正体不明の男達(非エロ)
番外編


夏の暑さも峠を越えたある日。見知らぬ男が店にやって来た。
度の強い眼鏡を掛け、少々人より前歯が出ている。だが、人柄は良さそうだ。

「あのー、ご主人、ちょっとお伺いしますが」
「はい、何でしょう?」
「『水木しげる』さんて、ご存知ですか」
「は?ミズキシゲル、さん?ええと…」

聞いたことがない名前である。

「失礼ですが、どなたかをお探しで?」
「あ、いいえ、人探しじゃないんです。ご主人が『水木しげる』って方をご存知かどうかを、知りたいんです、僕ぁ」
「はあ…」

何だかよく判らないが、それ以上事の次第を尋ねる気にもなれなかったので、訊かれたことに正直に答える。

「さあ、存じ上げないお名前ですね」

私がそう言うと、その眼鏡に出っ歯の男性は、残念そうに言った。

「そうですか、やっぱり…。そうかー、新作が出たばかりなのになあ。もっと宣伝しないと駄目だなあ…」

男は肩を落とし、ぶつぶつ言いながら今度は魚調に入っていった。どうやら、この辺りの店の人間に、片っ端から同じ質問をして回っているらしい。
魚調の店主がどう答えたか知らないが、魚屋を出ようとする際、その男が店主に「すみません、この辺りに、貸本屋ってありますか?」と訊いているのが聞こえてきた。
店主が横丁の方向を指し示す。こみち書房の場所を教えているのだろう。
男は頭を下げると、そちらの方角へ消えていった。

  ◆

その数日後。

私が同じ商店街の中にある床屋「バーバー三浦」に、散髪に行った時のことだ。
うつらうつらとしながら髪を切ってもらっていると、隣の席に貸本屋を営む田中家の御亭主、政志が座った。

「髯だけ頼むわ」
「あいよ。政志さん、今日はどうだった?馬のほうは」
「まあ、ぼちぼち…と言いたいところだが、最近駄目だね。ついてねえわ、俺は」

乾いた声で笑いながら、自虐的に言う。私はふっと田中夫人、美智子の顔を思い浮かべた。
他人の家のことだ。気軽に口出しなど出来ない。私は邪念を振り払うと、ここで初めて目が覚めたふりをして、改めて挨拶をした。

「よう、政志さん」
「よう」

政志の目は、やっぱり何処か投げやりだった。
ふと視線を他へ移して、店内に見慣れない貼り紙があるのを見つけた。それには太い字で、こう書いてある。
―調布在住の漫画家、水木しげる先生を応援しましょう!!―

(漫画家?水木しげる?)

私は、私の襟元で、器用に鋏を操っている床屋のおかみ、徳子に訊いてみた。

「徳子さん、この貼り紙、一体なんだい?」
「えーっ?ああ、それね」

手を止めずに会話を続けるのも、お手の物である。

「町内で宣伝することになったのよ。靖代さんとこにも貼ってあるわよ。…って、橋木さんところ、内風呂あるから銭湯行かないか」
「漫画家ねえ。調布在住って、この近くなのかい?俺は知らんが…」
「実は私も、つい最近まで知らなかったの。大きな声じゃ言えないけど、あんまり売れてないみたい。まあ、だから宣伝がいるんだけどさ」
「『水木しげる』ねえ…」

漫画家など一人も知らない私が、この名前は何処かで聞いたことがあった。少しの間考えて、思い出す。

「ああ、いつだったか、出っ歯で眼鏡の男が店に来て、『水木しげる』がどうのって言ってたな」
「そう、その人がきっかけ。その人も漫画家で…ええと、名前、イヌイさんだったかな、みんなに薦めてたの、こみち書房で。面白いから是非読んでって。あんまり熱心なもんだからさ、私達も協力しようってことになって」
「へえ…」
「まあ、私はちらっと眺めたくらいだし、読んだとしてもいいかどうかなんて判らないと思うんだけど、有名になってくれたら、嬉しいじゃない。ご近所さんなんだしさ」

床屋の亭主が、蒸しタオルを用意している。

「俺は読んだことあるよ。戦争ものを何冊かだけど」

不意に隣の政志が、会話に入ってきた。

「あら、ほんと、政志さん。どうだった?面白い?」
「うん、まあな…」

意味ありげな言い方だった。その表情が見たかったが、顔の上にはもう、蒸しタオルが乗っていた。
戦争もの、か。政志も漫画など、読まない男だろうに。

「ふふ、出っ歯に眼鏡…。確かにねー」

徳子が思い出し笑いをする。何となく、政志に気を遣って、話題を逸らしたように感じた。

「ああ、でも、きっかけは確かにその人だけど、応援したくなった理由は、奥さんかな。健気なのよー、まさに内助の功って感じで」
「へえ…」

売れない漫画家に尽くす妻、か。物好きな女もいるものだ。よっぽど旦那に惚れているのだろうか。

「内助の功ねー。お前には縁のない言葉だな」

床屋の亭主が軽口をたたく。

「うるさいわね。助けたくなる旦那かどうかが問題なのよ」

ははは、と笑いながら、政志にはこの会話のほうが耳が痛いんじゃないか、と思ってしまった。
水木か…。奥方のほうも、存じ上げないな、多分。この界隈にも、私が知らない住人が増えたものである。

  ◆

ほぼ同時に、私と政志は床屋を出、別れ際に彼はこう、問うてきた。

「橋木さん、うちの奴、今でも…」

言葉を最後まで継げない、シベリア帰りの男。気持ちは判る。判るが…。

「ああ、参ってるみたいだよ、毎月」

たまにはあんたも一緒に行ってやれよ。私も、その言葉を、どうしても言うことが出来なかった。

  ◆

時が経ち、この商店街にも、茶色く色付いた落ち葉が舞うようになった。
見る分には紅葉は綺麗だが、散り出すと掃除が大変である。掃いても掃いても店の前には、落ち葉の吹き溜まりが出来る。

