。 「それじゃ、一足早く」 「お誕生日」 「おめでと」 「おめでとう」 また1つ、2人の想い出を刻む。 ささやかで、大切な歩みを確かめる。 夕食も夫お手製の、ビーフシチュー。 ほのかに甘い、桃の香りのワインを一口飲んでから、美味しくいただいた。 「祐ちゃん」 「ん〜」 ハムスターみたいにシチューの南瓜を頬張っている、夫に告げる。 「もう1つ、お知らせがあるの」 「? なに」 「――名前、考えて」 ぱちりと瞬く彼の瞳に、じっと見入る。 「4代目の名前、祐ちゃんに決めてほしいの」 しばし固まっていた祐一が、やがて、ごくんと飲み下す。 「綾子」 「はい」 「…ホント?」 「ほんと」 「どれ、くらい」 「2ヶ月半だって」 まじまじと、夫は目を見開く。 「…すごい」 「え」 「すごいよ、綾子」 実感の重みに吸い寄せられたように、彼は、妻の腹部を凝視している。 みるみるうちに、喜色が露わになる。 「そっか」 「ん」 「子どもか」 「うん」 「――ありがとう」 少し潤んだ目で感激され、綾子も感極まって、声を詰まらせ頷いた。 さらなる幸せが、いずれ目に見える形となる。 「予定日は秋かぁ」 「来年の今頃はもう、3人で迎えてるんだね」 「じゃあ今年は、2.5人でお祝いだ」 グラスを飲み干した祐一が、はたと止まった。 「待った!」 綾子の手首が掴まれる。 「酒はダメだ」 「これ、ノンアルコールだよ」 「ちょっとは残存アルコール分があるだろ」 「グレープジュースやりんごジュースと変わらないぐらいだって。1日当たり1杯未満で、週1回程度なら問題ないって、 お医者さんに聞いてきた」 「今日はお祝いだから1杯だけ、ね?」と上目で窺うと、夫は「う〜」と唸り、渋々了承した。 「でも、これからは極力、禁酒だからな。俺も付き合う」 「祐ちゃんまで無理しなくていいよ」 「いーや。綾子が大変な時なのに、俺だけ暢気にしてられない」 家族想いの彼に、新しく家族を増やしてあげられることが喜ばしい。 「仕事、しっかりやんないとな」 「祐ちゃんは、良くやってくれてるよ」 「もっと、もっとだ」 頼もしい夫の決意に、綾子は目を細める。 2人は、少し前まで『彼氏と彼女』で、今は『夫と妻』で、もうじき『父と母』になる。 □□□ 入浴を済ませて、寝室に上がると、床(とこ)は整っていた。 「体、冷やすなよ」 掛け布団を持って、寝かしつける気満々の夫に、ちょっと笑ってしまう。 大人しく横になると、静かに羽毛布団が置かれる。 じっと見ていた祐一が、「入っていいか」と訊いた。 「ん」 隣に潜り込んできた彼に、やんわりと抱きしめられる。 まだぺたんこの腹を、そうっと手で摩(さす)られた。 徐(おもむ)ろに胸の弾力に顔を埋めてくる、安らいだ空気が微笑ましい。 彼の髪に指を絡め、じっと動かぬ頭を撫でた。 「…っ」 不意に、パジャマの上から、膨らみに唇が押し当てられる。 乳頭を探られ、甘噛みされて震えた。 「ゆ、ッ…」 「しないよ」 「最後まではしない」と夫は微笑む。 「触りたいだけ。すごく嬉しいから」 腰を撫でる動きは、愛撫よりもいたわりに近い。 「俺は店を継げたけど、命を繋いでくれたのは、綾子のお手柄だ」 服越しの間接で乳首を吸われ、堪らず頭を包み込んだ。 妊娠の影響なのか、久しぶりの接触の所為か、感覚が過敏になっている気がする。 「ゆぅ、ちゃ」 舌足らずな甘えに気づいたのか、夫は顔を上げ、軽く口を啄ばんだ。 そのまま離れていこうとする唇を、綾子は追う。 「、ッふ」 滑らかに互いの舌が絡まった。 くちり、と音を立てながら、吐息を奪い合う。 「は、…ぁ」 解(ほど)けた唇を彼の耳元に寄せ、広い肩に縋る。 「祐、ちゃん」 囁くように、「…して」とせがむ。 「だめだよ」 腹に触れた祐一が、「コッチのが大事」と苦笑する。 「でも」 彼を困らせたくはないのだけれど、体内に点(つ)いた、火照りが消えてくれない。 ぎゅっと胸にしがみついていると、上から小さく溜め息が落ちた。 「仕事の為なら、何でも努力できるのに」 夫がもぞりと腕を動かす。 「俺って、綾子に関しては、昔から辛抱できないんだよな」 見上げると、甘い光を湛えた瞳に迎えられる。 「付き合う前も。本当は、気持ちを言わずにおこうと思ってたのに」 2人がただのバイト仲間だった、遠い過去。 「あの時も、綾子、そんな目をしてた」 「…あたし?」 「“離れたくない”って、泣きそうな顔してたろ。だから俺も、言う気になったんだ」 “離したくない”って。 口を触れ合わせての動きで「いい?」と問われ、こちらが欲しがったのにと、綻んで肯(うべな)った。 擽るような頬へのキスに、軽く首を竦める。 着痩せする夫は、その実、腕が太く、胸板も厚い。 強く抱き込まれると、安堵と高揚が混じり合う。 髪を掻き上げられて項(うなじ)を柔く噛まれ、綾子は、のけ反って息を漏らした。 負担を掛けぬ気遣いか、横抱きにされて、首に肩に鎖骨に吸い付かれる。 