女神の献立(非エロ)
番外編


「『安来』ってのは『心が安らかになる』って意味なんだな…」

商品の説明書を読みながら、私は独り言ちた。
高天原を追放され、出雲に降り立ったスサノオが、その地を訪れて「安来」と名付けた…という説があるのだそうだ。
自分が散々悪さをした為に追い出されたというのに、行った先で「あー、此処はほっとするなあ」などとのたまうとは…。男というのは、神代の昔から勝手なものである。

「…やけに熱心ね」

横に居る女房が、探るようにこちらを見る。

「い、いや、日本酒の起源は出雲にあり、とも言うしな…」

私は慌てて、周りを片付け始めた。全く女というのは、いつの世も妙に鋭い。

「ふーん…」

女房は、店の奥の、酒瓶の並ぶ棚を眺めながら、何か言いたそうな顔をした。
別に気まずく思うことなど何もない、と自分に言い聞かせる。ここは私の店で、ここの売り上げで私は家族を食わせている。そうだとも、どんな商品を置くかについてだって、常にちゃんと考えているのだ。

「こんにちはー」

エプロン姿の女性客がやって来て、雰囲気を変えてくれた。続いて、帽子の男性。「いらっしゃい」と女房が、いつもの商売用の愛想を出し始め、こちらもほっとして、表に目を向ける。
その時、自転車に乗った村井夫人が、ちょうどポストの前にやって来た。手紙の束を握り締めている。
これが三回目?いや、四回目だろうか。ここ最近彼女は、月に一度くらいの割合で、大量の手紙を出すようになった。勿論何の手紙かは判らないが、厄介事ではなさそうだ。投函する時はいつも、何となく誇らしいような顔をしていた。
だが、今日は少々勝手が違うようだ。何処となく意味ありげな、複雑な表情をしている。
村井夫人は、手紙の束をいつものように投函した後、ぴょこっとポストに向かってお辞儀をし、そのまままた自転車に乗って、横丁のほうへ消えていった。

(そういえば―)

その後ろ姿を見送りながら、私は数か月前のことを思い出した。
あれは結局、何だったのだろう?
桜がまさに満開を迎えようとしている頃のことだった。この街に、見慣れない男達がうろつき出したことがあったのだ。
背広姿の二人組。いつも険しい表情で、何かを探っているようだった。
特に二人のうちの年長者のほうは、その大きな眼に、全てを見通すかのような鋭さがあり、私は何となく背筋が寒くなった。
商店街では、皆遠巻きにしながらも、何事だろうと噂はしていた。そいつらの正体も、この辺りにいる目的も判らなかったが、一つ確かなのは、彼らの目的のものはアーチの向こう側にあるらしいということだった。
数日経つと、事情通の輩から情報が集まってくる。

「どうやら警察らしいよ」

魚屋「魚調」の店主が言った。向かいの店の前の赤電話で電話している、その会話の内容が聞こえてきたらしいのだ。
更に何処からともなく、どうやら彼らは、この界隈に潜んでいる政治犯を捕まえようとしているらしい、という話が耳に入ってきた。

「下野原の高木さんの家の近くにいるらしいって、聞いたけど」

私にそう教えてくれた馴染みの女性も、又聞きの又聞きくらいであり、信憑性には欠けたが、「下野原」という地名は引っ掛かった。
そうこうしているうち、村井夫人が手紙の束を抱えて商店街にやって来た。おそらく、その時が初めてだったと思う。随分大量の郵便物だな、と思って見ていると―。

「えっ?」

近くに居るのは、あの男達だった。あの、政治犯を追っているという警察の二人組が、彼女をつけていたのだ。

(あの人が政治犯?そんな馬鹿な…)

訳が判らなかったが、事実だった。当の本人は全く気付く様子もなく、にこやかに周りに挨拶などしている。
その後は間がいいのか悪いのか、私があの二人組を見かけることはなかったが、彼らはしばらくの間この辺りに居たようだった。そして、いつの間にか、完全に姿を消してしまった。
結局のところ、政治犯は捕まったのか否かさえ、判らないままだ。勿論、村井夫人がどう関係していたかも。

季節は移り、この街にも、夏がやって来た。
うだるような暑さに、蝉時雨。一日中店に居ると、拭いても拭いても、汗が噴き出してくる。
商店街の毎日は相変わらずだが、村井夫人には、ちょっとした変化があった。
いや、いつも通り買い物をして帰るだけなのだが、何と言うか、その買い物に「気合いが入っている」のが感じられるのだ。
八百善や魚調で食事の材料を選ぶ際、かなりの時間を掛けているのが判った。店主達との会話も長い。いろいろ訊いているのだろう。
そんなある日、うちへ来た時に訊いてみた。最近お料理にお力を入れているんですか、と。

