雄弁な瞳・前編(非エロ)
番外編


十一月下旬のある日。
今日は妙な一日だった。いや、初めのうちは、まさに穏やかな小春日和といった感じで、のんびりとしていたのだが、だんだんおかしくなってきたのだ。
最初は村井夫人だった。珍しく、余所行きらしい青色の服を着て、見慣れぬ女性と駅のほうへ去っていった。
友人か親戚か、色白で、親しみやすい感じの女性だった。喫茶店「再会」の菓子の箱を持っていたので、評判のモンブランでも土産に渡したのだろう。
そのまま何処かへ行くのかと思いきや、村井夫人はすぐ戻って来た。駅まで送っていっただけだったらしい。
その時には何だかすっかり元気をなくしていて、軽く溜め息などついていた。女性と喧嘩でもしたのだろうか。とてもそんな二人には見えなかったが。
そのまま横丁のほうへ消え、かなり長い時間戻って来なかった。

夕方近くになって、あの風呂屋通いの一家が通り過ぎた。それはいつも通りなのだが、一家はあっと言う間に戻って来たのである。
何処まで行っているか知らないが、いつもに比べると余りにも時間が短く、見た感じでは、どうやら風呂には入っていないようだった。臨時休業だったのだろうか。
その一家が行って帰って来るまでの間に、ここを慌てて過ぎて行ったのが、もう一人の見慣れぬ女だ。
年の頃は四十手前といったところか。髪をアップにし、上等な茶色の服を着た、なかなかいい女である。
旦那はさしずめ銀座勤めか、と思われるような、いいところの奥様然とした女なのだが、その女の慌てっぷりが尋常ではなかったのである。何事か事件でも起きたのかと思ったくらいだ。何だったのだろう、あれは。

日が暮れようとしている頃、あの片腕の男も通った。まあ、あの男がふらふらしているのはいつものことなのだが、今日は何か分厚い本を手に持ち、眺めながらやけににやにやしていた。

「これ見たらきっと、喜ぶぞー。何しろ百七十六ページだけんな」

などと、相変わらず、ぶつぶつ言っていたが。
暗くなり、店仕舞いを始めようとした時、前のベンチに誰かが座っているのに気付いた。

「わっ」

思わず声を上げてしまった。暗がりの中で、ぼーっと浮かび上がったその姿が、この世のものとは思えなかったのだ。
よくよく見ると、中森だった。小さな体を更に縮こまらせ、俯いて座り込んでいる。

「あの…中森さん?」

思わず顔を覗き込んだ。本当にふっと、消えてしまうのではないかと思ったのだ。

「ああ、ご主人、どうも」

中森はいつもの力のない笑顔をこちらに向けて、座ったまま会釈した。

「今日、一六銀行に行きまして…。お恥ずかしい話なんですが」
「はあ」
「下宿代も溜まっていまして…。間借りさせてくださっているご夫婦が、とってもいい方達なので、なんとかやってるんですけど、それでもこの有様で。大阪では家族が私からの仕送りを待ってるんです」
「はあ…」

もう言葉がなかった。何の仕事をしているんだろう、とは思ったが、今訊けるはずもない。

「ああ、すみません、愚痴をお聞かせしてしまって。そろそろ帰ります」

そう言うと、のろのろと立ち上がる。

「あの柄杓、返してもらえるかな…」

そんなことを呟きながら、中森は去っていった。

今日、驚きの事実が判明した。
なんと、村井夫人の御亭主、下野原に住む村井某とは、あの「漫画家水木しげる」だったのである。
その事実は、当の村井夫人が、紙に書いて知らせてきた。
あの、いろいろあった日の翌日、彼女は商店街でビラ配りを始めた。
何だろう?と思う間もなく、村井夫人はうちの店にも飛び込んで来て「これ、お願いします!」とビラを差し出した。
見ると、そこには「『マンガ界の鬼才』『調布の星』『水木しげる先生来店』」、更に「『水木しげる先生』と読者の集い」と書いてある。
この人も宣伝隊に入ったのだろうか、と思った次の瞬間、こう言ったのだ。あの、大きな眼をきらきらさせて。

「うちの人の、初めてのサイン会なんです!」

唖然、呆然、二の句が継げないとはこのこと。「宜しくお願いします!」などと言いながら商店街を通り過ぎる人達の中を、くるくると動き回るその姿を、どれくらいの間、店の中からぼーっと見ていただろう。

「人気商売ねえ…」

改めて、ガリ版刷りらしいビラに目を落とす。「読者の集い」は今度の土曜日、こみち書房で催されるらしい。
成程、床屋のおかみ、徳子が言っていた、「内助の功を発揮している健気な奥方」というのが、村井夫人だったという訳か。
そして質屋の店主、達吉が言っていた「面白い知り合いの多そうな常連客」というのが、漫画家水木しげる氏なのである。
客が少ない時刻になって、私は女房に声を掛けた。

「ちょっと出てくるから、店頼む」
「え?」

私は女房の返事も待たず、店を出た。

すずらん横丁に来るのは、久し振りだった。
こんな店構えだったのか、と少し離れた位置から、貸本屋の外観を眺めていると、

「太一君!」

大きな声で叫びながら、店主の美智子が飛び出して来た。

「あ、あら…橋木さん。こんにちは」
「ああ、こんちは。どうしたんです?」
「ううん、何でもないの。ちょっと人違い」

美智子はそう言って、寂しそうに笑った。

「で、橋木さん、今日は何か?」
「えっ、いやあ、その…。たまには本でも、と思って…」
「そう。珍しいわね。どうぞ、うちはいつでも大歓迎!」

美智子の後について、店内に入る。貸本屋というのは、こういう匂いがするのか。
壁一面に並ぶ本。一番上の棚に並べる時は、女手では苦労するだろうに。

客は居なかった。忙しくなるのは、これからなのか。
気付くと、店の外にも中にも、「読者の集い」を知らせる貼り紙がしてあった。中には美智子の手書きのものも、何枚もある。
何の為にここへ来たのか、自分でもよく判らなかった。「漫画家水木しげる」とやらに、会えるとでも思ったのだろうか。

