若葉のころ(非エロ)
番外編


今日から五月。青々と繁り始めた草木の香りが、強い風に乗って運ばれて来る。
爽やかではあるが、吹き付ける風に目を細めざるを得ないような、幾ばくかの荒々しさもある日だ。
そんな中、何処かへ出掛けていたらしい村井夫人が、いつもとは違う角から商店街へやって来た。
向かう先はいつも通り、アーチの向こうの田舎道のようだが、何処から帰って来たのだろう。横丁とも駅とも違う方角から、歩いて来る。
その表情には、喜びと、何か誇らしさのようなものが、溢れていた。だが「何かいいことがあったんですか?」などと、気軽に声を掛けることは憚られるような、不思議な緊張感の帳に包まれてもいた。
よく見ると、その眼の奥には、単なる嬉しさだけではない、複雑な思いのひだが、見え隠れしている。

「あれ、奥さん今日、自転車は?」

八百善の店主が、何気なく話し掛けた。それに対し、村井夫人は、軽い会釈と無言の笑みで答える。

その横顔を、思わず凝視してしまった。
見慣れた、穏やかな笑顔のはずなのに、何処か違う。何かが、加わっているような気がする。
村井夫人は、強い風が長い髪を巻き上げる中、胸の前でぎゅっと手を組み、一歩一歩足元を確認するように、ゆっくりと帰っていった。

  ◆

「すぐ喫茶店に逃げ込んじゃうのよ、自分の旗色が悪くなると」

亀田質店店主の御内儀が、店先でいつものように御亭主の愚痴を言っている。この商店街では、週に一度は何処かの店で、見られる光景だった。

「先週の定休日なんか、一人で映画に行っちゃったんだから」

「今、ヘップバーンの映画、かかってるわよね、東町の映画館で。意外とそういうの好きなんだ、ご主人」
うちの女房が相手をするのも、いつものことである。

「違う、違う。『すずらんシネマ』でやってるほう。グレゴリー・ペックの戦争映画、お客さんに面白いって言われて。そういうの聞くと、すぐ観たくなるのよ、うちの人」
「あら、じゃあ、ヘップバーンだって、誰かに薦められれば、奥さんと行ってくれるんじゃない?」
「いーえ、恋愛映画だって、一人で行っちゃうわね、うちの人は」

散々な言われようだが、店主の達吉は、本当に困っている馴染み客に対しては、利上げをしてもいないのに、しばらくは質草を流さないでおく、などということをこっそりやるような男であった。
当然、儲からない。だが、それを知りつつも咎め立てなどしない、この奥方はそういう人だった。
風は、相変わらず強い。
今日私は、村井夫人に会っていないが、見かけた女房によると「元気がなかった」そうだ。昨日、青嵐に押されるようにして帰っていく姿は、確かに幸福そうだったのに、何があったのだろう。

働きに出るという話は、どうなったのだろうか。
ふと表を見ると、見覚えのある男が、雑誌が入っているラックを、しげしげと眺めていた。安物のシャツと上着、にやけた顔。ここ数か月、何度かこの界隈で見かけている男だ。だが、どうやら住民ではないようなので、あまり気にしたことはない。
他に客もないので、表へ出て、話し掛けてみた。

「いらっしゃい」

その男は、顔を上げると、人がいいのか悪いのかよく判らない笑みを浮かべて言った。

「ご主人、今、雑誌はどんなのが売れてます?」
「へっ?」
「いえね、私は出版を生業にしておりましてね、少々興味がありまして…」

変な男だな、とは思ったが、別に害もないだろうと思えたし、うちでは雑誌の類は事のついでに少々扱っているというだけだったので、適当に答える。

男はいちいち「なるほどー」などと頷きながら、こちらの話を聴いていたが、しばらく話し込んでから急に、

「あっ、こりゃいかん。もうそろそろ行かんと。馴染みの男の壮行会に、呼ばれとるんですわ。まあ、壮行会と言っても、典型的な都落ちで…」

怪しげな男は怪しげに笑いながら、アーチの向こうへ消えていった。

  ◆

その翌日。

「あの…」

弱々しい声に振り返ると、店先に中森が立っていた。

「ああ、中森さん、いらっしゃい。何か?」
「ああ、いえ、今日は買い物じゃなくて、その、ご挨拶に…」

よく見ると彼は、腰に手拭いをぶら下げ、小柄な体に不似合いなくらいの、大きな荷物を背負っている。

「どちらかに、お出掛けで?」

「いえ、その…、大阪の家内の実家に、身を寄せることになりまして。この商店街の方、特にご主人には、随分お世話になりましたので、一言お礼を。本当に、いろいろありがとうございました」

