不似合いな手
東海林武×大前春子


「2ヶ月後には、俺はもっとアンタのこと好きになってるかも知れない」

バカな男。正社員と派遣、その間に横たわる大きな溝に無自覚なだけ。
現実の重さに気づいていないだけ。
あの真剣な眼差しに騙されてはいけない。
あの男は自分を疑うことを知らないだけなのだ。
うっかりこちらまで騙されてしまったら、ひどい目に遭うのは私の方・・・。

一時の感情に惑わされず、冷静に対処したはずなのに。
単純で直情型、およそデリカシーなどない男だと思っていたのに。

やけに不似合いな、きれいな手。

取引先との打合せの席。男のすらりとした指と大きな掌が、
ひらひらとはためいている。
エレベーター騒動の時、私の手首をがっちりと掴んだ大きな手が・・・。

――どこを見ているの。

大前春子は人知れず我に返り、話の中身に集中した。

打合せは順調に終わった。

「6時1分前です。直帰してもよろしいでしょうか、東海林主任」

取引先のビルを出ると、機械的にそう切り出す。

「あ、ああ・・・お疲れさん」

何か言いたげな男に取り付く島を与えず、春子は足早に帰路についた。

その夜、春子は夢を見た。
夢の中で、春子はあの男と二人きりで故障したエレベーターに乗っている。
男の両手は春子の両手首をしっかりと握りしめ、
掴まれた箇所が白くなるほどの力で壁に押し当てている。
熱いまなざしが春子をまっすぐに捉えている。
二人の距離が縮まる。

「はるこ・・・」

ふいに掠れた声で耳元にささやかれ、気が遠くなった――

そこで目が覚めた。

自分が信じられない。
どうしてあんな夢を・・・。春子は頭から懸命に振り払おうとする。
最悪。どうしてあんなバカな男に。ハエも同然の男に。
心の中で精一杯の悪態をつく。
だが、体は抗いがたいほど甘く火照っていた。

いつしか春子の指はあの男の指となり、体中を這い回っている。

「ん、ああ・・・」

声にならない吐息が思わず漏れる。
カンタンテの裏手であの男が見せた、まっすぐで切なげな瞳を思い出す。
彼にもこんな寝苦しい夜があるのだろうか。彼の指が、唇が、
想像の中の春子をなぞり、ついばみ、嬲ったことはあるのだろうか。
一度でも・・・いや、たった今は・・・?

「あ・・・いや・・・」

彼の長い指が、春子の最も敏感な場所を擦りながら蜜壺をかきまわす。
後から後から熱い蜜がこぼれている。
切なくどうしようもない疼きが、体の奥からこみ上げてくる。

「ああ・・・東海林、主任・・・!」

春子はついにその名前を呼んで達した。

めくるめくような荒波が引いた後――
荒い息を鎮めながら、春子は言いようのない敗北感にとらわれていた。
その名をはっきりと呼んでしまったことで、必死で目を背けてきたものを
まざまざと見せ付けられていた。
契約期間終了まで、あと45日。
自分はその間、鉄の女を演じきれるのだろうか・・・?

眉根をひそめ、固く閉じた春子の目から、つう、と涙が伝った。






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