番外編
春の気立つを以って也、か。 日に日に暖かくなっているような気がするが、ただそんな気がするだけのような気もする、中途半端な時期だ。野の花は、どうやら咲き始めているらしいが。 見慣れない男が二人、商店街にやって来た。一人が小さな紙切れと地図を見比べている。 「ここが小石町か…。ゲゲの奴、駅からえらい遠いところに住んどるなー」 安物の背広とシャツ。妙ににやけた、見るからに怪しげな男である。 「大丈夫ですかね。実は私、今夜泊まるところもないんですよ」 「大丈夫、大丈夫。この私にお任せを。奴とは無二の親友、竹馬の友なんですから。…ただですね、私が中森さんからこちらを頂いてることは、奴には言わんでください。何かと面倒ですから」 その男は胸の前でこっそり、人差し指と親指で丸を作ると、もう一人の男の肩をたたきながら言った。 「はあ…」 連れの男は小柄で色白、人は良さそうだが、ふっと消えてしまいそうな儚さがあった。何処か体でも悪いのだろうか。 不思議な組み合わせの男達は、アーチの向こうに消えていった。 ◆ その翌日。 午後、まだ早い時刻。 珍しいことに「あの男」が、うちの店にやって来た。 「あー、すんません」 「いらっしゃい、何か?」 「はあ、えーっと…」 きょろきょろと店内を見回し、菓子類の棚を見定めて言った。 「ちょっこし見せてもらっても、ええですか」 「はい、どうぞ。ご自宅用で?」 「はあ、まあ、菓子でも、と思って…」 見上げるほど長身の体を、窮屈そうに屈めて、棚を覗き込む。 品定めをしながら肩が上下するたび、体の片側にぶらさがる左袖がゆらゆらと揺れた。 この界隈で、よく見かける男。この男には、左腕がなかった。理由は知らない。 そもそも私は、どうやら近くに住んでいるらしい、そして東京の育ちではないらしいということ以外、この男のことを何も知らなかった。 商店街を、近くの野川沿いを、ふらふらと歩いていたり、自転車を走らせている姿を、しょっちゅう目にしていたが、それだけだった。いや…それだけではないか。 だが店に来るのは年に数回程度。ミセススミスのクッキーを一箱だけ買っていったのは、去年のいつ頃だったろう。 だからまあ、この男がどんな奴だろうが、どうでもよかった。絶対まともな勤め人ではないな、と思ってはいたが。 またクッキーでも買うつもりなんだろう。心なしか少々うきうきしているように見えるが、何かいいことでもあったのかも知れない。 「待てよ、菓子より、ラジオのほうがええかな…」 男はぶつぶつ言いながら、何事かを考え込み出した。残っているほうの手で、くしゃくしゃの頭をぽりぽりと掻く。 「なんか歌、歌うとったしな。気も紛れるだろうし…。そっちのほうが、気に入るかも知れん…」 (買わないなら、帰ってくれよ) そんなことを思いながら見るでもなく、男を見ていると―。 「…!」 突然、何かが心に引っかかった。 思わず、男の横顔を凝視する。 いつも見かける、ただのご近所さんだった。様子はいつもと少々違うようだが、だからどうだということはない。ないのだが…。 こちらの視線に気付いた男が、不思議そうに顔を向ける。 「なんです?」 「いえ…」 何だろう。自分でもよく判らない。 だが、何かが気になった。何か大切なことを、忘れているような。 「橋木さん、お酒、選んで欲しいんだけど」 そこへ馴染みのご婦人がやって来た。手繰ろうとして掴んだ思考の糸が、ぷつんと切れる。 「あ、はい、お味はどんなのが…」 客の相手をしながら、どんどん考えが散らばっていった。男の姿は、視界の端のほうに追いやられる。 「うーん、関西からお客様がいらっしゃるんだけど…」 「ご主人、やっぱり、今日はええですわ。どうも」 振り向いた時には、もう店内にあの男の姿はなく、妙にはしゃいでいるように聞こえる足音だけが、遠ざかっていった。 ◆ 夕飯の買い物客が増え出した頃には、私はもう、そんなことはすっかり忘れ去っていた。 人ごみの中を、村井夫人がやって来るのが見えた。今日は特に元気がない。 肩を落とし、俯いて、のろのろと歩いて来る。 「こんにちは!」 元気付ける意味も込めて、私は明るく声を掛けた。気付いた彼女が、顔を上げる。 「…」 大きな眼が、虚ろに揺れている。 泣いていないのが、不思議なくらいだった。 「あ…、こんにちは…」 無理に笑顔を見せようとしているのが、余計に痛々しい。 私は、次の言葉が見つからなかった。 村井夫人は買い物もせず、空の籠を膝に置いて、ベンチに座り込んでしまった。 こちらに背を向けているので、顔は見えないが、力なく俯いた後ろ姿が、心を雄弁に語っている。 何か、よっぽどつらいことがあったに違いない。 強い風が吹きつけ、長い髪を舞い上がらせる。 どれ程冷たく感じているだろう。暦の上では、昨日からもう、春だというのに。 どのくらいの間、そうしていたろうか。村井夫人は、ふと顔を上げ、何かに目をとめた。 立ち上がり、吸い込まれるようにそちらへ行く。手を伸ばしたのは、魚屋「魚調」の向かいの店の前にある、赤電話だった。 縋るように赤い受話器を握る。