東海林武×大前春子
![]() 残業を終えて、自宅に帰る。 自分の住むマンションはあまり安くないけれど、 それでも値段の割には綺麗だと思う。 ドアを開けて、 「ただいま」と呟くと、 「おかえり」と素っ気無い返事が返ってくる。 とっくり、いや、 大前春子の100回目の面接は俺の部屋だった。 「調理師の大前春子です。」 だらだらとたくさんの資格を見せられて、 彼女は、本当に100歳なのではないかと思った。 忍者の他に魔法使いの資格もあって、魔術で年齢をごまかしているのだ、きっと。 いつもどおり彼女は食事を済ませていて、 俺の分は皿だけ用意してあって、料理は鍋に入っていた。 鍋に火をかけながら春子の方を見ると、彼女の前にあるデスクの上には、 やりかけの仕事を大きな画面に映したノートパソコンと、 赤ワインの入った淡い水色の半透明なグラスがあった。 やっぱり。 やっぱり、時間内に事務と運送の両立なんて不可能だ、と思う。 それでも、プライベートの時間を削ってでも、 仕事を終わらせようとするのは、自分のためなのだと思うと切なくなる。 「ごめんな。」 「え?」 「俺の所為なんだよな…」 下を向いて、頭を抱えて、自分の馬鹿らしさに、 ―――――大切な女を幸せにするどころか、 苦しめることしかできない情けなさに、ため息が出る。 なのに、 「あなたの所為ではありません。」 なんで優しくするんだよ。 「両立させると言った私の所為です。」 いつもみたいに罵ってくれれば良かったのに。 「…」 ずっと、ずっと良かったのに。 抱き締めたい衝動に駆られる。今、目の前にいる女を。 こんなことをしてはいけないと分かっている。 だけど。だけれども。 彼女を前にして、理性はあっという間に壊されていく。 腕の中に閉じ込めると、春子は甘えるように体をすり寄せた。 それだけで胸がいっぱいになり、呼吸困難に陥りかける。 そして彼女から細くて白い腕が伸びてきて、俺の頬を両手で挟んだ。 目は発熱したときのようにとろんとしていて、 でも、こちらを真っ直ぐに見つめている。 赤く染まった顔が近づくと薄いアルコールの香りがした。 目を閉じると熟れた果実みたいな潤った唇が自分の唇に優しく触れる。 そしてお互いを求める様にどんどん深くなっていく。 彼女の舌が熱くなっていき、時々息と混じった小さな声を耳に届かせる。 苦しくなって口を離すと、涙で潤んだ春子の目が少し微笑んだ様に見えた。 止まらなくなって、彼女の首筋を唇でなぞると、小さな体が少し震えた。 服に手を掛けるとその手を制止するように彼女の手が置かれる。 「仕事、まだ終わってないから…」 「…いいよ、そんなの…」 「駄目。」 何もかも見透かされてしまいそうな瞳に射抜かれて心臓が高鳴る。 無理矢理にでも押し倒すことが可能な距離で、 犬が「待て」と言われている時の気持ちが、 本気で理解できそうになる。 「分かったよ…。」 名残惜しそうに離れると、 彼女は何事も無かったかのように椅子に座り直し、 忙しそうにキーボードを打ち始めた。 「…何か手伝うことないか?」 「結構です。早く寝てください。」 冷たい言動の裏に優しさがあった。 「とっくり…」 「…何ですか」 「仕事が終わるまで我慢するから。」 キスも、お前のコトも。全部我慢するから。 「側にいて良いか?」 聞いてから少し沈黙があって、彼女の方を見ると、 顔が赤くなっていくのが見えた。 それがアルコールの所為だけではないと理解して、俺は小さく微笑む。 彼女は赤くなった顔を隠すために俯きながら、 「好きにすれば」と呟いた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |