番外編
ほんの二、三日の間に、二度もこみち書房へ行くことになるとは、思わなかった。 すずらん横丁への角を曲がった途端、長蛇の列。そして色紙を持って、その行列の脇を、帰ってくる人々。貸本屋の入口付近がどうなっているかは、全く見えない。 取りあえず、行列の最後尾に並ぶ。 先程女房が道を教えた、役者と見紛う程の好男子が、貸本屋のほうからこちらへ向かって歩いて来た。「読者の集い」に来た客だったのだろうか。その割には、色紙を手にしていないようだが。 「ああ、先程は、どうも」 彼は私に気付き、にこやかに会釈をして、去っていった。思わず私も、その後ろ姿を見送ってしまう程の格好良さである。 が、そうこうしているうちに、行列が多少進み、何やら甘い、いい匂いがして来た。店先で甘酒を配っているのだ。 小さくキヨの姿も見える。リュウマチは大丈夫なのだろうか。 「あっ」 甘酒をよそっている、村井夫人の姿が遠くに見えた。赤いカーディガンを着ている。 行列が進むにつれて、甘い匂いが強くなる。 「ちょっと待ってくださいねー」という声も聞こえてきた。 先頭のその向こうに、机が設えてあり、どうやら二人座っているらしい。 行列から少し横に体をずらせば、サインをしている人間の姿は、簡単に見ることが出来そうだった。だが足は、何故だか前にしか動かない。 並ぶ者たちの間から、二脚ある机の、手前に座っている男の顔が見えた。あの、イヌイとかいう出っ歯で眼鏡の男だ。 どうやら向こう側に座っているのが、「水木しげる」らしい。 やっと、その姿が目に入る。 その男は、筆でさらさらと、「水木しげる」という名前を書いていた。置かれた色紙を、左手で押さえることをせずに―。 顔を見て、息を呑んだ。 そこに居たのは、あの、片腕の男だったのだ。 「ああ、橋木商店のご主人!こんにちは」 突然、名を呼ばれた。ふっと我に返ると、そこには村井夫人のにこやかな笑顔があった。 「いらしてくださったんですか。ありがとうございます」 「あ、はあ」 我ながら情けないが、声に力が入らない。 「今、里から父が出て来てまして、さっき奥さんに、二人でご挨拶したんですよ」 「あ、ああ、聞きました、うちの奴から」 「そげですか、…あ、どうぞ、橋木さんの番ですよ」 気付くと、私が先頭に来ていた。「漫画家水木しげる」との対面である。 「あ、どうも、いつもお世話に」 筆に墨を付けながら、水木しげる氏は軽く頭を下げた。色紙に手早く絵を描き、サインをし、ふーっと軽く息を吹きかける。 筆を置くと、今筆を持っていた手で、今度は出来上がった色紙を持ち、こちらへ差し出す。 「どうぞ」と言って、眼鏡をかけた顔をくしゃっと崩し、人懐っこい笑い顔を見せた。 ◆ 「『水木しげる』って、本名じゃないですよね…」 甘酒の入った湯?みを持ち、私は言った。 「勿論、本名は村井です。村井茂。『シゲル』はくさかんむりの『茂』です」 話しながらも、村井夫人は、次々と客に甘酒を注いでいく。 「へえ…」 立ち込める、甘い匂い。大鍋から上がる湯気。「水木しげる夫人」が注いでくれた甘酒は、一口飲むと喉から胃の腑にかけてが、じんわりと暖まった。 少し離れた場所で、次々と来る客にサインをしていく、隻腕の漫画家。 この男が「水木しげる」で、この人の旦那の「村井某」か。旦那のことを、私はとっくに知っていた訳だ。 「…!」 不意に、あることを思い出した。 何故、どうして今まで、気付かなかったのだろう。 あの肩掛け鞄である。村井夫人が、初めてすずらん商店街に来た日、ネギを入れていた鞄。 この男のものだったのだ。右肩に掛かっていたのを、しょっちゅう見ていたではないか。 夫人のほうがそれを持っているのを私が見たのは、あの時一度きりだったので、すっかり忘れていた。答えは常に目の前に、文字通りぶら下がっていたのに。 「どげしました?」 不思議そうに、村井夫人が私の顔を見つめた。あの大きな眼を、更に見開いて。 その肩越しに、彼女の夫の姿が見える―。 「いえ、あの、そろそろ店へ戻らないと」 「あ、そげですか。あの、今日はありがとうございました」 笑顔で軽く頭を下げる夫人に、私は空の湯?みを返し、まだ大勢並んでいる行列の脇を通って、すずらん横丁を出て行こうとした。 「橋木さん」 その時、キヨが声を掛け、近寄って来た。 「今日はどうもありがとね。はい、これ」 私の手に握らせたのは、貸本屋「こみち書房」のサービス券だった。 ◆ いつの間にか私は、深大寺のお堂の前に来ていた。 用事は済んだのだし、店に戻らなければ。そう頭では判っていても、石段に座り込んだまま、立ち上がれなかった。今日は女房から大目玉を食らうのは、覚悟するとしよう。 