玉の装い羨まじ(非エロ)
番外編


昭和三十八年、正月三日。
私は店の車で、村井家に向かっていた。
あの下野原にある、村井家、水木しげる宅である。初訪問だった。
言っておくが、こっそり住所を調べるなどという、さもしいことはしていない。ちゃんと家の主に番地を訊き、日時を約束した上で、訪問しているのだ。出産祝いを届ける為に。
村井家に女の子が誕生したのは、去年のクリスマスイブ。商店街の情報網とは凄いもので、翌二十五日にはその事実は、大抵の店の店主、おかみ達は知っていた。
ちなみに、情報の出所は私ではない。私は何も言っていないが、まあ、あの赤電話の前での村井氏の興奮ぶりは、かなりのものだったので、周囲の誰かに悟られていたとしても不思議ではないだろう。
それにしても、産気づいたことを逸早く知った私ですら、無事女の子が生まれたことは、翌朝近所の事情通から聞かされたのだから、何をか言わんやである。
村井氏が、まだクリスマスソングが流れる中、おそらく産院へ行く為であろう、商店街を通った時には、自転車であるにも拘らず、あちこちの店から飛び出してきたおかみ達に捕まり、足どめを食った。

「おめでとう、水木先生!」
「布美枝ちゃんと赤ちゃんは、どう?元気?」

和枝や徳子、靖代から祝福の言葉を浴びせかけられながら、照れくさそうに笑う顔は、喜びに溢れてはいるが、やはり、相変わらずの少年ぶりだった。
どうやら母子共に健康であるらしく、一安心といったところだったが、当然それからしばらくは、赤子は勿論のこと、村井夫人にもお目にかかれない日々が続く。
奇しくも年の瀬、急な出産で年越しの準備などろくにしていないだろうに、などと考えていると、村井氏が買い物に来た。珍しい光景ではあるが、何日も奥方不在であるのだから、当然と言えば当然だろう。
その際に、立ち話ではあるが、年明けに祝いの品を届けにいく約束を取り付けたのだった。夫人が何とか、病院で年を越さずにはすみそうだということも聞いた。

畑の中の道を、ガタゴトと車体を揺らしながら、車を走らせる。途中で牛の姿も見えた。
美智子や靖代達ですら、三人家族になった村井家への訪問を、まだ控えているというのに、私なぞが行っていいのだろうか、という後ろめたさはあった。
だが、正月のめでたさも加味することが出来るこの時期でないと、直接村井家へ祝いの品を届けるという、身の程知らずなことは出来ないような気がして、思い切って願い出たのであった。
もっとも村井氏のほうは、そんな私の思いなど知る由もないことだったであろうが。
贈る品は、考えに考えた挙句、酒にした。
出産祝いで、しかも家長が下戸である家に酒を贈るというのは如何なものか、とは思った。
だが、私が多少なりとも人に誇れることと言ったら、酒に関する知識だけである。思いを伝えられるものは、やはり、これしかなかった。
選んだのは、伏見の銘酒。柔らかく上品な飲み口で、後味はほどよく切れがあるが、香りはむしろ控えめ。料理に用いれば素材の持ち味を引き出し、豊かな旨味を与えるという一品である。どうだ。
畑の真ん中にある、数件の人家が密集する区域に入る。家々の中を緩く曲がりながら貫く、幅の狭い道路を、奥へと進んでいく。この辺りは、確かに、配達などをよくしているというような、馴染みのある場所ではなかった。
教えてもらった番地に到着する。村井家は、脇道を曲がった、その突き当たりにあった。ちなみに、裏は寺だ。
エンジンを切るのも忘れ、車内から「その家」を、しばし眺める。
そこは、聞きしに勝るボロ屋だった。まさに絵に描いたような安普請。壁は薄そうであるし、ここから見ても、門扉の板の一部が、割れているのが判る。
表札に「村井茂」の文字。あれは村井氏の字なのだろうかと、ぼんやり思った。
ここが、あの夫婦が、暮らす家。あの男が、右手一本で、漫画を描き続けている家。
エンジンを切り、風呂敷に包んだ一升瓶を手に取る。ドアの内側の取っ手に手を掛けたところで、自ずと、動きが止まった。

