身にしむ秋(非エロ)
番外編


九月―。

気が付くと、東京オリンピックまで、あと一年ほどになった。東京という都市が、日々かなりの勢いで、変わっていっている。
あちこちで工事をしており、常に周辺が雑然としているような気がする。
都心では、高速道路用の土地を確保する時間がない為、なんと日本橋の上に、道を通してしまったそうだ。
そんな道路工事の騒音が響く中、午前中の、まだ商店街が混み合う前のひと時、店の前で掃除をしていると、アーチの向こうの模型屋「サン模型店」の扉が開いた。
模型屋に用があるような子供は、まだ学校に居るだろうに…と思って見ていると、出て来たのは村井氏だった。

「縮尺七百分の一は、やっぱりええですな。細かいところまで、よう出来ちょりますから、艤装作業も遣り甲斐がありますわ」

村井氏は、随分と上機嫌だった。
他に客もなく暇なのだろう、店主が見送りがてら一緒に出て来て、話に付き合っている。

「『長門』はもう、仕上がったんですか?」
「ええ。いやあ、プラモデルはええです。前に作っとったのは木製の奴でしたけん、いちいち自分で削り出さんといけんかった」
「はあ…」
「それはそれで、面白いもんでしたが。ほれ、お宅でも売っとるでしょう、これとは別のところが出しとる、千分の一の『連合艦隊集』」
「ああ、はい、人気ですね。あれも、お作りになった?」

その腕で?と、店主が、心の中で続けたのが判った。

「『長門』に『武蔵』に…、この『大和』もありますわ。どうせなら連合艦隊を全部揃えたいですな、こっちのサイズの奴で。『ミズシマ』の、このシリーズからは、何隻出ますかなあ、これから」

そう話す村井氏の笑い顔は、模型屋に集う子供達と、大して変わらないように見える。
そして、買ったばかりのプラモデルの箱を嬉しそうに、矯めつ眇めつ眺めながら、鼻歌でも歌い出しそうな勢いで、帰って行った。

「同じ人間なんだよなあ…」

私は、夏のある日、同じこの商店街で、スケッチブックに向かっていた男の姿を思い出した。
あの、鬼気迫る背中。何かを呟き続ける、地の底から響くような声。そして、あの手。
自身の中で蠢く感情を、絵という形で爆発させる為の、その雷管の役割を担っているかのような、あの右手。
あの「水木しげる」が、先ほど模型を買い、嬉々として帰って行った、「ご近所の村井さん」と同一人物とは、とても信じられない。
絵描きとは、芸術家とは、そういう二面性を持つものなのだろうか。
よく考えてみると、似たようなことを思ったことは、前にもあった。こみち書房で、「水木しげる」の絵を、初めて見た時である。
直視するのも憚られるような、不気味な絵。あの絵も、間違いなく「彼」の一面が生み出したものだ。
更に、古い墓に楽しそうに話しかける姿。娘の誕生に興奮し、歓喜する姿。そして、傍らの女房を見つめる、あの眼差し。
二面どころではない。私のような、平凡で単純な人間には、あの男の内面を全て把握することなど、出来そうにない。
ふと、村井夫人の、「よう、判らんです。あの人の、頭の中にあることは」という言葉を、思い出した。

  ◆

日ごとに秋が深まっている、そんなある日。よくこの辺りを通る、あの怪しげな男が、また現れた。

「ったく、ゲゲの奴、口より先に手が出るところは、餓鬼の頃と変わらんなあ。せっかくこの俺が、忠告してやっとると言うのに」

大きく破れた部分が、丁寧に繕われているズボンを穿いている。

「あんなもの、絶対に当たらんぞ。どうせ打ち切りになるのが、関の山だ」

はっきりとは聞こえないが、何やらぶつぶつと、誰かに悪態をつきながら、駅のほうへと去って行く。
確か、出版関係の仕事をしていると言っていたはずだ。
へらへらしてはいるが、懐が暖かそうには、とても見えない。案外あの男も、火が消えようとしている世界に、しがみ付いているのかも知れない。
そういえば。
先ほど、あの河合はるこという少女漫画家が、ここを通った。
いつもの赤い帽子を被り、この街から何処かへ向かう途次らしかったが、村井家からではなく、喫茶店「再会」のほうから来たようだった。
今日はいつにも増して、その表情に、やる気が漲っていた。何か小さな紙を大事そうに握り締めて、じっと見つめながら、一歩一歩、踏み締めるように歩いて来たのが、印象的だった。
うちの店の前のベンチに座り、その紙を見つめ続ける彼女に、今日は、思い切って話しかけてみた。
この界隈には、これからもたびたび現れそうであるし、若い女性にとって、顔馴染みが増えることに損はないだろうとも、思ったのだ。

「こんにちは」

急に見知らぬ男から声を掛けられて、はじめは驚いたようだったが、目の前の店の店主と判ると安心したようで、表情を柔らかくして、挨拶を返してくれた。

「こんにちは」
「あの…、お嬢さん、村井さん…じゃない、水木先生のお知り合いの、漫画家さんですよね」
「はい…」

きょとんとした顔が、「何故そんなことを知っているのだろう」と語っていた。

「ほら、去年の夏頃だったかな、水木先生の奥様がお腹が大きかった時に、お嬢さん、うちの前で奥様と話していらっしゃったでしょう、ご自分のお描きになった本を持って」
「ああ…」
「うちも、水木先生ご夫妻には、懇意にしていただいてるんです。だから何となく、覚えていて」

水木夫妻の名を出すと安心したようで、途端に笑顔になった。立ち上がり、私に向かって、頭を下げてきた。

「私、河合はるこっていいます。水木先生の漫画の、大ファンなんです!目標としてるって言うのは、ちょっと、おこがましいですけど…」

ここで私は、はるこが持っている紙が、村井一家との記念写真であることに気付いた。真ん中に写る村井氏が、右手だけで赤子を抱いていた。

「いい写真ですね。藍子ちゃんが、まだ小さいなあ」
「今年の一月の写真です。水木先生のお友達が、撮ってくださったんです」
「へえ…」
「境港の頃からの、お付き合いの方だそうです。私も、絵のお仕事を頂いたりして、お世話になってるんですけど、ちょっと…何と言うか…、水木先生と違って、C調な方で…」

はるこは軽く、苦笑いをした。

「河合さんも、貸本漫画家なんですよね。その…、大変ですか?」

まさか「まともに食えていけてますか?」とは、幾ら何でも訊けるはずはなかった。だが、その言外の意味は、何となく、彼女に伝わったようだった。

「少女漫画は、まだ、なんとか。でも、厳しくなってきています。なので、私…、本格的に、挑戦しようと思って…」

自分に言い聞かせるように話しながら、はるこはまた、写真に目を落とした。細い指が、更にぎゅっと強く、写真を握り締めたように感じた。
その後はるこは、「せっかくなので」とうちでコーラを一本買い、それを飲み切る間、ベンチに座っていろいろな話をしてくれた。
漫画家になるのが幼い頃からの夢で、その為に単身、郷里から出て来たこと。
彼女の「挑戦」とは、大手の出版社への売り込みであること。貸本から雑誌への転向が、如何に難しいかということ。
そして、水木漫画の魅力。

「とにかく、絵が素晴らしいんです。月と、それにかかる雲だけで、その場に『妖気』みたいなものが、漂っているのが判るんですよ、墨一色なのに!」
「へえ…」
「私、何度も生原稿を見せていただいてるんですけど、もう…、凄いの一言です!!」
「ほう…」
「勿論、お話も凄く面白いです。発想力が桁違いですし、個性的で、独創的で。先月出た新作も、傑作ですよ!でも…」

はるこは空になった瓶を差し出すと、もう一度あの写真を取り出し、見つめながら言った。

「水木先生の一番凄いところは、精神力の強さって言うか、何があってもずっと描き続けている、そのお姿の在り方そのものって言うか…。私も、ほんの少しでも、肖れればと思って…」

そして、これから早速出版社を訪問するのだと、駅のほうへと向かう彼女に、成功を祈ると告げると、はるこは、

「ありがとうございます。がぜん、ファイトが湧いてきました!」

と、言い残して去って行った。
貸本漫画と、雑誌に載っている漫画。同じ漫画でも、やはり全く異質なものらしい。
漫画家になるのが夢だというはるこは、ある意味、既に漫画家なのだが、きっと、彼女がずっと目指してきたものとは、何かが違うのだろう。
そして、その違いは、私なぞが思う以上に、大きいのだ。
あの写真を、「挑戦」の際のお守りにすると、言っていたはるこ。上手くいってくれれば、良いのだが。
そのはるこが去って行ったのと同じ道を、あの怪しげな男が、ズボンを気にしながら歩いて行く。あの男ははるこや、戌井氏が持つような必死な思いとは、全く縁がなさそうだ。
それはそれで、一つの生き方かも知れない。男を見送りながら、はるこの言う「C調」という言葉が、何となく頭をよぎり、つい、笑ってしまった。

  ◆

その翌々日。
山田屋のおかみ、和枝が、目を三角にして、鼻息も荒く、昨日こみち書房であったことを、うちの女房に話していた。

「あの圧力団体の人、ひどいのよ。貸本漫画を低俗だって、決めつけてるらしくて。水木先生の新作のこと、でたらめだとか、愚劣だとか、言ったんですって」
「そんな…」
「もう、太一君なんて、怒っちゃって。それに、美智子さん達のことも、何か悪いことでもしているように、責め立てたらしいの。商売中の、店先でよ!」

なんと、そんなことがあったのか。知っていたら、文句の一つも、言いに行ったのに。
政志は、どうしていたのだろう。また何処かを、ほっつき歩いていたのだろうか。
そんな最中、村井夫人が、買い物にやって来た。何となく、元気がない。

「あ、布美枝ちゃん。ねえねえ、昨日、こみち書房で出くわしたのよね、あの圧力団体の人に」
「ええ…、はい…」

寂しげな笑顔を見せる村井夫人。旦那が必死に描いた漫画を、目の前ででたらめだの、愚劣だの、言われたのか。気の毒に。
彼女を囲むように集まる女性陣から、慰めるように励まされ、村井夫人は、逆に恐縮してしまっている。

「ありがとうございます。太一君にも、美智子さんやおばあちゃんにも、庇っていただいて」
「向こうは、ろくに読みもしないで、言ってるだけなんだから、気にしないでね。美智子さん、『悪魔くん』は凄い漫画だって、言ってたわよー」

はるこも傑作だと言っていた、戌井氏と生み出した新作は、どうやら「悪魔くん」というらしい。
凄い題名である。私は、鶏冠頭で、垂れ目の少年の絵を、思い出した。

「でも、その騒ぎで目を離した隙に、藍子が土間に落ちてしまって…。痛い思いを、させてしまいました。皆さんにも、ご心配を掛けてしまいましたし」
「藍子ちゃんは特に、普段人一倍おとなしくて、よく寝る子だからね。あの様子を毎日見てれば、そりゃ、まさかと思うわ」
「そうそう。それに、うちの子達なんか、しょっちゅういろんなところから、落ちてたわ。びっくりしただけでも、びーびー泣いてたし」

そうこうしているうちに、それぞれの店に客が集まり出し、女性達は商売に戻った。
村井夫人の心は、まだ完全には晴れていないようだった。買い物をしながら、ほんの小さな溜め息を、ついたような気もする。

