聖夜に、新たな住人来る(非エロ)
番外編


「しかし、凄かったな、あの質札」

二人組の男のうち、目が細いほうが言った。

「ああ。あんなに質入れしてるんじゃ、もう家に家財道具なんて、何も無いんじゃないか」

もう一人の男が、言った。
師走を迎えようとしているこの商店街に、見慣れぬ、背広姿の二人組の男達がやって来た。どうやら役所の人間か何からしいが、よく判らない。
二人は、うちの店の前のベンチに座り、呆れたような顔で話をしていたが、しばらくすると駅のほうへ去っていった。

「家財道具を質に、か…」

あの二人組が誰のことを言っていたのかは知るべくもないが、ふと、亀田質店の常連だという、村井氏のことを思い出した。
質屋通いは、続いているのだろうか。いつだったか、夫人が大事そうにしていたラジオや、今は乗れないあの自転車なども、質草になってしまっているのだろうか。
先日、こみち書房の店主、美智子が、溜め息をつきながら言った。

「『河童の三平』を出してた出版社、潰れちゃったらしいの」
「えっ!?」

私は混乱する頭を何とか働かせながら、必死に言葉を探した。

「だって…、『河童の三平』は傑作だって、太一君が…」
「それは、そうなのよ。本当に、傑作なの。でもね、詳しい状況は判らないけど、貸本漫画の出版社は、今何処も苦しいから。ほら、雑誌に押されて…」

そうなのか。雑誌の世界と貸本の世界は、そんなに違うのか。うちでは漫画雑誌は扱っていないので、私は何も知らなかった。

「水木先生の本、沢山出してた出版社だったのよね。描いた分の原稿料、ちゃんと頂けてたのかなあ…」

なんと、報酬を踏み倒された可能性もあるらしい。私は、絶句してしまった。

美智子は、あの「鬼太郎夜話」を出していた出版社も、実は倒産していたのだと教えてくれた。五巻目の原稿が紛失したのも、会社が潰れた、そのどさくさに紛れてというのが真相だったのだ。
もっとも、その会社の倒産は、社長の深沢という男が急病で倒れたことが直接の要因だそうだ。深沢氏は、漫画家水木しげるのことをかなり高く買っており、それだけに彼の急な病臥は、様々な意味で、村井夫妻にとってかなりの痛手だったという。
私は、何も知らなかった。いや、知っていたところで、何が出来たという訳でもないのだが。
先程の、役所の人間風の男達が去るのと入れ替わるように、村井夫人がアーチを潜ってやって来た。彼女が母になる日は、もう間近に来ている。
自らに宿る新しい命を愛おしそうに撫でながら、いつもと同じ様にこの商店街を歩く。
その笑顔は、これまでと何一つ変わらないようにも、また、何か今までにない、言い知れない思いを抱えているようにも見えた。
そんな漫画家の女房を見つめながら、私は美智子の言葉を思い出す。
馴染みの出版社の倒産で、村井氏はこれからどうするのだろうと、要らぬ心配をする凡人の私に、漫画家水木しげるの強さを知らしめるように、彼女は言った。

「でもね、本は出続けてるの、違う出版社から。ずっと、描き続けてるのよ、水木先生は」

  ◆

それから数日後の、午後。
年の瀬が迫り、少しずつこの商店街にも、年に一度の慌しさが、訪れてきていた。

「布美枝さん、大丈夫?」

女房の声にふと、目を上げると、村井夫人が店の前のベンチに、こちらに背を向けて座っていた。
ただ座っているのではなく、座った状態で、身を屈めていた。そんな彼女に、女房が駆け寄る。
最近は、何故か女房のほうが、私より早く村井夫人に気付くことが多かった。

「ありがとうございます。大丈夫ですけん」

笑って応える横顔が見えたが、その笑顔に力はなかった。具合でも悪いのだろうか。

「大事な時だから、無理しないでね。よかったら、うちの車で、送っていきましょうか」

俺の出番かと、一瞬色めき立ったが、夫人はあっさり断り、気遣いに対する礼を何度も言いながら、アーチの向こうへ歩いていった。

「足、浮腫んでたわねえ。大丈夫かなあ…」

女房が呟きながら戻って来た時、ちょうど松井の嫁、つまり銭湯の若おかみが、うちの店に買い物に来ていた。女房と村井夫人の様子にも気付いていたらしく、心配そうに言った。

「布美枝さんですよね。うちの義母も、和枝さんや徳子さんと、話してました。初めてのお産だし、お里は遠いし、さぞ不安だろうなって」
「そうよねえ。こっちには、お身内の方なんて、居ないだろうし」

