東海林武×大前春子
「そう言って、大前さんに叱られちゃったよ」 賢ちゃん・・・そんな風に無理して笑うなよ。 「・・・とっくりの言うことなんか気にするな」 俺はランチのパスタをフォークに巻きつけながら言った。 賢ちゃんや課のみんなが心をこめて用意したサプライズパーティを、 大前春子は台無しにした。 しかも賢ちゃんに対しては・・・、言っていいことと悪いことがある。 ――許せない。 と、いつもの俺なら、この時点で瞬間湯沸かし器になってるはずだ。 でも、今日はそんな気になれない。 もしかしたら賢ちゃんも、ヘンだと思ってるだろうか。 本当なら賢ちゃんに、なぜあいつの言うことを気にする必要がないかを こっそり教えてやりたい。 でも、できない。 俺が見たことは、多分とっくりが誰にも知られたくないことだから。 ――それとも俺は、ただとっくりと秘密を共有したいだけなんだろうか? 昨日バス停であいつが、バースデーカードを読みながら 泣いていることに気づいたとき、にわかには信じられなかった。 初めて見た、とっくりの涙。 声をかけることさえできなかった。 で結局、一睡もできなかった・・・。 もともと徹夜明けだった上に大失敗をやらかして、 結果お産に立ち会って、そのあと必死の交渉をして。 すっかりクタクタだったはずなのに。 だから今朝、賢ちゃんから事の顛末を聞いた時、びっくりした。 あれは見間違いだったんだろうか、それとも・・・? あいつはと言えば、今日も相変わらずポーカーフェイスで 粛々と仕事をこなしている。 周囲の、腫れ物にさわるような視線もどこ吹く風。 ゴーイングマイウェイ。 唯我独尊。 電信柱一本。 それが、何か? ――みたいな。 見事だよ。敵ながらあっぱれだ。 チン。エレベーターが開いた。 げっ。本人だ。 俺とあいつの二人きり。 ど、どうしよう・・・何て言おう? 「・・・昨日はお疲れさん」 ほんの一瞬、あいつは少し驚いたような顔で俺の顔を見た。 「・・・そちらこそ」 俺が誕生会での暴言を責めなかったのが意外らしい。 「あんたのお蔭で新商品の開発も無事に話がついた」 「お聞きしました」 「・・・」 「・・・」 「・・・賢ちゃんに聞いたよ。誕生会、怒って帰ったんだって?」 「それが何か?」 早い反応だ。最初から聞かれるって身構えてたみたいに。 「あんた・・・どうしてそんなに頑ななんだ?」 「あなたに文句を言われる筋合いはありません」 チン。 ドアが開くと同時にあいつは出て行った。 取り付く島、なし。 ドアが自然に閉まるまで、立ち去る背中をじっと眺めていたら。 ――痛々しい。 なぜかそう感じた。 その瞬間、俺は何だか全てが腑に落ちたような気がした。 過剰防衛・・・? 昨夜の賢ちゃんたちへの暴言の数々や、普段の頑なで傍若無人な態度は、 あいつの過剰防衛なんじゃないだろうか? あの大前春子がそこまで不器用でバカだなんて、まさかとは思うけれど。 ――そうとしか考えられない。 手負いの獣みたいなものなのか? 傷ついた自分を守るために、精一杯の牙をむき続けている必死な獣。 でもいったい、なぜ?いつからだ? その日、俺は最後まで上の空で仕事をこなした。 いや、こなしているふりをした。 本当は気が気じゃなかったから・・・。 6時。 いち早くオフィスから出て行くあいつを、俺は少し遅れて追いかけた。 バス停にはあいつ一人。ちょうど昨夜のように・・・。 あいつは何か物思いにふけっているような横顔をしていたが、 俺が近づくとびくっと顔を上げた。 俺はゆっくりと隣に腰を下ろした。 「・・・何の御用ですか。今日の勤務は終わりました」 「あんた――ゆうべここで泣いてたろ」 「!」 顔をそむけたまま、大前春子は固まっていた。 「寄せ書き読みながら泣いてたろ。なのに何でみんなに冷たくしたんだ」 「・・・何の話ですか」 「俺だって心をこめて書いたんだぜ、あのカード」 「・・・誰も頼んでません。迷惑です」 「・・・」 あいつは小さく息をつき、防御体勢を整えたのか、ようやく俺を まっすぐに見た。 「私は公私の区別はきっちりつけたいのだと、何度も言っている つもりですが?」 「・・・うそつけ」 「!」 「他のヤツは騙されても俺は騙されねえぞ、とっくり」 「・・・」 バスがやってきた。 「バスが来たので失礼します」 とっくりが席を立とうとする。 俺はあいつの腕をつかんで、引き戻した。 「放して!」 おーおー、珍しく大声出して。 逃がすか、ばか。 