手土産煎餅(いちせん夫婦ネタ)
番外編


「この間もらったお煎餅ね、ほとんどお父さんに食べられちゃった」
「え」
「美味しいって、言ってた。それとね」
「うん」
「付き合ってる人が作ったんだよって…言っといた」
「…」

ストローを咥えたまま固まった祐一を見て、綾子はふふ、と微笑んだ。

「すっげ恥ず…まだ堂々と人に食べさせられるようなモンじゃないのに」

祐一は少しふて腐れたような顔をして、がちゃがちゃとストローでアイスコーヒーの氷を弄る。

「ごめんね」と軽く謝ると、「別にいいけど」と、いつもの笑顔が戻ってきた。

二人が恋人になってから、およそ3ヶ月近くが経つ。
綾子の恋人、祐一は家業の煎餅屋の跡継ぎになるべく、日々修行中の身だった。
時折自ら焼いた煎餅を綾子に食べさせ、あれこれと感想を訊いてくる。
特別、煎餅が好きなわけでも、グルメなわけでもない綾子としては「美味しい」と言うしかないのだが、

「いっつもそれだよ、もっとなんかない?」

と呆れ気味に言われる。これはささやかな綾子の悩みのタネでもあった。

恋人の存在を、父は何となく気づいてはいたようだった。
けれど、明言したのはつい先日。彼の作った何度目かの試作品をもらったときだった。

「最近お前は煎餅が好きだね」

山葵入りや、ざら目の塗してあるのを拡げてテレビを見ていたとき、ふいに後ろから声がかかる。
温和な父の笑顔。そして、ひょいと一枚煎餅を掬って口に運ぶ。「美味いね」とまた笑顔。
隠していたわけではないけれど、改まって話すのも少し気恥ずかしいこともあって、
結局ずるずると恋人ができたことを打ち明けられないでいた。

「新東京タワーの名称募集だってさ。応募してみようか」

広げた新聞の向こうから、父の声。そしてまた机の上の煎餅に手を伸ばす。

「あのね、お父さん、それ」
「『大江戸タワー』とか、どう」
「ダサい。っていうかそのお煎餅ね」
「酷いなあ、綾子は」

新聞の向こうから父が顔を覗かせた、そのときを狙って思い切って告白した。

「そのお煎餅ね、佐々木さんっていう人が、作ったの。で、ね、あの。あたしの彼氏っていうか、今付き合ってる人」

勢いづいて一気に言ってみた。顔が赤くなっていくのも分かる。
父は黙って、やおらまた煎餅を一枚ぽりぽりと食べる。

「あの、ね?その人、お煎餅屋さんの跡継ぎで、今修行中なんだ。そうやって自分で焼いたお煎餅、
試作品って言ってあたしによくくれるの。が、頑張ってるんだよ、すごく。すごく…」
「酷いなあ、綾子は」
「え」

どきっとした。黙っていたことを怒られるのか、祐一と付き合うことを反対されるのか。
けれど、綾子の思いとはうらはらに、父はいつもの柔和な笑みを浮かべて

「こんな美味い煎餅、今まで独り占めしてたの?」

また一枚、ぽりぽりと食べた。結局、机上の試作品はほとんど食べられてしまった。

「今度連れておいでよ。手土産に煎餅もらえるよね」

そう言った父の笑顔に、綾子は心底ほっとした。

その一部始終を聞いた祐一は、しきりにはにかんで、なにやら「うわー」と小さく叫んでいた。

「公認てことで?」
「いいんじゃないかな」
「精進します」

ぺこり、と大袈裟に頭を下げる彼に、自然な笑顔が零れる。
この人が、本当に好きだ、と綾子はしみじみ思った。

― ― ―

帰りたくないとか言ったら、彼はどういう顔をするだろう…。
映画を観て、食事をして、少しだけアルコールも入って。
駅に着いてしまえば、二人を乗せるそれぞれの電車は、反対方向へ走っていってしまう。
そして次に会えるのはいつになるかわからない。
修行中の祐一にとって、自分という恋人はある意味で邪魔者だと思う。
けれど、だからこそ、二人で会っているときだけは一秒でも永く一緒に居たい。

綾子の歩調がだんだんと重くなることに気づいて、祐一も少しその歩みを緩めた。
俯き加減の恋人を、下から覗き込んで微笑む。

「どうしたの」
「…」

別れの時間がもうすぐそこまで来ている。
帰ったら、電話でもメールでも、すれば必ず繋がるのに。そんなことは、解っているのに。

「綾子」

この声に呼ばれるのが、本当に好きだ。好きだけれど…。
じわっと視界の下の方から世界がぼやけてくる。
自然と涙を誘発してしまう、この祐一の声音は、まったくどうにも罪深い。
綾子の涙に気づいた祐一は、軽くため息を吐いて、ぽんぽんと頭を撫でた。

「ごめんね。なかなか時間取れなくて」

ごめんなどと彼に言わせた自分に腹が立った。彼を困らせることが一番嫌なのに。

雑踏から「あらあら」とか、「ひゅ〜」などと冷やかしの声が聴こえた。
祐一はそれらから綾子を守るようにして、繋いだ手をぐいと引っ張って歩き始めた。
そんな彼の背中を追って、綾子も必死で付いていった。ひたすら心の中で謝りながら。
駅は近い。それはすなわち、別れが近い。

「ゆうちゃ…」

もっとゆっくり歩いて。そんなに急がないで。貴方と一緒に居る時間は刹那のごとく過ぎるのに。
綾子の願いは虚しく、祐一の歩く速度は落ちない。そのまま改札に突っ込んでいきそうな勢いだった。

―――――が。

ひゅうっと風になったかのように、二人は駅を通り過ぎてしまった。

「え?」

驚いた綾子だったが、祐一は無言のまままだ歩き続けた。
駅を過ぎてしばらく進んだところで、ようやく人影がまばらになってきた。
ぴたりと急に足を止めた祐一に、「わっ」と勢い余って後ろからぶつかった。

「あ、ごめん」

少し息をはずませて振り返った彼を、少し不安気に見つめ上げた。
その瞳から逃れるように、祐一は視線を落として、がしがしと頭を掻いた。
やがて深呼吸をして深く息を吐くと、ガードレールに腰掛け、綾子の両手を取った。

「あのさ」

いつもの爽やかな笑顔と、しなやかな動きは封印され、なんだかぎこちない表情と動作。
言い出しにくそうに、ぶつぶつと小声で「えっとー」を繰り返している。

「…ゆう、ちゃん?」
「綾子さ」

さっと顔を上げた、真剣なまなざしに囚われる。
どきどきと胸が高鳴った。

「今日、…帰んなきゃ、だめ?」

言いながら、また目を逸らす。暗い歩道だったが、彼の頬が少し赤くなっている気がした。

「…っ…な、んで?」
「帰したくない。…だめ?」

今度は子どもが縋ってくるような目で綾子は見上げられた。
きゅうっと締め付けられる胸が、苦しくなって死んでしまうかと思った。

キスは何度か、した。けれど。
決定的な身体の結びつきは未だなかった。
それは、祐一から手を差し延べてくれるのを待っていたということもあったが、
実は綾子自身が怖れていたことでもあった。

――――男の身体を知らない故に。

常日頃からしっかり者と周りから見られていた綾子は、何故か常に「姉御肌」で、
年齢、男女関係なく「格好良い女」扱いを受けてきていた。
それを悪くは思わなかったし、いつしか綾子自身もそんな女性を演じてきていた部分があった。
だから恋愛経験だって決して豊富ではないのに、あれこれと恋愛相談を持ちかけられる。
そして結局、自分は波に乗れず、他人の幸福ばかりに目を細めてきた。
気づけば、二十歳を軽く過ぎてしまった今でも、固く純潔を守った格好になってしまったのだ。
それを恥ずかしいとは思わない。けれど、祐一が受け入れてくれるかどうかには不安があった。
それに、もしそうなったとして、自分自身がどう彼を受け入れればいいかが全く解らなかった。

けれど、今、この祐一の哀願はそもそも綾子が望んだことではなかったか。
結局あたしはずるい女だ、と綾子は思った。
「なんで」などと問いながら、彼に「帰したくない」と言わせた。
本当はきっと祐一よりもっと大きな気持ちで、綾子自身が思っていた。

「帰りたくない」

思いは言葉になって自然と口から飛び出していた。
祐一は綾子の声に、俯かせていた頭をゆっくりと持ち上げ、そしていつもの柔らかな笑顔を見せてくれた。
ぎゅっと握られた手を、綾子も握り返した。

― ― ―

「うわー、なんか観光地のホテルみたい。もっとこう、ごちゃごちゃしたの想像してたけど」

努めて平静を装ったふりで、綾子は声を張ってみた。
二人で入ったホテルの一室は、アジアンテイストのシンプルな造りで、
白と黒を基調として、観葉植物もそれなりに、まさにリゾートの一室に近かった。
あとから入ってきた祐一に、楽しげに「結構素敵かも〜」などと話しかけてみる。

「あー、えと。ゆうちゃん何か飲む?あたし喉かわいた」
「俺はいい」
「えー?そう?うわ、たっかい。これビール700円だって、信じらんない。ジュースにしよっか」
「綾子」
「ってか、ジュースもたっかい。ま、いっか。あーなんか、ちょっと暑い?冷房冷房、リモコンどこかな?」
「ねぇ」
「ゆうちゃん暑くない?あたしだけ?寒かったら言ってね、リモコン、ちょっと使い方わかんな…」

忙しく動き回っていた綾子を、制するように祐一の腕が引きとめた。
一瞬にして爆発したのかと思うほどに、綾子の心臓が脈動全開に動き始め、かっと顔に熱が飛ぶ。

「なんか、すげーお喋り」
「そ、そ、かな?普通じゃない?」

かなり頑張って搾り出した声も、うわずってしまった。
黙り込んだ綾子に、そっと祐一の唇が合わさった。
そのまま深く腕に抱きとめられ、身動きが取れなくなる。
がくがくと脚が震え、望んだこととはいえ、今さらながら怖気づいた。

この後どうすればいいのだろうか。服は自分で脱ぐもの?下着はさすがに任せておけばいい?
それなりに毎回、いざというときのために勝負下着を着けてきてはいたけれど。
問題は下着じゃなくてその下なんだよね…などと、キスを受けながら綾子は考えていた。
優しい口づけがいったん離れ、ほっとして息を吐く。

「あのさ」
「う…なに」
「今さらだけど…、いいの?」

ゆるゆると綾子の髪を櫛梳き、ちょこちょこと頬を摘みながら問われる。

「だ、だめって…言ったら」

意地悪な質問返しをしてみる。祐一は少し苦笑って、「ずっるいなあ」と呟いた。

「けど、本当に嫌だったら言って?」
「ゆうちゃん…」
「無理強いとか、絶対したくないから」

そして自らの胸の中へ綾子の頭を収めた。

未知の領域に踏み込むのは怖い。相手が祐一でも。それは綾子の本音だった。
けれど、相反してやはり彼に抱かれたいと思う本音もあった。
きっと拒めば彼は本当に何もせずに居てくれるのだと思う。その優しさは十分知っている。
が、知っていることに満足はしない。まだ知らない彼を知りたい。心も、身体も、全て。
それにはやはり、自分自身も丸裸にならなければならないと思う。
どきどきしながら、綾子は祐一の胸の中で語り始めた。

「あのね?あたし…こ、こういうことするの、は、初めて…なんだよね」
「…ほんと?」
「引く、よね。この年で…とか。ごめん、めんどくさい、よね」
「なんで?そんなことないよ」
「え、だって。よ、よくわかんないんだ、よ?段取りっていうか…流れっていうか」
「なんだそりゃ」

思わず噴きだした祐一に、綾子はなんだか恥ずかしくなって、ただ彼の笑いが治まるのを待つしかなかった。

「段取りって」
「え、じゃ、なんて言うの?ってかどうしたらいいの?」

少し慌てる綾子に、祐一は再び軽く口づける。

「どうもしなくていいよ。段取りとかじゃなくて、思ったふうにしたらいいんじゃない?」
「思ったふうって…」
「緊張してるならしてるって言うとか。さっき部屋に入った途端にぺらぺら喋りだしたの、そういうことだったんだ」
「う…」
「可愛い」