「あ、そうだ…」 貰った色紙を、まだまともに見ていなかったことに気付き、色紙の表面を、改めて眺めた。 「水木しげる」という名前の横に描かれているのは、少年の顔の絵だった。ぷっくりした顔に、ぎょろっと丸い右目。その中に描かれた、小さな点の黒目。上を向いた鼻。何故か、左目はつむっている。 「可愛くはないな、全然」 よく判らないのは、その子供の頭の上に、手足の生えた目玉が乗っていることだった。目玉―つまり眼球である。それに「体」が付いていて、顔全体が一つの眼球になっている、小さな人間のようだった。大きさは、掌に乗るくらいか。 描いてもらったところで、絵のことはよく判らなかった。上手いのか、下手なのか。この、顔が目玉の小人は何なのだろう。この子供は、どうして左目をつむっているのだろう。 いや、本当は絵のことなど、どうでもよい。さっきから考えているのは、別のことだった。 あの二人が夫婦。思いも寄らなかったことだが、判ってみると、いろいろと納得がいった。 まず二人は、言葉遣いが似ている。片腕の男、ではない、村井氏の生まれが何処かは知らないが、奥方と同郷なのかも知れない。 それにあのすき焼き。私には確か、あの日「旦那の仕事がやっと形になる」と言っていた。山田屋で嬉しそうに何かを報告していたが、あれはきっと描いた漫画が出版されると言っていたのだろう。 あの男がうちの店とあまり縁がなかったのも、酒が呑めないならば、無理もない。 「そうか、そういうことだったのか」 意味不明な独り言が口をついて出る。これは村井氏の十八番ではないか。 私は何だかおかしくなってきて、辺りに人が居ないのを幸い、晩秋の風が吹き荒ぶ古寺の境内で、一人、声を上げて笑い出した―。 甘酒で暖まった体が、またすっかり冷え切った頃、私は店に戻った。 「何があったの、こみち書房で」 帰るや否や、女房が訊いて来た。 「え?い、いいや、なんで」 何のことを言っているのか。どう答えればいいか判らず、逆に訊き返す。 「あんた、見てないの?なんだ。あのね、あんたが行ってしばらく経ってから、また布美枝さんがお父様と、ここ通ったのよ」 「へえ」 「さっきは本当に通っただけだったけど、二度目は商店街を案内してたって感じで。お父様も、嬉しそうなお顔なさってた。そしたらね」 女房曰く、その時太一が通りかかり、村井夫人は父親を放り出して、追いかけていったのだそうだ。一人取り残された父親は、喫茶店「再会」のほうへ、歩いていったらしいのだが…。 「しばらくして、お父様が、凄い剣幕で戻っていらして。こみち書房のほうへ、行っちゃったのよ!」 「…」 何だか女房が、やけに興奮している。 「あんた、驚かないのね」 「驚くも何も。『行っちゃったのよ』って、そりゃ行くだろう。娘婿がサイン会やってる場所なんだから」 「違う!あんたは見てないから、そんなこと言うのよ!本当に、尋常じゃないくらい、怒っていらしたんだから!!」 私は村井夫人の父親に、まだ会っていないことに気付いた。おそらくあの時、こみち書房の中に居たのだろう。こちらはそれどころではなかったので、目に入らなかったが。 「あの後、絶対何かあったわよ、こみち書房で。私、あんたはまだあそこに居て、事の顛末を見てるんだと思ってたのに…。今まで何処に行ってたの?」 「え…。まあ、ぶらぶらと、な。散歩、と言うか…」 「ふーん。これが、描いてもらった色紙?…なんだか、可愛くないわね、全然」 女房の感想は、どうやら私と同じらしい。色紙を、矯めつ眇めつ眺めた後、不意に顔を上げて言った。 「あ、そうだ、貸本のサービス券は?」 「あ、ああ。…あれ」 すっかり忘れていた。ごそごそと、ポケットの中を探す。ない。 「貰ってないの?」 「いや、貰ったんだが…」 持っているのは色紙だけ。そう言えば深大寺で石段に座っていた時には、もう持っていなかった。 キヨに手渡してもらった後、ポケットに入れた記憶もないし、馬鹿な話だが、どうやら横丁を出る前に、落としてしまったらしい。もしかしたら、あのすぐ後、こみち書房の前で。 「もー、なんなのよ。何の為に行ったんだか…」 女房はあきれて、店の奥に引っ込んだ。 ◆ 長かった一日が、ようやく暮れようとしていた。 「読者の集い」は、結局どうなったのだろう。女房が言っていたような「騒動」は、あったのだろうか。 朝からのざわつきが嘘のように、商店街は落ち着きを取り戻していた。 茜色に染まり始めた空を、ただ眺める。まだ親父が店を取り仕切っていた頃から、もう幾年、この店の中からあの空を、この街を、眺めていただろう。 そしてある日、あの人が、この視界の中に入って来たのだった。紙切れを握り締め、不安そうな眼をして―。 