「『好機の到来』なんです!」

頬を蒸気させて、彼女は言った。

「は?」
「あ、いえ、あの…うちの主人の仕事が、今大変な時なんです。それで、少しでも精のつくものを、と思って。…なるべく、安上がりで」
「へえ、それで…」

甲斐甲斐しい話だ。あの大きな眼で、買い物籠の中を満足そうに見つめる。

「今夜はちょっこし、お茄子を焼こうかな、と」

籠からは、みずみずしい茄子が顔を覗かせているのが見えた。
そしてその数日後には、何を作るつもりなのか、村井夫人は、大量の生姜を買った。

  ◆

生姜をたくさん買い込んだ翌日辺りから、しばらくは、村井夫人の荒かった鼻息は少しおさまった。
だが一週間程すると、彼女はこんなことを言い出した。

「お祝いのお食事って、どげなものがええでしょうかね?」

嬉しさが隠しきれない、という表情である。こちらまで、ついつられて笑顔になる。

「お祝いですか。いいですねえ。ところで、なんの?」
「はあ、その…。主人の仕事がやっと、形になる、と言うか…」

まるで自分のことのように、誇らしそうだ。

「へえ、それは…。ご主人、何がお好きで?」
「何でも。しかもよう食べるんです。滅多にない機会ですけん、ちょっこし豪勢にお肉を…と思っとるんですけど」

その時、背後から声がした。

「だったら、すき焼きは?奥さん」

女房だった。いつの間にか、私達の会話を聞いていたのだ。

「すき焼き!ええですね。椎茸に春雨に…お野菜もたっぷり入れて」
「そうそう。ご主人、きっと喜ぶわよー。そうだ、割り下に入れるのにいいお酒、見繕ってあげましょうか?」

何だか女同士、妙に話が弾んでしまっている。すると、村井夫人がきょとんとした顔で言った。

「『ワリシタ』って、何ですか?」
「へっ?」

今度はうちの女房が驚く番だった。

「何って、『割り下』よ、すき焼きの。タレ、と言うか…」
「えっ、東京ではすき焼き用の『タレ』があるんですか。知らんかったです。うちの実家では、お醤油に、みりんやなんかで味付けしますけん」
「へえ、そうなの。面白いわねえ。奥さん、ご実家は?」
「島根の安来です」
「安来…」

それを聞いて女房が、こちらに視線を向けたのが判った。
まさに追放寸前のスサノオを睨む、アマテラスの目。私は思わず、関係のない方向を向く。

「はい。今年結婚してこちらに。へえ、お料理って地方によって、いろいろあるんですねえ」

無邪気に笑う村井夫人の顔と私の顔を、女房が見比べている。
全く、女ってのは…。
そんな私の心境を知ってか知らずか、うちのアマテラス―姉ではなく、妻だが―は、村井夫人を奥の棚へと促した。

「なら奥さん、お宅の地元のお酒もあるわよ、うちに。最近仕入れたの。島根風のすき焼きにも、お酒は使うんでしょう?」

棚に目をやると、たちまち村井夫人の顔が輝いた。

「わあ、『出雲錦』だ!これ、おいしいんですよー!香りが良くて、コクがあって…」

女達は酒と料理の話で盛り上がってしまい、私はすっかり蚊帳の外に置かれてしまった―。

  ◆

それから数日後、「夫の仕事がやっと形になる」日を迎えたらしい村井夫人は、すき焼きの材料をどっさり買い込み、嬉々として帰っていった。
この前うちで買った故郷の酒を、味付けに使うのだろうか。
それにしても。
誓いまで立てて邪心がないことを示したのに、追放されるようなことをしでかした弟が、下界で大蛇を退治し、英雄として語られるのを、アマテラスはどんな思いで見ていたのだろう。
それは判らないが、その時以来アマテラスは、自らと同じ性を持つ者全てに、その後継として相応しかるべき何かを、こっそり植え付けているような気がしてならない。
何にしても、その母が葬られ、その弟が名付けたという土地で生まれ育った、今は東京調布に住むあの女神の末裔は、今頃、降るように聞こえる蝉の声の中、何でもよく食べるという夫の為に、おいしいすき焼きを作ろうと奮闘しているに違いない。






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