微笑んだ彼が額にキス。そして頬。耳元で囁かれる。

「好きだよ」

もうそれだけで、蕩かされる。
力を失うようにベッドに腰掛けると、隣に座った祐一に、ゆっくりと倒された。

姉御肌を気取っていた綾子に、「可愛い」と言ってくれる人は居なかった。
けれど本当は、誰より甘えたで、実はおっちょこちょいで、いつも誰かに寄りかかっていたかった。
背が高いせいもあって、服装もかちっとしたものが多かったけれど、
本当はふんわりしたスカートや、甘めのシフォンブラウスなんかを着たりもしたい。
恋人と手を繋いで、映画とか遊園地とか、一昔前の少女漫画のようなことを夢見ることも、
日常では一切隠して過ごしていたのに、そんなもう一人の綾子を、たった一人だけ見抜いたのが祐一だった。
バイト先では、男女問わずかなり人気の高かった祐一に、綾子も例外なく惹かれていた。
けれど、所詮自分は多くの知り合いのうちの一人に過ぎないと、どこかで諦めてもいた。
そんなときだ。休憩中に彼とふたりきりになってしまった。
すぐさまトイレに駆け込むと、鏡の前で髪を梳いて、せっせとメイクをやり直す。
けれど、そんな必死の素振りなど一切見せずに、しなりと彼の前に座った。

「さっきから気になってたんだけどさ」

しばらくして祐一の、何やら低く、押し殺したような声がして、ふと顔をあげる。

「それ、トイレのスリッパだよね」

くくく、と机に突っ伏して震える彼の広い肩幅を見つめて、一瞬呆然としてから、かっと一気に頭が沸騰した。
真っ赤になった綾子を見て、祐一はとびきりの笑顔で言った。

「綾ちゃんて可愛い人なんだね」

その一言に、落とされた。その日から、寝ても醒めても祐一一色の日々。
それは恋人になった今でも変わらない。そして優しく響く、心地よい彼の声音も。

「綾子」「可愛い」「好き」…叶うなら宝箱に閉じ込めてしまいたい言葉。

そっと目を開くと、その声の主が温かな微笑でこちらを見つめていた。

「もう一回だけ、訊いとく」
「はい…」
「初めてが俺ってことは、後にも先にも俺だけってことだけど」
「ふふ…」
「それでいい?って、訊いといてなんだけど、そうじゃなきゃ俺がダメだわ」
「ぷっ…支離滅裂」
「うるせ」

覆いかぶさった彼の顔が、だんだん近づいて唇が合わさる。
斜めに頭を傾けると、舌で押し開かれ侵入される。
絡まり合うその感触と、甘い吐息が行き交う空気に、だんだんと緊張は解されていく。
じっと見つめられ、愛しさを確認する。頬を撫でる大きな手に、綾子も手を添えた。

「ゆうちゃん…大好き」
「うん」
「好きにして…いい、よ」

微笑んだ祐一に、強く抱きしめられる。
ふわ、と香った彼の香り。少しだけ、老舗の煎餅屋の三代目らしく、何か焦げたような匂い。
決して嫌いじゃない、むしろ愛しい、男の香り…。
ゆるりと目を閉じた綾子だったが、次の瞬間にぱっちりと見開いた。

「あのっ、ゆうちゃんっ」
「ん?」

抱きしめた腕を弛めて、きょとんと覗き込んでくる顔が急に幼い。

「こういうときって、シャワーとか、浴びる…んじゃないの」

彼の匂いは大好きだけれど、自分の体臭は気になる。さっき小走りさせられたし。

「浴びたいの?」
「そういうものじゃないのかな、と思って。ちょっと汗、かいてるし」
「俺?匂う?」
「じゃなくて、あたし。それにほら、ドラマとかだとシャワー室からガウンで出てきてムード満点!みたいなさ」
「だから〜」

くっくっく、と笑いながら、祐一は綾子の肩に顔を埋めた。

「そういう段取り要らないって言ったじゃん。思ったままにすればいいの」
「あ、そ、そっか。えと、じゃ、浴びてくる」

祐一の肩を押して、身体を起こそうとした。が。

「だめ」
「え?」

短く命じられる。少し持ち上げた上半身を、再びベッドに縫い付けられた。

「もう待てない」

真っ直ぐな瞳に、釘を打ち込まれた。
これほどまでに自分を求められることが、かつてあっただろうか。

「俺も思ったままにする。これ以上無理だよ。待てない…」

切羽詰ったような哀願にも近い声。

「綾子が欲しい」

―――――決定打。

降り注いでくる唇を、貪られるままに受け止めた。
息が出来ないほどの激しいキス。ようやく出来る一瞬の隙間で何とか息継ぐ。
肩を抱いていた祐一の手が、確かめるように綾子の身体を上から下へ撫でる。
ぞくぞくと背中に何かが走った。同時に心臓が一段と速度を上げる。
胸を打ち破られる鼓動の激しさに、知らず知らず彼の背に廻した腕に力が篭った。