故郷へでも、電話をしているのだろう。 その姿から、私は目が離せなかった。 一旦横丁のほうへ姿を消した後、再び商店街に戻って来た村井夫人は、少々元気を取り戻したらしく、意外にもかなりの量の買い物をして、帰っていった。 アーチを潜って商店街に来た時には、そんな気力はないのではないかと思われたが、案外しぶといのかも知れない。 日が暮れ、あちこちの家から夕餉のいい匂いがしてくる頃、私は閉めた店の中で、ずっと彼女のことを考えていた。 旦那に、何かきついことを言われたのだろうか。 それとも姑か。いや、包丁やまな板すらないような家に、他に女手があるとは思えない。 だが同居していなくても、嫁に嫌味のひとつくらい、きつい姑なら言うだろう。あの風呂屋通いの一家も、お姑さんとは一緒に住んではいないようだった。 帳簿をつける作業が、いっこうに進まない。 「出雲錦、出雲乃神、雷出雲…」 不意に背後から女房の声がした。私の肩越しに、手元を覗き込んでいる。 「なっ、なんだ、お前…」 「あんたこそ、どうしたの。ぼーっとして」 「いっ、いや、べっ、別に…」 慌てて算盤に手を伸ばす。 「それに出雲、出雲って、何よ、急に。縁結びの神様への願い事でも、出来た訳?」 「は?」 言われて初めて気付く。いつの間にか私は帳簿の隅に、島根の酒の銘柄を書き出していた。 「いっ、いや、これは、その…。ちょっ、ちょっと、散歩して来る」 様子を不振がる女房から逃げるように、席を立つ。首を捻りながらも店内の片づけを始めようとする女房の姿に、思わず声を掛けた。 「なあ、お前」 「はい?」 結婚した頃、つらいことはなかったか―? 「いや、何でもない」 そんなこと訊けるはずもなく、私はそそくさと家を出た。 散歩などと言って家を出たが、行くあてもなく、取りあえず駅のほうへ足を伸ばす。 結婚した頃…か。その頃私は、親父から商売を任され始めたばかりで、一日中店のことばかり考えていた。女房がどんな様子だったかなど、全く覚えていない。 (あいつもあの赤電話から、こっそり実家に電話をしたことの一度や二度、あったのかも知れないな) ぶらぶらと駅まで来た。夜とは言ってもまだとば口、駅前はさすがに人の往来が絶えていない。 「あっ!」 切符を買う客の中に見知った顔があった。あの置き引き犯である。 「ちょっと、あんた…。『こみち書房』にいるって…」 思わず肩を掴んで、声を掛けてしまった。が、よくよく考えたら、この男は私のことを、知らないはずであった。 「へっ?」 案の定、男は細い目を見開き、きょとんとした顔で私を見つめる。 「いや、その、私は『すずらん商店街』の者なんだが、あんた、その…」 「ああ、もしかして、旦那は私のやらかしたこと、ご存知で…」 意外にも彼は、かなり腰の低い男だった。 「いやー、お恥ずかしい。出来心とは言え、本当、面目ないです。貸本屋の奥さんにも、随分ご迷惑をお掛けしちまって…」 「はあ…」 「せっかく機会をいただいたんで、今度こそやり直すつもりです。あそこの奥さんには、原田が感謝していたと伝えてください。あと…あの、私がバッグを盗った女性にも、申し訳なかったと」 話はよく見えなかったが、何となく想像は出来た。田中夫人がすることであるし。 男は、何度もお辞儀をしながら、改札を抜けていく。もう二度と会うことはないだろうが、原田という名の置き引き犯は、忘れがたい存在感を残し、去っていった。 ◆ その後。状況は一変した。 いや、このすずらん商店街の毎日は、相も変わらず続いている。八百屋や魚屋の声が響き、そこに馴染みの買い物客が集まる。朝と午後には、ランドセルを背負った子供達が行き過ぎ、ベンチで憩う人々の口には、世間話の花が咲いている。 だが、そこにやって来るあの下野原の新しい住人の表情が、別人のように明るくなった。今となってはあの時の、電話を掛ける頼りなげな後ろ姿が、嘘のように思える。 何があったのだろう。変わったことと言えば、買い物に自転車で来るようになったことくらいだが。 数日そんな彼女の様子を見た後のある日、帰ろうとする村井夫人に声を掛けてみた。 「やっぱりいいですか、自転車は」 「えっ!?」 村井夫人は、あの印象的な大きな眼で、驚いたように私を見つめ、そして次の瞬間、にっこりと微笑んでこう言った。 「はい、ええですね、とっても」 視線を自転車に向け、愛おしそうにハンドルを撫でながら、呟くように続ける。 「大事にせんといけんですね。これからも、ずっと」 そして村井夫人は、頭を下げながらサドルに跨り、田舎道の向こうにあるであろう「我が家」を目指して、走り去っていった。 (よっぽどきつかったんだな、徒歩で買い物に来るのが) 頭の中でそう理由付けてはみるものの、笑顔の本当の理由は、きっと違うところにある―漠然とではあるが、私はそう感じていた。 アーチの向こうに消えていく、自転車に乗った後ろ姿を撫でる風は、確実に少し、暖かくなっていた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |