かそけき男
番外編


昭和四十二年。次女の喜子が生まれ、安来の実家からフミエの妹のいずみが
手伝いに来て、人の出入りの多い村井家は、ますますにぎやかになった。
そんなある日。村井家に、以前二階の部屋を間借りしていた中森が訪れた。

「この家も、ずいぶん様変わりしましたねえ。もう、以前の間取りがわからない
ですよ。」
「私ら家族でも、迷子になることがあるんですよ。」
「先生のご活躍は、よそながら喜んでおりました。『悪魔くん』の放映の時は、
家族全員で見せてもらいましたよ。」
「今、お仕事は何をされとるんですか?」
「家内とふたり、室内装飾の仕事で独立しましてね、マンガをやっとったことが
少しはデザインの役に立って、なんとか食べていっとりますわ。」

懐かしい人の訪問に、仕事漬けの毎日を送る茂はうれしそうに談笑していたが、
すぐにアシスタントの倉田に呼ばれ、名残惜しそうに仕事場へと去った。

「お忙しいんですねえ。・・・貸本マンガが駄目になってきて、われわれマンガ家が
食うや食わずだったときも、水木さんは何かが違う、いずれきっと、日の当たる
日が来る、そんな気がしとりましたよ。」
「・・・あの頃は、大変でしたねえ。中森さんが片道の電車賃だけ持って出版社へ
原稿届けに行って、原稿料もらえなくて、水道橋から調布まで歩いて帰って
来られたことがありましたっけ。」
「あの時、奥さんにごちそうになった砂糖たっぷりのコーヒー、あれで生き返り
ましたよ。お茶漬けまでいただいて・・・。あれがなかったら、飢え死にしとった
かもしれません。」

そばで聞いていたいずみは、ふたりがさもなつかしそうに、壮絶な
貧乏話に花を咲かせるのを聞いて、目をまるくして驚いた。

「そうやって話しとると、中森さんとお姉ちゃんって、まるで戦友みたいだね。」
「いやいや、私なんて。傍観者にすぎませんよ。本当の戦友は、先生と奥さんです。
昔は奥さんも、先生の仕事を手伝っておられて、よく夜中にカリカリカリカリ、
ペンの音がしとったもんです。夫婦で、戦っておられた。いいもんだなあと
思って見とったんですよ。」

フミエは、アシスタントをしているところを、中森に見られていたとは意外だったが、
茂が売れっ子になって専門のアシスタントもつき、自分が茂の仕事に役に立てることが
ほとんどなくなったさびしさを感じている今、あの苦しかった時代のことを中森と
話し合えたことがうれしかった。

「あの苦しい時代を先生が乗り越えられたのは、奥さんのおかげですよ・・・。」

現在のフミエのさびしい心境を知ってか知らずか、フミエにとってはとても
嬉しい言葉を残し、中森は相変わらずの透明感で去っていった。

志なかばで去っていったあの日と同じように、曲がり角へ消えていく中森を
見送りながら、フミエは中森がこの家にいたころを思い出していた。
思えば中森は、茂とフミエの結婚生活のほとんど最初から、この家の同居人だった。
結婚どころか出会ってからでさえそれほど経たぬ茂との、不安だらけの新婚生活に、
さらに得体の知れぬ男の存在は、フミエは当惑させるばかりだった。
しかし、それから1年半ちかくを同じ屋根の下で過ごすうち、衰退していく
貸本マンガ業界への不安の中で、同業者の中森を、頼もしくこそないが、
同じ闘いを戦っている同志のように思うようになった。
だが、新婚夫婦にとって、この安普請の家の中に他人の男性がいるというのは、
いくら空気のようにかそけき中森とはいっても、非常に気を遣うものでもあった。
茂との仲がふかまるにつれて、激しさを増していく愛の行為の際に、こみあげる
悦びの声をおさえなければならないのはつらいことだった。

(そう言えば・・・。あの時は危なかったなあ・・・。)