祐一の唇は耳元から首筋を降りて、鎖骨に辿りつき、そこを舌が滑った。
その間に右手がブラウスの裾から背中へ挿しこまれていた。
もぞもぞと背中で動く手を救うべく、ひょいと隙間を作ってあげると、簡単に目的地を探し当て、
そしてまた簡単にぷち、とホックが外れた。

「や、だ?なんか」
「ん?」
「…慣れてる」
「んなわけないだろ」

少し呆れた風に呟いて、背中からするすると腕を抜く。
体勢を少し起こした祐一が、今度は両腕で服をたくし上げようとする。

「バンザーイ」
「うー…」

がっちりと胸の前で腕を組み合わせた綾子は、小さく呻って祐一を恨めしそうに見上げた。

「そ、そっちから、先に脱いでよ」
「いいよ」

初夏とはいえ、随分気温の上がった今日。祐一の服はTシャツにジーンズという至ってシンプルないでたちで。
ひょいとTシャツを脱ぐと、すぐに厚い胸板が現れた。
直視できずにどきどきする。痩せているように見えて、がっしりしているのは、
何度か抱きしめられたときに何となく気づいてはいたけれど…。

「はい、バンザイ」

再び子どもをからかうような言い方で、綾子に両手を差し伸べる。
思い切ってお手上げのポーズを取ると、にっこりと笑う。そしてゆっくりブラウスを持ち上げられた。
同時にキャミソールも持っていかれて、ホックの外されたブラジャーのみが残った。
慌てて胸を隠し、小さな抵抗を試みてみる。

「ご、ごめんね、胸なくて」
「んなことないよ」

再び覆いかぶさってきた祐一の唇を頬で受け止め、ぎゅっと目を閉じた。
肩の紐をするりと降ろされると、綾子も覚悟を決め、組んでいた腕を解いた。

露わになった乳房を、愛しそうに見つめ、優しく揉みこまれる。

「…っ」

口づけは首筋から胸元へ。そして、乳房へと移る。

「ゆ…」

鳥がさえずるような音とともに、胸の突端を口に含み、軽く舐られた。

「あ…」

自然と声が洩れる。一瞬焦ったが、愛撫は止まない。
吸い付かれ、舌で転がされる何とも言えないくすぐったさに、頭を仰け反らせた。
反対の胸では、しなやかな指が先端を摘み、くるくると捏ねる。
掌で優しく包まれ、揉まれ、形を変える乳房を細目で窺ってみるけれど、
初めて晒した胸の上で、祐一が戯れる画がこの上なく恥ずかしくてすぐに目を逸らした。

おそるおそる、胸の中の彼を遠慮がちに抱きしめてみる。
老舗の三代目だからという理由じゃなくて、単に染めるのが嫌いなだけと言っていた、
さらさらの黒髪に、自分の細い指が絡まる。
祐一がその細い腕を取って、手の甲や二の腕を食むように唇でくすぐった。

「ふ…」

洩れる息と一緒に零れる声が、我ながらやたら淫らに聴こえて、自分で自分を追い詰めてしまう。
逆に祐一はそれが小気味良いのか、ふふ、と頬を緩めて再び胸の頂へ舌を這わせた。
先端をきゅっと吸い込まれると、軽く胸をもっていかれる。背を仰け反らせ、息を呑んで耐える。
すると次に、きゅっと痛みが走って「ひゃ」と小さく叫んだ。
甘く咬まれた場所が小さく陣痛し、動物がそうするように舌で優しく治められる。
ぴんと尖った突先が、祐一の唾液に濡れててらてらと光るのを、恍惚のうちに見下ろした。

鎖骨の窪み辺りに、大袈裟に音を立てて吸い付かれ、くすぐったさに肩を揺らす。
ようやく顔を上げて、祐一が覗きこんできた。優しく髪を撫でられる。

「…全部、脱がしちゃっていい?」

右手の人差し指と中指を、腹の上でトコトコとさせながら問われる。
可愛らしい仕草なのに、唇はずっと綾子の首筋に潜ったまま、淫らな吸音を立てる。
綾子の返事を待たずに、悪戯な右手はやがてもそもそとスカートのホックを探し当て、するりと脱がせた。
もう身に着けているのは、最後の砦の小さく薄いショーツだけ。
ずっと羞恥に耐えかねて、身体をぎゅっと縮めている綾子に、祐一の声が柔らかく降り注ぐ。

