月夜のうわごと(非エロ)
東海林武×大前春子


大前春子が名古屋に来て1ヶ月ほど経った、ある金曜の夜。
東海林武は、片手にスーパーで買い込んだ食材の袋を、
もう片方の手にカバンと地図を持って、足早に歩いていた。
月が出ている方角に進めば、間違いはないはずだ。

「――ここか・・・」

あるウィークリーマンションの前にたどりつくと、ゆっくりと階段を登る。

「201・・・あった」

201号室。表札は空欄のまま。だが、ここに間違いない。
東海林は大きく息を整え、呼び鈴を押した。

1回。2回。

返事がない。中に人がいるのかどうかはわからないが、
昼間のあの状態を考えると、出かけているとはとても思えない。
もう2回、押してみる。

「とっくり!俺だ。開けろ!」

中の気配を窺いながら待っていると、ごそごそと物音が聞こえ始めた。
奥の方から足音がして、次第に近くなり・・・、
やがてドアの向こうから、くぐもった声がした。

「・・・何の御用ですか」
「起こして悪いな。見舞いに来たんだ。大丈夫か?」
「自宅を訪ねてくるなんて、職権濫用ですよ」
「あんな高熱出したんだ、非常事態だろ。食料買ってきてやったぞ。開けろ」
「お帰り下さい」

いつもと同じ、つれない返事。だが、返ってくるテンポが遅い。声が細い。

「お前、ふらふらなんだろう。こんな時まで意地はるなよ。開けるまで帰んねえぞ」
「勝手にしなさい」
「開けてくれたら帰るって言ってんだよ」
「・・・」
「なあ、早く開けろ。メシやら薬やら、沢山買い込んで重いんだよ、こっちは」
「・・・」
「・・・とっくり?おい、大丈夫か?・・・生きてるか?」
「・・・」

――ようやく、ドアが開いた。

大前春子は、寝巻きの上にカーディガンを羽織って立っていた。
青白い顔に頬だけが紅く、目は少し潤んでいる。
唇は青く、よく見ると小刻みに震えていた。
険しい顔でにらみつけてくるものの、どう見ても高熱を出した病人だ。
震えながら上目遣いに睨むこの表情に、東海林は見覚えがあった。

――そういえばあの時、カンタンテの裏手でも・・・。

「大丈夫か?」
「月曜までには治します」
「――上がるぞ」
「え?」

東海林は春子を押しのけ、強引に部屋に上がりこんだ。

「ちょっと・・・やめなさい!」

慌てる春子を無視し、東海林は台所に荷物を置くと、上着を脱いで
袖まくりをし始めた。

「何してるんですか。人を呼びますよ」
「俺は病人の寝込み襲うほど飢えてねえの。お粥作ってやっから、黙って寝てろ」
「・・・」

少し戸惑った顔でにらみ続けている春子に、東海林は作業の手を止めて向き直った。

「――お前にメシ食わしたら帰るよ。約束する」

そのまっすぐな視線から目をそらすと、春子はうめくように呟いた。

「・・・余計なことを・・・」
「いいから寝てろ。熱、上がるぞ」
「・・・」

スーパーの袋をあさり出した東海林を見て、春子は諦めたようにベッドに戻る。
その様子を尻目に、東海林はさりげなく部屋を見回した。

シンプルで小ぎれいな部屋。家具は備え付けらしい。
玄関を入ると8畳程度のDKがあり、奥に6畳ほどの寝室がある。
無駄なものは何もない。仮のすみか。お行儀のいい学生の下宿先のような部屋だった。
東京で働いていた頃、春子にはカンタンテという「家」があったが、
名古屋には東海林以外知り合いがいない。
最初の頃、東海林は春子の住居を心配してこう持ちかけたことがある。

「何なら、俺の部屋に来ないか。いや、単なるルームシェアだよ、誤解するな」

だが春子はにべもなく申し出を断った。
確かに東海林にとっても、プロポーズまでした相手のこと、
一緒にいたいからと言わなければ嘘になる。
だがその時はとにかく、春子の金銭的負担を少しでも減らしてやりたかったのだ。

――ま、信用されなくても仕方ない、か・・・。

それに、と東海林は考える。
今の自分は、春子に面倒ばかり掛けている。
一緒に暮らしたら結局、プライベートな時間にも面倒をかけるだけなのではないか・・・、
そんな自虐的な不安が頭から離れない。

2人分働いて、時給3千円――そう宣言した春子は、自主的なサービス残業を繰り返した。今回の風邪も、過労から来ているに違いない。
今日の昼間、春子が高熱をおして働いていることに気がつくと、
東海林は「早く帰れ」と言った。
春子は今にも倒れそうな体を支えながら「この程度の熱で休んだことはありません」
と言い張り抵抗を続けた。

「去年だって、あなたが風邪で倒れた時も、私は休まず働いたんです」

結局、東海林が帰宅「命令」を出し、タクシーを呼んで乗せてやった。
そのドアが閉まる直前。

「お互いそんなに若くないんだから、無理すんな」
「私としたことが・・・、すみません、東海林所長」

遠ざかるタクシーを潤んだ視界で見送りながら、
東海林は自分の不甲斐なさに打ちのめされそうだった。

――去年の風邪も、そういえば俺のせいだったな。

自嘲しながら粥を作る。
あの時。カンタンテの裏手で、寒風に震えながら東海林をにらみつけていた、頑なな瞳。
春子の険しい表情の裏に、どうやら別の顔があるらしいとはっきり気づいたのは
本当に最近のことだ。

夜、縁もゆかりもない街で、旅の枕の仮のすみかで。
弱った体で、たった独りで。

――心細くないはずがない。

そう思うといたたまれなくなって、東海林はこの部屋を訪ねてきたのだった。

東海林が料理をしている間、春子はその後姿をちらちらと盗み見ていた。
天然パーマの髪。広い背中。
意外に手際はいいが、いかにも男の料理といった豪快さをかもし出している。
何だか妙にほっとして、まぶたを閉じた。
水音がする。包丁の音がする。
誰かがそばにいて、自分のために料理を作ってくれている。
自分を気にかけてくれている・・・。

できあがった粥がベッドまで運ばれた時、春子は眠りに落ちていた。
東海林はその寝顔を見つめながら、しばらく逡巡した後、声をかけた。

「おい。できたぞ」
「ん・・・」
「ちゃんと食って、薬飲め」
「うん・・・」

寝ぼけ眼のせいか、やけに素直に返事をした春子のそばに座り、
東海林は粥を一さじすくうと、ふー、ふーと冷ました。
春子はようやく気がついて、慌てて体を起こそうとすると東海林に止められた。

「おい何してんだ、寝てろ」
「自分で食べます」
「病人のくせに突っ張るな。いいから口開けろ」
「・・・」
「ひとの面倒ばっかり見てねえで、たまには俺にもお前の面倒みさせろよ。ほら食え」
「・・・」
「食えって」

――頼むよ。

すがるような眼。

「・・・」

春子がこの眼差しに弱いことを、東海林はまだ知らなかった。

「あ、食った!」
「・・・」

差し出されたスプーンを受け入れた春子が、粥を黙々と噛む。

「――うまいか?」
「・・・全然」
「ぜいたく言うな」

東海林は苦笑して、もう一さじ冷まし始める。

二口目から、春子は東海林の促しに素直に従った。

本当は、温かなお粥の味が春子の心にしみていた。
ゆっくりと味わいながら、次の一さじを冷ます東海林の横顔を盗み見る。
粥を春子の口へと運ぶたびに東海林が注ぐ眼差しは、切ないくらい優しかった。
その瞳から目をそらさず、春子は一さじ一さじ受け入れる。

穏やかな時間。
いつも心にもないことばかり言い合っているのに、
二人は今、ただ黙って見つめあっていた。

「おっ」

春子の口角から、濡れたご飯粒がこぼれた。
東海林はごく自然にそれを指先でぬぐうと、自分の口元に運ぶ。
そんなささいな仕草に心乱されていることを必死で隠しながら、
春子はこの安らかな時間に身を委ねていた。

だが・・・。

なぜだか、胸が詰まる。

胸がいっぱいになって、次の一さじが食べられなくなってしまった。

「・・・」
「もういいのか?」

――泣いたりするのを見られたくない。でも、もうちょっとこのままでいたい。

「・・・もう少し」

やっとの思いで口にすると、春子はもう一さじ受け入れた。
何とか我慢し通すつもりだったのに、意に反して眼が潤んでくる。

――泣いちゃ、駄目。

それでもいつのまにか溢れてしまった涙が、春子の頬を伝う。

――駄目。このひとの前で泣くなんて。

春子の頭がパニックになっていることを知っているのか、知らずにいるのか・・・。
東海林は黙ったまま、涙を優しく指でぬぐう。
そして、ティッシュを1枚差し出した。

「・・・鼻、かむか?」
「うるさい!」

春子は差し出されたティッシュをひったくり、布団をかぶる。

「帰って」
「・・・」
「帰って!」
「・・・」

東海林はじっと春子の背中を見つめている。

やがて、布団ごしに春子に寄り添うと、震える声で耳元にささやいた。

「春子・・・、ごめんな」
「・・・」
「俺・・・頑張るから」
「・・・」
「お前にいつまでもこんな思い、させねえから」
「・・・謝るな」
「・・・ごめん」
「・・・」

――謝ったりしないでよ。私はただ。

・・・あなたのそばに、いたいだけなのに。

こみあげる愛しさに、春子は自ら腕を伸ばして東海林を抱きしめた。

肩口に顔を埋め、柔らかい髪をなでる。
東海林の体温が伝わる。

――暖かい・・・。

熱で力の続かない春子を、東海林の腕が力強く抱きしめて支える。
東海林はふと体を離し、切なげな瞳で春子の顔を見つめると・・・。

ゆっくりと、口づけた。

「・・・寝込みは襲わないって言ったくせに・・・」
「お前が悪いんだぞ・・・あんな顔するから・・・」

もう一度、触れるだけのキスをする。

「・・・風邪がうつる・・・」
「知るか、そんなの」
「・・・倒れても、看病しないから」
「可愛くねえな、病人のくせに」

互いの額を寄せて、笑いあう。

「・・・やっぱり熱いな。薬買ってきたから飲んで寝ろ」
「うん・・・」
「素直で結構」
「・・・熱のせいだから」
「ん?」
「熱に浮かされて、おかしくなって・・・うわごと言ってるだけだから・・・」
「・・・そうか」
「うん・・・」

――ごめんね東海林くん。そうでも言わないと、私は。

「じゃあ、熱のあるうちはさ・・・いくらでも言えよ、うわごと」
「・・・」
「月曜には忘れてやっから」

――こうでも言わないと、お前は。

「・・・そばにいて」
「・・・」
「今夜だけ・・・」
「――わかった」

その週末、東海林は春子のそばで甲斐甲斐しく世話を焼いた。


そして月曜の朝。

すっかり熱の抜けた春子が目を覚ますと、東海林はもういなかった。
テーブルには一人分の朝食が用意されており、
東海林が使っていたマグカップは洗いかごに伏せられていた。

春子は少しだけ泣いた。
それから、顔を洗って出勤の支度を始めるのだった。






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