春は来たけれど(非エロ)
番外編


桜吹雪が舞う頃になると、この街の住人の顔ぶれもいくらか変わったことに気付く。
馴染みの工員や学生の何人かが、四月になる前に、街を去ると挨拶に来た。理由はめでたいものも、そうでないものもあった。
私のような個人商店の者には、あまり関係ないことなのだが、それでもこれまでランドセルを背負っていたはずの子が、学生服を着ているのを目にしたりすると、年度が変わったのだなと感じる。
ここ、こみち書房もそうだった。舞い散る花びら越しに店内を覗けば、訪れている客達も、自分の世界がほんの少しだけ変わったことの気恥ずかしさで、ふわふわと浮き立っているように感じる。
その真ん中に、笑顔の店主が鎮座していた。

「あら、橋木さん。お珍しい」

美智子が私に気付いた。

「やあ、その…、たまには本でも、と思ってね」

美智子に、と言うより、自分に対して言い訳をして店の敷居を跨ぎながら、いつかもこんな会話をしたことがあったな、と思った。
ただ、あの時と違うのは、今は店内に客が多く、店主が私だけにかかずらっている訳にはいかないということだった。

「美智子さん、『主婦の手帖』ある?」
「ああ、今は徳子さんのところね。そろそろ返ってくると思うから、除けといてあげましょうか」
「ああ、お願い!来週また来るわ」

更に、居るのは貸本目当ての客だけではない。二、三日前から銭湯のおかみ、靖代が、あの高級クリームの実演販売を、この貸本屋でし始めたのだ。

「美智子さん、今日もありがとう。また明日も来るから、よろしくね」

どうやら本日はもう、店仕舞いらしい。靖代は大きな鞄を抱えて、店を出て行くところだった。

「ううん、こちらこそ、助かってるのよ。また、頑張ってね」

美智子はそう言って、靖代を見送る。私はいろいろと多忙な店主を目の端に捉えながら、さり気なく書棚を見た。
何処に何が置かれているかも、さっぱり判らない。漫画本が並んでいる棚を見つけ、近づく。

(水木しげる、水木しげる…)

すぐ判った。明らかに他の漫画家とは、扱いが違う。棚の一番目立つところに、かなりの場所を取って、並べてあった。
「妖奇伝」、「墓場鬼太郎」、「少年戦記」、「陸海空」…。他にも多くの漫画がずらっと並んでいる。凄い量だ。政志が読んだというのは、どれなのだろう。
「妖奇伝」という本の一冊を手に取ってみた。表紙の絵を見て、思わず「わっ!」と、小さく声を上げてしまう。

(何だ、この絵は)

描かれているのは人か、それとも化け物か。爛れた皮膚に、潰れて腫れ上がった左目。むき出しの右目。歪んだ口元から、飛び出した大きな歯。禿げ上がった頭には、蝋燭が載っている。
不気味などというものではない。これがあの男の描いた絵か?あの、飄々とした男の。
そして、「こんな絵」を描く手伝いを、「あの人」がしているというのだから、驚きである。肝が据わっているとでも、言うべきか。
ぱらぱらとめくってみる。申し訳ないが、じっくり読む気には、なれなかった。
何冊か眺めてみて、どうやら「鬼太郎」という名の子供の片目は、つむっているのではなく、潰れているのだということだけは、判ったが。
いつだったか、真弓という女子工員に太一が、「物凄く気味の悪い絵の漫画を好む」と言われていたのを思い出す。
成程、納得の気味の悪さだ。あの朴訥とした青年が好むものとは、とても思えないのだが、人は見かけによらない。

ふと「鬼太郎夜話」という題名が、目に入った。一、二、三、四…四巻までしかない。確か村井夫人は、「五冊目がもうすぐ出来上がる」と言っていなかったろうか、あの雪の日に。あれからもう、随分経つ。

「橋木さん、もしかして、水木先生の本、借りに来たの?」

いつの間にか美智子が、私のすぐ近くまで来ていた。客の数も、かなり少なくなっている。

「いやあ、その、そういう訳じゃ…。あのさ、美智子さん」
「何?」
「これって、五巻目出てないのかい?それとも、今貸し出し中?」

私が「鬼太郎夜話」を指差しながら言うと、美智子は残念そうな顔で言った。

「それね、実は、いろいろあって。元々出版が遅れてたんだけど、そうこうしているうちに、原稿が無くなってしまって、出せなくなったそうなの。水木先生、お気の毒なんだけど…。それに、布美枝ちゃんも」

