番外編
「言わなきゃ、良かったな…」 私は商いをしながら、先ほどからずっと、この言葉を呟いていた。 今日は三月三日、桃の節句である。午後、村井夫人は雛あられを買っていった。菱餅や白酒なども店には並べてあったが、買ったのは、それだけだった。 「藍子ちゃん、初節句ですね」 そう私は、言ってしまったのだ。それを聞いた時の、彼女の寂しそうな笑顔。 生活は、どうやらかなり苦しいようだ。先日は八百善で、大根の葉を安く売ってくれと交渉していた。魚調でも、似たようなことをしていたようだ。 不動産屋の店主、内崎に至っては、最近では村井氏の名前を出しただけで、顔をしかめる。万が一にもあの二人に迷惑が掛かっては…と、私はもう、内崎と話す際に、村井家の話題を出すことをやめた。 それにしても、今日のは失敗だった。考えが足りなかった上に、馴れ馴れしかった。 「橋木さん、またいつも通り、ビールの配達お願いするわ」 私が一人で、大いに後悔していると、ご近所の馴染み客が、小学生の息子を連れてやって来た。 「まいど。『日乃出』を一箱で、よろしいですね。お届けは、明日?」 「うーん、ここ二、三日、留守したりなんだり、ばたばたしてると思うから、木曜にしてもらえる?今週、主人出張中だし」 「承知しました。奥さん、どうかなさったんですか?」 よく見ると、傍らにいる彼女の息子は、頗るご機嫌が悪そうである。 「ちょっと、実家の母が、手術をすることになって。たいしたことないんだけど、一泊だけしてくるつもりなの」 「それは…、ご心配ですね」 「いえいえ、本当に、何てことないのよ。ただ、この子は学校があるし、子供連れていっても邪魔だろうから、府中の主人の親のところに、お願い することにしたの。水曜の朝だけ、学校まで送ってもらって」 「僕、行かないよ、おじいちゃんの家。うちに一人で居るよ」 どうやら、この親子はまだ、議論の最中であるらしい。 「だーめ!お父さんも居ないし、あんた一人で家には居させられないの!いいじゃない、おじいちゃん達も、喜んでくれてるんだし」 すると男の子は、声を限りに、必死で訴えた。 「だって、おじいちゃんのところ、テレビないじゃん!火曜日は、『アトム』があるんだよ!!」 アトム? 何かのテレビ番組なのだろうが、どのようなものなのか、想像出来ない題名だった。 「坊や、『アトム』って、なんだい?」 私は男の子に訊いてみた。 「おじさん、知らないの?『鉄腕アトム』だよ!」 母親が、半ば呆れながら、解説してくれた。 「漫画映画よ。一万馬力だかの、ロボットが出て来る…」 「違うってば!テレビマンガ!!十万馬力!!」 「ああ、もう、判ったから。とにかく、今週は我慢しなさい。いいでしょ、一回くらい観られなくたって」 「ええーっ!!!」 結局、その親子は、言い合いをしながら、帰っていった。 漫画映画というものは、さすがの私も目にしたことはあったが、「動く絵」というくらいの認識しかなかった。どういう仕組みになっているのか、アメリカは不思議なものを作るなあ、と思っていたくらいである。 おそらく如何にも不得要領だという顔をしていたのであろう、私の意中を察したらしい女房が、説明し出した。 「なんか、かなり人気らしいわよ。他のお客さんからも、聞いたことあるわ。お子さんが夢中になって、観てるって」 「漫画映画って…、あれか、『ポパイ』みたいなもんか?」 「さあ、どんなものなのかは、私も…。でも元々は、何かの雑誌に載ってる、日本の漫画みたいよ。なんとか博士って、日本の名前が出て来てた。宇宙とか、ロボットとかが出て来る、未来の話で…」 やはり、女房にも、よく判っていないらしい。 しかし、アメリカのものではないとは。この国も、そんなものを、作れるようになったのか。 漫画映画。テレビ。雑誌。そして、宇宙、ロボット、未来。 貸本漫画が、雑誌に人気を奪われているという、いつかの美智子の話が、頭に浮かんだ。その根本的な理由は、よく判らないままではあるが。 こみち書房の本棚に、ずらっと並ぶ貸本漫画は、もう子供達の世界の、端のほうに追い遣られつつあるのかも知れない。それは、漫画のことを何も知らない私が、その事実を初めて実感することが出来た、瞬間だった。 「そういえば最近、紙芝居屋って、見ないなあ…」 私は、かつて、この商店街で、夢中になって紙芝居を観ていた、幼い頃の我が子達の顔を、思い出していた。 ◆ 紫陽花の季節が、やって来た。 とは言っても、花を咲かせているのは、手毬形の白いものだけで、他のはまだ、蕾のままだ。白い紫陽花はそういう種類なのか、それともこれから色が変わっていくのか、花に疎い私には判らない。 店を閉めた後、私は喫茶店「再会」に来ていた。 