絵描きとその女房(非エロ)
番外編


長雨の時期が、やっと終わった。
作物の生育に欠かせない雨だと判ってはいても、明るい空を、望まないではいられない。今年の梅雨は、例年にも増して長く、息苦しく感じた。
実はそれを象徴するかのようなことが、ある時、あったのだ。
それは、何日か雨が降り続いた、ある日のこと。日が暮れるとともに、雨はどしゃ降りになり、夜になると、とうとう、雷が鳴り出した。
商店街からはとっくに人気が消えており、私が、もう客も来ないだろうと、早めの店じまいをし始めた、その時。
どういう訳だか、急に、寒気立った。何とも言えない怪しげな気配を、感じたのだ。
目を上げると、駅のほうから、見慣れぬ人影が、近付いて来るのが見えた。
いや、「人」の影だとは、はじめは思えなかった。
黒いコートに黒い帽子、黒い鞄を提げ、黒いこうもり傘を差した細身の男。雷鳴が轟く闇の中に、浮かび上がったその姿は、この世の者ではないように見えたのだ。
男は、どしゃ降りの中、無表情で歩いて来る。真っ直ぐに前を見る、その眼だけが、妙にぎらついている。
どんどんこちらへ近付いて来るその男から、私は目が逸らせなかった。背中の真ん中を、冷たい汗が、一筋流れた。
男は、私や私の店など目に入らないようで、視線を眼前に固定したまま、商店街の角を直角に曲がり、アーチの向こうへと歩いて行く。
私の視界からその男が消える瞬間、また稲光が走り、男が持つ鞄の金具が、ぎらっと光った。
あの夜の、あの男は、結局何者だったのか判らない。今でも私は、心の何処かで、何か異形の者だったのではないかと思っていた。
とにかく、その出来事も含めて、今年の梅雨は何となく、常に厭わしい気分が付き纏っており、やっと夏に辿り着いた今、私はほっとしているのだった。
店には、政志の御母堂、キヨが来ていた。
リュウマチはかなり良くなっているようで、村井夫人の灸が効いているのかも知れない。

「そういえば、また何処ぞの市民団体の御一行様が、現れ出したんだよ」
「市民団体?」
「ああ。貸本漫画は不良図書だから子供には貸し出すなっていう、御大層な『要望書』なんて、持って来ちゃってさ」
「へえ…」

私は、喫茶店「再会」に集っていた輩を思い出した。

女二人が細々とやっている店に押しかけて、あの調子で捲くし立てたというのか、あいつらは。しかも貸本屋に、本を貸すな、とは。

「揃いの襷なんて掛けてさ。とにかく、大勢でつるんで喚く奴らに、ろくなのなんて居やしないよ。じっと我慢してる美智子がさ、もう、不憫で…」

憤懣遣るかたなし、といったふうで、顔を歪めている。きっと、息子の政志のことも、頭には浮かんでいるのだろう。

「それでなくてもこの商売、先行きは明るくないっていうのに…」

今までキヨの心を占めていた怒りの感情は、いつの間にか困惑に変わり、彼女は、肩を落として、深い溜め息をついた。
私も違った意味で、キヨの話が、聞き逃せなくなる。

「そうなのかい?」
「ああ…。お客は、めっきり減ったねえ。貸本の出版社も、次々と潰れてきてるし。これから、どうなっていくんだか…」

目を伏せるキヨの向こうに、美智子と、村井夫妻の顔が浮かんだ。
何を言えばいいか判らず、私が黙り込んでいると、不意に、思い付いたように、キヨが言った。

「それでも、こんなご時勢でも、新しく貸本専門の出版社を興した人もいるんだよ。戌井さんていうんだけど」

イヌイ…。その名には、聞き覚えがあった。誰だったろう…と考えているうちに、出っ歯で眼鏡の男が、思い出されてきた。

「ああ、確か『読者の集い』で村井さん、と言うか、水木先生と一緒にサインしてた、漫画家さんだよね」
「そうそう、あの人。どうやら自分で描くのはもう、やめたらしいね。今時、貸本の出版社始めるなんて、大博打だろうに」