「・・・放して」 バスが見えなくなると、俺はようやく手を放した。 パンッ。 いて。 強烈な平手打ちだ。 「・・・何熱くなってんだよ、とっくり」 「あなたが何を見たか知らないけど、変な詮索しないで。 あなたには関係ないことです。 あなたも里中主任もみんな、ひとのプライベートに立ち入りすぎです」 俺は思わず立ち上がった。 「お前な!わかってんのか。相当危なっかしいんだぞ、はたから見てて」 「・・・何言ってるの?」 いかん。あんまり手負いの獣を追い詰めるな。 「――心配すんな、大抵の奴は気づいてねえよ。 でも俺には危なっかしくて見てられねえんだよ」 「くだらない。バカじゃないの」 「ああ、バカだよ。でもお前はどうなんだ。 関係ないだの関わりたくないだの、口では電信柱みたいなこと言っといて、 やってること滅茶苦茶だろうが。誰かがピンチになると必ず助けやがって。 罵倒した相手の書いた寄せ書きなんかでメソメソ泣きやがって。 ガキじゃねえんだからもうちょっと、素直になれよ」 「いいかげんにして下さい!」 ついにとっくりも立ち上がった。 「迷惑だって言ってるんです!私が泣こうと笑おうと、死のうと、 あなたには関係ないの!」 「大ありだよ!」 「何でよ!」 「ほっとけないからだ!」 「・・・」 「あんたを、ほっとけないからだ・・・とっくり」 「・・・」 声を荒げて俺に突っかかっていたあいつの顔が、すぐ目の前にある。 俺たちは互いに、まるで目をそらしたら負けだと言わんばかりに にらみあっていた。 「・・・あなたのような派遣差別主義者は信用できません」 「正社員の男は信用できないってか?」 「ええ」 「何でだ?裏切られたことでもあるのか?」 「・・・」 「昔は信じたことだってあるんだろ?信じて捨てられたのか?」 「妄想はやめて下さい」 「俺はあんたを傷つけたりしない。力になりたいだけだ」 「あなたの力なんかいらない。誰の力もいりません」 「・・・」 険のある台詞が、あいつの吐息に運ばれてくる。 甘い香り。 至近距離で囁き合うように応酬していると、 どんなキツイ言葉もまるで睦言みたいに聞こえてくる。 あいつの瞳が、心なしか潤んで揺れている。 いつのまにか言葉が途切れて、互いの息遣いだけが聞こえていた。 半開きでかぐわしい吐息を漏らしている、あいつの唇。 前にも、こんなことがあった・・・まるで、吸い込まれるみたいに・・・。 軽く、ほんの少しだけ、唇が触れた。 一度。 二度。 三度。 ・・・。 「・・・何してるの?」 掠れた、声にならない声でとっくりが聞く。 唇が触れるか触れないかの距離を、俺たちはさまよっている。 「わからない・・・」 言ってるそばから、また吸い込まれる・・・もうだめだ。 バサ。何かが落ちた。ああ、俺のカバンか。 ――どうでもいい。 「ん・・・」 とっくりが甘く喉を鳴らした。 触れている箇所に電流が流れているようだ・・・。 体の芯が熱くなって、頭が真っ白になる。 あいつの唇が、舌が、唾液が、甘い。 もっと、もっと・・・もっと、深く。 あいつの頭を押さえこんで、唇をむさぼる。 あいつの小さな手が、俺の髪をかき乱している。 ――お前も、俺が欲しいのか?とっくり・・・。 息ができなくなって、唇を離す。 額を合わせたまま、荒い息を鎮めようとする。 鉄の女の柔らかな頬が、ピンク色に染まっている。 濡れた唇。 乱れた髪。 潤んだ瞳。 たまらない。 「・・・俺の部屋に来いよ」 「・・・だめ」 「どうして?」 「だめなの」 何言ってんだ、今さら。 俺はあいつの手を引いて、通りに出た。 「タクシー!」 だが突然。 「放して!」 あいつは俺の体を突き放した。 近寄ろうとすると、精一杯威嚇して俺をにらみつける。 まるでハリネズミみたいに・・・。 さっきまでと全然違う。いつもの大前春子だ。 ――訳がわからない。 「・・・どうしてだ?」 「・・・」 「俺はあんたが好きだ。それだけじゃ、だめなのか?」 「・・・忘れて」 「え?」 「一時の気の迷いです。今のことは忘れて下さい」 何なんだ、一体? 「お疲れ様でした、東海林主任」 あいつは俺をするっとかわすと、やってきたバスに乗り込む。 バスは無情にもさっさと走り出した。 ・・・。 何なんだ。 何だ何だ何なんだ?! 「忘れられるわけ、ないだろう・・・?」 遠くなるバスを見つめながら、俺は一人つぶやいた。 ・・・覚えてろよ、大前春子。 俺はな。 ――とことん、お前に振り回されることに決めたからな。 SS一覧に戻る メインページに戻る |