「綾子」

こっちを向いて、とキスが語る。

「…れい」
「…え?」

何度も口づけながら、耳に直接唇を宛てて吹き込まれる言の葉。

「きれいだよ」

もう幾度この人の声と言葉に翻弄されれば、この心臓は慣れてくれるのだろう。
一日に何度も速くなったり、緩くなったりするのは、身体に悪いのじゃないかと思って心配してしまう。
恥ずかしさと、嬉しさと、複雑な胸のうちを彼に伝える言葉は持ち合わせなかった。
ただ、一心に彼の髪を撫で、唇や、頬や、肩に、キスを繰り返す。

やがて、綾子の脚の間にするりと挿し入ってきた右腕が、ショーツの上から秘部をなぞり始める。
防御本能のようなものが働くのか、身体がかちんと石のようになるのが、自分でも解った。
くすぐったさに身悶えるものの、今はまだ不安と恐怖のほうが勝っている気がした。

「ゆ…ちゃ…」
「…いや?」

彼を拒否しているわけではない。ただなかなか受け容れ態勢が整わないだけ。
嫌なわけではないことだけは伝えたくて、綾子は激しく首を横に振った。
幾分ほっとしたのか、今度は祐一の長細い指がショーツの中へ入りこんだ。
繁みを掻き分け、割れ目に指を沿わせてなぞらせる。

「や…」

思わず脚で祐一の腕をはさみこんだ。

「綾子」

キスで頬をつつかれ、目で促される。おそるおそる脚に隙間をもたせた。
再び祐一の指は薄い布の中で蠢く。ややその滑りが良くなったことに、綾子も気づいた。
腹側にある突起を探りあてられ、中指がそれを掬い上げるように撫で上げた。

「あっ…」

勝手に反応した身体が、小さく仰け反る。
祐一の指はその摘みを捏ねたり、押したり、おもちゃの釦のように何度も弄った。
その度に、股の間のむず痒さが綾子を苛み、やがて嬌声となって喉へ昇る。

「ふ、あ…っ、あ、…んんっ」

留守になっていた乳首を再び甘咬みされ、ふいのことにびくりと身体が撥ねた。

「ゆうちゃ…」

逆上せた綾子の声に命じられたように、祐一は最後の一枚を剥ぎ取り、
わずかにぬめる綾子の入り口へ、そっと指を挿し込んだ。

「いっ、あ…っ!」

突っ張った皮膚に顔をしかめた綾子を、祐一が慌てて覗き込む。

「ごめん、痛かった?」
「大丈夫…ごめん、変な声出して」

祐一の愛撫は気持ちよくて、本当に蕩けそうになるくらいなのに、
身体の反応が悪いことに、綾子は次第に不安になっていった。

「ごめんね、ごめん。嫌なんかじゃないよ。すごく、その、気持ちい、よ。ほんとにほんとだから」

何とか祐一に解って欲しかった。全身全霊で、貴方を求めているのは本当なのだと。
祐一は、あの優しい笑みで綾子の頬を撫で、二度、三度、軽く口づける。

「解ってるって。綾子のあんな声、初めて聴いたもんね」
「な、なに?どんな声よ?」
「もっと聴かせて?」
「だからどんなって!…やだ、なに?」

綾子の脚の方へ下がっていく祐一に、ただならぬ空気を感じた。
次の瞬間。

「やだっ!」

脚の間へ潜り込んだ祐一の舌が、べろりと秘部を舐め上げるのを綾子は目の当たりにした。

「や、や…っ!」

思わず目を閉じてシーツを握り締めた。快感とも痺れともわからないものに襲われ、仰け反って慄いた。
生き物のように温い舌が這い回り、やがて包皮に包みこまれた花芽を突かれる。
じわりと、内側から熱いものが溢れ出す感覚に焦る。同時に、淫らな音を立てて啜られる。
祐一の舌はまるで潤いを求めるかのように、綾子の中の、そのまた内側へどんどんと探り入っていく。

「は…あっ…ぁ…んっ、んっ…!」

ありえない場所を貪られる、恥じらいを超えた激しさに、綾子は身を委ねさせられた。
経験のない快い疼きに、信じられない官能の声を上げる。
それに伴ってぴちゃぴちゃと卑猥な水音が、この部屋の協和音として響く。