客の一人に、商店街のアーチの向こうに店を構える、仕立屋「テーラーオギノ」の店主がいた。背広を仕立てる客は増える一方らしく、「いい時代になったねえ」とご満悦の様子で、コーヒーを飲んでいる。 「景気のいい商売も、あるっていうのになあ…」 私はどうしても、村井夫妻のことを、考えないではいられなかった。 村井氏、いや、水木しげる氏は、とどまることなく描き続けていた。 仕事帰りに、店の近くを通る太一の手にはいつも、こみち書房で借りてきたらしい「水木しげる」の新作が、抱えられている。 彼はある時は、幕末の江戸に「火星民族」が登場するという時代劇の長編の話を、またある時は、現代を舞台にした怪奇ものの短編の話を、眼を輝かせながら、してくれた。 「凄いんですよ、食べたり飲んだりする場面の、生々しさとか、擬音の使い方とか!」 ほんの三十ページほどの作品にも、彼にとっては語り尽くせない魅力が詰まっているようで、一旦話し出すと、止まらなくなるくらいだった。 だが問題は、報酬である。また出版社が倒産して、原稿料が踏み倒されるなどということが、起きていないだろうか。今あの夫婦は、乳飲み子を抱えているのである。 考えても仕方のないことだとは判っているのだが、自転車の籠にママミルクの缶だけを入れて帰っていく、夫人の姿などを見てしまうと、何とかならないものかと、どうしても思ってしまうのであった。 それでなくても、慣れない子育ては、大変だろうに。頼みの姉上は、今年に入ってから腰を痛めてしまい、気軽に調布まで来られる状態ではなくなってしまったそうだ。 そういえば何日か前の夕刻、配達でとある家を訪れた時、そこの子供達が、テレビを囲むようにして座っていた。何だろうと思って見ていると、ほどなくして始まった番組が、あの「鉄腕アトム」だった。 ブラウン管の中では、軽快な音楽に乗って、大きくて真っ直ぐな眼をした少年ロボットが、足から炎を出しながら、空を飛び回っていた。あの少年ロボットが「アトム」なのだろう。 小さな体で、大男を弾き飛ばし、海に潜っては大型船を、軽々と持ち上げる。アトムはテレビの中で、生き生きと動いていた。 その様子を、食い入るように観ていた子供達。それまで止まった絵の中にしか存在しなかった主人公が、動き、話し、悪い敵を見事にやっつけるのである。その姿に夢中になるなというほうが、無理な話だ。 これからいくつも、あのような漫画映画が作られ、テレビ放映されていくのだろうか。その時、テレビの前に陣取る子供達は、翌日貸本屋にも、来てくれるのだろうか。 私が、コーヒーを啜りながら一人、悶々としていると、けたたましくベルの音を鳴らして扉が開き、四、五人の中年の男女が、どたどたと入って来た。 皆険しい顔をし、興奮しているようだった。店の真ん中のテーブルを囲み、数冊の本を卓上に並べ出した。 「見てよ、大竹さん。これ、今日、うちの子が借りてきたやつ」 オオタケという名の女性は、差し出された本をぱらぱらと捲りながら、言った。 「わあ、何、これ。くだらない。低俗そのものね!」 よく見ると、卓上に置かれている本は全て、漫画だった。どうやら貸本漫画ばかりのようである。 誰が描いたどんな作品なのか、漫画に詳しくない私にはよく判らないが、あんな一瞥だけでその内容まで、把握出来るものなのだろうか。 「愚劣で、下品なものばかりだよ。こんなものを読んでいたら、子供達は間違いなく、馬鹿になるね」 そう捲くし立てる男性の目は、血走っている。その通りだというように、皆男性に向かって頷く。 「漫画はもっと、良識的じゃなきゃ駄目よ。この国の将来を担う、子供達が読むものなんですもの。そうよね、皆さん!」 今度はその発言をした女性に対し、全員がまた大きく頷いてみせた。 「こんな非文化的な貸本漫画から、何とかして子供達を引き離さないと。これまでも、何度か行動を起こしたことはあるけれど、今度は、徹底的にやりましょう。『不良図書から子供を守る会』として」 オオタケという名の女性が、言った。 「賛成だ!まずは、何から始めようか?」 「そうねえ…。まず、要望書を作って、貸本屋に提出しましょう。子供に貸本漫画を、貸し出さないようにっていう内容の。それから…」 オオタケという女性を中心に、彼らは額を集めて何やら相談を始めた。 貸本漫画が、そして、その描き手達、送り手達が、断罪されていた。 太一が、美智子が、そしてあの女房が「本物」だと信じているもの、あの男が心血を注いで日々描き続けているものが、「不良」であると、切り捨てられようとしていた。 私は、貸本漫画をまともに読んだことがない。だから、私自身には何も判断は出来ない。だが、彼らはどうなのだろう。