最終回・スペインにて(非エロ)
東海林武×大前春子


――何かをこんなに迷ったのは、何年ぶりだろう。

「くるくるパーマのケイタイ」。

さっきから、手元のメモをずっと見つめ続けている。
あのまま捨てておいたなら、迷うこともなかったのに。
こんなところにしゃがみ込んだまま、いつのまにか陽もすっかり傾いてきた・・・。

あのひとは、今どうしてる?

オフィスで偶然、電話を取ったとき。

「森美雪にかわってくれ」

――懐かしい声が聞こえて、心臓がトクンと跳ねた。
気がついたら、森美雪になりすまして受け答えしていた。

「ハイ、モリデス」

もし誰かに見られたとしたら、完全にバカだ。バカ以外の何者でもない。

「私としたことが・・・」

つい、一人ごちる。

そのとき、里中主任に宛てられた彼のメールを読んでしまった。
うるさいほど生き生きとしていたあの「くるくるパーマ」が、
遠い名古屋の地で一人、耐え難い孤独に苛まれているなんて。
完全なる「よそ者」の身は辛いだろう。
「俺は家族と働きたいんだ」と言っていた、あの男には・・・。
俺がハケンの気持ちをわかっちまうなんて、と、そこには書かれていた。

「一緒に働くってことは、一緒に生きるってことだろ?」

あの時の彼のまっすぐな瞳が忘れられない。
だから結局、このメモを捨てられなかったのだ。
彼とのつながりを、断ち切ることができなかった。

「バッカじゃなかろうか・・・」

つい、自分で自分につぶやいてしまう。

「ヨチヨチ歩きのハケンにはよくあることです・・・転んで泣かないように」

あれは実感からくる忠告だった。
正社員との恋愛沙汰なんかに、振り回されてはいけない。
若い頃には、よくあること。でも、二度と浅はかな過ちは繰り返さない。

――その決意と分別は、絶対に揺るがないと思っていたのに。

今の自分のテイタラクは、森美雪にすら笑われそうだ。

あからさまなハケン蔑視。俺様主義。見境いのない上昇志向。
直情型ですぐキレて、偉そうで暑苦しくて。
鼻持ちならない、憎たらしい奴。

――友達や身内には、人一倍優しいくせに。
たぶん、恋人にも・・・。

大体、あの男は矛盾している。
単純なくせに、あいつの罵倒はなぜか誰よりも図星をさしてくる。

(ヒューマンスキルゼロ。ええ、そうですとも。それが何か?)

普段は偉そうにしているくせに、時々やけに素直に頭を下げてくる。
小さなミスはハケンになすりつけるくせに、大きな責任は自分で背負い込む。
お前なんか知るかと言いながら、いつも気がつくとそばにいる・・・。

――人の心の一番柔らかい部分にずかずか踏み込んでくる、うるさい「ハエ」。
心を鬼にしてスパッと振ったのに。

いつのまにか、彼とのやり取りを楽しんでいる自分がいた。
憎まれ口をききあって、罵倒しあっていれば深入りしないで済むと思ったのに。

どうしても、憎めなかった。

彼がハケン弁当の企画を里中主任に返すことを、私は心のどこかで信じていた。
長いものに巻かれ続けてきた彼が迷子になりかけていることを知っていたから。
あなたの中にある優しさを思い出して・・・。
そう祈りながら、携帯番号を書いた。
そして私の願いは、どうやら届いた。その代償は余りにも大きかったけれど。

それにしても、やっとの思いで書いた携帯番号を捨てるなんて。
あの、バカ男。本当にハエ以下。

なのに、いなくなってみたら。
オフィスの灯が消えたようだとみんなは言った。
私はといえば・・・胸にポッカリと穴が空いたよう、な・・・?
こんな寂しさも、一時の気の迷いだと思おうとしたけれど。

――もう、限界かも。

S&Fでの任期が終わった今、社員とか派遣とか、
あのひとと私を隔てる溝は何もない。
今さら追いかけても、彼は振り向かないかも知れないけれど。
そうなったら、また傷つくのよ?それでもいいの?大前春子。

でも・・・。
あのひとは全てを投げ捨てて、ひとりで傷ついている。
放っておけるの?

――今度は、私の番じゃないの?


そばでは、仲間たちが踊っている。子どもたちが笑っている。
ここは日本にいるよりずっと安らげる、私の居場所。

・・・の、はずだったのに。

「フリオ、マリア」
「何だい、ハルコ」
「ごめんね。私・・・、あした日本に、帰らなきゃ」

フリオとマリアが一瞬、驚いたような顔をした。
いつもの私なら「ちょっと出稼ぎに行ってくる」、としか言わなかったから。

「わかったよハルコ・・・離れていても祈っているよ、いつものように」
「有難う・・・」

――本当は、少しこわいの。だから祈っていてね。くじけそうな私のために。






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