私は、絶句してしまった。原稿が無くなった、とは。

―うちの人は今、凄く頑張ってくれとりますけど。私はちょっこし、手伝っとるだけで―
薄闇の中、誇らしそうにそう言っていた村井夫人を思い出す。苦労して、二人で、完成させたのだろうに。
何があったのか知りたかったが、込み入った事情など、他人が訊くことではないと思い直した。
ただ、それがいつ頃のことなのかは、判るような気がする。見ごろの桃の花と、駅のベンチに座り込む、村井氏を思い出した。

「大変なんだね、漫画家も…」

そして、その女房も。と、心の中で続ける。

「そう、そうなんだけどね、でも…」
「でも?」
「つらいことだったと思うんだけどね、布美枝ちゃん、明るかったのよ、そのこと話してくれる時。落ち込んでても、しょうがないって。何とかなるって。太一君のほうが、よっぽど残念がってた」

美智子は、「鬼太郎夜話」のうちの一冊を手に取り、大事そうに表紙を撫でた。

明るかった、か。
作品がもうすぐ描き上がると、嬉しそうに言っていた顔。そして、唇を噛んで売り物のコーヒー豆を見つめる、泣いた後の顔。
その間にあったこと、見たもの、聞いた言葉。いろんな思いを抱えたはずだ。それをどうやって、明るさの向こうに押しやったのだろう、あの人は。
いや、その答えを、私はもう知っているような気がする。
そして、村井夫人の馴染みの貸本屋の店主が、それを言葉にした。

「彼女自身の強さも、勿論あるでしょうけど、水木先生の存在が、大きいのね、きっと」

開け放った店の入口から、美智子の髪を揺らして、桜の花びらを乗せた風が、吹き込んできた。

  ◆

「『墓場鬼太郎』か…」

(そういえば、いつだったか、墓場に居たのを見かけたことがあったな)

横丁を出て、帰る道すがら、私は不思議と、村井夫人ではなく、村井氏の姿ばかりを思い出していた。

村井氏、いや、水木しげる氏は今、河童の漫画を描いているそうである。
「今度こそ、本になってほしいわね」と、美智子は祈るように言った。太一が持っていた色紙に描かれていた絵が、思い浮かんだ。
私は、漫画のことは何も知らない。彼が漫画家としてどうなのか。本当に「鬼才」なのか。
そもそも片腕で漫画を描くということが、どういうことなのか。
私は何も知らないし、今後も知ることはないだろう。描いている姿を目にすることも、多分一生、ない。
だが、彼はきっと「本物」なのだろうと、素直に思える。そして、その根拠は、この街の人々にある。
美智子、太一、それに多分、政志も。そして、何より、誰より、あの女房。
毎日、自転車でこの商店街にやって来て、あの大きな瞳が語るのだ。ただ男として惚れているだけではない、夫の仕事ぶり、その生き方を、どれ程尊敬しているかということを。

どうせなら散歩をかねて、下野原まで足を伸ばしてみようか、村井家がどんな家なのか、この目で一度確めてみるのもいいかも知れない。

「あっ」

ここで私は、貸本で水木しげる宅の住所を確認するのを、忘れたことに気付いた。その為に、こみち書房に行ったというのに。
貸本屋に行くなどという、遣り付けないことを、そう何度もする訳にはいかない。あの夫婦の住み処を知るのは、もう少し先になりそうだった。
それにしても。
慣れた我が家、我が店に帰る道を歩きながら、私は改めて自分の無知さを、思い知らされずにはいられなかった。私は漫画そのものだけでなく、その世界のことも、何も知らないのだ。
「鬼太郎夜話」の五冊目も、元々出版が遅れていたと、美智子は言っていた。
如何に水木しげる氏の才や努力が「本物」でも、それが報われなければ何もならない。対価という形で返ってこないとするならば、気の毒すぎる。
あの二人は何があっても、それこそ「過ぎたことは仕方ない、何とかなる」と明るく遣り過ごすのかも知れないが、そんな姿を見るほうもつらい。二人が寄り添うように暮らす様を間近に見る者ほど、やるせなくなる、そんな状況が、これからやって来るのではないか。
私は、自分でもよく判らない、不吉な予感のようなものに、苛まれていた。

