コーヒー豆、二杯分(非エロ)
番外編


思えばあれが、あの夫婦の生活に生じた変化に、初めて気付いた瞬間だったと思う。
桃の花が、見ごろを迎えていた。いや、こちらはのんびり花を愛でる暇なんぞなく、毎日あくせくしているだけだったのだが。
配達の帰り、駅前を通った時のことである。信号待ちで止まっていると、駅のベンチに村井氏が座っているのを見かけたのだ。
そのまま通り過ぎ、一旦は店に戻った私だったが、妙に気になり、徒歩で駅まで戻ってみた。
すると村井氏は、まだ駅のベンチに座っていた。じっと、虚空を見つめて。
いつもの鞄を持ち、膝には緑色の紙にくるまれた、平たい箱が載っている。
あの包装紙には見覚えがある。水道橋にある、和菓子屋のものだ。と言うことは、彼は今、水道橋から調布に帰って来たということか。
あんなところで、何をしているのだろう。何故すぐ家に帰らないのか。

それより何より、あの表情。何かを思いつめているようで、いつもの飄逸さは、全く感じられない。
何か、あったのだろうか。もしや、夫人に何か。
私が、村井氏に声を掛けようとした時、彼は急に頭を掻き毟り、独り言を言い出した。

「あー、こげなことしとっても、どうもならん。帰って仕事だ!」

立ち上がり、菓子の包みをぶらぶらさせながら、歩き出した。どうやら商店街は通らずに、下野原まで帰るらしい。
春の初めの、まだまだ冷たい風が、空っぽの左袖を揺らしている。
その後ろ姿を見送りながら、夫人はそろそろ買い物に来る頃だろうかと、ぼんやり考えていた。

  ◆

その翌日から、今度は夫人の様子がおかしいのが、気になり始めた。
村井夫人も、いつもいつもにこやかな訳ではない。たまには不機嫌そうな時もあれば、多少元気がないなと思える時も、厄介事を抱えているようだと感じる時もある。

だが、最近の彼女の様子は、そのどれとも違っている。明るく振舞っているのだが、あの大きな眼の奥に、言いようのない不安の色が、ちらついているような気がするのだ。
強いて言うなら、一年以上前、彼女がこの街にやって来たばかりの頃の相貌に、似ているかも知れない。
今日は電器屋まで足を伸ばしたようで、自転車の籠の中には、蛍光灯が二本入っている。その蛍光灯を眺めながら、溜め息をついていたように思えたのは、気のせいだろうか。

「あら、橋木さん、肌綺麗ねえ。ほら、私、長年風呂屋の番台に座ってるからさ、肌の良し悪し見抜く目だけは、確かなのよ」

今日は銭湯のおかみ、靖代が我が家を訪れていた。いや、気心の知れたご近所同士、互いの家の行き来はしょっちゅうなのだが、今日の訪問は、いつもとは違っている。
彼女は最近、化粧品の訪問販売の仕事を始め、今日はうちの女房のところに、言わばセールスに来たのだ。

「本当?靖代さん、どのお宅行っても、同じこと言ってるんじゃないの?」
「そんなことないわよー。本当、綺麗。…どう?うちのクリーム付けた感じは」
「うーん、確かにしっとりするわねえ…」
「そうでしょ。絶対、買って損はないから」

(おいおい、絆されて余計なもの買うなよ)

私が奥を気にしながらも、店に立っていると、女房の素っ頓狂な声が聞こえてきた。

「に、二千円?これ一個が!?」

(何だ、その値段は。駄目だぞ、絶対駄目だ!)

高級クリームに気を取られているうちに、村井夫人は帰っていったようだった。

  ◆

そんな日が続いた、ある日の朝。私はいつも通り店を開けた。
抜けるような青空が、目に痛いくらいだった。爽やかではあるが、気温はそれ程高くない。
魚屋も八百屋も、皆一様に身を軽く震わせながら、一日の商いを始めようとしている。

と、そこへ、アーチの向こうから、見慣れない女性が歩いて来た。
大きな赤い帽子に、大きめの鞄。二十歳前後といったところだが、少女と言ってもいいくらいの幼さが残っている。
その女性は、まだ朝靄が残るような商店街を、意気揚々と歩いて来る。それは、若さ故か。それとも、よっぽど何かいいことがあったのか。
彼女は、八百善の店主に気が付くと、破顔一笑して、言った。