「なんでまた、ここで、サイン会なんか…」

そんなことを言いに来た訳ではないのだが、口から言葉が出てしまった。美智子は言った。

「私が無理にお願いしたの、水木先生に。ちょっと、いろいろあって…。ねえ、橋木さん」
「うん?」
「最近、橋木さんのお店に太一君、来る?」
「太一君?ああ、あの里山製菓の工員さん。いや、見かけないな。なんで?」
「そう…。いえ、いいの。何でもない」

そう言った時の横顔は、月に一度、うちの店に墓参用の菓子を買いに来る時の顔に、似ているような気がした。

沈黙の一時。本を借りに来たと言ったにも拘らず、ろくに見ようともしない私に対し、美智子は何も言わない。

「うまかったなあ、ここの唐揚げ。それからポテトサラダも」
「ははは、懐かしいわね。でも橋木さんは、常連さんって程じゃなかったじゃない。奥さん、お料理上手だから」
「いやー、うちのなんか…。あのさ、美智子さん」
「何?」
「水木先生の奥さんて、ここによく来るのかい?」
「布美枝ちゃん?ええ、来るわよ。奥さんと親しくさせてもらってるから、今回お願い出来たようなものだもの」
「ふーん…。で、その…旦那さんのほうも?」

「いえ、水木先生は、来たことないわね。今回直接ご自宅にお願いしにいって、初めてお会いしたのよ」
「へえ…」

で、どんな奴なんだい?喉まで言葉が出掛かった。美智子は、その切っ先を制するように言った。

「水木先生の漫画、とっても面白いわよ。うん、まさに『本物』ね、間違いなく。読んでみる?」

真っ直ぐな眼でこちらを見る。ビラを差し出した時の村井夫人と同じ眼だった。

「いや、今日は、いいわ」

私は小声でそう言うと、結局一冊の本も開かずに、こみち書房を出た。

「読者の集い」当日。商店街中、貼り紙だらけだ。
私はなるべく、店の奥から出ないようにしていた。
周りはずっと、ばたばたしている。銭湯のおかみ、靖代が、酒粕と砂糖を大量に買いに来た。客に甘酒を振舞うらしい。和枝や徳子が、湯?みがどうのと言っているのが聞こえる。

「徳子さんに頼まれたのよ。下の子連れて行くわ、これから」

角の荒物屋のおかみが、店先で女房に言っているのが聞こえた。
村井夫人が旦那を連れて、「うちの主人です」などと言って店に来たらどうしようかと思ったが、来なかった。いや、来たところで、どうということはないのだが。

「あんた、行かないの?」

女房がこちらを見ずに言う。

「うん?まあ、うーん…」

行きたいのか行きたくないのか、自分でもよく判らなかった。そもそも漫画に興味のない私が、売れない漫画家のサインなど貰っても意味がない、という大前提がある。

突然、女房が店先で声を張り上げた。

「あら、ちょっと!布美枝さん、布美枝さーん」

びくっ、として反射的に奥に引っ込んだ。何をしているのだ、私は。これではまるで、隠れているようではないか。

「ごめんなさい、呼び止めちゃって。これからこみち書房に?」
「はい。お父さーん、こちら、いつもお世話になっている商店の方で…」
「あー、どうも。いつも娘が…」

父親が一緒らしい。島根から出て来ているのだろうか。
女房が何やら話し込んでいる。何を話しているのか、どんな父親なのか。様子を伺いたいが、奥から顔だけ出すのも格好が悪い。
しばらく経ってから、こっそり表を見てみると、もう件の二人は居なかった。

店に出ると女房が言った。

「故郷のお酒を置いてもらってありがたいって、言ってたわよ。前から取り扱いたいと思ってたんだって、言っておいたけど。『日本酒の起源は出雲にあり』なんでしょ、あんた」

  ◆

しばらく店でいつも通り、商いをしていると、見知らぬ男がやって来た。

「すみません、この辺りに『こみち書房』ってありますか」

長身、細身、きりりとした太い眉に、はっきりとした目鼻立ち。よく響く声と、爽やかな笑顔。男の自分も見惚れてしまう程の、まるで時代劇俳優のような、いい男である。

「はい、あちらの道をですねー」

女房の声が急に高くなった。素直な奴である。

「いい男ねー。武蔵、いえ小次郎なんかやったら、ぴったりだと思うわー」

女房は後ろ姿を見送りながら、眼を輝かせて言った。

それからどのくらい経ったろうか。やはり今日は、横丁のほうへ行く人が多い気がする。
そんな商店街をぼんやり眺めていると、不意に女房が言った。

「ねえ、行って来てよ、『読者の集い』」
「えっ…」
「こみち書房で、サインを貰いに来た人に、貸本のサービス券を配ってるんですって。私は並ぶの嫌だから、あんた、行って貰って来てよ」

私は女房の横顔を、まじまじと見つめた。彼女は何を考えているのか、酒瓶の一本一本を丁寧に拭きながら、ずっと目を伏せたままだった。






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