ちゃんとその作品を読み、何を伝えたいのか判った上で、非難しているのだろうか。 そのうち、話題はまた、目の前に並べられた漫画本の話になった。女性の一人が、そのうちの一冊をぱらぱらと眺め、「わっ!」と顔をしかめた後、広げて他の者に見せながら、言った。 「これなんて、自殺した人間が、化けて出て来るって話みたいよ。何、この、不気味な絵!」 呆れたような顔をする、「不良図書から子供を守る会」なるものの、会員達。その彼らの真ん中に、女性は、まるで汚いものでも捨てるように、その本を放り出した。 その本の題名は「劇画ブック」。いつだったか、太一が大事そうに脇に抱えていた本だった。 ◆ 街に紫陽花の花はどんどん増え、それらは一雨ごとに、どんどん色を変えていった。 常にじとっとした湿気が体に絡み付き、いつも何となく空が暗く、気持ちも晴れない。 今日私は、村井氏に訪れた、ちょっとした変化に気付いた。 いつもの鞄を肩に掛け、いつものようにこの商店街を通ったのであるが、徒歩ではなく、自転車に乗っていたのだ。 どうやら水道橋のような、電車に乗って通うところではなく、自転車で行ける距離の場所に、新たな仕事先が出来たらしい。 愛娘は、順調に育っているようだった。父親に似てよく寝て、よく食べるのだと、先日も夫人が嬉しそうに言っていた。 その顔を見ながら、つくづく、思ったことがある。 私は、村井茂という男のことを、何も知らない。彼について、私が知っていることと言えば。 「水木しげる」という名の、漫画家であること。だが、作品を読んだことはない。 実家が、鳥取の境港にあること。数年前から、調布の下野原に、居を構えていること。 安来生まれの女房がいて、最近娘が生まれたこと。 下戸で健啖家。菓子とコーヒーが好きらしいこと。散歩が趣味らしいこと。朝が弱いらしいこと。 それだけである。彼は一体どんな人間で、どんな人生を歩んできたのか。そういえば、何故左腕がないのかすら、未だにはっきりとは知らなかった。 だが、たった一つ。私が、確かに知っている、彼の姿がある。 その、私が知っている「彼」が最も恐れること、それはきっと、あの女房の、あの笑顔を、失うことだ。 勿論夫として、父として、家族を守り養う、その義務感、責任感は、当然持っているだろう。 だがきっとそれ以上に、そしてそれ以前に、彼自身にとって、必要なのだ。失う訳にはいかないのだ。 理屈ではない、心の奥深いところで、いつも欲しているのだ、あの笑顔を。あの大きな瞳が、安らかである様を。 私がそう思う理由も、理屈では説明出来なかった。きっと、あの「眼」を見た者にしか、判らないだろう。 その日、自転車で出かけた村井氏が、帰って来る姿を目にすることは、出来なかった。 見逃したのかも知れないし、帰りは他の道を通ったのかも知れない。 夜になってから、激しい雨が降り出した。この突然の雨に遭わずに、妻子が待つあの家まで、辿り着いていてくれればよいのだが。 何となく、嫌な雨だった。街全体を、陰鬱な世界の中に、閉じ込めてしまうような。 私は結局、その日、夜更けまでずっと、窓硝子に当たる雨の音を、ただ、聞いていた。 ◆ 梅雨の時期の、とある一日、午後。雨は、降っていない。 だが、湿度の高い空気が身に纏わり付き、首に掛けた手拭いに、汗がじっとりと染み込む。 ここ、すずらん商店街は、いつも通りの賑やかさである。 買い物客が、行き過ぎる。私の店にも、引っ切り無しに、誰か彼か、やって来る。 私は、商いをする。何年、何十年と、そうしてきたのと、同じ様に。 これまでと何も変わらない、何処にでもある街の、日常の風景が、今日も繰り広げられている。ただ、それだけだ。 村井夫人も、ここにやって来る。あの自転車を押しながら、昨日までと、同じ様に。 そこへ、学校帰りの子供達が、これもいつもと同じ様に、通りかかる。高らかに歌を、歌いながら。 「そーらーをこーえてー、ラララ、ほーしーのかーなたー、ゆくぞー、アトムー、ジェットのかぎーいりー…」 忙しなく人々が行き交う、その中で。彼女一人が、立ち止まる。自転車のハンドルを、ぎゅっと、握り締めて。 子供達の背中を見送る、凍りついたような顔。 私はその姿、その横顔を、ただ、見つめる。見つめるしか、それだけしか、出来ない。 そして思うのだ。あの男は、女房のあんな姿、あんな顔を見たくなくて、今も描き続けているのだろうに、と。 村井夫人は、俯き、肩を落として、のろのろと横丁のほうへ歩き出した。 雨こそ、今日はまだ降ってはいないが、空を覆う雲は、時間が経つに連れて少しずつ、けれど確実に、厚みを増してきているように思えた。 SS一覧に戻る メインページに戻る |