巨木の哲学(非エロ)
番外編


「これ、お願いします!」

見覚えのある女性が、目を吊り上げて、この商店街でビラを配っている。
美智子によると、この女性は、大竹日出子という主婦らしい。あの「不良図書から子供を守る会」の、中心人物だ。
以前、喫茶店「再会」で、貸本屋への要望書の提出を提案したのが、彼女だったはずだ。
こみち書房が、子供達への貸本漫画の貸し出しを一向にやめないので、彼らは数日前から、この界隈の至るところで、貸本漫画反対運動をやり始めた。
曰く、貸本漫画が如何に俗悪か、如何に子供の健全な成長を阻害するか、更には如何に日本の品位を汚すか。
一席ぶったり、ビラを配ったりして、日々あちこちで訴えているのだ。そして「会」にとって今日は、ここでビラを配る日であり、その担当が、彼女だという訳だ。
当然彼らは、直接こみち書房へ押しかけるということも、続けていた。
見るに見兼ねた私は、一度美智子に申し出たことがあった。追い返すなり、文句を言うなり、何か加勢しようかと。
すると、彼女は言った。

「大丈夫。今までだって、こういうことは何度かあったけど、堪えていれば、収まったから。今度もきっと、しばらくの間だけよ。大袈裟にしないで。ご近所には、迷惑掛けたくないし」

それ以来、苦々しくは思いながらも、結局、何も出来ないでいる。
貸本については全くの門外漢である私なぞがしゃしゃり出て、事態がよりこじれても…という気持ちもあった。
和枝や徳子、それにうちの女房も、皆同じような思いなのだろう。似たような面持ちで、大竹夫人のことを遠巻きに見ていた。

「せめて、この商店街では、あんなもの、配らないでほしいなあ…」

いつあの家族がここを通るか、判らないというのに。
何も出来ない己が、歯がゆくて仕方ない。それでなくとも、貸本漫画の送り手達は今、窮地に立たされているのだ。
先日、美智子から「悪魔くん」が売り上げ不振の為、打ち切りが決定したらしいと聞いた時、私はあまり驚かなかった。
あの日、山茶花の木に隠れるようにして、川べりで一人、涙する戌井氏の姿を見た時、既に、何が起きたのか、何となく判ったような気がしていたからだ。
美智子もキヨも太一も、本当に残念がり、口を揃えて言った。「傑作なのに」と。
肝腎の村井夫妻は、と言えば。
村井氏のほうには、その話を聞いて以来、まだお目に掛かっていない。今まさに、短縮を余儀なくされた、その漫画の最終巻を、描いているところなのだろう。
夫人は相変わらず、ほぼ毎日、この商店街にやって来る。そして、意外にも彼女は、落ち込む様子を見せなかった。
触れないのも不自然なので、一度だけ、美智子から事情を聞いたことを伝えた。すると、夫人は言った。

「くよくよしとっても、仕方ないですけん」

その顔は、晴れやかというのとは勿論違っていたが、決して暗くはなかった。
表情だけで判断するなら、まだ「悪魔くん」の打ち切りが決まる前、あの、肩を落として模型屋を見遣っていた頃のほうが、ずっと曇っていたような気がする。
あの「圧力団体」の話題になっても、どちらかと言うと夫の仕事が否定されていることよりも、美智子達の様子や、こみち書房の経営状態のほうを、より気に掛けているように見えた。
気持ちの切り替えが早いとか、常に前向きだとか、言葉にするとすれば、そういうことになるのだろう。
だが、そんな単純なものではないことも、充分過ぎるほど、判っていた。なにせ、ずっと見てきたのだから。あの二人、あの家族を。

  ◆

その翌日。

「えーっ、三百円!?それは高いですわ、ご主人」

今日は珍しいことに、すずらん商店街に、村井氏の声が響いていた。果物屋で、店主と何か話している。

「充分お安くしてますよ。これだけの量、あるんですよ」
「ですが、こげに黒くなったバナナ、もう売り物にならんですぞ。それを、こっちはカネを出して買うと言っとるんです。そこはそれなりに、考えてもらわんと」

どうやら、バナナの値下げ交渉をしているらしい。私は、酒を買ったご婦人の客を見送ってから、首を伸ばして、果物屋のほうを窺がってみた。

「百円でも、売れれば御の字でしょうが、そちらは」
「ひゃ、百円って、そりゃ、旦那さん、いくらなんでも…」

百戦錬磨の店主のほうが、たじたじとなっている。やり取りの様子を傍で見ていて、私はつい、笑ってしまった。
しばらくすると、村井氏の表情が、満面の笑みになった。どうやら交渉は成立したらしい。
古新聞の上に載せられたバナナの山を、嬉しそうに受け取る。だが、そのバナナは、いつ仕入れたのだろうと不安になるくらい、皮が黒く変色している代物だった。
村井氏は、バナナを、大事そうに古新聞に包み込み、あの肩掛け鞄に入れた。そして、襷を斜め掛けにすると、自転車に跨り、漕ぎ出した。
見事戦利品を勝ち得たことに、満足しきった顔。私と目が合うと、いつものように顔をくしゃくしゃにした笑顔を作り、こくんと頭を下げながら、通り過ぎて行った。
アーチの向こうへ去って行く自転車の後ろ姿。その背中には、いつもよりずっと重そうな、あの鞄が、揺れている。

「あれ、食えるのかね…」

そう呟く私の前を、村井氏を追いかけるように吹き抜けた風は、もう、師走が訪れたことを告げていた。

  ◆

多面的であることと、複雑であることは、必ずしも等しくはないのかも知れない。
最近私は、村井茂という男を見ていて、そう、感じていた。
「水木しげる」は、どんな時も、何があっても、描き続けている。彼を知る者は、誰もがそう言う。
基本的には、強い男なのだろう。だが、その「強さ」は、例えば鋼が、叩かれ、鍛えられて得る強さとは、全く異質なもののように思える。
おぎゃあと生まれたその時から、もう既に、備わっていたもの。もしかしたら、彼が持つ「強さ」は、あの欠けている左腕とも、関係がないかも知れない。
巨木は、自らを駆って、その樹勢を強めたことなど、ないだろう。
その時その時、往けるほうに根を張り広げ、枝葉を伸ばす。結果、あの姿になる。ただ、それだけだ。
彼が強い人間であることには、理由も条件もない。だからこそ、その「強さ」は、「柔らかさ」や「しなやかさ」とも、平気で同居する。
それらは全て、ごく自然に、「村井茂」という人間を構成する要素になっているのだ。
憑かれたような背中を見せ、妖気漂う世界を描きながら、子供の眼で、模型作りに興じる。
渾身の力を振り絞った作品が失敗に終わった、その直後に、見切り品のバナナを安く手に入れる為、商店街で奮闘する。
どれも、「彼」なのだ。全て、何の矛盾もなく、彼の中に存在する姿なのだ。
そして同様に、彼の中に存在する姿の一つが、いつも、あの女房と娘に、向かっているのだ。
いつもあの「眼」が、見つめたがり、あの「手」が、触れたがり、あの「腕」が、抱き締めたがっている。ただ、それだけのことなのだ。

ああ、そうか―。
あの人には、逸早く、それが判ったのだ。

二人がいつ、どの様にして出会い、どの様にして結婚を決めたのかなど、勿論、私は何も知らない。
だが、きっと、何処かで、何かの瞬間に、彼女は知ったのだ、そんな彼の姿を。

「頭の中にあることは、判らない」と笑顔で言ってのける、その同じ感性で、彼の「心」の有り様については、全てを、正しく、感じ取ったのだ。おそらくは、全く、無意識のうちに。
漫画のことなど、何も判らなくても、あの人は、あの男と生きることに、何の疑いもないだろう。
それは、そうだ。何故なら、あの男の「心」は、いつも有りのまま、むき出しで、隣にあるのだから。あの、少年のような笑い顔と一緒に―。
そして、そんな、判ってみれば複雑さとは無縁の、あの男の真の姿を捉えることは、実は、誰にでも出来ることでは、ないような気がする。
  ◆

「河合さん、こんにちは!」

ある日、はるこが、商店街を通りかかった。手に、大きな紙袋を抱えている。

「こんにちは」

笑顔で挨拶を返してくれるが、無理に笑っているようにも見える。元気いっぱい、という訳ではなさそうだ。

「大荷物ですね。大丈夫ですか」
「はい、ご心配なく」

ちらっと覗き込むと、紙袋の中には、缶詰がいくつも入っていた。

「今日は、村井さん…、じゃない、水木先生のお宅に?」
「はい。でも、その前に、喫茶店で、お仕事の打ち合わせがあって…」

はるこは荷物を抱えながら、喫茶店「再会」のほうへ去って行ったが、その足取りは、秋に「挑戦を始める」と言って張り切っていた時のそれより、少し、弱々しかった。
背中が丸まっているように見えるのも、寒さのせいだけではないだろう。
本当は、彼女を見かけた瞬間、雑誌への売り込みが上手くいっているかどうかを、訊こうと思った。
だが、実際に眼を見て、言葉を交わしてみると、とてもそんなことは、言い出せなかった。
やはり、苦戦しているのだろう。あれから、二か月くらいは経つだろうか。
おそらく、訪れた出版社は、一社や二社ではないはずだ。同じところに、何回も持ち込んで、断られ続けているのかも知れない。
年齢で判断するのは、短絡的かも知れないが、はるこのような若い人にとっても、貸本から雑誌への転身は、容易なことではないのだ。ましてや村井氏、いや、水木しげる氏は―。
何人もの人の、いくつもの顔が、頭に浮かぶ。
太一、政志、美智子、キヨ、それに戌井氏。そして、あの女房と、まだ幼い愛娘。
個々の人々の「思い」とは、無力なものなのだろうか。
「水木しげる」の漫画を、「本物」だと信じる者達の思いは、何か大きな流れの中に呑み込まれ、消えていってしまうのだろうか。
漫画が単なる「子供のおもちゃ」なら、確かに安全で、毒がなく、触れても怪我など絶対にしないような、そんなものである必要があるだろう。
だが、そうではないと思って描き続けている者もいる。その思いは、これから何処へ行くのだろう。
貸本漫画が俗悪であるとして切り捨てられるとともに、「いいものには大人も子供もない」というあの絵描きの思いも、やがて何処かへ、消えていく運命にあるのだろうか。