「ん?」

微かに、何かが聞こえてきた。誰かが、歌を歌っているようだ。

車から降りて、ドアを閉めると、歌声ははっきりとこの耳に届いた。

「埴生の宿も わが宿
 玉の装い 羨まじ」

歌声の主は、村井夫人だった。
どうやら家の外に居るらしいが、ここからでは死角に入っていて、その姿は見えない。

「のどかなりや 春の空
 花はあるじ 鳥は友」

私は、何故だかその場で、動けなくなってしまった。
時間にして、僅か数十秒のことだったと思う。一升瓶を持ったままぼんやりしていると、歌声が止んだ。

「あ、そげだ」

そんな言葉が聞こえ、夫人が門の外に出て来た。手には洗濯物を入れる、白い籠を持っている。
郵便受けを覗いて、中身を取り出す。戻ろうとしたところで、私に気付いた。

「橋木さん!明けましておめでとうございます」

顔をほころばせて、頭を下げる。その笑顔が一段と輝いて見えるのは、初春の日の光に、照らされているからというだけではないだろう。

「あ、明けましておめでとうございます、奥さん。本年も、宜しくお願いします。それから…ご出産、おめでとうございます」

こちらも頭を下げ、近付いていく。夫人の顔が、更に輝いた。

「ありがとうございます。そうそう、あの日の朝、橋木さんにお会いしたんですよね。あのまま入院することになってしまって」

そう、私が村井夫人に会うのは、あの朝以来だった。

「女の子だそうで。本当に、おめでとうございます。年明け早々、すみません。今日は、お祝いのお品をお届けしますって、ご主人とお約束してたんですけど」
「はい、聞いとります。わざわざ、ありがとうございます。さ、どうぞ、お上がりください」
「お体は、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。あ…」
「はい?」

夫人は、申し訳なさそうな顔をして、言った。

「お正月にしては、家の中、ちょっこしごたごたしとるかも知れません。主人、ずっと仕事をしとりまして」
「いえいえ、お気遣いなく。お仕事が、大事ですから」
「すいません。時代劇の長編なんですけど、新しい版元さんの注文なので、締切には遅れられんし、ええもんにせんといけんって、力が入っとって」

敷居を跨いで敷地内に入ると、玄関の横に、自転車が二台、置かれてあった。
それらはまるで、寄り添うように並べてあり、思わず、目を奪われる。

「お父ちゃん、橋木さんがいらしてくださいましたよ」

玄関の扉を開けて、夫人が声を掛けると、奥の部屋から村井氏が出て来た。

「ああ、おめでとうございます。その節は、どうも」
「村井さん、明けましておめでとうございます。それから、改めて、お嬢さんのご誕生、おめでとうございます」

玄関のたたきで、挨拶をする。夫人が履物を脱いで上がり、上がり口に夫妻が並ぶのを待ってから、風呂敷から出した一升瓶を差し出した。

「これ、ご主人がお酒を召し上がらないのに、何ですが、お正月のお祝いも兼ねてってことで。お料理に使っても、おいしいですから」
「わあ、ありがとうございます!」
「おお、こりゃあ、ええな」

正直私のこの選択に、夫妻がどういう反応を示すか不安だったが、二人とも嬉しそうな顔を見せてくれ、内心ほっとした。

「自分は酒を呑まんのですが、うちに来る客人の中には、好きな者がおりましてな。…おい、お母ちゃん、今日午後、戌井さん来るだろ。ちょうどええ、これ、ご馳走せえ」
「そげですね。ありがとうございます。ああ、お寒いでしょう。どうぞ、お上がりください」

笑顔で中へと促す夫人を、軽く制する。今日は、酒を届けたらすぐに帰ると、はじめから決めていた。

「いえ、今日はこれで失礼します。またいつか、機会がありましたら、その時ゆっくり。ただ…、その…」

本当にすぐに辞するつもりだったのだが、少々事情が変わってしまった。

「すみません、無礼だとは思いますけど、少しだけ、ここから覗かせてもらって、いいですか」

私は廊下と部屋を仕切る額入り障子の、硝子の部分を指差した。
そこからは少しだけ室内の様子が窺え、私の位置からはちょうど、小さな布団の中で、すやすやと眠っている赤子の姿が見えたのだ。

「ああ、ええ。…いえ、そげなことおっしゃらずに、お上がりになって、会ってやってください」

夫人は当然のように、そう言ってくれたが、私は慌ててかぶりを振った。

「いえ、本当に、今日は結構です。すぐ帰りますから。本当に、ちょっとだけ…」

言いながら私の目は、既に硝子の向こうの一点を、そこに吸い込まれるかのように、見つめていた。

こちら側を頭にしている為、顔はよく見えなかったが、目を閉じ、深く眠っていることは判った。布団から小さな手を出し、ぎゅっと握り締めている。

「あのぷっくりしたほっぺたは、ご主人似ですね…」

私は、夫妻に語るというよりは、呟くように言った。
奥の部屋との間を仕切る襖に、生まれた赤子の命名書が貼ってある。
そこに書かれているのは、「命名 藍子」という文字。どうやらこれが、彼女の名前らしい。

