小さい男 中編(いちせん夫婦ネタ)
番外編


月曜日。土日を泣き暮らした綾子は、泣きすぎて重く感じる身体を引きずって
出社した。

「綾ちゃん・・・なんか元気なくない?」

会議室に向うため廊下を歩いていると、佐古が話しかけてきた。この人には特に
泣き腫らした顔を見られたくない。あの後何かがあったと思われるのが嫌だった。

「い・・・いや、そんなことないですよ・・・。あ、私ちょっと忘れ物・・・。」

忘れ物をとりに行くふりをして佐古を振り切ろうと急に向きを変えたとたん、ぐき、と
足をひねってしまった。

「・・・い、痛・・・。」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫ですよ〜。これくらい。」

痛みをこらえ、なんでもないふりで綾子は自分のデスクに戻ったが、歩こうとすると
足首ににぶい痛みが走る。会社の入っているビル内のクリニックで診てもらうと、
軽い捻挫と言われ、松葉杖を貸してくれた。

「松葉杖なんて、大げさだなあ・・・。」
「捻挫はこじらせると面倒だよ。2、3日はなるべく歩かない方がいい。」

綾子は遠慮したが、周囲のつよい勧めで、佐古に会社の車で送ってもらうことになった。

「待って。杖出してあげるから。」

綾子のマンションの前に着くと、佐古が車の後ろをまわってドアを開けてくれた。

「あ、ありがとう・・・。」

元はと言えば佐古に顔を見られたくないがためにこんなことになったのに、手を貸して
くれようとしている佐古と超近距離で目が合った。慌てて立ち上がろうとして、
痛いほうの足をついてしまい、バランスをくずして佐古に身体を支えられた。
意識しすぎて失敗が続き、かえって佐古とからむ機会を増やしてしまっている・・・綾子は
気まずい思いで手を貸してもらって身体を起こした。

「も・・・もう大丈夫だから、手、はなして・・・。」

だが、佐古は手を離さない。真剣な顔をした佐古は『残念なイケメン』から残念の
二字がはずれて、綾子の胸は妖しく高鳴り始めた。

「・・・大丈夫じゃないよ。今朝からずっと様子が変だし、ほっておけない。」

心臓がドキドキしてくるのをさとられたくなくて、綾子が振り切ろうとした手を、
佐古はさらに強い力でつかんだ。

「・・・あいつのせいなのか?俺・・・綾ちゃんにそんな顔させとく奴に、君をまかせて
おきたくないよ。」
「ちっ、ちが・・・。」

綾子が痛みに顔をしかめると、佐古はハッとして手を離した。

「ごめん・・・こんなことしたら、俺も偉そうなこと言えないな。でも、俺ずっと
綾ちゃんのこと・・・。」

綾子は思わず後ろの車の座席に座りこんだ。佐古が心配そうにかがみこむ。

「ごめん・・・弱ってるところにつけこむつもりじゃないんだ。でも・・・俺ならもっと、
綾ちゃんを大切にするよ。」

佐古はくるりと背中を向けると、背に沿わせた手をおどけた調子で振って手招きした。

「どうぞ。お姫様。」」
「やっ、やだ・・・いいですよぉ。」

佐古はしゃがんだままもう一度振り向くと、下から綾子を見上げた。

「・・・下からのキスっていうのも、萌えると思うんだ・・・試してみない?」

(バ・・・バブルの忘れもの・・・。)

真剣に迫っておいて、このセリフ・・・綾子は脱力してしまった。けれど、軽い言葉とは
裏腹に真剣な佐古の目が、視界の中で急速に近づいてきた・・・。

「バタン!・・・ブゥーッッ・・・。」

どこかでドアが閉まり、車が走り去る音がした。綾子ははじかれたように立ち上がった。
車の後ろ姿を追いかけようとして転びそうになり、がっくりと膝をついた。

見慣れた黒のSUV・・・どうして一番見られたくないシーンを見られてしまったのか。

「大丈夫?・・・今の車って、もしかして・・・。」

助け起こすと、綾子の瞳からは涙が流れていた。佐古は松葉杖を取って来てやり、
黙って部屋まで送った。

「ごめん・・・俺、悪いことしちゃったな。」
「・・・いえ・・・佐古さんのせいじゃないんです・・・送ってくださって、ありがとう。」

佐古は何か言いたそうなのをぐっとこらえた表情で、

「・・・足、大事にしろよ。」

とだけ言って帰って行った。

「おやすみなさい。」

綾子は涙をぬぐうとそっと玄関を閉めた。ルームメイトのサチが松葉杖姿を見て
心配していろいろ聞いてくるのに笑顔でこたえ、自分の部屋に入るとくず折れるように
ベッドに顔をうずめた。

水曜日。綾子はずっと前から酉の市のために木曜日は有給休暇をとってあった。

(やっぱり、明日は行こう・・・約束したんだもん。そして・・・。)

祐一と仲直りしたい。佐古とのことも、誤解を解かなければ・・・。たった五日、
それも綾子から連絡を絶ったというのに、祐一と意思の疎通ができないこの日々、
綾子は心にぽっかり穴が開いたようなさびしさに耐え切れなくなっていた。

「平泉くん。足の痛いとこ悪いけど、明日出てもらえないかな?」

退社時刻も近づいた頃、部長のデスクに呼ばれ、同僚のピンチヒッターを頼まれた。

「山脇くんね、家族にご不幸があって急に田舎に帰らなきゃならなくなったんだ。
彼女が担当してる資料、僕の明後日の商談にどうしても必要でね。君が代わりに
作ってもらえないか?」

山脇は綾子の二年先輩で、日頃世話になっているし、元々急な代打や休日出勤など
日常茶飯事の職場だった。綾子は何も言わずにその仕事を引き受けた。

その夜。少しでも早く仕上げて、明日たとえ遅れてもいいから祐一の元に駆けつけ
ようと、綾子は徹夜を覚悟でPCに向かっていた。

「もう11時だよ・・・いったん帰って、明日ゆっくりやったら?俺も手伝うからさ。」

誰もいないオフィス。コーヒーを片手に佐古が声をかけてきた。

「部長は明日出張だから、明後日の朝、説明すればいいんですよね?私、明日
どうしても行かなきゃいけない約束があって・・・。今夜じゅうに仕上げちゃい
たいんです。」
「徹夜してでも行きたい約束って・・・もしかして、あの彼?」
「え・・・は、はい。」
「前にも言ったけど・・・俺、綾ちゃんが無理してる感じなのが嫌なんだ。急な仕事で
行けないって説明してもわかってくれないような奴なのか?」
「ち、ちがうんです。私、ゆうちゃんと・・・あ、彼・・・とケンカしちゃって・・・。
でも、明日は彼がお祭りに出すおせんべいの出店を手伝うって、ずっと前からの
約束なんです。」

去年の大晦日、父親が急病に倒れ、心細そうだった祐一を思うと、愛しさがつのる。

「お父さんが年末に倒れちゃって、彼独りでお店出すの初めてなんです。だから
私、役に立たないかも知れないけど・・・そばにいてあげたいんです。」
「ふうん・・・。」

佐古は苦い顔をして聞いていたが、ふっと笑って自分のパソコンを開いた。

「じゃ、俺のPCにデータ送って。二人でやれば明日の朝までには間に合うだろ。」
「え・・・で、でも、そんなの悪いです。」
「言ったろ?綾ちゃんが悲しい顔してるのは嫌なんだって。ほら、さっさと送れよ。」
「佐古さん・・・。」
「この間、彼氏に誤解させるようなことしちゃったから、お詫びだよ。」

朝。同僚達が出社する時間にはまだ早いとは言え、街はもう目覚め始める時間。
佐古のサポートのおかげで資料は無事完成した。

「あ〜あ。やっぱり完徹になっちまったな。」
「佐古さん・・・ありがとうございました。」
「”ゆうちゃん”によろしくな。・・・まあ、俺も”ゆうちゃん”なんだけどさ。
・・・忘れてるみたいだけど。」
「・・・あ。」

また微妙なことを言い出す佐古だったが、綾子はその軽さになんとなく救われる
思いで会社を出た。

約束の時間に間に合わせるには、もう家に帰っている暇はない。綾子はそのまま
祐一の家に向かった。最寄の駅を出ると、神社のある町は、祭りの準備に心なしか
浮き立って見える。綾子は逸る心を抑え、傷めた足を気づかいながらも足早に歩いた。

「・・・ゆうちゃん。」
「・・・綾子?!」

店の前で、器材や商品をワンボックスカーに積み込んでいた祐一が、驚いて顔を上げた。

「今日、手伝う約束・・・でしょ?」
「あ・・・うん!ありがとう。・・・でも、そのカッコ・・・?」

会社から直行してきた綾子は、かっちりしたジャケットにブラウスというOLスタイル
のままだった。

「あ、あの・・・会社から来たから・・・。」
「下はパンツだからいいとして・・・じゃ、上脱いでこれ着て。ずっと外だと冷えるから。」

祐一は一瞬怪訝な顔をしたが、綾子が会社から来たわけについて深く考える暇も無いらしく、
自分が来ていたパーカを脱いで、エプロンと一緒に綾子に渡した。

「え・・・でも、ゆうちゃんは?」
「俺はずっと火の前だからじき暑くなるし、もう時間ないからとりあえずこれでいいや。」

白い仕事着の上に、車内に置いてあった○○農協とネームの入ったカストロコートを
羽織る。

「これ、いいだろ?ウチがせんべい用の米買う契約してる農家のじいちゃんが、
寒いだろってくれたんだ。」
「なんか・・・妙に似合うね。」

綾子の言葉に、祐一がニヤッと笑った。祐一の笑顔を、ずいぶん久しぶりに見た気がした。

(もぉ・・・何着てもカッコいいんだから・・・。)

かなり微妙なスタイルでも素敵に見えるのは、働く男の魅力か、綾子の惚れた弱みか・・・。
時間がないおかげで、気まずい思いをしている暇もなく、二人は車で神社に向った。

境内の指定された場所にテントや机を組み立て、開店の用意をする。商品を並べながら
祐一が説明してくれた、せんべいの種類や値段、販売の段取りを綾子は一生懸命覚えた。

せんべいを焼く器械に火が入り、香ばしい匂いが漂いはじめる。

「わあ、おいしそう。一枚ください。」

境内が活気に満ちてくる。一日かぎりの「せんべいささき」の支店の開店だ。

客は切れ目なく訪れ、祐一は汗だくになってせんべいを焼いている。

(やっぱり、無理しても来てよかった・・・。)

客から受け取った代金を箱にしまいながら、ふと祐一の店で一緒に働く自分を思い浮かべ、
綾子は真剣な顔でせんべいを焼いている祐一をみつめた。

「ん?・・・なんだよ。ボーッとしてて、おつり間違えんなよ。」
「だ・・・大丈夫だもん!」
「あ、そうだ・・・。これ、今のうちに食っとけよ。」

渡されたレジ袋には、祐一が握ったらしいおにぎりと、水筒に入ったお茶。物陰で
流し込むように交代で昼食を済ませ、二人は午後もめいっぱい働いた。

「いらっしゃい。」
「あの・・・ユウお兄ちゃんは?」

晩秋の日が落ち、店々に灯が入り始めた頃、超有名校の制服を着た女子高生が店の前に
立った。真っ黒な髪のバングスが印象的な、かなりの美少女だ。

「え・・・お、にい・・・?」
「おう!マユリかぁ。お前学校は?」
「もう終わったよ!・・・塾はサボったけど。」
「サボったぁ?・・・んなことじゃ、東大入れねーぞ!・・・あ、こいつさ、俺の幼なじみの
ケンスケの妹で・・・。」
「ユウお兄ちゃんの幼なじみの!長谷真百合です。」
「俺が子供の頃は、お前は赤ちゃんだったっつーの。・・・ケンスケって、綾子も会ったこと
あるだろ?ほら、フットサルの試合の時・・・。俺とは家が近所でサッカー仲間でさ。
真百合には小さい頃よく勉強教えてやったもんだけど、とっくの昔に追い越されたな。」

綾子がふと視線を感じて真百合を見ると、ジトッとした表情で綾子をみつめている。

「・・・お兄ちゃん、もしかしてこのひととつきあってるの?」
「え・・・?・・・い、いや・・・まあ・・・。」
「私との約束、忘れてないよね?」
「・・・は?・・・約束ってなんだよ。」
「私を!お嫁さんにするって!」
「それはお前が一方的に宣言しただけだろーが。しかも7才の時に。お前、来年受験
だってのに、こんなとこで油売ってちゃだめだろ?・・・さあもう帰れ!」

