番外編
「あーあ、持ってっちゃったよ」 集まって来た買い物客達の誰に言う訳でもなく、雑貨屋の主人が呟いた。 「こっちは置いてっちゃったし」 落とした視線の先にあるのは、端から葱が飛び出した布製の肩掛け鞄だ。 二月に月が改まったばかりの日の午後。春はまだ遠いことを告げる冷たい風が、ぴゅうっと商店街を吹き抜けた。 ◆ 私は名を橋木という。東京調布は小石町のすずらん商店街で、親父の代からのささやかな店を営んでいる。 商うのは、保存食を中心とした食品といくらかの日用雑貨、そして酒。近場に酒屋がないこの界隈のご家庭の晩酌を支えているのは、主にうちの商品だ。ちなみに今の売れ筋は「隠桜岐」である。 ニッパチ景気で世間が荒むのを警戒してか、この商店街では今月が警備強化月間だった。スリや置き引きに注意しろという声が拡声器から流れる中、どうやら本当に置き引きが発生したらしい。 被害者は雑貨屋の女性客だった。黒いバッグを盗られ、売り物の買い物籠を持ったまま犯人を追いかけていったその女性は、遠目にも目立つほど背が高かった。 「あんた、あのご婦人、知ってるかい?」 私は雑貨屋の主人に尋ねた。 「いや、知らんな。橋木さんは?」 「俺も知らんね。地図らしい紙切れ持ってきょろきょろしてたし、この辺の人間じゃないな」 雑貨屋は客人の忘れ物を取り上げ、物陰にしまいながら苦笑した。 「この辺りに引っ越して来たんじゃないのかね。夕飯の買い物してたようだよ。まあ『八百善』の特売では買いそびれたらしいが」 「へえ。大丈夫かね、追いかけたりして」 走り去ったほうへ目をやりながら私はふと、或ることに気付いた。 「ちょっと、それ…」 「うん?何、これかい」 女性客が忘れていった鞄を手に取る。若い女性が夕飯の買い物をする際に持つようなものではないが、物自体は何処にでもあるような、ただの肩掛け鞄だった。 (これ、何処かで…) 見たことがある、と思った。はて、何処だったか…と思い巡らしはじめたその刹那、店に来た客のためにその考えは雲散霧消してしまった。 それからしばらく経って。 「こんにちは」 「いらっしゃい」 もう何十年の癖で、考えるまでもなく出る言葉と共に振り返ると、そこにいたのは件の女性だった。 「ああ…」 どうやら盗られたものは取り戻せたらしく、手には例のバッグと、結局買い求めたらしい雑貨屋の籠を持っている。そして肩にはあの鞄が掛かっていた。 追いかけた後の顛末が気になりはしたが、聞く訳にもいかない。まあ、そのうち誰かの口からこの耳に入って来るだろう。 「何かお探しで?」 「はい、あの、お醤油を」 「あ、それなら、こっちです」 促すと客人は力のない笑顔を見せて、軽く会釈をした。 恐る恐るといったふうで店の奥へと移る。醤油の並んだ棚を見つけると、真剣な表情で選び出した。 男の私が視線を上げる程の長身、そして細身。長い黒髪。しかし間近で見ると何より印象的なのは、その大きな眼だった。 「…何でも揃う、笑顔が集う、お買い物ならすずらん、あなたも…」 商店街に流れる能天気な声が、品物を選ぶ丸まった背中に、虚しく響く。 しばらくの後、客人は醤油の一升瓶と白菜の漬物を持って、勘定場に来た。 「まいど。奥さん…でよろしいですかね」 「あ、はい」 「最近こちらに?」 「はい。下野原です。これからいろいろお世話になりますけん、宜しくお願いします」 下野原か。遠いな。配達ではよく行くが、自動車がないとつらい場所だ。 「ご主人の転勤か何かで?」 「え?いえ、あの…しゅ、主人はもともとこっちに住んどるんです。その、結婚して、私がここに」 へえ、新婚さんか。ならもっと明るい顔してもよさそうなもんだが。まあ、置き引きに遭ったばかりでは、元気も出ないか。 「お名前は?」 「い…、じゃない、む、村井です」 そう言って「村井夫人」は、ほんの少しだけ、頬を赤らめた。 (下野原の村井ねえ。そんな家あったか?) 思い出しながら算盤を弾いていると、「村井夫人」が、ずらっと並んだ酒瓶を、思い詰めたような顔で見つめているのに気付いた。 「いかがです、一本。ご主人のお好みは?」 「あ、いえ、あの…うちの主人は、お酒は呑まんので」 なんだ、旦那は下戸か。ならうちと馴染みがないのも頷ける。 釣銭を渡し、礼を言おうとすると、 「あの…」 「はい?」 「出雲錦は…」 「は?」 なんだ?出雲錦? 一瞬考えて、島根の酒だと判った。大きな眼が、何かを言いたげに、じっとこちらを向く。 「ええと…」 「あの、いえ、やっぱりええです。ありがとうございました」 客人は慌てて買ったばかりの買い物籠に、醤油の一升瓶と漬物を入れると、店を出た。 「ああ、ありがとうございました。またどうぞ、ご贔屓に」 こちらも店の外に出て見送る。「村井夫人」は少し歩くと、律儀にもこちらを振り返り、深く頭を下げた。長い髪がばさっと、肩で揺れる。 体を起こすその拍子に、籠と鞄を持ち直して体勢を整えたのが判った。 「あれ持って、下野原まで帰るのかねえ…」 勘定場で見せた、縋るような眼を思い浮かべた。里が島根なのだろうか。それとも父親の好みの酒なのか。 (旦那着いて来てやれよ。新婚だろうが) アーケードを潜って遠ざかる細身の背中に、葱を入れた白い鞄が揺れているのを、私はいつまでも眺めていた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |