黄橡(きつるばみ)(非エロ)
番外編


本格的な夏に突入した、ある日の午後。
隣の乾物屋「山田屋」からは、先程からずっと、女性達の楽しそうな声が聞こえてきていた。

「もう五か月目に入ったのね。早いなあ」

女房が店の前を掃除しながら、山田屋のほうに視線を向けて言った。

「ええ?もう、そんなになるか?」

私は少々、驚いて言った。隣には、村井夫人と美智子、靖代達が集まっていた。

「そうよ。今日、戌の日じゃない。腹帯巻いてるのよ」

女房は何処となく懐かしそうな顔で言った。自分が身篭った時のことを、思い出しているのだろうか。

「いきなり自分一人で巻くのは、大変だもの。やっぱり出産経験者が、教えてあげなきゃ」

一段と大きな笑い声が聞こえ、笑顔をほころばせて、村井夫人が山田屋から出て来る。目立ち始めたお腹を、大切そうに撫でながら。

来年早々、村井家に家族が増えることになった。
彼女がそれを初めて告げに来てくれたのは、五月の初め。その表情は喜びに溢れ、これ以上ないという幸福が自らに訪れたと、まるで体全体で語っているようだった。
こちらも自分のことのように嬉しくなり、祝いの言葉を述べながらも、ふといつかの、うちの女房の「夫人は元気がなかった」という言葉が頭をよぎった。深大寺で一人、木々を見上げていた、村井氏の横顔も。
女房も、何か思うところがあったらしい。だが、彼女はこう言った。

「もう、いいじゃない。今、布美枝さんは、凄く幸せそうなんだから」

そうだなと、私も思った。
女性というのは不思議な生き物で、その日から少しずつ村井夫人の顔が、母親の顔になっていくのが、私にも判った。

片や村井氏は、「おめでとうございます!」と声を掛けても、頭をぽりぽりと掻きながら笑う顔は、相変わらず少年のようで、男ってのはこんなものかも知れないなと、遠い昔の己の姿を見るような気持ちになってしまう。
そういえば、少し前に村井夫人は、安来の御母堂から岩田帯が届いたと、嬉しそうに言っていた。今日はそれを、初めて巻く日らしい。
娘の初めてのお産である。どれ程自分で巻いてやりたいと思っていることだろう、遠い故郷に住む、母親は。
その娘は今、商店街の女性達に囲まれて、笑っている。

「どう?支えられてる感じがするでしょう」
「そげですね。動くのが、ちょっこし楽になったような気がします」
「でも、巻くときはくれぐれも、締め付けすぎないようにね、布美枝ちゃん」
「はい、ありがとうございます」

主役のこの言葉が、儀式のお開きを告げたかのように、人生の先輩達はそれぞれの場所に帰り始めた。

その時、こみち書房の店主、美智子が、思い出したように言った。

「そうだ、『河童の三平』の第三巻、また太一君が借りていったわよ。一、二巻ももう、五回以上は借りてるけど」

その途端、村井夫人の顔が、ぱあっと輝いた。

「そげですか!嬉しい!実は四巻も出来上がって、今うちの人が出版社まで、届けにいっているところなんです」

どうやら河童の漫画は、順調に出版されているようだ。ひとまず良かったと、ほっとする。

「そう。じゃあ、お財布のほうも…なんとか、ね?」

美智子が気遣うように、小声で言う。

「はい、それが…。今は、まだ…」

村井夫人は、美智子に何やら話を始めた。どうやら、経済的な事情を説明しているらしい。美智子は心配そうな顔で聞いている。
何だろう。本は出ているようなのに、カネが入ってきていないのだろうか。

夫人は話し終わると、浮かない表情の美智子を逆に励ますかのように、明るく言った。

「でも、大丈夫、何とかなります。春に頂いた分は、もうすぐ、お金になりますし。とにかく今、うちの人、『河童の三平』は凄く力を入れて描いとるんで、私も嬉しくて」

美智子は村井夫人の笑顔に釣られるように笑うと、すずらん横丁へと帰っていった。
その後、村井夫人はうちの店にやって来て、カネコクレンザーやら、何やらを買った。その間も、うちの女房とにこやかに、腹帯の話なぞをしていたが、私は先程の美智子の表情が、気になって仕方がなかった。

「布美枝さーん!」

突然、若い女性の明るい声が聞こえてきた。見ると、何度か村井家を訪れているらしいあの女性が、手を振りながら駆けて来た。

「あっ、はるこさん!」

村井夫人が振り返り、笑顔で応える。夫人とも親しい女性らしいと判って、何となくほっとする。

「赤ちゃん、育ってますねー。お体、大丈夫ですか」
「はい、おかげさまで。はるこさん、お久し振りですね」
「はい!二冊目が出たんです!!今日はそれを水木先生に、お見せしようと思って」

その女性は、バッグから本を取り出した。それは、貸本の少女漫画だった。
表紙に描いてあるのは、星のような光が、きらきらと目の中に溢れている少女の絵と、「河合はるこ」という名前。彼女も漫画家のようだ。

「わあ、凄いですねえ。うちの人、今出版社に行っとりますけど、もう帰る頃ですけん、よかったらうちで待っとってください」

二人は並んで、アーチのほうへ歩き出した。はるこという名の少女漫画家が、夫人の荷物を持ちながら、言うのが聞こえてくる。

「『河童の三平』、面白いですよね。私、あの漫画、大好きなんです!」

それを聞いてまた、村井夫人の横顔が嬉しそうに輝くのが、ここからも判った。

  ◆

今年の夏も、暑い。
暦の上ではもうとっくに秋だが、暑さはいっこうに弱まらない。
先程から庭で、女房が何かを燃やしている。何処からか木の枝、それもまだ青々とした葉がびっしりとついている生木の枝を、どっさりと持って来て、季節外れの焚き火をしているのだ。
この暑いのに、何をやっているんだか。そもそももっと乾燥させないと、上手く火など着かないだろうに。
案の定、葉はあっと言う間に燃え尽きたようだが、枝の部分にはなかなか火が回らず、苦労しているようだ。口を出すのもかったるい程暑かったので、放っておいたが。
ふと、店内から商店街を見ると、村井氏が急ぎ足で、駅のほうからやって来るのが見えた。白い半袖シャツの右肩にあの鞄を掛け、汗だくの額を拭いながら、アーチの向こうに消えていく。
カランコロンという下駄の音が、やけに大きく、忙しなく響いた。

きっと出版社からの帰りなのだろう。いつもの光景と言えばそうなのだが、最近は少々様子が違っていた。
一旦出掛けると、なかなか帰って来ない。漫画のことは何も知らない私だが、出版社がどの辺りに多くあるか、くらいは判る。原稿を一社に届けに行って帰って来るだけなら、もっと短時間で済むはずだ。
それに、出掛ける回数も、以前より増えているような気がする。
それだけ仕事を沢山請けている、というのなら喜ばしいことのようだが、どうもそう単純なことではないらしい。
と言うのも、何日か前に、あの内崎不動産の店主と世間話をしていて、村井家の話が出たのだ。
内崎は苦々しい顔をして、言った。

「どうなのかねえ、村井さんのところ」

はっきりとは言わないが、家の月賦の払いが、どうやら滞っているようなのだ。

「厳しそうなのかい?」

他人の台所事情など、そう容易く洩らすはずはないと思いつつも、訊いてみる。

「まあ、長い付き合いだし、なるべく融通は利かせてやってるつもりだけどさ、こっちも商売だからね。村井さん本人を疑いたくはないけど…、あの業界は先細ってくばっかりだって言うしさ」

そうなのか。漫画の世界は、今後稼ぎにくくなっていくのか。これから子供が生まれるというのに。
やはり、村井夫妻を取り巻く状況は、変わっていっているらしい。それも、悪い方向に。
そんなことを考えているうちに、今度は夫人のほうが、アーチの向こうからやって来た。
日に日に大きくなるお腹を抱えて、あの距離を、この暑い中、毎日往復するだけでも大変だろうに、買い物に人一倍気を遣っているのが、見ていて判る。熱心に料理の材料を選び、店主と話し込んでいる。考えているのは夫の体調か、懐具合か、その両方か。

贅沢など一切していないだろうに、不動産屋への月賦の支払いにも困るとは。
唯一の、そして最大の救いは、村井夫人の表情が穏やかで、幸福そうだということだった。

  ◆

村井夫妻のそんな日々は、結局、ひと夏続いた。
いや、季節が過ぎ、カーディガンを羽織る頃になると、経済状況はより厳しくなっていったようだった。
と言うのも、先日、この商店街で、買い物中の村井夫人が、偶然通り掛かった電気の集金人と出くわしたのを、見掛けたのだ。
彼女は、大きなお腹を抱えながら必死で頭を下げ、一方集金人のほうは、渋い顔をしていた。何を話しているかまでは聞こえなかったが、そこは推して知るべし、というところであろう。
更にその少し後、太一がうちへ買い物に来た時に、河童の漫画はどうなったのかについて、訊いてみた。