「ゆうちゃあ…っん」

行き場を失った綾子の理性と羞恥は、二人を取り巻く熱い空気に、弾けて失せた。

じんじんするその場所を意識の片隅に置きながら、綾子は呆然と天井を見つめた。
ひょいと覗き込んできた祐一が、どこか済まなそうな表情でふわりと微笑う。
遠慮がちに圧し掛かり、じっと見つめられた。

「ゆ…ぅ、ちゃん?」
「綾子…いい?」

はた、と我に返る。
いよいよ彼を受け入れるときがきたのだと、途端にずくずくと心臓が痛んだ。呼吸が浅くなる。

「あっ…あの」

太腿に、ひたりと硬いものが当っていた。焦る。

「ゆうちゃん、あの、えっと、固いこと言うなって言うかも知れないけど、その、ゴ、ゴ…」
「あー…えと、ゴムなら、着けてる」
「え?え、え、いつの間に…」
「なんか、綾子がぼーっとしてる間に。ってか、めっちゃ臨戦態勢だな、俺。恥ず…」

そういって顔を背けた祐一を見やり、ほっと安堵する。やはりこの人はちゃんとしてくれている。

「綾子とはさ、いずれそういうことになると思ってるけど、でも順番は守っていきたいしね」
「そういうことって?」
「あー、もう、いいよ。今は聞き流しといて!」

くしゃくしゃと髪を掻き毟る祐一を見上げて、綾子は今さらながらぽっと照れた。

(そういうことって、そういうこと?)

祐一との未来。これまで辿ってきた道が、やがて祐一とひとつになっていく未来。
綾子が夢に描いていることを、祐一もまた、同じように思っていてくれていたのだろうか。

「綾子…」

切なげな、愛しい人の唇を今一度受け止め、肌の温もりと香りで心を満たす。

「いい…よ」

声が震えていたかも知れない。けれど心が満たされた次には、身体の全てを満たして欲しい。
曇りのない、綾子の本心だった。

十分に濡らされた花の芯へ、祐一の隆起が宛がわれる。
祐一自身をまじまじと見る勇気はなかったけれど、じくじくと先端で均されているだけで、
本当に受け容れることができるのかどうか、それは不安になるくらいの質量に思えた。
ぐぐっとそれが入り込んでくると、ますます不安は広がる。
皮膚を引っ張られる痛み、内側を抉られるような痛み、綾子は悲鳴が喉を飛び出すのを、ぐっと耐えた。

「綾、子…」

様子を覗ってくる祐一も、狭さに苦戦しているのか、眉間に小さく皺が寄っている。

「…平気?」
「んっ…大丈…夫」

力なく微笑んで見せた。どんな表情に見えたかは判らないけれど。
さらに進んでくる硬直に、狭い経路は緩やかに押し広げられていく。
綾子は祐一の首に縋りつき、その肩に額を宛てて必死に痛みと格闘していた。

「ちょっと…動いてみる、よ?」

声を出すと叫びそうになる。口をぎゅっと結んだまま、こくこくと頷いた。
祐一が腰を引くと、すす、と中に空間が出来る。そして再び押さえつけられ、隙間が埋まる。

「ふっ…ぅ…っ」

覚悟はしていたつもりだけれど、どうしても引き攣るような痛みが辛い。
喘ぐというよりも、苦しげな声が、呼吸と同時に洩れるばかりだ。
みんな本当にこんなことを、快感として悦ぶことができているのだろうか。
自分の身体だけが、どこかおかしいのではないかと不安になってくる。

挿入と抽出を数回繰り返したところで、ぴたりと動きが止まった。
息が少し上がって、苦しそうに肩を上下させる祐一が、枕に頭を埋めた。

「………? ゆうちゃん…?」
「…綾子、ごめん…。痛いよね」

労うように何度も何度もキスされ、ぎゅっと抱きしめられる。

「殴っていいよ。咬みついても何してもいいから…」贖罪を請うように、綾子の胸の中で呟く。
「今だけ俺を許して…」
「…」
「すげ、気持ちぃ…んだ、綾子の中…」
「ゆ…」
「ごめん、今だけ…頼むから受け容れて…」

神父でも、聖母でも、ましてや神でもない、組み敷いた先のただの女に、
ひたすら懺悔するこの男を、綾子は涙のうちに抱きしめた。
肉体的な痛みよりももっと、彼の悲痛な祈りを訊くことの方が辛い。