「村井藍子ちゃん、か。いいお名前ですね」

命名書の左上には、何かの絵が、小さく描かれていた。
この位置からでは、何が描かれているのかまでは見えなかったが、何か丸いものだった。きっと漫画家の父親が腕を揮った、何か「おめでたいものの絵」なのだろう。
もう一度、眠る赤子に、目を移す。
そこに居るのは、まさに奇跡を具現化したもののように思えた。聖なる夜、形となってこの世界に姿を現した、小さな「奇跡」。

「初めまして。これからよろしくな、藍子ちゃん…」

私は、囁くように言った。万が一にも、「奇跡」の眠りを、邪魔しないように。
そして、そろそろ本当にいとまを告げようと、夫妻に向き直った時、私が持って来た酒をじっと見つめていた夫人が、突然、小声で「あっ!」と言った。

「ど、どげした、急に」
「このお酒、懐かしい!」

何を言っているのか判らないのは、村井氏も私と同様のようで、きょとんとした顔で、夫人を見つめる。

「すんません、突然。ちょっこし安来の実家のことを、思い出しまして」
「ご実家…。ああ、酒屋さんなんですよね」
「はい。女学校出てから、結婚して上京するまでずっと、父と弟でやっとる店を、私も手伝っとったんです。本当に、いろんなことがあって…。
弟の貴司が一度、このお酒を地酒の値段で売って、父にこっぴどく叱られたことがあったんですよ。弟はもう、可哀相なくらい、しゅんとしてしまって。
その時は大変だったんですけど、今となってはそれも、娘時代の、大事な思い出の一つです」

村井夫人は、その伏見の酒を、目を細めて見つめながら、懐かしそうに言った。

「そげか…」

そんな夫人の横顔を、穏やかな眼で見つめる、彼女の夫。

二人の馴れ初めなど全く知らないが、ふと、村井氏は、安来の実家に居た頃の夫人のことを、あまり知らないのではないかと思った。
この女の娘時代は、どんなふうだったのだろう。女房を見つめるその眼が、そう言っているように感じられたのだ。
とにかく、どうやら私の生業が、ほんの少しだが、この二人に安らぎをもたらすことに、役立ったらしい。私はそれが、心から嬉しかった。

「それじゃ、今度こそ、本当に失礼します。奥さん、お体、お大事に。また、すずらん商店街で、お待ちしておりますので」

お互いに深く頭を下げ合い、私が玄関を出ようとした時、村井氏が言った。

「橋木さん」
「はい?」
「そのうちお近くを、うろちょろし出すと思いますんで、ずっと、見とってやってください。うちの子のこと」

いつまで経っても少年のように、人懐っこい顔で笑う男。だが、眼鏡の奥のその眼は、いつの間にか、完全に父親のそれになっていた。

「判りました」

私は笑って、頷いてみせた。

  ◆

それから、一週間程が過ぎ、正月気分もすっかり抜けた頃。
隣の乾物屋の前では、女性達がやけに張り切って計画を立てていた。

「どうする?もう、行ってもいいと思う?」
「うーん、さすがに、まだ駄目じゃない?最低でも、三週間は見ないと」

銭湯のおかみ、靖代のその言葉が耳に入り、ぎくっとする。
女房がちらっと、私のほうを見たのが判った。
乾物屋のおかみ、和枝が言った。

「あーあ、早く赤ちゃんに会いたいなー」

さっきからずっと、こんな調子である。やれ人形だ、ガラガラだ、おもちゃのピアノだと、献上品を持ち寄っては、はしゃいでいる。

「でもさー、やっぱり一番必要なものって、乳母車よねえ」

床屋のおかみ、徳子が、困り顔で言った。

「そりゃそうよ。あの距離を毎日、赤ちゃん抱っこしたり、おんぶしたりして往復するなんて無理。布美枝ちゃん、体持たないわよ」
「そういうものに限って、私達の誰も持ってないってのがねえ…。そうだ、商店街の人達に、声を掛けてみない?誰か、持ってるかも」
「それ、いい!じゃあ早速、私、角の荒物屋の奥さんのところから、順番に訊いてみる。混む時刻まではまだ、少しあるし」