よっぽど好きなんだね、と、キヨは言葉を継いだ。
キヨは、村井夫人から聞いたという話を、いろいろと教えてくれた。
戌井、というその男は、貸本漫画には、雑誌に載っている漫画にはない魅力があるというのが持論で、貸本漫画の火を消したくないという、その一心で、自ら出版社を作ったという。
貸本漫画の描き手達への思いも強く、特に水木しげる氏の実力を高く買っていて、会社を興して以来、その作品を出し続けているのだそうだ。
そういえば、今年の正月、私が酒を届けたあの日の客人が、戌井氏だったかも知れないと、ぼんやり思った。

「で、その…、どうなんだい?水木先生の漫画は。何て言うか、その…」
「売れてるのかって?」
「…ああ」

キヨは、苦虫を噛み潰したような顔で、言った。

「うちでは、まあ、そこそこはね。何しろ宣伝の量が、他の漫画家さんとは違うから。でもね、うち以外の店じゃ、どうかねえ…。美智子の話じゃ、人気者って訳じゃなさそうだね、正直なところ」

そう言うキヨの脳裏に浮かんでいるのは、私と同じく、村井夫人や赤子の顔だろう。

「でもね、本当に、面白いんだよ、水木先生の漫画は。なのにねえ…」

嫌な梅雨雲を追い払ってくれた、救世主のようだった夏の日射しの明るさが、一転、ただ疎ましいだけの、憂鬱さを誘うもののように、思えてきたのだった。

  ◆

描ける場所、つまり、描かせてくれる出版社があれば、作品は本にはなる。
以前の私ならば、それだけで、良かったと、安堵していたことだろう。
だが、漫画の世界のことなど何も知らない私にも、少しずつだが、いろいろなことが判ってきた。
貸本漫画の火を消さないようにと、会社まで作った男がいる。つまりは、貸本漫画の火は今、消えそうだということだ。
貸本漫画と、雑誌に載っている漫画は、同じ漫画でも、きっと何か根本的な作り、成り立ちが違うのだろう。
こればかりは、読み比べた訳ではないので、実感として知ることは、今の私には出来ないが。
そう、例えば、紙芝居と貸本漫画が、全く違うものであるように。
そして、かつて紙芝居から子供達が遠のいた瞬間があったように、今彼らは、貸本漫画を手に取ることを、やめ始めているのだ。
そして、その流れに追い打ちを掛けるように現れた、貸本漫画を排除しようとする者達。
「漫画家水木しげる」は、これからどうなるのだろう。
彼が描く場所である、貸本漫画の世界が、小さくなりつつあることは、事実のようである。
いずれ、なくなってしまうのだろうか。それとも、戌井氏のような者の思いが、それを食い止めることが出来るのだろうか。
そして、もし、なくなってしまうのだとしたら。
その後、彼は、どうするのだろう。あの家族は、一体どうなるのだろう。

  ◆

七月も中旬に入り、日射しは少しずつ、強さを増してきている。
村井夫人のブラウスも長袖から半袖に変わり、細く長い、白い腕で、可愛らしい乳母車を押しながら商店街にやって来る姿も、たびたび見られるようになった。

「ありがとうございました」

八百善の店主に挨拶をし、今日の買い物を終えたらしい夫人が、そのままアーチのほうへ行くかと思いきや、うちの店の前のベンチに座り、乳母車の中の娘をあやし始めた。
額や首筋に滲む汗もそのままに、赤子に涼を与える為、自身の体で影を作り、乳母車に覆い被さるようにして、覗き込んでいる。
何という顔で、我が子を見るのだろう、母親というものは。
まだ一歳にも満たない赤子の、その「記憶」に残ることは決してないだろうに、母親は、その最上の微笑みを、幼子に向けずにはいられない。言葉を掛けないでは、いられない。
彼女も、そうだった。今の村井夫人には、商店街の喧騒など、全く届いていないかのようだ。
私は、そんな彼女達の姿に吸い込まれるように、近付いていった。

「奥さん…」

声を掛けると、彼女は顔を上げ、いつものにこやかさで挨拶をした。
乳母車の中を見ると、赤子は先日見た時より、更に大きくなっていた。
母親によく似た大きな眼を、不思議そうにこちらに向けている。

「こんにちは、藍子ちゃん」

笑いかけると、彼女の小さな口元も、少しほころんだような気がした。
私は、乳母車の傍にしゃがみ込み、目の高さが赤子とほぼ同じになるような位置から、夫人を見た。
言いたいこと、訊きたいことが、山のようにあったが、何から言っていいか、判らなかった。
目の前に居る、この漫画家の女房殿は、そんな私の気持ちになど全く気付かず、いつものような穏やかな表情を浮かべている。

「…今日、ご主人は?」

結局こんな、世間話の始まりのような言葉しか、出て来ない。

「うちで仕事しとります。今度『北西出版』っていうところから、長編の連作を出すことになったんです。その作品に、今まで以上に、力を入れとって」
「『北西出版』って、もしかして戌井さんて方の会社ですか。この間、こみち書房のキヨさんから、聞きましたけど」
「そげです。戌井さんは、ずっと、うちの人の漫画を、いいと言ってくださっとって。今度の漫画は、その方にとっても、勝負を賭けた大仕事になるからって、うちの人の思い入れも、深くって」

村井夫人は、誇らしそうに、熱く語る。

―今まで以上に、力を入れとって。今度の漫画は、うちの人の思い入れも、深くって―

気付いていないのだろうか、この人は。
私は思わず、まじまじと、その顔を見つめてしまった。
さすがの村井夫人も、何かを感じ取ったらしい。私の視線の理由を問いたげな笑みを、寄こしてきた。
私は、夫人のその大きな眼を、出会ってから初めて、と言っていいかも知れないくらい、間近から、真っ直ぐに見つめながら、言った。

「今度の作品だけじゃ、ないですよ」
「えっ?」
「奥さんのお話に出て来る『水木先生』は、いつも、どんな漫画も、懸命に描いてらっしゃる」
「…」
「もう、何度もお聞きしました。『うちの人は、凄く頑張ってくれとります』、『力を入れて、描いとります』って」

私は、夫妻の御国言葉を真似ながら言い、その大きな瞳を、更にじっと見つめた。そして、目を逸らさぬまま、微笑んだ。
すると村井夫人は、そんな私の様子に、少々面食らったようで、慌てて言った。

「すんません。私、気が回らんもんで、いつも、同じようなお話しか出来んで…」
「そんなこと言いたい訳じゃ、ありませんよ」

見つめたまま、遮るように、言った。
近くの商店街の、馴染みの店の店主。ただそれだけの関係で、何気ない世間話を、幾度となくしてきた相手から、急にこんなことを言われても、戸惑うだけなのだろう。
どんなふうに話を継げばいいのか判らずに、困っているようだ。私は、そんな彼女から、乳母車の中の赤子に視線を移し、声の調子を明るくして、言った。

「戌井さんて方、貸本漫画に、相当な思い入れがあるそうですね。それこそ、ご自分で出版社を作るくらい」

すると、私の目の端で村井夫人は、ほっとしたような表情になり、そして言った。

「ええ。貸本漫画には、大人の読者が付いとる、その人達を満足させたいって、おっしゃっとりました」

私は太一や、田中家の人達を思い浮かべた。

「へえ…。村井さん、じゃない、水木先生も、そういうお考えで、お描きになっていらっしゃるんですか?」

その私の問いに、夫人は首を軽く傾げながら、答えた。

「さあ、どげなふうに、思っとるんでしょう…」
「えっ?」
「よう、判らんです。あの人の、頭の中にあることは」
「…」
「元々、うちの人は、絵が好きなんです。絵で食べていく術を探して、貸本漫画に、辿り着いたらしくて。昔は紙芝居を描いとったんですよ。私と会う前ですけど」
「へえ…」
「自分のことも、よく『絵描き』って言っとります。話を作る才能もあるなんて思ってなかったって、冗談で言っとったこともありました」

