祝いの湯呑み茶碗(非エロ)
番外編


「ねえ、ねえ、橋木さん、知ってる?昨日ここで置き引きがあったの」

昼飯時が過ぎ、商店街が一時の静謐を取り戻した頃、隣の乾物屋「山田屋」のおかみが言った。

「ああ、そうみたいだね。そこの雑貨屋のお客がやられたとか」

私は昨日の下野原の新婚さんを思い浮かべた。

「その犯人捕まえたの、なんと美智子さんなのよー」
「えっ?『こみち書房』の?」
「そう。しかも警察に突き出さずに、そいつを店に置いてるんだって」
「はー、なんでまた…」
「さあ…。何か、いろいろ事情がある人なんだって、言うんだけど。美智子さんらしいっちゃらしいけどさ、でも相手は盗人よ?大丈夫かなあ…」
おかみは口を尖らせて、こみち書房があるほうを見やった。
「こみち書房」は田中という一家が営んでいる貸本屋で、この商店街から一本奥に入ったすずらん横丁にある。美智子というのはそこの女店主で、若い頃には活動写真の役者でもやっていたのかと思うような美人だった。
もっとも田中家といえば、少し前までは大衆食堂をやっており、本を読まない私にとっては、その頃のほうが馴染みがあった。看板メニューは唐揚げとポテトサラダ。うまかった。こう言っては何だが、アーチの向こうの食堂とは味の格が違う。
今では偶の買い物の時しか、顔を合わさない。酒の需要も多くない。田中の御亭主は「呑む」より専ら「打つ」男だった。
でも。
田中の御内儀は、月に一度は必ずうちへ来る。チョコレートやら、ガムやらを買いに。勿論、自身が食べる訳ではない。
私は、菓子類が並べられた棚を眺めた。

(品数増やしとくかな。子供が喜びそうな奴を)

そう、次の月命日までに。
しかし本当に大丈夫だろうか。あの置き引き犯、ほんのちらっとしか姿を見てはいないが、結構がたいが良かった。しかも妙に存在感があると言うか。
心配である。あそこの旦那は当てにならないし。

  ◆

山田屋に客が来て、おかみが店に引っ込むのと入れ替わるように、昨日の被害者、村井夫人がアーチを潜ってやって来た。
夕飯の買い物にはまだ早い時刻である。村井夫人は真っ直ぐ雑貨屋へ向かった。

(まさか、また置き引きなんかいないだろうな)

つい辺りを見回してしまう。今日は怪しい奴はいなさそうだった。
私が自分の店の客の相手をしていると、雑貨屋での買い物を終えた村井夫人が、再びやって来た。両手には品物をいっぱいに入れた紙袋を抱えている。

「こんにちは」
「いらっしゃい。昨日はどうも。今日は何か?」
「はい、あの、お茶の葉を。昨日買い忘れてしまって」
「ああ、それならこちらです。あの…」
「はい?」

大きな眼がじっとこちらを見る。私は何故だか、少々どぎまぎしてしまった。

「その…よかったらお預かりしましょうか、お荷物」

「え…」

村井夫人は大きな眼を更に見開き、私の顔と、膨れ上がった紙袋を、代わる代わる見比べた。
そして次の瞬間、破顔して言った。

「ありがとうございます。じゃあ、すんませんけど、これ、お願いします」

差し出した荷物を受け取ると、その細い指に、ほんの少し触れた。
かなりの重さだ。良くないとは思いつつ、つい紙袋の中身に目が行く。
フライパン、ざる、菜箸…。こんなものもないのか、村井という奴の家には。所帯を持つまでに、準備しておくものだろう、普通は。知らぬ土地へ嫁いで来たばかりの新妻に買わせるなんて。しかも一人で。
親も親だ。結婚なんて四、五日で決まるものじゃなし、花嫁道具くらいちゃんと用意してやったらどうなのだ。
ふと見ると、村井夫人は茶ではなく、店の隅に設えてある、食器用の陳列棚を眺めていた。
目の前に雑貨屋がある為、うちには食器の類はたいしたものはない。もう何年前に仕入れたか判らないような安物の和食器が、申し訳程度に置いてあるだけだ。

「これ、可愛ええですねえ」

それは女物の湯?み茶碗だった。乳白色と薄茶色の二色に塗り分けられた釉薬に、桜の花びらの模様が、舞うようにあしらってある。
何の銘もない売れ残りの茶碗を、村井夫人は飽かず眺めている。私は彼女を喜ばせたくなり、その湯?みをくるっと反転させた。
するとたちまち、花びらの模様が消える。

「わあ…」
「これ、角度によって模様が見えなくなるんです」
「面白い!違う湯?みみたい…」

村井夫人は、零れるような笑顔を見せて言った。
そして私は、気付いた時にはもう、こう言ってしまっていた。

「よろしかったらそれ、差し上げますよ」
「えっ!?」

彼女は眼をまん丸にしてこちらを見た。

「ああ、ご主人の分もご一緒に。ご結婚のお祝いです」
「そげな…。昨日お会いしたばかりの方に、そげなこと、していただく訳には…」
「いいんです、お近づきのしるしも兼ねてってことで。その代わり、今後とも当店をご贔屓に」

私は自分に出来る最大限の優しい顔を作った。おそらくはここ数年、女房にさえ見せたことのないような顔を。

「ええんですか、本当に…」
「勿論。さあ、ご主人の分も、どうぞ選んで」

私は、まだどうしたらいいか判らないという顔をしている彼女を、強引に促した。村井夫人はぴょこっと頭を下げると、今度は男物の湯呑みの列を覗き込んだ。
一つ一つ手に取り、長い時間をかけて、じっくりと眺める。真剣な表情だ。
結局彼女が選んだのは、青色で深筒の湯?みだった。

「あの、そげでしたら、お言葉に甘えて、これ」

村井夫人はおずおずと、二つの湯?み茶碗を、勘定場に並べた。
そして、しばらくそれらをじっと見つめる。堅く、口を結んで。

「ご結婚おめでとうございます」

私が不意に言うと、驚いて顔を上げた。

「…」
「割れないように、しっかり包みますね」
「あ、はい。ありがとうございます…」

言葉の最後のほうは、もうよく聞こえなかった。
祝いの言葉を、言ってよかったのだろうか。
初めての街を、不安げに歩く姿。鍋や釜すら、ないような新居。
隣に寄り添ってくれるのだろうか、その村井という男は。この湯?み茶碗のように。

「あっ!」

村井夫人は急に声を上げた。

「な、何ですか?」
「お茶の葉、買わんと!」

ばたばたと、店の奥へと急ぐ。

「こっちの分は、ちゃんとお金、払いますけん」

慌てて茶を選び出した彼女の横顔を見ていると、自然と暖かい気持ちになった。
湯?み茶碗を、丁寧に包む。花びらの模様が、古新聞の下に消えていく。
もう少ししたら、この街にも本当の桜が咲くだろう。その頃には、どうか心からの笑顔が見られますように。
私は祈らずにはいられなかった。

  ◆

そろそろ夕刻。
もうじきかなと、アーチのほうに目をやる。
無事に茶を買った村井夫人は、夕飯の買い物にもう一度来ると言い残して帰った。昨日買いそびれた大根と蜆を買うのだと。
ご苦労なことだ。下野原と小石町を一日二往復である。
遅くなるようなら、私が送ろうか…などど考えていると、馴染みの親子がアーチの向こうからやって来た。
夫婦と子供二人。浴衣に、濡れた髪の姿。この商店街の向こうへ風呂に通っているらしく、よく見かける家族だった。もっとも、あちらのほうに風呂屋なんてあったかな、といつも思うのだが。

「すんませーん、コーラ一本」

旦那が小銭を出しながら言った。

「いらっしゃい。コーラ一本ですね」
「あなた、駄目ですよ、コーラなんて。甘いものは子供達の歯に悪いって、お義母さんが…」

奥方が、慌てて制した。ちなみにこの奥方は、どこぞの歌劇団のトップスターだと言ってもおかしくなくらいの美女である。
旦那はその手を振り払うと、

「ええんだ、ええんだ、黙っとりゃ判りゃせんわ。…おい、健太に波子、仲良く飲めよ。おばあちゃんには言うなよ、ええな」
「うん!わーい、コーラだ!」
「コーラ大好き!」

私は奥方の顔を見ないようにして、コーラの瓶を旦那のほうに渡す。

「…もう、何かあった時、言われるのは私なんですよ…」

奥方はまだぶつぶつ言っている。よっぽど姑に悩まされているのだろう。
そろそろ日が傾きかけてきた中を、その家族は、商店街を抜けた先にあるという自宅へ向かって、一本のコーラを分け合って飲みながら、帰っていった。






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