  ◆

師走も、下旬となった。
すずらん商店街での村井夫人は、相変わらずである。
ある時は、近くの農家で大根を大量に譲ってもらったことが、彼女にとっての僥倖となる。

「うちの人、たくあん、好きなんです。お夕飯の用意をしている最中に、お漬物だけ卓袱台の上に出しとったら、それだけどんどん、ぽりぽり、食べとったりして。
今年は、おかげさまで、いくら食べてもなくならんくらい、漬けられそうです」

嬉しそうに、馴染みの店のおかみに、そんな話をしたりしている。
また、ある時は、娘の一歳の誕生日でもあるクリスマスイブには、ホットケーキを焼くのだと言って、笑う。デコレーションケーキを買う余裕など、ないのだろう。

「藍子ちゃん、もうすぐ誕生日だね。おめでとう」

私が、乳母車の中の幼子に、そう声を掛けると、それだけで彼女は、顔をほころばせる。

「ありがとうございます!良かったなー、藍子」

そして、離乳食をどれだけ食べるようになったかを、幸せそうに語るのだった。
そんな日々が、続いていた。
ちなみに、今日、彼女は、娘を連れて出かけている。
「おつかい」だとしか言わなかったが、あの肩掛け鞄は持っていなかったので、原稿を届けに行った訳ではないだろう。
何となく、すぐ帰って来るような気がしていたのだが、予想は外れた。冬の日が、もう傾きかけた頃になって、やっと、赤子を負ぶった村井夫人が、戻って来た。
遠目に見えるその姿に、精気はなかった。
年の瀬の、気忙しさに満ちた商店街を、夫人は俯き、重い足取りで歩いて来る。
周りの様子など全く目に入らないようで、まるで彼女一人が、異空間にでも居るかのようだ。
魚屋「魚調」の前くらいまで夫人が来た時、私はもう、矢も盾もたまらず、店を飛び出して、彼女の傍に駆け寄った。

「奥さん、お帰りなさい!」

私が声を掛けると、夫人は顔を上げた。
だが、その眼は虚ろで、ぼんやりとしている。視線はこちらに向いてはいるが、私の姿など、見えていないようだ。
数秒の沈黙の後、やっと焦点が、眼前の私に定まったようで、夫人は無理に笑顔を作り、頭を下げた。

「ああ…、ただいま帰りました。すんません、ちょっこし考え事を、しとったものですから…」
「いいえ、こちらは、何も…。あの、ええと…」

勢い込んで傍近くに行ったところで、言える言葉も、出来ることも、何もなかった。ただただ、夫人の歩く速さに合わせて、歩みを進めるだけだ。
ふと、子守半纏の中に目を遣ると、赤子が、母の背に頬をぴったりと付けて、すやすやと眠っていた。

「藍子ちゃん、気持ち良さそうに、寝てますね。安心しきった顔をしてる」

そう言うと、夫人はいくらか気力を取り戻したようで、少しだけ表情を明るくして、呟いた。

「そげですか、良かった…」

再びの沈黙。うちの店の前まで来ると、夫人は店内に視線を向けた。

「何か、ご入用ですか?おっしゃっていただければ、ご用意しますけど」

やっと役に立てることが出来たと、張り切る私に対し、夫人は力なく言った。

「いえ、今日は、ええです…。また、次の時に…」

弱々しく頭を下げ、店を通り過ぎて、帰路を急ぐ。私は、そんな彼女の横顔を、ただ見つめた。

そこでふと、夫人の頬が、妙に赤く火照っているのに気付いた。
よく見ると、額や首筋に、うっすら汗が滲んでいる。この寒空の下で、だ。
熱でもあるのではないだろうかと思い、言葉を掛ける。

「奥さん、大丈夫ですか?何処かご気分でも、お悪いんじゃ…」

俯き加減のその顔を覗き込むと、そんな私の心配をよそに、彼女は言った。

「いいえ、特には。私は、体だけは、丈夫に出来とりますけん」

笑ってみせはするが、その瞳に、光はなかった。
結局、私はこんな時でも、何をしてやることも出来ずに、ただ、アーチの向こうへ消えていくその姿を、見送るだけだった。
そして、思った。
強く、同時に柔らかく、しなやかに、生きてきたであろう、あの男。
これまでは、どんな困難も、真の意味で彼を打ちのめし、その「心」の有り様を変えることなど、出来なかっただろう。そう、きっと、「あの戦い」ですらも。
だが、今の彼は、どうだろうか。
絶対に失えない、かけがえのないものを手にした今。もし、それをなくすことと、自らの生き方を変えること、この二つを「秤」に掛けなければならなくなったとしたら。

その時、彼は一体、どちらを選ぶのだろう―。






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