祐一は帰りしぶる少女にわれせんをいっぱい渡し、なんとかなだめて帰らせた。

「ふーーーん。ゆうちゃんって、ほんっと守備範囲広いよね・・・。」
「おま・・・あんな子供の言う事本気にしてんの?だいたいあいつは俺の中学はじまって
以来の秀才で、せんべい屋の女房なんてなったらもったいないって・・・あ。」
「ふーーーーーん。私ならもったいなくないんだ・・・。」
「だーかーらー。」

いつの間にか、以前のような気の置けない言い合いが復活していた。わだかまりが消え、
ふたりの間の親密な空気がよみがえってくる。

「あ・・・綾子・・・今日、さ・・・。」

祐一が綾子の目をじっと見つめ、商品の陰に隠れてギュッと手を握った。もしかして、
この間のことを謝ろうとしているのだろうか・・・?心よりも先に身体が強烈にあの日の
記憶を呼び覚まし、綾子は身をすくませた。けれど、祐一の温かい手と強いまなざしを
離すことができない。

「ちょっと・・・ザラメせんべい下さい。」
「あ、は、はいっ・・・!」

握っていた手がパッと離れ、綾子は慌てて客に応対した。

「それは生姜せんべい・・・ザラメはこっちでしょ。まったく・・・ゆうちゃん、
お嫁さんになる人には、もっと教育しとかなきゃ。」
「あ、元木さん、いつもありがとうございます。・・・いや〜、コイツ初めてなもんで、
長い眼でみてやってくださいよ。」

(ちょ・・・ゆうちゃん、もうヨメあつかい?)

祐一が身内あつかいしてくれたことはちょっと嬉しかったけれど、それにしても
今日はこの手の客が少なくなかった。祭りだけの常連にしろ、店の方の常連にしろ、
こうした年配の女性客たちは、まるで綾子が息子や孫の嫁のようにチェックを入れてくる。

「なんか・・・アウェー感ハンパないんですけど・・・。」

うるさそうな客が去った後、綾子はちょっと憂鬱そうにため息をついた。

「まあまあ・・・客商売なんてこんなもんだよ。じいさんの代から来てくれてる
人たちなんだから、大事にしなくっちゃ、ね。」

さっき祐一が言いかけたことはなんだったのか・・・それきり二人はまた少し増えてきた
客の応対に追われ、祭りが果てるまで懸命に働いた。

「おつかれー!」

ビールで乾杯、といきたいところだが、この後祐一が車で送ってくれることに
なっているので、ふたりは熱いあがりの入った湯飲みををちょっと持ち上げた。

祭りが終わって店を撤収し、いったん店に帰った後、祐一は綾子をなじみのすし屋に
誘った。のれんをくぐると、清潔な店内にはすし飯のいい香りがぷんとただよい、
おにぎり以外何も食べていないふたりの空腹をあおった。

「・・・おいしい。こんなの初めて。」

玉虫色に光る漬けのマグロや、ツメを塗った見慣れないネタの数々・・・いつも食べ
つけているのとはちょっと違った顔ぶれの寿司を、おそるおそる口に入れた綾子は、
そのおいしさに思わず破顔した。

「俺は小さい頃から寿司って言うとここだったから、やっぱりこれでなくっちゃなんだ。」
「ゆうちゃん、いらっしゃい。」

お吸い物を運んできてくれたのは、白髪をきれいにまとめ、いかにも着慣れた着物が
小粋な老女将だった。

「あ、こんばんは・・・。綾子、この人はね、この辺の生き字引のばあちゃんなんだ。」
「いやだねえ。長老呼ばわりはよしとくれ。だいたいあたしはここの生まれじゃない。
亭主がすし屋やりたいってんでついて来て、もう60年になるねえ。」

歯切れのいい言葉やたたずまいから、生まれも育ちも下町っ子のように見える
女将がよそから来たと聞いて、綾子は驚いた。

「来たばっかりの頃は西も東もわかんなかったもんだけど・・・下町ってのは案外ふところが
深いもんだよ。もっとも、あたしは亭主のいる所ならどこでもよかったんだけどね。」
「またばあちゃんのノロケが始まったな。」

ここもまた、祐一を子供の時から知っている人々の場所なのだけれど、綾子は
この老女将にはちっともアウェー感を覚えなかった。

「・・・すてきなお店ね。」
「綾子が気に入ってくれてよかったよ。」

二人は店を出て、祐一の家に向かって歩いた。別れが近づくにつれ、離れがたい
想いがつのってくる。

「あ、綾子。今日・・・さ、泊まっていけない?」
「え・・・。」

車のドアを開け、綾子が乗り込もうとした時、祐一が意を決したように切り出した。

「帰らないで・・・ほしいんだ。」

振り向いた綾子の目が、祐一の真剣なまなざしとぶつかった。

「・・・うん。」

綾子が静かにうなずいた。

「どうぞ・・・先、あがって。」
「うん・・・あっ・・・痛っ!」

勝手口から入り、階段を上ろうとした時、ズキッとした足首の痛みに襲われ、
綾子は思わずしゃがみこんだ。

「どうした・・・大丈夫?!」
「う・・・うん。おとといちょっと、ねんざしちゃって・・・。」
「ねんざ?ダメじゃないか、大事にしてなきゃ。」
「でも・・・今日、来たかったの。」
「ほら・・・乗れよ。」

祐一がしゃがんで背中を差し出した。この間の佐古と同じシチュエーションに、
綾子は一瞬とまどったが、思い切って身体をあずけた。

「しっかりつかまってろよ。」

脚を抱えた腕はたのもしいけれど、高さに怖じて、綾子は祐一の肩にしがみついた。

『・・・ゴツッ!』

「いっ・・・たぁ〜い!もぉ、気をつけてよ、ゆうちゃん。」
「ごめんごめん。」

長身の祐一におぶわれた、やはり長身の綾子は、階段のあがり口の梁に頭をぶつけ、
思わず文句を言った。祐一は笑いながらもう一度綾子をゆすりあげると、
かるがると二階へ運んだ。

「ビール、飲む?」

二階のリビングで、祐一が冷蔵庫から取り出した缶ビールを綾子に手渡した。

「んじゃ、もう一回。おつかれー!・・・・・・ぷはぁ、うまい!どうせなら、さっき
飲みたかったね。」

ビールの清涼感と、ちょっぴりの酔い心地が、二人きりになってまたよみがえって
しまったぎこちない空気をほぐしてくれる。

「あの・・・さ。今日は、本当に来てくれてありがとう。ギリギリまで迷ってたんだろ?
・・・そのカッコ。」
「あ・・・ううん。今日来ることは前から決めてたの。でも、昨日急に部長から、
他の人の代わりに出て資料作ってくれって言われちゃって・・・。」
「えっ・・・大丈夫なの?仕事・・・。」
「うん。今日いっぱいかかりそうなとこ、ゆうべ徹夜でしあげちゃったんだ。
だから、この服は昨日のままなの。」
「徹夜してまで・・・来てくれたんだ・・・。」

祐一は言葉を失った。綾子は今日の約束を守るために、ねんざをおして来てくれた
だけでなく、徹夜までしてくれたのだ。

「うん・・・でもね・・・間に合ったのは、佐古さんのおかげなの。私ひとりじゃ、
今日いっぱいやっても出来なくて、残業になっちゃったかも・・・。」

綾子は、少し意を決したように言った。祐一には、全てを話しておきたい。だが、
急に出てきた佐古の名前に、祐一は表情を曇らせた。

「この間・・・ね。ねんざした日・・・佐古さんに会社の車で送ってもらって・・・。
あの時、私・・・告白されちゃったんだ。」

今にも触れ合わんばかりに接近していた佐古と綾子・・・。どうしても謝りたくて、
綾子のマンションの前で待ち続けたあげく、見せられた情景が脳裡によみがえり、
祐一の表情を険しくさせる。

「ゆうちゃん、あそこに来てくれてたんでしょ・・・。誤解されたかもって思ったら、
死にたくなっちゃった・・・ふふ。」

哀しげに微笑む綾子の瞳に涙が浮かんだ。

「ばっ・・・死にたかったのは、俺の方だよ!俺がバカなことしたせいで、綾子に
見放されちゃったかもって思ったら・・・。」
「ゆうちゃん・・・。」

どちらからともなく近づいて抱き合い、ふたりは唇を重ね合わせた。綾子の細い身体が
淡雪のように消えてしまいそうで、祐一は思わず両腕に力を込めた。力強い腕に
抱きしめられ、綾子は身も心も溶けていく自分を感じていた。






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