「おはようございます。昨日はありがとうございました!」
「ああ、おはようさん。判ったかい?」
「はい、お陰様で。じゃあ」

その女性は笑顔で挨拶すると、スキップでもしそうな勢いで、駅のほうへ歩いていった。私は店主に、訊いてみた。

「あの子、知り合いかい?」
「いや、知らん。昨日、ここを通り掛かって、道を訊いてきたんだ。ほら、あの漫画家さんの家さ」
「えっ?水木しげる…先生のお宅?」

なんと、意外な名が出て来た。

「そうそう。漫画本の最後のほうのページ見せてさ。そこに下野原の住所が載ってて。ここからどう行けばいいのか、教えてやった」
「へえ、漫画本に、住所がねえ…。で、どこら辺に住んでるんだい?あのお方は」
「いや、もう、番地までは忘れちゃったね」

つい、訊いてしまったが、八百屋の店主は、売れない漫画家の自宅が何処にあるのかについて、全く興味はないようだった。

「あの子、昨日はなんだか、困ってるふうだったんだけどねえ、元気になったようで、良かった」

なんと村井氏、と言うか、水木しげる氏の客人だったとは。若い女性との縁など、からっきし無さそうな男なのに、意外である。漫画本を持っていたと言うからには、仕事の関係者だろうか。それとも読者か。
でも、どうやら一泊しているようである。
ふっと、村井夫人の、不安そうな顔が浮かんだ。あの男に限って、女で苦労させることはないと思う。ないとは思うが…。

何となく気になったまま、商売を続けていると、更に寒さが増してきた昼頃、村井夫人が白い息を吐きながら、珍しく、徒歩でアーチを潜って来た。
肩には旦那のあの鞄を掛け、両手を胸の前で握り締め、強い意志を漲らせた眼で、駅のほうへ歩いていく。
私は、声を掛けることが出来なかった。

  ◆

その日、気温はその後も上がらず、午後にはとうとう、霙まじりの雨が降った。膨らみ始めた桜の蕾も、凍りつきそうな寒さである。
ずっと村井夫人のことが、気になっていた。いつも気にしていると言われれば、その通りなのだが、今日は何かが違っていた。胸騒ぎがするとでも言おうか。季節外れの霙のせいかも知れない。
朝はあんなに晴れやかだった空も、午後にはすっかり鈍色になってしまった。
その後、多少天候は回復し、夕暮れまではまだ少しあるという頃、駅のほうから村井夫人は帰って来た。

目の端に、その姿を小さく捉えた途端、私は、ただならぬものを感じた。
力なく肩を落とし、俯いている。こちらへ歩いて来る、その足元が、何とも覚束ない。
表情はよく見えないが、何となく想像はついた。
凝視するのも悪いと思い、私は目を逸らした。今日はうちには寄らないでくれ、と思う。
店の奥へ行き、意味もなく商品を整理する振りをしていると、

「こんにちは」

背後で、聞き慣れた声がした。
覚悟を決め、努めて明るい声を出す。

「いらっしゃい!」

振り返った瞬間、息を呑みそうになったが、それを押さえ込み、商売用の笑みを、何とか顔に貼り付ける。
無理に笑おうとしているのは、向こうも同じだった。だが明らかに、赤みを帯びている眼。顔に僅かに残る痕。
何処かで泣いてきたのだ、この人は。
長い髪が、霙まじりの雨に、濡れているように見えた。

「あの、コーヒー豆を…」
「はい、コーヒー豆ですね。ええっと、何種類かありますけど…」

指し示すほうに、彼女は目を向けた。視線が、一番安いものの上で止まるのが判った。私はその豆を示して、言った。

「これが一番人気がありますね。おいしいですよ、深みがあって」
「はい…。あの…」

村井夫人は、恐る恐るといったふうで、訊いてきた。

「はい?」
「これ、一杯分のお値段なんですか?」
「えっ」

思わず、言葉に詰まる。
駄目だ、平静な振りを、しなければ。

「ああ、まあ、そうですけど」

すると村井夫人は、またコーヒー豆に視線を落とし、ぎゅっと唇を噛んだ。
片方の手は、肩に掛けた鞄の紐を、縋るように握り締めている。
何を言えばいいのか、判らなかった。そして、そんな自分が、歯がゆくて仕方ない。