「ゴホン、ゴホン」

見ると、立春の頃にこの街にやって来た、あの小柄で色白の男―中森という名だそうだ―が咳をしながら通り過ぎた。どうやら風邪気味らしい。
この男には、不思議な存在感があった。相変わらず消え入りそうに儚い風体、そして雰囲気なのだが、どういう訳か気になってしまう。見かけると、つい、目で追ってしまうのだ。本当に消えてしまわないか確認しないではいられない、といったところか。
それにしても今日の顔色の青白さは、尋常ではない。本当にかなり具合が悪そうだ。

「ああ、下宿代、払えないなあ。どうしよう…」

しかも悩みは尽きないようで、気の毒で仕方ない。私は思わず声を掛けた。

「あの、大丈夫ですか?」

中森は、驚いたように目を上げた。声を掛けたからどうだ、というものでもないのだが、熱でもあろうものなら送っていくことくらい出来るだろう。

「はあ、ありがとうございます。何とか…。あの、ご主人」
「はい」
「お茶っ葉って、食べられますかね」
「へっ?」
「い、いえ、何でもありません。お気遣い、ありがとうございます」

男は力のない笑顔で、丁寧に頭を下げた。

珍しく、村井家に客が来ているらしい。
見かけた訳ではないのだが、村井夫人が客用の酒を買ったのだ。つまみの胡瓜漬けも。
「ずっと神戸に住んでいた、年配の男性に振舞いたい」と彼女は言った。八百善の親父によると、今日は買い物籠に肉も入っていたそうだ。
私は早めに店仕舞いをし、喫茶店「再会」に来ていた。
コーヒーを飲みながら、村井夫人の顔を思い浮かべる。招かれざる客、という訳ではないのだろうが、どうにも気になる。何となく、元気がなかった。
カウンター席には、質屋「亀田質店」の店主、達吉がマスターと無駄話をしている。また明日辺り、店に来た亀田の奥方の愚痴を聞かされそうだ。
マスターが言った。

「そう言えば、今日珍しく、村井さんが来てましたよ、お客さん連れて」
「へえ、珍しいねえ、そりゃ」

(村井!?)

私は思わず、二人の会話に耳を傾けた。夫人のことだろうか。

「昔馴染みの方のようでしたね。妙に声がいい、ご年配の男性で。歌も上手そうだったな、あの人」
「いろんな面白い人知ってそうだもんな、村井さんて男は」

(旦那の話だ!!)

もう我慢が出来なくなり、私は、コーヒーカップを持ってカウンターに移った。その「連れ」というのが、夫人が酒をご馳走したいと言っていた客なのだろう。

「村井さんて、あっちのほうに住んでる村井さん?」

私は、畑の向こう側を親指で示す。
なるべくさりげなく話題に入った。根掘り葉掘り聞きたいところなのだが、如何せん皆近所の住民、何処から「私が根掘り葉掘り聞いていた」ということが、御本人達の耳に入るか判らない。

「そう。いやー、大変だよね、人気商売もさ。おかげでうちとの付き合いも、長いよー。大きな声じゃ言えないけど」
「ははは、そうかねえ」

人気商売―。何だろう、役者かなんかだろうか。実は物凄く手足が長くて顔の小さい、男前だとか。

「四十過ぎて芽が出ることなんて、あるのかねえ。まあ、あの業界のことは、よく知らないけどさ」
「四十…」

おいおい、新婚だろう。その年まで、独り者だったというのか。
いや、向こうは初婚ではないのかも知れない。女関係は、どうなのだろうか。

「様子どうだった?村井さん」

達吉がマスターに尋ねる。

「はあ、まあ…。変な雰囲気でしたね。お連れさんは駄洒落みたいなこと、言ってたような…。あ、虫歯が痛いって頬を押さえてました、村井さん。ああ、こっちか」

マスターは左手で左の頬を押さえていたのを、右に変えた。
歯なんぞ、左右どっちが痛かろうと、そんなことはどうでもいい。
私は、冷め切ったコーヒーを、スプーンでぐるぐると掻き回していた。

  ◆

すっかり暗くなってから、私は「再会」を出た。
帰宅する道すがら、無性に腹が立って仕方がなかった。
何なのだ、村井という男は。質屋の常連だって?どう暮らそうと構わないが、ちゃんと稼ぎで女房を食わせろよ。何が人気商売だ。
間違いない。今、村井夫人の顔を曇らせている問題の種は、旦那にある。その「神戸からの客」とかいう奴が厄介事を持ち込んだのだ。カネか、それとも女か。
この時私の心の中では、村井という男は、まともに勤めることもせず、ふらふらと好きなことをし、四十になってから純朴な田舎の女性を嫁にもらって生活の苦労をさせる、とんでもない男ということになっていた。
そして、仕事が上手くいっている時だけいいことを言って、それであの素直な人は喜んだりしているのだ、と。
まだ見ぬ村井氏に対し、沸々と怒りを煮えたぎらせているうちに、商店街に着いた。もう人気はなく、何処かで野犬が吼えているのが聞こえる。
ふと見ると、向こうから私に負けず劣らずの勢いで悪態をつきながらやって来る男がいた。あの、片腕の男である。
私のことは全く目に入らないといった様子で、怒り狂っている。

「富田の親父め!絶対に許さん!!断固、国交は断絶だ!!!」

訳の判らないことを言いながら、あっと言う間にアーチの向こうへ消えていった。
漫画家水木しげる、下野原の村井某、そしてあの片腕の男。
皆私の近くに居ながら、その正体がよく判らない男達なのであった。






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