「あっ!」 思わず口を塞ぎ、身を潜めるように、物陰に隠れた。自分の店で商いをしているだけなのだから、隠れることなどないのだが。 村井夫人が、通りかかった。一緒に歩いている背広に帽子の男性は、件の御尊父だろう。 うちの女房が言っていたような怒っている様子はなく、彼は、穏やかな顔をしていた。何があったのかは判るはずもないが、その顔、その眼には、父として嫁いだ娘を思う心が溢れている。 他人が見聞きするものではないと思いつつも、私は、眼を逸らすことが出来なかった。 そう、私はずっとここから、この商店街を行き過ぎる人々を見るのだ。今までも、そして、これからも。 立ち止まり話す、父と娘。空の色が、二人の背を染めている。 会話の内容までは判らないが、微かに耳に届く、言葉の端々。 そして村井夫人の、この言葉だけは、不思議とはっきりと聞こえてきた。 「お金はないけど、私、毎日笑って暮らしとるよ―」 背中で聞く父は、今、どんな眼をしているのだろう。 ふと、少年のように顔をくしゃくしゃにして笑う、眼鏡を掛けた男の顔が浮かんだ―。 ◆ 「今晩は」 とっぷりと日が暮れてから、太一がやって来た。 「おお、久し振り。どうしてたんだい?」 「はあ、まあ、ちょっと、いろいろあって…」 人の良さそうな青年は、照れくさそうに笑って、頭を撫でた。 「こみち書房の美智子さんが、心配していたよ、君のこと」 「今日、行って来ました。俺の好きな漫画家さんの『読者の集い』っていうのを、あそこでやってて」 なんと、太一青年は、水木しげる氏の愛読者だったのか。 「ありがたいです。皆さん、俺なんかの為に、いろいろ。本当、ありがたいです…」 「…」 何があったかは知らないが、他人に感謝することが出来るなら、この青年はこれからもきっと、大丈夫だろう。 「で、今日は何か?」 「あ、食後に、なんか甘いもの、食いたくなって」 「そうか。じゃあ、お宅の商品でもどうぞ。君達が頑張って作ったものなんだから」 「はい」 店の奥へ行こうとする彼の小脇には、色紙と本が抱えられていた。 色紙の絵は、私のものとは違っていた。一面に大きく小船が描かれ、そこにはおいしそうにスイカを食べる、河童らしきものが二匹乗っている。 そして絵の下に小さめに書かれた名前は、「水木しげる」。 「なあ、面白いかい?水木しげるの漫画は」 太一は驚いて顔を上げ、一瞬私を見つめると、村井夫人や美智子と同じ様な、真っ直ぐな眼で言った。 「はい!すっげえ面白いです」 差し出して見せた本の表紙には、「鬼太郎夜話」という題名と、あの左目をつむった少年、そして目玉小人の絵が描かれていた。 その夜―。 布団に入ってからも、私はなかなか眠れなかった。 村井夫人の父親は、今頃島根へ帰る汽車の中なのだろうか。 どれ程心配だろう。遠い街へ、嫁がせた娘。何かあったとしても、駆けつけるのに一日掛かるのだ。 でも。 ご心配は無用です。そう、私は言いたい。 私は知っている。ただの、商店街の、とある商店の店主だが。いや、だからこそ。 知っているのだ、この数か月間の、村井夫人の変化を。 毎日笑って暮らしている―。彼女はそう言った。家での暮らしぶりを見ることは決して出来ないが、きっとその通りだと、確信している。 いや、本当は、私も昨日までは、その確信はなかった。だが、今は判る。村井夫人は、幸せだ。 今日の午後、貸本屋の店先で、夫のサインを貰いに来た者達に、飲み物を振舞う姿を思い出す。 きっと彼女は、永遠に知らないだろう。自分のことを、少し離れた位置から見つめる、夫の眼を。 あの男は、サインをする合間、次々と前に立つ客達が入れ替わる、その僅かな瞬間に、何度も、自分の女房を見ていた。まるで、宝物を見るような眼で。 惚れている、などという言葉では言い尽くせないその思いを、あの眼が雄弁に語っていた。 きっと、いつもそうなのだ。あの男は、きっといつでも、何処でも、そばに女房が居るなら、あんなふうに見ているのだ。 不意に視線がかち合うこともあるだろう。「どげしました?」と、懐かしい地元の言葉で、大きな瞳の女房が訊く。 きっとあの男は、語らない。どれ程愛しいかなど、男が言葉で言えるはずはない。 あの二人は、そんなふうに、暮らしているのだ。 「ご実家、酒屋さんなんですって」 まだ起きていたらしい女房が、急に言った。 「誰の?」 「布美枝さん。旧姓は飯田さんていって、あのお父様、安来で酒屋をやってらっしゃるんですって」 「へえ…」 酒屋の娘が、下戸の女房か。それはまた、皮肉な。 義父に銘酒を勧められ、困り果てるあの男の顔が浮かんで、暗闇の中、私はつい、笑ってしまった―。 SS一覧に戻る メインページに戻る |