照る月影の積もるなりけり(非エロ)
番外編


うちの店の隣は、不動産屋だ。店主の名は内崎という。
どの街にも一軒はある、ごく普通の不動産屋なのだが、ちょっとした特徴が二つある。
一つは、店主がびっくりする程の悪人面だということ。特に眼光の鋭さは、凶悪犯のそれと言っても過言ではない。
こう言っては何だが、確かに人好きのする性格ではない。でも、少なくとも真面目な商売人ではある。だが警官の職務質問に引っ掛かったのは一度や二度ではないだろう、と私は踏んでいる。
そしてもう一つは、取り扱っている物件数がやたらと多く、その種類が豊富だということ。店主夫婦二人でやっている小さな、昔ながらの不動産屋なのだが、どんな伝手があるのか、持っている情報の量がよそとは桁違いなのだ。
家賃、間取り、日当たり、立地…どんな無理な条件を出しても、取りあえずは「あるよ」と物件を出してくる。

委託されている物件の数が多いということは、大家からの信頼は厚いのかも知れない。意外と言っては申し訳ないが。
昭和三十六年も暮れようとしていた。
商店にとっては稼ぎ時である。正月飾り、酒、餅と、飛ぶように売れていく。ある日、内崎が神棚用の注連縄などを買いに来た時に、村井家の話になった。

「うちが売ったんだよ、あの家。もう、二年以上前になるかな」
「へえ。じゃあ、持ち家なんだ、一応」
「ああ、建売だけど。家はまあ、土地に付いてるだけって感じだね。正直びっくりしたよ、あそこで所帯持ったって聞いて」

私はまだ、村井夫妻の自宅を知らなかった。
以前の私なら、そんなことを聞けば、一体どんなボロ屋だと、いきり立っただろう。だが、不思議と今はそんな気は起きない。

あの「読者の集い」の日以来、私の「村井夫妻」を見る目は変わった。どう変わったのかは上手く言えないが、それでも何とか言葉で表すとすれば―。
この商店街でそれぞれの姿を見かけるたび、その向こうに、もう一人の影を見るようになったとでも言おうか。
決して立派ではない家にあの二人が暮らしていると聞いて、かえって微笑ましさを感じるくらいだった。
しかし、村井氏がこの街に家を持っていたとは、意外である。しかも、話を聞く限りでは、購入の動機に結婚は関係なさそうである。
この街に住み始めた時から、ここに根を下ろすつもりだったということか。

「最近は多少カネ回りが良くなったみたいで、月賦の払いも早目だね。…なんて、他人のあんたに言うことじゃないけど」
「はは、聞かなかったことにするよ。でも隣にあの漫画家さんが来たところなんて、見たことないな」

「隣は主にご新規さん用の店だからね。村井さんに毎月来てもらってるのは、あっち」
と言って内崎は、商店街のもう一つのアーチを出た突き当たりにある、別の店舗のほうを指差した。ちなみにそちらのほうの店の住所は、東町になる。
生活に余裕が出て来たというのは、いいことだ。夫人が買った正月飾りは慎ましいものだったし、里帰りする予定もなさそうだったので、心配していたのだが。

  ◆

年が明け、松の内も過ぎた頃。
乾物屋の店先で、女達は芝居の話で盛り上がっていた。

「いつだったか高橋さんが、去年の秋観たお芝居が良かったって、興奮して喋ってたわね。林芙美子の自伝のやつ」

銭湯のおかみ、靖代が言った。この界隈の女性たちの情報については、毎日番台に座っている彼女以上に詳しい者は居ない。

乾物屋のおかみ、和枝が応える。

「ああ、『放浪記』だっけ?でもあの人、よろめきドラマ好きだからさあ、そういう内容なんじゃないの?」
「主演女優って、誰?」

床屋のおかみ、徳子が訊いた。

「高橋さんに聞いたけど…、忘れちゃった。結構下積みが長かった人らしいけど」

すると、村井夫人が言った。

「そのお芝居の記事、新聞に載っとりますかね?」
「さあ。載ってるんじゃない。何、布美枝ちゃんも、お芝居好き?」
「いいえ、私は…。ああ、そうだ」

村井夫人が、思い付いたように言った。

「皆さん、いらない釦って、ありませんか?」
「釦?」
「はい。一つか二つで、ええんです。出来れば小振りで、なるべく可愛ええのが、ええんですけど」

彼女は何故か、少々照れたように、言った。

「その、ちょっこし、手芸、と言うか、工作、と言うか…、やりたいなと思って」

手芸だか工作だかをやる、というのが、照れるようなことなのだろうか。男の私には、よく判らない。

「へえ。でも、うちは男の子ばっかりだからなー、可愛らしいものなんか何にもないわ。まあ、でも、私の若い頃の服とか、見といてあげる」
「ありがとうございます!」
「私も。美智子さんにも、言っといてあげるわ。…そうそう、美智子さんと言えば、貼ってわよ、『鬼太郎夜話』の宣伝のビラ。もう四冊目が出たのねえ」

徳子が言った。

「はい、そうなんです!!」

そう答える村井夫人の顔は、見事に輝いている。

太一が抱えていた本を思い出した。そうか、「鬼太郎」は「キタロウ」と読むのか。
私は色紙に描かれたあの少年の名を、初めて知ったのだった。

  ◆

冬の夜は早い。
そろそろ夕餉の匂いがしてくるという頃には、辺りはもう、真っ暗だ。
ここ数日、村井夫人が買い物に来るのは、遅めの時間になっていた。商店街に人気が少なくなる頃、慌てたように自転車で駆け込んでくる。
思い出してみると、今までも月に一度か、数週間に一度くらいの割合で、この「慌しい数日間」は、彼女にやって来ていた。
今日もそうだ。急いで買い物をしているが、下野原に帰り着く頃には、星の一つも出てしまっているだろう。
だが、慌しくはあるが、その分充実しているようで、表情はとても明るい。山田屋や八百善からも、快活な笑い声が聞こえてくる。