  ◆

今日はなんと、四月も下旬だというのに、雪がちらついた。春とは思えない寒さである。
そういえば、前にも霙が降った日に見かけた、あの女性が、今日もまたやって来た。
おそらく村井家を訪問したのだろうが、行きも帰りも随分と上機嫌で、やる気に満ち溢れているといった感じだった。思わず、若いってのはいいなあと、呟いてしまった程だ。

それに引き替え、と言ってはなんだが、日も暮れてから帰って来た村井氏の表情は、何とも不安げだった。しばらくの間、うちの店の前のベンチに座っていたが、何か紙を眺めては「信用してええもんかなあ…」などと呟き、溜め息をついている。
その溜め息が、この寒さで、真っ白だった。
河童の漫画は、出来たのだろうか。そして、ちゃんと本になるのだろうか。
訊けるはずもなく、しきりに首を捻りながら下野原へ帰る後ろ姿を、ただ見送るしかなかった。

  ◆

それから数日後の、ある日。店に立ちながら、女房が言った。

「布美枝さん、外に働きに出るつもりらしいわよ」
「へっ!?」
「昨日、ここを通った時に少しだけ話して。言ってたの、『セールスのお仕事って、難しいですかね』って」

思いも寄らない事実に、次に言うべき言葉が出て来なかった。

漫画の手伝いは、相変わらずしているようだった。見ている訳ではないが、山田屋のおかみ、和枝との会話や、商店街を行き来する際の慌しさから、何となく判る。
彼女自身の作業量も、かなりのものであるはずだ。それに費やしている時間を、外で働くことに充てる理由は、ただ一つ。経済的なものしかない。
また本が出ないようなことが、起こったのだろうか。それとも、本になっても、その報酬が充分ではないのだろうか。
世の中の景気は上向きだというのに、漫画の世界はそうではないのだろうか。私は、何も知らない。
気が付くと、うちの女房は、店に来た馴染みの客と、呑気にテレビドラマの話なんぞを始めていた。

「『娘と私』、面白かったわー。終わっちゃって、残念」

この客人は、毎朝放送されていたとあるテレビドラマがお気に入りだったらしく、うちの女房にその面白さを力説していた。


「ああ、『連続テレビ小説』だったっけ?うち、まだテレビないから、観たことないのよ」

ぎくっ、と思わず手が止まる。まさかテレビを買えと、この私に、客の前で言い出すのじゃないだろうな。そんな余裕は、うちにはまだない。

「もう、毎日観てたから、生活の一部って感じだったわ。何度泣いたことか」
「へえ、そうなんだ。もう、次の作品、やってるんでしょう?高橋さんが言ってたわよ」
「次のやってたの!?それ、知らない。今はつけてもテレビドラマなんて、放送してないわよ」
「放送時間が変わって、早くなったとか…」
「そうなのー!?」

放送時間が変わるなら、テレビ局だってちゃんと告知してるだろうに。内容に感動しすぎて、見逃したのだろうか。
井戸端会議とは、こういう情報を仕入れる為にあるのかも知れない。その客は「明日からは絶対観るわ!」と鼻息を荒くしながら、帰っていった。
「ああ、誰か偉い作家さんが、この辺りを舞台にした小説書いて、それが『連続テレビ小説』になったりしないかなー」

女房がうっとりした顔で言う。全く、しっかりしているようで、「世の中の理」というものを知らない奴だ。

「こんな何てことない街の日常なんて、テレビドラマになる訳ないだろうが」
「えー、いいところじゃない。住んでる人も、いい人ばっかりだし。素敵な話になると思うんだけどなー」

取りあえず「テレビを買え」という方向に女房の興味がいかなくてよかった、とほっとしながら、私は適当に言った。

「まあ、いつか、この界隈を舞台にした『連続テレビ小説』が出来て、日本中が毎朝夢中になって観る日が来るかもな。五十年後くらいに」
「また、そうやって、馬鹿にするー」

とにかく、今の私にとっては、テレビドラマの話など、全くもってどうでもいいことなのであった。






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