ふと見ると、馴染みの男性客が来て、店の前に置いてあるラックに入った雑誌を、眺め始めた。私はその客に救いを求めるかのように、店先へ出て、話し掛けた。

「よう、久し振り。どう、最近調子は」
「ああ、しばらく。いやー、まあまあかなあ」

その男性客と世間話をしていても、背後で彼女がまだ悩んでいるのが、痛いくらいに伝わってきた。

「どげしよう。でも、一杯だけなんて…。あげな思いして、頑張ってくれとるのに…」

しばらくして男性客が立ち去り、私は店内に戻った。意を決したような顔で、村井夫人は言った。

「すみません、このコーヒー豆、二杯分ください」

コーヒー豆、二杯分。
私は思った。それはきっと、夫と自分の分、ということではない―と。

「はい、二杯分ですね」

私はコーヒー豆の入っている硝子の箱を開け、計量用のスプーンを手に取る。

ちらっと、背後の夫人を見る。彼女はバッグから財布を取り出しているところだった。
手早く豆を袋に詰めて、勘定場へいく。そして二杯分の金額を告げると、村井夫人は、代金を支払った。
受け取る際に、ほんの少しだけ、手が触れた。指先が、氷のように冷たかった。

「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、まいどありがとうございました。お気を付けて」

店先へ出て、見送った。夫人は、帰り着くまでに、泣いた痕を完全に消して、笑顔に戻ろうとでもするかのように、ゆっくりゆっくりと、去っていった。

  ◆

村井夫人が去った少し後、商店街でちょっとした出来事があった。買い物客でごった返す中、人が一人、倒れたのだ。
行き倒れか、と、一時騒然となり、周りの何人かが、慌てて駆け寄った。私もその一人だった。

「大丈夫ですか!?」

小柄な男性を、抱き起こす。見ると、その顔には、見覚えがあった。

「中森さん!?」

中森は、完全に意識を失っていた。私は軽く、その青白い頬を叩いた。

「中森さん、中森さん。しっかりしてください!」

しばらくすると、中森が目を開けた。だが、焦点は合っていない。

「ああ、橋木商店の…」

消え入りそうな声で、私の名を呼ぶ。どうやら意識ははっきりしているらしい。

「だ、大丈夫ですか?救急車呼びましょうか?」
「いえ、何でもありません。ご心配なく。ちょっと、疲れているだけで…」

そう言って、立ち上がろうとする。その瞬間、かなりの音量で、その腹が鳴った。

「…」
「ああ、すみません、お恥ずかしい…。あの、とにかく、私のことは、ご心配なく」

何とか立ち上がり、ふらふらと歩き出す中森。その後ろ姿は、本当に消えてしまいそうだった。

その夜、閉店後。私は居間の茶箪笥の上に、壁に立て掛けて置いてある、「漫画家水木しげる」のサインを、長い時間眺めていた。
あの「読者の集い」の日に、貰ったサインだ。「鬼太郎」という名の少年が、右目だけでこちらを見ている。
今日の、コーヒー豆を見つめていた村井夫人の顔が、頭に浮かぶ。
お安くしましょうか、の一言が、喉まで出掛かったが、言えなかった。
言うべきだったのかも知れない。私がそう申し出るのを、彼女は待っていただろうか。
絶対に言ってはいけない言葉だったような気もするし、どうするのが最善だったのか、本当に、判らなかった。色紙の鬼太郎は、何も語ってくれない。
村井夫人の涙の理由など、私に判るはずはなかった。判るのは、彼女が僅かな所持金の中から、何とか費用を捻出して、コーヒー豆を買った、ということだ。おそらくは、自分の為ではなく、夫の為に。

せめて何かしてやりたい、そう思った私は、豆を少し多めに包んだ。三杯分は何とか飲める、というくらいだったろうか。
所詮私は、身内でも何でもない、ただの、近くの商店街の、とある商店の店主なのだ。涙の痕に気付いたところで、出来ることと言ったら、これくらいのものなのだ。
思えばこれが、あの夫婦に対しての己の無力さを痛感した、初めての出来事だった。






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