隻腕の男(非エロ)
番外編


あの男の存在に初めて気付いたのは、いつのことだったろう。
数か月前?いや、一年以上前か。
とにかくしょっちゅう街中をぶらぶらしていた。昼夜関係なくである。そういえば朝方に見かけたことはない。
ある時気付いたのは、その男が、歩きながら、または自転車に乗りながら、やたらとぶつぶつ言っていることだった。
服はほぼ、着た切り雀、それにあの片腕。眼鏡を掛け、決して人相は悪くないが、はっきり言って胡散臭い。まあ、だからと言って、何か悪さをしたという話も聞いたことはなかったが。
今日も夕方頃、この商店街を通り過ぎていったのを、見かけたばかりである。

「どうもいけんなあ…」
「どうにも、ぱっとせん…」

などと言いながら、しきりに首を捻っていた。右手に持っていたのは、ぺんぺん草だったろうか。
世の中いろんな人間がいるものである。

  ◆

閉店の少し前くらいの時刻になると、一日の仕事を終えた若い工員達なども、店にやって来る。
この近くに寮がある製菓工場の従業員はお得意様で、顔見知りも多かった。
皆よくやっていると、つくづく思う。私などはここで生まれて育ち、隠居したとは言え、未だ健在の両親とずっと寝食を共にしている。若くして生まれ故郷を離れ、一人で都会暮らしをしつつ実家へ仕送りをするという生活の苦労は、私には計り知れない。

「真弓ちゃん、これ見て。うちの新商品、並んでる!」
「あー、本当だ。これ、おいしいよね。いろんな色があって、かわいいし」
「買っちゃおうかな、自分の会社のだけど」
「ねえ、小林さんはうちの商品だったら、どれが好き?」

真弓という女子工員が、たまたまうちに来ていた同じ会社の男子工員―太一に話し掛けた。どうやら彼らは知り合いらしい。

「…俺は、よく判んねえから…」

太一が口篭る。途端にこの場の雰囲気が、ぎこちなくなる。
何か新しい話題でも出して、盛り上げてやろうか、と一瞬考えた。だが、こちらが助け舟と思って出したものが、あちらにとってはいい迷惑、ということも十分あり得る。よく顔を合わせる仲のようだし、下手なことは出来ない。
俯いていた太一は、やがて何も買わずに、店を出ていってしまった。

(若いってのは、いろいろ大変だな)

一応男の端くれである私には、太一の気持ちが何となく判るような気がして、同情の気持ちを寄せずにはいられなかった。
そんな彼の後ろ姿を見送りながら、真弓嬢は問うてきた。

「ねえ、おじさん、男の人って、気味の悪い絵とか好きなの?」
「さあ…。俺は絵には興味がないけど、どうせ見るなら綺麗な女性の絵がいいな。どうして?」

中年男の軽口を、きゃっきゃと笑う女子工員達。そして真弓嬢が言った。

「やっぱり小林さんて変わってるよねー。この間、物凄く気味の悪い絵が載ってる漫画読んでたの。何処が面白いんだろう、あんなの」
「いい人ではあるんだけどねえ」
「ねー」

あーあ、可哀相に、太一君。若い女性は無邪気で、時に残酷だ。
どうやらいずれ近いうちに彼は、切ない思いを味わいそうである。
しかし、物凄く気味の悪い絵の漫画、か。なんだってまた、そんなものを。彼女達の気持ちも判らないではなかった。進んでお近づきになりたい相手とは、思えないかも知れない。
漫画に縁のない私には、申し訳ないが彼の趣味に理解を示すことは出来なさそうだった。ましてやそんなものを描いている人間が何処かに居るなんて、信じ難い話である。

村井夫人は、もうすっかりこの街に馴染んだようで、商店街の人間達とも打ち解け、特に隣の山田屋のおかみ、和枝とは買い物するたびに話し込むような仲になった。
盗み聞きするつもりはないのだが、これだけ近いとまあ、いろいろと聞こえてくる。
やはり故郷は島根だった。あの「安来節」で有名な、安来だそうだ。
残念ながら自分にとって山陰地方は、全く馴染みのないところだ。安来という土地についても、銭湯の旦那が宴会で「どじょうすくい」を踊ったなということくらいしか、思い付かない。
それから村井夫人の下の名前が「フミエ」だということも判った。 
が、未だに旦那がどういう奴なのかは、よく判らない。仕事は何をしているかくらいは、話題に出てもよさそうなものなのに。判ったのは、健啖家であるらしいということだけだ。
何日か前、畑の向こう側へ配達に行く機会があったので、ついでに車で少し回ってみた。だが、一口に「下野原」と言っても広く、結局何処に住んでいるかまでは判らなかった。まさか、家の番地まで訊く訳にもいくまい。
ちなみに近頃の村井夫人は、よくポストに葉書を一枚、投函している。
面白いのは、その時決まって困った顔をしていることだ。ポストの前で溜め息なぞ、ついていることもある。

「あーあ、とっておきの深大寺の桜の話も、これで書いてしまったなあ。次どげしよう…」

今日も出す前の葉書らしい書面を眺めながら、ベンチに座って思案に暮れていた。
何が理由か知らないが、眉を八の字の形にして悩んでいる姿に、私の顔はつい、ほころんでしまう。
真剣に困っているらしい御本人には失礼だが、どうしても以前の姿と比べてしまうのだ。同じベンチに座っていても、あの赤電話に目をとめた時の姿とは、まるで違う。

(上手くいってるんだろうな、旦那と)

あの葉書にまつわる悩み事だってきっと、幸せであるが故に生じる、ささやかなものなのだろう。

「深大寺の桜ねえ…」

村井夫人の言葉で思い出した。満開にはまだだが、その時期である。時が過ぎるのは早いものだ。
そういえば、あの男を深大寺でもよく見かける。カランコロンと下駄を鳴らして歩く姿、石段に座り込む姿。ぼーっとしていることも多い。よっぽど暇なのだろうか。いい御身分だ。
実は一度だけ、たまたま深大寺のお堂の前に座り込み、何か書き物をしていたあの男が、立ち上がって場所を移ろうとしているところに居合わせたことがある。その時、何となく跡をつけてみた。どんなところに住んでいるのか、知りたくなったのだ。
だが男が向かった先は、なんと墓場だった。供花の一基も持たずに墓参りか、と思ったが、どうやらそうではないらしく、かと言って墓場で何をしていたのかは結局よく判らない、という有様。
あちこちの墓を覗き込んだり触ったり、そして相変わらずぶつぶつ言う。しかも何だか嬉しそうなのだ。
本当に、世の中いろんな人間が居る。
確かにおかしな男だが、まあ、そういう奴がたまたま近くに住んでいるという、ただそれだけのことである。

「最近またぶり返してきてねえ…」

買い物を終えた田中の御母堂が、膝をさすりながら、困り果てたように言った。こみち書房のおばあちゃん、キヨだ。リュウマチの持病があるのである。

「大丈夫かい?横丁に帰るなら、手貸そうか」
「いや、大丈夫だよ。ちょっとここで休んでれば、すぐ治まるから」

よっこいしょ、と、キヨは店の前のベンチに座り込んだ。
向こう側のベンチには、随分前からあの片腕の男が、こちらに背中を向けて座っていた。考え事か、居眠りか。私が気付いてから、小半時ほど経つ。
だが今はそちらより、キヨのほうが気になった。
かなり痛そうだ。体を縮こまらせ、うっすら脂汗まで掻いている。
山田屋のおかみ、和枝も店から出て来た。

「おばあちゃん、ちょっと、大丈夫?美智子さん、呼んで来ようか」
「いいから大袈裟にしないでおくれ。大丈夫だから。ほら、少し良くなってきた」

ふーっと大きく溜め息をつき、顔を上げた。痛みの山はどうにか越えたらしいが、依然つらそうだ。

「また布美枝ちゃんにお灸してもらったら?」

和枝が不意に村井夫人の名を出した。

「へっ?フミエ…さんて、あの、畑の向こうに住んでる?」

私は思わず訊き返した。村井夫人が灸とは、初耳である。

「そう。お灸の名人なのよ。ね、おばあちゃん」
「ああ。確かによく効くんだよねえ、あの子のお灸は。なんかこう、優しい気持ちが、じーんと入ってくるようでさ…」

キヨは、うっとりとしながら言った。

「そうだねえ、今度あの子が来たら、また頼もうかな…」

へえ、そんな特技があったとは。感心しながら聞いていると…。
気付くと、いつの間にかあの男が、ベンチに座ったまま、振り返ってこちらを見ていた。
驚いたような、何かを悟ったような、今までに見たことがないような顔をしている。
何だろう、と思いながら私は、男の見慣れたシャツが、以前より何となくぱりっとしていることに、初めて気付いたのだった。






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