すると、ティーバッグの紅茶を見ていた若おかみが、村井夫人に関する意外な情報を教えてくれた。

「いえ、お姉さまがお一人、ご結婚なさって、こちらにいらっしゃるそうですよ。赤羽に、お住まいだとか」
「へえ、そうなの。知らなかった」

東京に姉上が嫁いでいたとは、私も初耳だった。意外な事実だが、その事実に驚く以上に、何かが引っ掛かった。赤羽という地名に、聞き覚えがあったのだ。
何故だろう。いつ、何処で聞いたのだろう。夫人の姉上の話は、確かに、今初めて聞いた事実であるはずなのだが。

「不安そうな顔してましたよね。お義母さんに、言っておいたほうがいいかなあ。今ならロザンヌレディの営業所に居ると思うんで。この間、下野原のお得意様のところを回る際にでも、一度行ってみようかって、言ってたんで」

その後、若おかみは、番台を任されることの気恥ずかしさと誇らしさを少しだけ語って、帰っていった。
私はその間、村井夫妻と赤羽という地名の繋がりについて、ずっと考えていたが、結局何にも思い至らず、判らないまま諦めた。
それにしても。
体調がすぐれないのか、精神的に不安定になっているのか。本当に今が大事な時期だというのに、心配である。
心配ではあるが、ただただここで気を揉んでいるだけで、何をしてやるのが一番いいのか、見当もつかないのだから、こういう時、他人の男というのは、本当に役に立たない。
すると、女房がぽつりと言った。

「この間、こみち書房に行ったらね。美智子さん、店番しながら、端切れでちゃんちゃんこ縫ってたわ。あれ、布美枝さんの赤ちゃん用ね、きっと」
「へえ…」

亡くした我が子の分まで、健康に、幸せに育ってくれと、祈りながら縫っているのだろうか、美智子は。
ならば。何も出来ないならば、せめて、私も祈ろう。無事に新しい命が、誕生するようにと。
私も心で、語りかける、年が改まると共にやって来る、この街の新たな、小さな住人へ。
大丈夫だよ。
気のいい人達が暮らす、いいところだよ、君が生まれて、育つ街は。
そして、朗らかな、優しいお母さんと、誰より強いお父さんが、君を心から待ってる。
きっと、きっと、素敵な物語が始まるよ。
だから、安心して、生まれておいで。

  ◆

クリスマスイブの朝である。天気も上々だ。
見慣れた商店街も、ツリーやモールで飾られ、スピーカーからはクリスマスソングが流れ、華やいだ雰囲気に包まれている。
通り過ぎる子供達の顔が、どの顔も嬉しさに輝いていた。

今日は一日、買い物客が、引きも切らずやって来るだろう。冷たい空気に身を縮こまらせながらも、忙しい日になるぞと、覚悟を決めていると、アーチの向こうから、村井夫妻がやって来た。
私は驚いて、思わず二人を凝視してしまった。
夫妻でこの商店街を歩くのも珍しければ、こんなに朝早くに村井氏の姿を目にすることも珍しい。今日は大雪でも降るのではないだろうか。

「おはようございます」

夫人がにこやかに、挨拶をしてきた。

「おはようございます。お珍しいですね、お二人で」
「ええ、定期健診なんです」

答えるその顔には、いつぞやの不安げな様子など微塵もなかった。
そしてその隣には、そんな彼女を庇うように、寄り添う夫がいる。

「村井さんも、ご一緒に?」

何気なく訊いたのだが、村井氏は、照れくさそうに俯いて、もぞもぞと言った。

「はあ、まあ、散歩のついでに…」

その様子を見て、夫人がくすくすと笑い、私に向かって言った。

「判ります、橋木さんの、おっしゃりたいこと」
「はい?」

私のほうが、判らなかった。夫人は時折見せる、あの悪戯っ子のような笑みを、夫に向けて言った。

「あなたがこんな早うに、外を歩いてるのが珍しいって、思っとられるんですよ」
「ああ…」

いえ、そんな、と言おうとして、そういえば考えてなかったこともないな、と、思い直した。

「商店街中の人が、思っとりますよ、雪でも降るんじゃないかって」
「だら!雪なら、多少は降ったほうがええだろうが。今日はクリスマスイブだ」

夫人は、くすくす笑いをやめ、その表情を穏やかな微笑みに変えて、言った。

「そげですね」

どきりと、心臓が、音を立てた。
いつもいつも、それこそ毎日に近い頻度で見ている表情のはずなのに、その日、その時の微笑みは、何か違ったのだ。

美しい、と思った。この上なく美しい女性が、今、目の前に居る、と。
そして、その美しい人の、最上の笑みが、今隣に居る、ただ一人の男に、向けられているのだ、と。
いや、だからこそ、その微笑みが、慈愛に満ち、この上なく美しく見えるのだろうか。
私は、村井夫人の横顔を見ながら、そんなとりとめのないことを、ぼんやりと考えた。己の意識が、何処か中空辺りを、ふわふわと漂っているのを、感じながら。