「新しい漫画、面白いみたいですね」

いつも以上に、明るく声を掛けてみた。夫人の顔が、一瞬、輝く。

「戌井さんて方も、お喜びでしょう」
「ありがとうございます。二冊目も、あと数日で出来上がるんです」

戌井氏とは、版元の社長と一漫画家というだけではない、信頼関係がありそうだ。少なくとも、原稿料を踏み倒されるなどということは、ないだろう。
あとは是非、この作品で「水木しげる」が、キヨの言うところの「人気者」になってくれればと、願うばかりだ。
旦那の新作のことは嬉しそうに話すが、その話題が終わると、また曇った顔になってしまう。
こみち書房ではいろいろあったらしいが、どうやら今、村井夫人の心に影を落としているのは、その一件だけではないらしい。
帰りしなに彼女は、模型屋「サン模型店」を、恨めしそうに一瞥した。その顔は、いつぞやの模型を購入してご満悦の態だった村井氏とは、対照的だった。

(そりゃ、どれだけ仲良くたって、毎日一緒に暮らしてれば、いろいろあるよな)

当然、私が立ち入れることではないし、立ち入ったところで、何が出来る訳でもないだろう。
それに、あの二人の間に、何かわだかまりがあったとしても。それはきっと、今だけだ。
今描いているという、長編の連作。あれが、成功すれば。
きっと、全てが上手くいく。きっと、あの家族の生活に、光が射す。
何の根拠もなく、ただ、漠然と。
私は、そう、思っていた。そして、願っていた。

  ◆

その数日後。
忙しい時刻が何とか終わった、午後のひと時。私は、店番を女房に任せ、短い散歩に出た。
見事な紅葉が街を彩る、美しい季節。商店街から、北の方向へ向かう。
今日はさすがに、深大寺までいく時間はないので、野川沿いを少しだけ歩いてみようと、考えていた。
上流に向かって川沿いを、ゆっくりと歩く。静寂の中、心地よい流れの音が聞こえ、水面が秋の陽光を反射して、きらきらと輝いていた。
少し遡ったところに掛かる二連のアーチ橋が、川面に映り、綺麗な眼鏡の形を成している。
シラサギが数羽、水辺で、その羽を休めている。その白さが、煌めく川面と重なり、眩しい。
だが、川べりの草はすっかり枯死しており、景観が押し並べて落莫としていることは、否めなかった。
堤に沿って、桜の木でも植えられていれば…と考える。花の時期は勿論こと、桜は、紅葉も見事なのだ。特に、地面に散り敷かれた、桜の紅い落ち葉の美しさは、格別だ。
そんなことを思い巡らしながら歩みを進めていると、川べりに、一株の山茶花が、鮮やかな色の花を咲かせているのが、目に入った。
この季節でも愛でられる花があったか、と思いながら近付いていく。すると、その木の近くに、一台の自転車が停められていた。
何故こんなところに自転車が、と思うのと、山茶花の木の向こう側に、自転車の持ち主らしき人影を見つけたのは、ほぼ同時だった。
そこには、しゃがみ込み、じっと川面を見つめる男が居た。
その、少し出ている前歯と、眼鏡には、見覚えがあった。あの、元漫画家で、今は出版社の社長である、戌井氏だ。
自転車で、野川沿いに来ている…ということは、彼の自宅も、この辺りなのだろうか。
近付こうとして、足が止まる。
戌井氏は、泣いていた。
曲げた両膝の上に置いた手を握り締め、背中を丸めて、大の男が昼日中、涙を流していた。
肩が、小刻みに震えている。歪んだ口元からは、嗚咽が漏れている。

「おかしいよ、絶対に…。悔しい…。本当に、悔しい…」

声など、掛けられなかった。私はその場に立ち尽くして、揺れる川面の光が、彼の眼鏡にちらちらと映っているのを、ただ、見ていた。
あれは、いつだったか。夏のある日、うちの店に、水木しげるを知っているかと、意気込んでやって来た男。
あの男が背負っているもの、いや、背負うと覚悟したものは、一体、どれほど重いものなのだろう。
一羽の色鮮やかなカワセミが、うなだれるその男の肩先を、かすめて、飛んでいった。






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