「ゆうちゃん…平気、だから」

祐一の汗ばんだ胸板をなぞりながら、真っ直ぐに見つめ上げた。

「いいよ…、もっと…して…?」
「綾子…」

食らいつくように唇を奪われると、再び律動が始まる。
下半身にずしりとくる振動が、痛みなのか熱なのか、判然としなくなってくる。
揺すられる度にずれる唇を、追いかけてきて塞がれる。

「ふ、…んっ…ぁっ………んっ…」

窒息する寸前で空気を吸い込み、吐き出すのと同時に喘ぐの繰り返し。
内側の容積がいつしか祐一の陽根の形を記憶し始め、
溢れる淫らな互いの愛液が、ようやく綾子の痛みを和らげ始めてくれた。

「ゆ、っ…ちゃ…、…んっ、はあっ」
「好き、好き…綾子、好き…」

狂ったように何度も繰り返される愛の言葉を耳から吹き込まれ、頭の中はもう祐一以外の何者も居ない。

「ゆうちゃぁん…ん、あっ、あ、あ…ん、あ、あぁ…」

速度の上がる攻めに、綾子の腰はもう感覚を保ちきれないでいた。縋りつく腕にも力が入らない。
けれど、こんなにも近くに居るのに、自分の中に繋がっているのに、まだ欲しいという貪欲さが衰えない。
汗の匂いと、唇の味、祐一の息遣いに、鋭くも儚い官能の表情、そして力強い腕の筋力に、柔らかな髪。
その全てを独占しているというのに…。

「ゆう…もっと…もっと…」

もっと抱きしめて、もっと深く繋がりたい。もっともっと。

――――――むしろひとつとなって融けてしまいたい…。

「綾子ぉ…愛して、る…」

切なげな祐一の声が零れた。同時に、綾子の最奥で白熱が勢いよく迸っていった。

― ― ―

「…痛む?」
「へーき」

本当は擦られた表面のあたりがひりひりとしていたけれど、
それ以上の幸福感に満たされて、綾子はうっとりと祐一の腕の中で目を閉じた。

「ゆうちゃん」
「ん」
「…えへへ」
「なんだよー」

大袈裟に頬を膨らせて、枕にしてあった腕で綾子を締め上げた。

「ね?」
「うん?」
「もいっかい、言って?」
「何を?」
「愛してるって、言って?」

一瞬表情を固まらせた祐一が、次にだらしなく頬を弛めて、しかしぶんぶん首を振る。

「…えー…無理。ハズカシー!誰?そんなこと真顔で言えるヤツ」
「さっき言ってくれたじゃん!」
「アドレナリンなめんな」
「意味わかんない!」

ベッドの中で、わざとらしい諍いを始めたところへ、カタカタカタと脇机に置かれた綾子の携帯が震えた。
ひょいと取り上げて液晶を確認すると、メールマークがぽつりと表示されている。

「あ…」

ひやりと綾子の背中に冷たいものが走る。祐一も、何かを察したようで、ごくりと唾を呑んだ。

「家…?」
「うん…お父さんだ」

先ほど頃合を見計らって、終電を逃したので友達の家に泊まることにしたと連絡しておいた。
思い切ってボタンを押し、父からの返信メールを開く。

『了解。先方にご迷惑をかけないように』

至ってシンプルに、そのようにだけ書かれてあった。

ふたりは同時にほうっと息を吐き、そのことで顔を見合わせてくすくすと笑った。

「良かった〜、何とかなった」
「ごめんね、嘘つかせて」
「ううん、あたしがゆうちゃんと一緒にいたいって思ったんだもん。謝らないで」

またあの優しい微笑で、祐一は綾子を抱き寄せた。
何度重ねても足りない唇を、そっと近寄せたそのとき。
再び、綾子の手の中の携帯がふるふると振動する。

「ん?まただ」

メールの送り主に、父の名前が点灯している。
中断したキスに、少し焦れた祐一が、携帯を開く綾子の頬を突っつくように啄ばむ。
くすぐったく肩をすくめながら、綾子は液晶に目を落とした。瞬間。

「げ…」
「げ?」

ぱちりと瞬いた祐一も、小首を捻り、ひょこっとその画面を覗き込んだ。

「…ゲゲゲ」

思わず3回呟いた祐一の表情は、ひくひくと頬が突っ張ってしまい、綾子の顔からも血の気が引いていた。
父からのメールには、これまたシンプルにひとことだけ添えられていた。

『追伸:お土産の煎餅を楽しみにしている』






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