茂の留守中に上がりこんだ浦木が、突然よからぬ考えを起こしてフミエに
襲いかかったことがあった。
何がなんだかわからないうちに、帰ってきた茂が浦木を追い払い、事なきを得たのだが、
茂は危うく奪い去られそうになった妻を取り戻すかのように、その場で荒々しく抱いた。
昼ひなか、まるで犯されるかのような交わりに、ショックを受けたフミエだったが、
いつしか快感の波にまきこまれていった。
いつもは穏やかで、愛しあう時も自分よりずっと余裕がある茂のそんな衝動に、
茂の自分に対する愛のはげしさを思い知らされた。
行為のあと、茂は「忘れるな。」と言い捨てて仕事部屋に入ってしまった。
そこへ中森が帰ってきたのだ。とっさに洗面所に走り、なんとか身づくろいをして
応対したが、衣服や髪の乱れ、上気したほお、拾い上げる暇がなかった下着・・・
情交のなごりが中森の目に留まらないかと、フミエは気が気ではなかった。
中森が二階へ去ると、フミエはへなへなと床にくずれ落ちた。両腿のあいだから、
先ほど茂が放ったものがつたい落ちていた。いつの間にか後ろに来ていた茂が、
フミエを後ろから抱きしめた。
フミエは振り向くと、茂の胸でわっと泣き出した。
茂は、しゃくりあげるフミエの唇に、何度も口づけした・・・。
あの日の茂の激しさ、やさしさ・・・。フミエは思い出してぞくりと身体を震わせた。
あれは、たった6年前のことなのに・・・。
茂が忙しすぎて、ゆっくり話をするヒマすらない今、フミエにはあの頃のことが
何十年も昔のように遠く思われた。

中森は、去り際、角を曲がる前に、もう一度すっかりきれいになった村井家を
ふり返った。5年前、失意の中ここを去った時、中森はそれでもたまっていた
家賃の半分をフミエに渡した。

「男の、けじめです。」

大阪へ帰る汽車賃すらない中森が、家財道具いっさいを売り払ってつくった
血の出るような金だ。躊躇しているフミエの手に押しつけるように渡すと、

「水木さんには、きっと日の当たる日が来ます。」

励ますように言って歩き去った。不思議と、さわやかな気分だった。

(奥さんは、知ることがないだろうな。なんで僕がマンガをあきらめて
家族のもとに帰る決心がついたか、ということを・・・。)

6年前、中森は東京の貸本マンガ業界で新規まきなおしをはかるため、家族を
大阪に残して単身上京してきた。たまたま知り合った浦木の紹介で訪れた村井家は、
下宿屋などではないうえに、家主の村井夫妻は新婚ほやほやだった。
さすがに悪いと思ったが、今夜泊まるところもないうえに、無駄な金は一銭も
使う余裕がなかった。すでに浦木に、紹介料をとられていたのだ。
最初は明らかに迷惑そうだったフミエだったが、生来の人の良さと育ちの良さから、
隣人?に邪険にすることなど出来ないようで、じきに親しみを見せてくれるようになった。

(いい家庭で、愛されて育ったんだろうな・・・。)

フミエは、新婚のわりにはそれほど若くないようだったが、貧しい境遇にあっても
清楚なたたずまいは失われていなかった。フミエの夫に対する献身ぶりは、見ていて
ほほえましく、茂のマンガを嬉々として手伝っている姿には心温まるものがあった。
慣れない土地でたったひとり、貧困の中奮闘する中森にとって、そんなフミエの存在は、
大きな慰めとなっていた。

冷たい雨の降る、二月のある日、中森は片道の電車賃だけで水道橋の出版社に
原稿を届けに行ったものの、そんな原稿は頼んだ覚えがないと言われて原稿料がもらえず、
何時間もかけて調布まで歩いて帰ったことがあった。
村井家の玄関までたどり着くと、気がゆるんで思わず倒れこんだ。物音に驚いた
村井夫妻が助け起こしてくれ、ちょうど飲んでいたコーヒーに砂糖をたっぷり入れて
飲ませてくれた。「ひだる神」にとり憑かれていた中森にとって、それは旱天の慈雨
とも、甘露とも言うべきものだった。やっと口をきくことが出来るようになった中森は、
出版社のしうちを二人にうったえた。
その日はフミエも、茂が恥をしのんで描きあげた少女漫画の原稿を届けに行ったものの、
出版社の社長に茂のマンガをくさされ、原稿料を半分に値切られて帰って来た所だった。

「この業界じゃよくあることですけん、自分は慣れとりますが・・・。こいつはお嬢さん
育ちだけん、こたえたようですわ。」

茂は笑ってフミエを見やった。フミエの目には泣いたあとがあった。
コーヒーに加えてお茶漬けまでごちそうになり、中森は礼を言って自室に戻った。
空腹が満たされたとたん、激しい疲れがおそって来て、布団に倒れこんで眠りにおちた。

ふと目覚めると、あたりは真っ暗で、中森はのどの渇きをおぼえた。
階下の台所で水を汲もうと、階段を降りかけた、その時・・・。
中森の目に飛び込んできたのは、白くゆらめく女の裸体だった。
一瞬、中森は自分が見ているものの正体がわからなかった。次第に目が慣れてくると、
それはフミエと茂が愛しあう姿だった。茂の上に乗ったフミエは身体をくねらせ、
長い髪をふり乱して茂を愛していた。美しい曲線を描いてしなるフミエの白い身体は、
暗闇の中で光を発するようで、男女の痴態というよりは、うつくしい幻としか思えなかった。

魂を奪われたように、どれくらい見ていたのだろうか・・・。やがてフミエは絶頂を
迎えたらしく、身体をふるわせた。だが、絶頂のただ中で必死で口を手でおさえ、
悦びの声を押しころそうとした。抑えきれぬ悲鳴がかすかに尾を引いた。
茂がすばやく起き上がって、ぐったりと弛緩する妻の身体を抱きとめた。
中森はハッとわれに返った。
しばらく抱きあったままフミエを休ませていた茂は、フミエの顔をあげさせると
いとおしそうに口づけした。フミエも両手で茂の顔をはさむと、このうえなく優しく
口づけを返した。何度も繰り返すうち、口づけは次第にふかく激しくなり、ふたりは
今度は向かい合ったまま、ゆっくりとゆれ合い始めた・・・。

中森は、元々うすい存在感をさらに空気よりうすくして、自分の部屋へ戻った。
今見た光景に、足元は霞を踏むような心地だったが、不思議と劣情をいだくようなことは
なかった。食うや食わずの中森に、そんな気力は残っていなかったのかもしれない。
そうでなかったとしても、ふたりの姿はお互いへの愛に満ちていて、下衆な考えを
起こしたりしたら申し訳ないような気がした。
中森のほおに、自然と涙が流れた。むしょうに妻に会いたかった。
幼なじみで自然に結ばれた妻・・・。地味でおとなしい女だが、中森との間には
静かでおだやかな絆がはぐくまれていた。三人の子をかかえ、極貧の中で、
ろくに仕送りもできない中森を待っていてくれる。
いつ叶うかわからない自分の夢のために、かけがえのない妻につらい思いをさせて
きたことへの後悔が、これまでになく中森の胸をかきむしった。

そしてもうひとつ、中森の胸に去来したものは、この家での自分の存在が、
異分子でしかなかったことへの痛切な反省だった。
新婚家庭に下宿するからには、中森もこれ以上ないほど気は遣って来た。
今日は疲労困憊のあまり破ってしまったが、階下での用は、遅くとも宵のうちまでに
済ませる、それらしい気配がある時は、仕事に没頭するなどして、失礼な想像を
はたらかせないようにする・・・そんなルールを自分に課していた。だが・・・。
家主夫妻、特にフミエに好感を持っている中森は、はた目にも深く愛しあっている
ことがわかるこの二人が、自分に気を遣って自然な交歓が出来ずに生活してきた
であろうことに対して、申し訳なさでいっぱいになった。

(そろそろ、潮時かな・・・。)

中森が、マンガをあきらめて大阪へ帰ることを初めて具体的に心づもりし始めたのは
この夜のことだった。

大阪へ帰るとは決めたものの、業界のしがらみやら仕事の都合やらで、実際に
帰るまでには三ヶ月を要した。家財道具を何もかも売り払って汽車賃をつくり、
初夏のある日、中森は村井夫妻に別れを告げた。
不安そうなフミエに、中森は「水木さんのマンガはきっとものになります。」と
励ました。何の根拠もなかったが、そう信じたかった。

大阪へ帰った中森は、懸命に働いて家族の暮らしを立て直した。コツコツと働いた
甲斐あって、新しい仕事に乗り出す余裕も出来た。茂の活躍を知ったときは
自分のことのように嬉しく、はげみにもなった。
今日、法事で上京したついでに村井家を訪れたのは、自分もなんとか生き延び、
茂のマンガ家としての成功を喜んでいることを伝えたかったからだ。
村井夫妻は、苦労をともにした昔なじみに会えてうれしそうだった。だが、フミエは
茂があまりにも急に売れっ子になったため、激変する状況に戸惑っているようだった。

「私のような素人の出る幕は、もうありませんけん・・・。」

少しさびしそうなフミエに、

「あの苦しい時代を先生が乗り越えられたのは、奥さんのおかげですよ・・・。」

中森は精いっぱいの言葉を贈った。

村井家を辞去した中森は、そのまま都心に出て大阪へ帰る電車に乗りこんだ。
夕闇がせまり、流れ行く車窓の風景を、中森は感慨深げに眺めた。

(奥さんは、気づいておられんようですな。先生の描く自画像・・・。先生は丸顔なのに、
夫婦そろって長い顔に描いておられる。あの頃から、ずっとそうです。
先生はあなたのことを、一心同体、自分の身体の一部のように考えておられるんですよ・・・。)

フミエの(自分は夫にとって必要な人間ではないのではないか?)と言う不安は、
この先長い間フミエを苦しめることになる。だがその答えを、傍観者の中森は知っていた。

(奥さん、いつかきっと、わかる日がきますよ・・・。)

過ぎし日、中森が夢をえがいた東京の街の灯りは、後ろへ後ろへと飛び去って行く。
心の中で、中森はフミエにそっとエールを送った。






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