「『河童の三平』ですね。八冊出て、話は完結しました。すっげえ面白かったです!俺なんて、何回読んだか」

どうやら今回は、原稿がなくなるようなことは、なかったらしい。しかも、出来上がったのは、かなりの力作のようだ。
取りあえず良かったと、ほっとする。
また太一は、作品について、こんなことも言った。

「凄く面白いんですけど…、何て言うか、それだけじゃないんです。上手く言えないんですけど、その、いろんなことが描かれていて。生きることとか、死ぬこととか…。とにかく、凄い漫画なんです!」

面白いだけではない、生きることや死ぬことや、いろいろなことが描かれている、凄い漫画。
村井夫人も、夫がかなり力を入れて描いた作品だと言っていた。あの、はるこという少女漫画家も、好きだと言っていたはずだ。
どんな漫画なんだろう、「河童の三平」は。

とにかく水木しげる氏は、質、量とも、かなりの仕事をしたに違いない。だが、去年から今年にかけての、あの「鬼太郎」という少年が出て来る話を描いていた頃とは、随分状況が違うような気がする。

「いつかまとめてカネが入ってくる、ってことなんだろうか…」

私なぞが考えたところで、どうなるものでもないのだが、ついつい考えずにはいられない。
今日私は、深大寺の東側のお得意先宅へ、配達に来ていた。真っ直ぐ帰るつもりでいたが、まだ店が混む時刻までは間があるし、せっかくのこの時期、ちょっと寄り道をしてみようと思い立った。
馴染みの客であることが幸いし、そのお宅に暫くの間車を置かせてもらう許しを貰った。結構な時間が出来たので、私は、山門のほうではなく、東側の脇の石段を登り、右手に大きな欅の木や、神社を見ながら、深大寺境内の裏手に回ってみた。
鬱蒼と広がる武蔵野の雑木林には、秋が訪れていた。

赤、黄、茶、黄褐色…、その中に残る緑。はらはらと舞い落ちる枯れ葉は、地面に厚く積もり、踏みしめるたびにカサカサと音が鳴る。
重なり合って繁る葉が影を作り、辺りは少々ひんやりとしていた。
このまま坂道を北のほうへ上っていけば、そこから先には、昨年名を変え、植物園となった巨大な緑の地が、広がっている。
そこへは行かず、裏から境内に入る。心地よい水音が、辺りに響いている。
まさに錦秋。色づく木々達の姿は、日当たりが良い分、こちらのほうが目に鮮やかだ。
釈迦堂のほうから、聞き覚えのある笑い声が、聞こえてきた。
そちらに歩みを進めると、木の葉が降りしきる中、しゃがみ込む村井夫人の背中が見えた。
これまでは背中に長くたらしていた髪を、右耳の下で一つに束ねている。
そして、その向こうには、夫人と向かい合うようにして、同様にしゃがんでいる、彼女の夫の姿もあった。

村井夫妻が一緒にいるところを見るのは、久し振りだった。去年の、あの「読者の集い」以来だから、ほぼ一年振りである。
しかもあの時は、他にも大勢人が居たし、彼らも少し離れて、お互いに別々のことをしていた。つまり、二人が、二人で居るのを私が目にしたのは、この時が初めてだったのだ。
村井夫人は、高らかに、涙を流さんばかりの勢いで、笑っている。

「あー、おかしい。笑いすぎて、お腹の赤ちゃんが、びっくりしとりますよ。あなたでも、そげな駄洒落みたいなこと、言うんですねえ」
「だら!俺はギャグ漫画も、ようけ描いとるんだ。こげなもん、いくらでも思い付くわ。今のはどんぐり見とったら、思い付いた」

二人は笑い、話しながら、何やらずっと地面に向けて、手を動かしている。
何をしているんだろうと、思っていると、こちらに体を向けている村井氏が、私に気付いた。

「ああ、橋木さん。どうも」

あの相変わらずの笑い顔で、しゃがんだまま頭を下げる。それで村井夫人も気付き、振り返った。

「こんにちは。お仕事ですか?」

日の光が眩しそうに目を細めながら、笑顔で私を見上げる。

「はあ、まあ、その途中でして。お二人は、何なさってるんですか」

体を少々屈めて話し掛ける私に、夫人は律儀に立って答えてくれようとした。よいしょ、と言いながら自身の体を立たせようとする夫人に、すかさず村井氏が手を伸ばす。

「大丈夫か。気い付けえよ」
「あ、すんません。大丈夫です」

支え合うようにして、夫妻は立ち上がった。そして、夫人は言った。

「どんぐりを拾っとるんです。古い毛糸を、どんぐりで染め直そうと思って」

言われてよくよく足元を見ると、二人の間には古新聞が敷かれてあり、そこにはクヌギの丸い実が、沢山集められていた。

「へえ、どんぐりを…」

確かに、境内のあちこちには、どんぐりが落ちている。だがそれなら、もっといい場所があるなと、思った。

「裏の林に、もっと沢山落ちてましたよ。あっちのほうが、いいんじゃないかな」

すると夫人の顔が、更に明るくなった。

「そげですか!ほんなら、裏へ行きましょうか」
「そげだな。行ってみるか」

二人は顔を見合わせて、言った。そして村井氏は、足元のどんぐりの山を、器用に古新聞に包み込み、持ち上げた。
自然と皆の視線が、周囲の風景に移る。夫人が言った。

「綺麗ですねえ…。いろんな色があって」

彼女は、うっとりと境内の木々を眺めている。

「そげだな…」

村井氏も、続けて言った。しばらく三人で黙ったまま、秋の古刹の風景を見ていたが、不意に村井氏が、私に言った。

「いつだったか、あんたとここで、話をしたことがありましたな」

「えっ?ああ、そういえば…」

言われて、思い出した。あれは新緑の頃。すぐ近くで子供達が、相撲を取っていた。
よくは覚えていないが、私は感情に任せて、つまらないことをつらつらと、村井氏に聞かせてしまったような気がする。そう思うと、急に何となく決まりが悪くなった。

「何だかくだらない話で、お時間を無駄にした記憶が…。その節は、すみませんでした」

恐縮する私に、村井氏は首を振りながら言った。

「いえいえ、そげなことありません。あの時あんたと、話せて良かった。ほんとです」

よく判らなかったが、だからと言って追究する気も起きなかったので、私は言った。

「そうですか、それは、どうも」
「そげなこと、あったんですか」

夫人が意外だ、といった表情で、我々の顔を交互に見る。
村井氏は本堂のほうを、新聞紙の包みを持つ手で指して、言った。

「ほれ、あの時はまだ、若い葉っぱがちらほら付いとるだけだったムクロジの木も、今はあげに立派に繁って、色づき始めとります」

見ると、確かにムクロジの木は、この数か月の間に見違えるように育ち、まるで本堂の向拝の唐破風屋根を覆い隠すかのように、枝葉を大きく広げている。
この木の黄葉は、まだまだこれからが本番のようで、大きく繁る緑の葉の中の、一部が黄色くなり始めたばかり、というところだった。
「無患子」と書いて、ムクロジ。「子が患わ無いように」と願って、植えられた木。
遠目にあの木を見ているうちに、次第にあの日の自分の気持ちも、思い出されてきた。一人で若葉を見上げる村井氏を見て、覚えた違和感。
今彼は、我が子を宿した女房と一緒に、あの時と同じ木を見ている。
穏やかな秋の陽光が、彼の妻の笑顔を照らす。
あの日の違和感は、二つ季節が変わった今、やっと解消されたように思えた。

「ほんなら、裏に行くか」
「そげですね」

夫妻はそう言うと、そろって軽い会釈をよこし、境内の裏側へ歩いていった。同様の会釈を返すと、私は、二人とは反対の、山門のほうへ歩き出した。
山門を出て、石段を下りようとし、足が止まる。
一瞬考えて、引き返した。
悪趣味だとは重々承知しつつも、気持ちが抑えられなかった。私は来た時とは逆に、釈迦堂を左手に見ながら過ぎ、本堂の裏へ回って、雑木林のほうへ向かった。
そっと、薄暗い林の中を、覗き込む。ひんやりとした空気が、体を包んだ。
微かに聞こえる話し声。その方向へ、歩みを進めた。落ち葉を踏みしめる音が響かないよう、細心の注意を払いながら。
二人の姿を見つけた。やはりしゃがんで、地面に向けて手を動かしている。
先程と違うのは、今は二人共がこちらに背を向けて、横に並んでいることと、二人を照らす日の光の量が、ずっと少ないことだった。