ふふっと、夫人は、思い出し笑いをした。

「私は、漫画のことも、よう判らんのです。世の中に、どげな種類の漫画があって、それぞれ、どげな人が読んどるのか。主人の漫画は、どれに当てはまるのか」

そして、愛娘の頭を優しく撫でながら、静かに言った。

「私が知っとるのは、うちの人が、描いとる姿だけです。本当に、毎日、精魂込めて、描いとりますけん。あげなふうにして生まれてくるものが、ええ漫画でないはずは、ないです」

結局話はまた、そこに戻っていた。

「そうですか…」

いつの間にか、赤子は、深い眠りに落ちていた。目を閉じると、本当に、あの隻腕の漫画家によく似ている。

「ああ、そういえば…」

村井夫人は、不意に、思い出したように言った。

「前に、こんなこと言っとりました。『漫画を子供のおもちゃのように言う人がおるが、それは違う。ええもんに、大人も子供もない』って」
「ええもんに、大人も子供もない、ですか…」
「はい。あと、こうも言っとりましたね。『漫画家は、ただ黙って描き続けとれば、ええんだ』って…」

夫人は、眠る我が子を見つめながら、言った。私は、そんな彼女の顔から、目が離せなかった。

  ◆

その数日後。
ベンチに、今度は、村井氏が座っていた。向こう側の席に、こちらに背を向けて。
いや、漫画家水木しげる氏が、と言ったほうが、いいかも知れない。
彼は、もう随分と長い時間、そこに座り込み、膝に置いたスケッチブックに、何かを描いていた。
ずっとぶつぶつ言いながら、物凄い勢いで、描き続けている。
しばらくすると、鉛筆を口に咥え、ざっという音を立てて、スケッチブックを捲る。
その音が、もう何度も、聞こえてきていた。
太陽は、容赦なく、照り付ける。吹き出す汗を、拭いもせず、彼はひたすら描き続けた。

「人間の…有限性に失望して…悪魔と契約した…天才…」

一度だけ近付いて、背後から、手元を覗いてみた。
そこに描いてあったのは、鶏冠のように尖った髪型をした、垂れ目の少年と、丸眼鏡を掛けた、不気味な男。
そして、丸やら三角やらを組み合わせた、摩訶不思議な図形。
私は、思わず、後退った。
絵に、驚いたのではない。彼の、その背中の近くには、居られなかったのだ。
そこに居るのは、あの、子供のように笑い、吹く風のように街を歩く、私がよく知っている男ではなかった。
その男の背中、そして体全体から立ち上る、名状しがたい空気。圧倒されそうなほどの迫力。
低い声で、呪文のように言葉を呟き、止まることなく、鉛筆を動かし続ける。
それは憤怒か、執念か。彼の中で渦を巻く感情が、その右手から紙面へと、迸り出ているかのようだった。
彼は、すぐ傍の私に、気付かない。
いや、私だけではない。周りのどんなもの、どんな音も、今の彼を振り向かせることは、出来ないだろう。

「人類が平等に…幸せな生活が送れる…理想社会の…樹立…」

そこに居るのは、紛れもない、表現者「水木しげる」。
その姿に、私は全身が、総毛立った。
そして、思った。貸本漫画を手離し、雑誌で、テレビで、活躍する主人公に、夢中になる子供達。あの子達に、本当に、水木しげるの漫画は、必要ないのだろうか、と。
絵描きはひたすら、描き続ける。

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり…」






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