深く深く、頭を下げる。
事の詳細は全く知らないが、晴れがましい旅立ちという訳ではないことは、痛いほど判った。いつかの、ベンチに座り込んで、肩を落としていた姿を思い出す。
笑って見送る以外、私に出来ることはない。

「そうですか。じゃあ、大阪でも、お元気で」

ふと、彼が、握り飯らしき新聞紙の包みを持っているのが、目に留まった。

「…それは、ご自分で?」
「ああ、いえ、間借りさせてくださってたお宅の、奥さんが。いい方なんです、とっても」

そう言って彼は、その包みを大事そうに撫でた。

「じゃあ、私はそろそろ。ご主人も、どうか、お元気で」
「ああ、どうも。あの…、道中、お気をつけて」

中森は何度も振り返り、あの力のない笑顔を見せながら去っていった。
背中の大荷物にぶら下げたやかんを揺らしながら、その小柄な体が遠ざかってゆくのを、私はいつまでも見送った。

  ◆

その日の午後。

「ねえ、あれから布美枝ちゃんに会った?」

床屋のおかみ、徳子が、乾物屋に来て、おかみの和枝に言うのが聞こえてきた。

「ううん、なんか入れ違っちゃって。未だに『おめでとう』って、言えてないのよ」
「私も。今日辺り、来るんじゃない?こみち書房に」
「そろそろ買い物に来る時刻よね。行って待ってようか、あっちに先に行くかも知れないし。靖代さんも誘って。あ、そうだ…」

和枝は一旦店に入り、何かを紙袋に入れて持ち出した。そして、妙にはしゃいだ様子で女性達は、店をそれぞれの旦那に任せて出ていった。

やっぱり村井夫人に、何かいいことがあったようだ。それとも旦那に、だろうか。どちらにしても喜ばしいことだが、うちの女房の言葉が、どうも気になる。
ここ数日、配達などが立て込んでしまい、私も夫人と入れ違いが続いていた。毎日のように見かけていたのに、こういう時に限って、顔を見られない日が続く。
女房の思い過ごしであればよいのだが、と思いつつ、何も出来ないまま、時間だけが過ぎた。

  ◆

そんなある日、深大寺の近くへ行く用事が出来、一仕事終えて帰る際に、私は、せっかくだからお参りの一つでもしてみようと、ふと思い立った。
山門の石段を登り、本堂のほうへ向かう。木々の緑が、目に痛いほど濃い。
聞こえるのは水の音、ざわざわと激しい葉擦れの音、遊ぶ子供達の楽しげな声。そして、下駄がカランコロンと鳴る音。
本堂の近くに、村井氏が居た。
目を細めて、無邪気に遊ぶ子供達を、離れた位置から見ている。

ふと、女房は伴っていないのか、と思った。
彼がこの辺りを一人でぶらついているのはしょっちゅうなのに、いや、そもそも女房と連れ立って歩いているところなぞ、見たことがないのに、その時は何故か、二人で居ないことがひどく不自然に思えたのだ。自分でも、よく判らないのだが。

「村井さん、お散歩ですか」

私は、声を掛けた。

「ああ、橋木商店の。どうも。いや、その…。これから、出掛けるところでして」
「へえ。お仕事で?」
「いやあ…」

彼は、何となく決まり悪そうに俯き、私も、それ以上訊くのはやめた。
しばらくの沈黙の後、村井氏は不意に、こんなことを言った。

「季節ってのは、凄いもんですな。こっちが忘れとっても、ちゃんと変わっとります。ちょっと前は雪がちらついとったのに、今は見事な新緑だ」
「ああ、寒い日ありましたね」

店の前のベンチに座って、白い息を吐きながら、何やら紙を見ていた彼を、私は思い出した。

「そのたんびに我々は、凍えさせられたり、濡らされたり。振り回されとる」

ははは、と彼は笑った。

「でも、得られるもんも、計り知れん。いや、それどころか、季節がちゃんと移り変わってくれんと、まともに生きられんですからな、我々は」

そう言って、村井氏は、本堂の前に生えている、一本の幹の太い木を見上げた。
それは、ムクロジの木だった。
この木は、他の木々に比べて芽が出るのが遅いらしく、まだ小さな、緑の薄い若葉が、ちらほらと伸び始めたばかりだった。

「このムクロジは、『無患子』と書くそうですな。子が患わんように、という意味だそうです」

言いながら村井氏は、人差し指で宙に「無患子」と書いた。

「へえ、そうなんですか…」
「子が患わ無い」で、「無患子」―ムクロジか。感心しながらも、何かが気になった。

何があったのだろう。何となく、いつもの、それこそ流れる季節のように飄々としている彼とは、何処かが違う。
佇む私達と、きゃっきゃと遊ぶ子供達に、一陣の強い風が吹き付けた。

「…ああ、緑の、ええ匂いだ」

目を閉じ、深く息を吸う村井氏。
今日、奥様は?そう訊こうかどうしようか、私が迷っていると、彼は不意に言った。

「あんた、お子さんは?」
「えっ?」

唐突な質問に面食らったが、村井氏はいつになく真面目な顔をしている。深く考えず、ご近所同士の会話として答えようと決めた。

「二人おりますが、どちらも独り立ちしました。私は仕事ばっかりで、子育ては家内が一人でやったようなもんです」
「へえ…」

「そのせいか、たまに帰って来ても、二人とも母さん、母さんと家内にべったりで…。私なんぞ、あいつらにとっては、居ないも同然ですよ」

また、はははと、村井氏は笑い、そして言った。

「俺もそうならんように、気い付けんといけんな…」
「えっ?」

ちょうどまた、強い五月の風が吹いて来て、彼の言葉がよく聞こえなかった。聞き返しても、彼は「いや…」と言っただけで、また子供達に目を向けてしまった。
子供達は、地面に円を描いたかと思うと、それを土俵に見立てて、相撲を始めた。やれ柏戸がどうの、大鵬がどうのと言っている。

「ああ、夏場所が始まったんですね、もう」
「まさに、芽吹いたばかりの木ですな、子供達は」

村井氏が言った。そして、またムクロジの木に目をやり、彼は、こう続けた。

「これまでに何人の親が、この木に、我が子の無病息災を祈ったんでしょうなあ…」

風が、木々の若葉を揺らす。
笑い、はしゃぐ子供達。彼らはまだ、芽吹いたばかりの木。そう、全てはこれからだ。
こんな光景を見ると、どうしてもあの夫婦に、思いを馳せずにはいられない。どれ程つらいだろう、我が子を失うというのは。
美智子は、いつもどんな思いで見ているのだろうか、このムクロジの木を。

「…うちの下の子、田中さんところの智志君と、同い年だったんです」

あっ、と思った時には、もう、口に出してしまっていた。
まずい。もし美智子達が村井氏に、智志のことを話してないのなら、私が言っていいことではないだろう。

「ああ、こみち書房の。終戦の年に、疎開先で亡くなったっていう…」

どうやら村井氏は、知っているようだった。私は少し、ほっとした。

「ええ。可愛い子でしたよ。政志さん、そっくりで」

脳裏に浮かぶのは、赤子を抱く、若き日の美智子。戦地へ赴く前の、我が子をじっと見つめる、政志の顔。そして、小さな手を精一杯振ってこの街を去っていった、幼い男の子。

「忘れないもんですよ。親だけじゃない。私らも、覚えてます。ほんの短い間でしたけど、あの子は確かに、この街で暮らしてたんですから」

何を言いたいのか、自分でもよく判らなかったが、言葉が止まらなかった。村井氏は、ただ黙って聞いてくれていた。
相撲に夢中になっている子供達から、目が逸らせない。政志は、極寒の地で、我が子と相撲が取れる日を、どれ程夢に見ただろうか。

「あんな店やってますとね、街の子供達とも馴染みになります。乳母車に乗ってた子が、よちよち歩きになって、学校上がって…。ジュースを買いに来たり、あのベンチに座ってお喋りしたり。私らはずっと、そういう子供達を、見てきたんです」

「…」
「この街で生まれて育つ子達は、みんな大事です。見てるだけしか出来ませんけど、それでも見てます、巣立っていくまで、ずっと」

そう、私が知っていることと言えば、あの店と、この街と、そこで暮らす人々のことだけだ。それが、私の世界の全てだった。

「そげですか…」

村井氏は、そう一言だけ言った。私はふと、我に返った。

「ああ、すみません、お引き止めして。どちらかに、行かれるところだったんですよね」
「ええ、赤羽に。その前にちょっこし寄るところもあったんで、ついでにここに足を伸ばしたんですわ」

「赤羽ですか。じゃあ、これから駅まで?」
「ええ」

村井氏は、山門のほうに、体を向け始めた。

「なら、駅までお送りしますよ。近くに車があるんです」
「ええんですか?」
「はい、出たところで、待っててください。すぐ、車回して来ますから」

急ぎ停めてある車のところへ走る私の耳に、境内を流れる水の音と風が木々を鳴らす音、子供達の笑い声、そして、村井氏の下駄の音が届く。
夫人のことは次の機会に尋ねよう。ふと、そう思った。






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