歯と唇で巧みにパジャマのボタンを外され、剥き出しになった乳房を揉みしだかれた。 「あ、――ッ、…ン」 肌を弄(なぶ)る指の隙間から、舌にも襲われる。 尖った乳首に軟らかく歯を立てられ、舌先で執拗に押し潰されては、猫みたいに鳴いた。 「ふ…、ぁッん――もぅ、そこ…ばっかり…」 「綾子はさっき、ケーキの苺食べたろ。俺はコッチ」 ちゅ、と吸い上げられるたび、足の奥がじわりと熱く潤む。 シーツに耳を擦(こす)り付けて、自分の指を銜えた。 「ん、…もぉ、――も、っと…」 もっと、この人のものになりたい。 とろみが湧き出す下肢を、もどかしく蠢かす。 するりと寝巻きを滑り下ろした祐一の手が、下着の上から陰部の縁(ふち)を確かめる。 じっとりと湿っているそこを、爪先で優しくいじられ、綾子は悶えながら腕を伸ばした。 「ぁ――あ…、ぅちゃ…」 片手を絡ませ合い、指をくねらせて急かす。 「ね、…ッ…舐め、て――」 全部にキスして、どうか愛して。 晒された秘部が、彼の視線に囚われる。 大腿を押し広げられ、臍の下に唇が置かれた。 「聞こえるかな」 「…え」 「こういうコトしてるから、おまえがそこにいるんだよって、わかるかな」 「もぅ」 笑いが零れ、夫の癖っ毛を愛おしく梳いた。 そのまま、淫液の源泉に口づけられる。 充血した襞に舌が潜り、自在に遊泳する。 「ハ…、――ん、ッん…ぅ」 大好きな長い指に、濡れた萌芽を開花させられる愉悦に、綾子はうっとりと酔った。 自ら膝を広げて、腰を突き出してしまう。 恥じらう余裕は、とうにない。 器用な指数本に愛撫され、乳暈を詰く吸われつつ、自身の望み通り、快楽の淵から落下した。 絶頂感に惚け、肩で息をしていると、夫が下肢を拭ってくれているのに気づく。 「…ぅ、ちゃ…」 始末を終えた彼に、ぽんぽんと頭を撫でられ、まさかと瞬いた。 「あた…し、だけ?」 祐一が笑って、ちょん、と額にキスをした。 「控えめになんて、抑えられる自信、ないよ」 淡泊な彼の、意外な情熱は知っているし、それが嬉しいとも思っている。 まして、我慢などさせたくない。 意を決し、気怠い体を起こした。 きょとんと訝る夫を座らせ、その足の間に入り込む。 「綾子?」 下腹に顔を近付けると、慌てて止められた。 「え、っと。無理、しなくていいよ。俺は大丈夫だから」 「あたしだけなんて…イヤ」 大切に慈しまれるばかりで、十二分に返せたことなどないけれど。 「あたしだって、祐ちゃんに、してあげたいの」 愛される以上に、彼にも与えたいと、ずっと考えている。 □□□ 既にそそり立つ男根の先端を、ふわりと掌で撫でてみる。 ぴくりと反応したそれを、筒状に曲げた指でやんわりと握り込み、口内に招き入れた。 「…ッ」 頭上で夫が、小さく息を飲むのが聞こえる。 舌で雁首を押し上げると、滲み出た先走りと唾液が絡まって、粘つく音がした。 大きな手にゆったりと髪を梳かれ、綾子は快く目を閉じる。 裏筋に舌を這わせるたび、硬度はますます強まった。 歯を当てないように注意しつつ、全体を舐め回す。 「ふ、――ぅ」 祐一が低く嘆息する。 熱い猛りに頬擦りし、ぐっと奥まで含んだ。 「…綾、――」 呼ばれて、彼と視線を合わせる。 普段は涼しげに端正な面差しが、耐えるように歪んでいるのを、恍惚と見上げた。 唇を窄めて隆起に吸い付き、頭を上下に動かす。 「も、…ぃい、よ。マズ、イ」 引き離そうとされるのを、黙って首を横に振ることで答える。 このまま、――食べてあげたい。 決壊が迫る気配を察知し、陰茎を摩りながら、敏感な鋒(ほこさき)に甘噛みを施す。 「――ッ、…!」 祐一が鋭く呻いた。 烈(はげ)しい射精に直面した綾子は、濃厚な液をどうにか飲み干し、果てた彼の分身をも丁寧に舐め取る。 「擽ったいって」 「まだダメ」 体を捩(よじ)っていた夫は、観念したふうに大の字になって寝転ぶ。 素直に身を預けてくれる無防備さ。 仰臥する相手を見つめて信頼感に浸っていると、ひょいと伸びてきた腕に、頭ごと抱き寄せられた。 わざと大雑把なキスが、それでも濃やかさに満ちている。 「あたし、ちゃんと…できてた?」 唇が重なる寸前で訊いてみると、満面の笑みが返る。 悦んでもらえたことにほっとすれば、多少の顎の痺れも気にならない。 彼のこめかみ、髪の生え際に、伸び上がって口づけた。 肩口に寄り掛かるように、腕枕をしてもらう。 「…ナンか」 「なあに」 「気持ち良過ぎて…眠たくなった」 ぽやんとした声で、目元を擦る夫が可愛い。 あどけない子どものようにも見え、両手に囲い込んで守ってあげたくなる。 常に守られてばかりの自分にも、母性の芽生えを実感した。 「祐ちゃんに、似てると良いなあ」 腹を撫でる手の上に、彼の掌が重なる。 「俺は、綾子に似てる方が良い」 「じゃあ、両方にしとこっか」 くすりと噴いては、また抱きしめ合い。 2人、至福の眠りへ溶けていく。 やがて、3人分の明日を迎える、その日の訪れを指折り数えながら。 SS一覧に戻る メインページに戻る |