そう言って、和枝はさっさと行ってしまった。床屋に客が入るのを目にした徳子は店に戻り、靖代はうちの店に来た。

「こんにちはー。橋木さん、ちょっと訊きたいんだけど…」
「ああ、聞こえてたわよ。乳母車でしょう。…ごめんなさい、うちにはないわ」

そんなやり取りの後、世間話を少しして、靖代は帰っていった。
女房が、恨めしそうにこちらを見る。

「…」
「な、なんだよ」
「ずるいなー、あんただけ、村井さんのところの赤ちゃんに会って来て」

彼女は、あの日私が一人で村井家を訪問したことを、事後報告で知ってから、ずっとこんな調子であった。

「あ、会ってはいないぞ。遠目に、硝子越しで、ちらっと寝姿が見られただけだ。本当に、玄関でお祝いを渡して、すぐ帰ったんだから」
「それにしたって、出産後十日目くらいだったでしょう?お身内やお友達でもないのに、ちょっと早過ぎたんじゃないの?」
「だから、それはちゃんと気を付けたさ。そ、それに、お客人に振舞う酒がちょうど欲しかったって、喜んでくれたよ、お二人とも」
「でも、私も連れてってくれたって、良かったのに。私だって、布美枝さんや赤ちゃんに、会いたかった…」
「ああ、もう、過ぎたことをいつまでも…。そのうち、商店街に、連れて来てくれるだろ」

女房はまだ納得がいかないようだが、私は、ひたすら遣り過ごすしかなかった。
私のような、ただの近所の店の店主が、祝う気持ちを訪って伝えるには、新年という時が好機だったのは確かだった。
だが、それだけではなかった。確かに私は、意図的に、女房にも誰にも告げず、村井家を訪問した。後ろめたさを感じつつも、そんなぬけがけのようなことをした理由は、自分でも上手く説明出来ない。
ただ、村井夫妻に、会いたかった。親となったあの二人が、二人で居るところを見たかった。
すると思いもかけず、あの「奇跡」にも、お目通りがかなったのだが。
あの日、小さな四角い空間からは、実はいろいろなものが、垣間見えていた。
例えば、命名書の隣に、掲げられていた小さな絵。墨で描かれた、あれは…何の絵だろう。ひょろっと細長いものが、ふわふわと浮いているようだったが。
印象的だったのは、その絵を飾る、幅広の額だ。柔らかい、淡い色調の、手作りと思しき額。あの絵を守るように飾りながら、間違いなく絵と一体となって、あの部屋の一部となっていた。

そして、あの襖。お世辞にも上等な建具とは言えない、おんぼろな代物。そのあちこちが、補修されていた。赤や桃色など、色とりどりの千代紙で。
あれはきっと、夫人が貼ったものだろう。歌など歌いながら、一枚一枚、丁寧に。
そして、同じく千代紙の折鶴で、飾られた玄関。埃一つなく、磨き上げられた廊下。庭先には、二台の自転車。

「お父ちゃん、お母ちゃん、か…」

いつの間にかあの夫婦は、お互いを、そう呼ぶようになっていた。
「読者の集い」で、貸本屋の店先に居た二人。秋の深大寺で、木の実を拾っていた二人。冬の朝、我が身に宿る命を抱きしめていた妻と、その傍近くに寄り添う夫。
会うたびに、並んだ姿を見るたびに、二人は変わっていった。そして今、あの夫婦はまさに、比翼の鳥だ。一翼のみを持ち、互いに寄り添い、一体となることで初めて空を飛ぶ、二羽の鳥。

 埴生の宿も わが宿
 玉の装い 羨まじ

村井夫人の歌声が、耳に蘇る。
今日も彼女は、あの家を磨き上げ、手作りの品で飾っているのだろうか。以前と違うのは、今はその歌声が、新たに増えた、大切なもう一人の家族にも、届いているということだ。
そして、もう一つ。
あの家で、もう一つ、私が見ることが出来たものがあった。
千代紙が貼られた、あの襖の一枚が、半分程開いていた。
その向こうに見えたもの。それは、何枚もの原稿、そして何本ものペンと筆。積み上げられた本。床に並べられた、何冊ものスクラップブック。
それは、「漫画家水木しげる」の、その仕事の一端だった。
あの男はあの場所で、これまでどれだけの作品を、どんな思いで生み出してきたのだろう。そしてこれからはどんな作品が、生まれてくるのだろう。
二枚並んだ座布団の片側は、女房の指定席なのだろうか。
背中を並べてペンを走らせる、あの夫婦の姿を思い描きながら、何処からか歌が聞こえてきたような気がした。

 のどかなりや 春の空
 花はあるじ 鳥は友
 おお わが宿よ
 たのしとも たのもしや






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