「あっ、いけん!」

夫人のこの言葉が、私の意識を、元あった場所に呼び戻す。

「どげした?」
「小麦粉、足らんかも知れません」

大きな眼が、さも何か大事が起こったかのように見開かれ、夫を見つめる。

「だら!小麦粉がなかったら、話にならんだろうが。あんたはそういうとこ、ぼんやりしとるなあ」
「もうっ!そげに言わんでも…。帰りに買うの、忘れんようにしますから」

夫人が視線を、私に移す。私も微笑みで応えた。

「お待ちしてますね」

互いに会釈を交わした後、村井夫妻は、産院があるほうへ、ゆっくりと歩いていった。
愛おしそうに自らの腹部を抱える妻と、そんな「二人」を見守る夫。
並んで歩く後ろ姿を、私は、角を曲がって見えなくなるまで、見送った。

  ◆

昼飯時の混み合う時刻もとうに過ぎ、午後になってしまった。村井夫妻はまだ、戻って来ない。
どうしたのだろう。臨月の女性の体のことをよく知っている訳ではないが、定期健診にしては、時間が掛かっているような気がする。
何かあったのだろうか。まさかとは思うが、夫人の体に何か。
私はもう何度も、朝方に二人が去っていった方向に、目をやっていた。
それとももう、とっくに産院を出ているのかも知れない。別の道を通って、下野原まで帰ったのかも。

産院からなら、ここを通って帰るのが一番近いが、他の道がない訳ではない。天気もいいし、野川沿いでも散歩しながら帰ることも、あの二人ならあり得るだろう。

「小麦粉は、いいのかなあ、買わなくて…」

更にかなりの時間が過ぎ、もう今日は二人の姿は見られないようだと諦めた頃、カランコロンと聞き覚えのある下駄の音が、響いてきた。それもかなり、急ぎ足の。
見ると、産院のある方向から、村井氏が商店街に向かって、やって来るのが見える。
夫人は伴っていなかった。何かただ事ではない事態が起こったらしく、切羽詰った顔でこちらへ向かって来る。急ぎ足と言うより、駆け足に近いくらいの速さだ。

「村井さ…」

声を掛ける間もなく、あっと言う間に、アーチの向こうへ行ってしまった。
どうしたのだろうと、私が一人、案じていると、程なくしてまた村井氏が、アーチを潜ってやって来た。今度は手に、紫色の風呂敷包みを提げている。
私は驚いて、口をあんぐりと開けてしまった。下野原の自宅まで一旦帰って、また今、ここまで来たと言うのか?こんな短時間に?
村井氏は、先程以上の勢いで、来た道を戻ろうとしたが、何かを思い出したように、商店街にある赤電話に駆け寄った。電話の上に風呂敷包みを載せ、ポケットから慌てた様子で、何やら小さな紙切れを取り出す。
受話器を取ると、左耳に当て、肩で挟んだ。紙切れには電話番号が書いてあるようで、それを持ったまま、同じ手で赤電話に硬貨を入れ、器用にボタンを押していく。
気になってたまらず、私は電話中の村井氏のところへ、そろそろと近寄っていった。

「…はい、そげです。…はい、夜になるらしいですわ。…はい、すんません、お忙しいところ。よろしく頼みます。ほんなら」

受話器を置き、行こうとする村井氏に、何とか話し掛けた。

「村井さん、どうしました?奥様に、何か…」

私の姿を捉えると、こちらが言い終わらないうちに、彼は勢い込んで言った。

「う、生まれるそうなんですわ、今日、これから!」
「えっ!?だって、予定日は、年明けじゃあ…」
「そげだったんですが、どげした訳だか、今日になったんですわ!ほんなら!!」

一刻も早く行かなければ、と急く気持ちが、溢れ出していた。挨拶もそこそこに、村井氏は、今度は本当の駆け足で去っていく。
なんと、クリスマスイブの今日、生まれるらしい。
下駄の音が遠ざかっていくのを聞きながら、赤電話に目をやると、その上に、風呂敷包みが載っていた。

「ちょ、ちょっと、村井さん、荷物、荷物!」

私は包みを持ち、もうじき父親になるその男を、慌てて追い掛けた。

  ◆

そして、その夜。
両親に会える日を待ちきれなかったのか、予定より、少し早く。
この街に、新たな住人が一人、やって来た。
元気な、女の子だった。






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