また今日は、自転車の籠の中に小さなラジオが入っていた。修理にでも出したのだろう。彼女はそれを手に取って、大事そうに眺めていた。直ったのが、余程嬉しいのだろうか。
帰り際に、話しかけてみた。

「最近、忙しそうですね」
「え、そげですか?私は、何も」

にこやかにそう言ってのけるが、そんなはずはない。ないとは思うが、これ以上しつこく訊く訳にもいかなかった。すると、夫人は私の疑問に答えるかのように言った。

「うちの人は今、凄く頑張ってくれとりますけど。『鬼太郎夜話』の五冊目が、そろそろ出来上がるんです。私はちょっこし、手伝っとるだけで」
「へえ。奥さん、ご主人の漫画のお手伝いもするんですか」

それは知らなかった。絵心があるようには、申し訳ないが、見えなかった。

「本当に、簡単なことだけですけど。コマの枠線を引くとか、墨ベタを塗るとか。私は、絵は素人ですけん」

笑ってそう言う村井夫人の長い髪に、白いものがゆらゆらと落ちてきた。
雪だった。

「わあ…」

大きな眼が、暗さを増してきた空を見上げる。私もつられて上空を見た。
いつの間にか空は、分厚い雪雲に覆われていた。これは今夜中、降り続きそうだ。
村井夫人が、上を向いたまま、呟くように言った。

「…照る月影の積もるなりけり 」

私は視線を下げ、夫人の横顔を見た。

「は?」

「ああ、すんません、急に。…どなたかが昔、詠んだんですって。『夜に降る雪は、きっと月の光が降り積もっているんだろう』って」
「へえ…。詳しいんですね」

すると夫人は、とんでもないという顔で、慌てて言った。

「そんな、ちょっこし好きなだけです。他に知っとるのは、無くしたものが早よう戻ってくるおまじないの歌、とか。ただ…」
「ただ?」

村井夫人は、また少し顔を上げ、次々と落ちてくる雪の一粒一粒を、愛おしそうに見つめながら言った。

「初めて主人の実家に行った日、夜遅くになってから、雪が降ってきたんです。その時も、この歌が頭に浮かんで…。真っ暗で、月なんか見えんかったんですけど」
「へえ…。ご主人とは、ご同郷で?」
「いえ。主人の実家は境港です、鳥取の」

降る雪の中、村井夫人の思いは、ここにはなかった。今ではない、別の冬の夜のことを、思い出しているようだ。

「本当に、真っ暗で。家のすぐ前でしている水音が、川なのか何なのかも、判らんくらいで…。うちの人が、教えてくれたんです。それは境水道の水の音で、中海から日本海に、流れとるんだって。その後、雪が降ってきて…」
「…」
「でも、うちの人は、その雪を、見とらんのですけど」

彼女は何を思い出したのか、ふふっと笑った。
村井夫人は、ここまで話して、やっと隣に私が居ることを、思い出したようだった。慌てて視線をこちらに向け、言った。

「あ、すいません、つまらん話して。…ほんなら、失礼します」
「ああ、いいえ。あの…」
「はい?」

自転車を押して帰ろうとする夫人を、思わず呼び止めた。

「あ、いえ、何でも。暗いんで、お帰り、お気を付けて」
「ありがとうございます。ほんなら」

薄闇の中を自転車で去っていく村井夫人の肩には、月の光の欠片が、やむことなく降り積もっていた。

  ◆

明日で、一月が終わる。
早いものだ。この街に彼女が来てから、もう一年になるのだ。
今日、村井氏は、いつものようにあの鞄を肩に掛けて、出掛けていった。「そげか。今日、三十日だったか…」などとぶつぶつ言っていたが。
村井夫人は早めにやって来て、多めの買い物をした。今日特に目に付いたのは、大量のパンの耳である。パン屋で交渉した結果、格安で譲ってもらったのだそうだ。

「これで嵩が増やせますけん!」

今日の献立までは判らないが、山田屋で自慢げにそう言っているのが聞こえた。
そして、夜になって。
雪が、降り始めた。
私は、寝床に入っても何となく眠れずに、ついには布団の上に胡坐をかいて、窓の向こうをちらつく雪を眺め始めた。隣で寝ている女房の寝息が聞こえる程の静けさだ。

「照る月影の、か…」

この歌の上の句は、何と言うのだろう。あの日、薄暗闇の中、私はそれを訊こうとして、やめた。
何となく、私が訊いていいことでは、ないような気がしたのだ。

夫が生まれ育った街に降った雪は、何故か二人で見てはいないとのことだった。
今夜の雪は、どうだろう。二人で眺めているのだろうか。そして、夜に降る雪の正体を、彼女は語って聞かせているのだろうか。暗闇の中聞こえる水音が何なのか、かつて夫が教えてくれたように。
しんしんと、全ての音を吸収するかのように、降る雪。
まだ今年は始まったばかり。この夜の雪が、あの二人にとって、どうか吉兆であってくれ…と、私は、願わずにはいられなかった。

―むばたまの夜のみ降れる白雪は 照る月影の積もるなりけり(後撰集、詠み人知らず)―






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