降りしきる木の葉が、この風景を彩る。
不意に夫人が手を止め、驚いた顔で、自分の左隣に居る夫を見た。村井氏のほうは、顔を上げずに、どんぐりを拾い続けている。何か話しているようだ。
次に夫人は、呆れたような顔をし、ついには笑い出した。くるくると表情が変わり、まるで百面相でもしているようである。
話している間、村井氏はずっと下を向き、どんぐりを拾い続けていた。片やそれを聴く女房のほうは、百面相に忙しいようで、手はすっかり止まってしまっている。
穏やかな時間が、夫婦の間に流れていた。
しばらくして夫人が、上を見上げた。
見上げたまま、何かを夫に言ったらしく、釣られて村井氏も、顔を上げる。
聞こえなくても、夫人が何を言ったのか判った。おそらく、落葉の美しさを、夫に伝えたのだ。
並んでしゃがみ込み、次々と舞い落ちる木の葉を見つめる、二つの背中。

私は、そんな夫婦の姿を見ていて、自然と心の深い部分に、暖かいものが湧いてくるのを感じた。
これからのこの夫婦の生活に対する不安は、決して消えた訳ではない。いや、それどころか、これからもっと大変な何かが、彼らを待っているのかも知れない、とさえ思っていた。
でも、少なくとも今、この瞬間は。あの二人、いや、あの三人は、間違いなく、幸福だ。
どのくらいの時間、そうしていたろうか。村井氏が、手の中で、数個のどんぐりをもてあそびながら、視線を移した。
自分の隣で、まだ飽かず中空を見続けている、女房の横顔に。
ああ、あの眼だ、と、私は思った。
かつて、貸本屋の店先で見たのと、同じ眼。
その先にあるものが、どれ程愛しいかを、雄弁に語る眼差し。

しばらくして村井氏が、視線を固定したまま、木の実をぱらぱらと、取り落とした。
空になった手を、すっと伸ばす。隣に居る、愛しい人の、その横顔へ。
途端に私の心臓が、早鐘のように鳴る。見てはいけないと思いつつも、目が逸らせなかった。
一瞬のはずなのに、永遠とも思えるような時間。
彼の右手が、女房の左頬に、触れる――ことはなく、そこをかすめ、彼女の後頭部に伸びた。そして、その髪に付いていた、一枚の枯れ葉を、そっと払った。
そしてまた彼は、見つめ続けた。あの、眼差しで。
夫人は、そんな夫の視線にも、手にも気付かず、辺りの美しい秋の風景に、まだ、魅せられている。
村井夫人の髪をほんの一瞬飾った枯れ葉の色は、薄茶色に近い、やや深みのある黄褐色だった。

その数日後、村井夫人がいつも通り買い物に来た時、自然と深大寺でのどんぐり拾いの話になった。さすがに私が覗き見をしていたことは、言えなかったが。
どんぐり染めをするつもりだという彼女に、うちの女房が言った。

「じゃあ、色を着けるのには、何を使うの?」
「火鉢の灰を使おうと思っとるんです。それなら、お金もかからんですし」

そう言う村井夫人の顔は、まるで小さな悪戯を告白する子供のようだった。彼女は時折、この顔をする。
それを聞いて、女房が言った。

「それなら、椿灰のほうが、色が鮮やかに出るんじゃない?うちに沢山あるから、少し持っていったら?」

驚いたのは、夫人だけでなく、私もだった。

「ええんですか?」
「ええ、勿論。夏の間に、椿の枝を沢山貰ったから、燃やして灰を作っておいたの。待ってて。今、持って来るから」

染色用の、椿の灰。そんなもの、作っていたのか。いつの間に…と考えて、残暑厳しい時期の、あの焚き火を思い出した。
女房はその灰を袋に詰めて、奥から持って来ると、村井夫人に渡しながら言った。

「はい、これ。これで染めたら、毛糸、きっと綺麗な黄橡色(きつるばみいろ)になるわよ」
「わあ、ありがとうございます!」

黄橡。「つるばみ」という古い名を持つクヌギの実を、媒染剤に灰汁を用いて染めると出る、やや濃い黄褐色―。
ほころぶ村井夫人の顔を見ながら、私は思った。あの日の雑木林で、村井氏が彼女の髪から払い落とした秋の一片が、まさに黄橡色だったな、と。





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