東海林武×大前春子
午後7時。 大前春子が店に着いた時、里中賢介は既にテーブルにいた。 思いつめたような、ここではないどこかを見つめているような、遠い目。 課長昇進が決まったばかりだと聞いたのに、なぜか浮かない顔をしている。 ――何か訳ありなようね。 春子は、不審に思ったことを気づかれぬよう、少し離れたところから声をかけた。 「里中さん」 ふっと我に返った里中は、春子の顔を見て少し驚いた様子だったが、 いつもの人懐こい笑顔を見せた。 「大前さん」 「東海林所長は仕事で30分ほど遅れるそうなので、私だけ先に参りました」 「そうですか・・・東海林さん、忙しそうですね。急に迷惑だったかな・・・」 里中はその笑みは絶やさずに、微妙に表情を曇らせる。 「大丈夫です、到着便が一台、少し遅れただけですから」 東海林は「三人で旧交を温めようぜ」、などと無邪気かつ強引に春子を誘い入れたが、 里中の方には何か大事な話でもあるのかも知れない。 春子がそんなことを考えたのもつかの間、里中は再びにこやかに微笑んだ。 「でも、驚いたな・・・いや、って言うか・・・嬉しいです。本当に大前さんが 来てくれるなんて」 「本社の課長をお待たせするわけには行きませんので」 「やめて下さいよ大前さん・・・それに正式な辞令は来週ですし」 「おめでとうございます」 春子の祝福に、里中はなぜか答えずこう言った。 「・・・何か頼みましょうか」 二人だけで先に乾杯をすませた後、里中は、この店が「ようじ屋」に似ているということ、 今も時折カンタンテに顔を出しているということ、森が正社員として本社に残れそうな ことなどを話した。 ひとしきり報告が終わると、里中はしばし黙りこみ、そして・・・再び口を開いた。 「――東海林さんは・・・元気ですか」 「昼間事務所でお会いになったでしょう?」 「ええ・・・。最初のころ結構やつれてたけど、大前さんが来てから少しは元に 戻ったのかな」 「・・・まあ確かに忙しくはしていらっしゃいますが、本社時代から残業がお好きな方 でしたし、余り変らないんじゃないですか」 「そうですか・・・」 とはいえ、やはりやつれていることは春子が一番よく知っていた。 里中もごまかされてはいないのだろう。ふいに、眉間にしわを寄せたまま黙りこんだ。 「――里中さん。今日はなぜいらしたんですか」 「え・・・」 「東海林さんに何かお話でもあるんじゃないんですか」 「・・・」 春子の視線から逃れるように、里中は俯いた。 言うべきか、言わざるべきか。 心中で葛藤しているのは明らかだった。 「・・・大前さん」 「はい」 「実は・・・迷っているんです。東海林さんに何て言うべきか」 「何をですか?」 「・・・大前さんだったら・・・先に聞いてもらったほうがいいのかな」 「・・・」 「――大前さんは何か聞いてますか?東海林さんから・・・、左遷のいきさつを」 「いいえ」 それは本当だった。 春子も尋ねたことはないが、東海林から左遷に関するボヤキや愚痴は一切、 聞いたことがない。 「なぜ今頃、そんなことを?」 「・・・僕は・・・知らなかったんです」 「・・・?」 「本当は・・・名古屋に飛ばされるのは、僕のはずだった、ってことを・・・」 「――!」 初耳だった。 春子は思わず里中の顔をまじまじと見つめた。 「やっぱり、大前さんも知らなかったんですね・・・」 「――誰がそんなことを?」 しかも、今さら。 「霧島部長です」 「なぜ、そんな・・・?」 「思わず口が滑ったんでしょう。課長の内示が出た日に、言われたんです。 まさかお前がここまで出世するとは思わなかった、危うく名古屋に飛ばされるところ だったのに・・・って」 ――ひどい。 春子は心の中で憤慨した。何てデリカシーのない上司だろう。 「それを聞いて、全ての謎が解けたんです。あのプレゼンの日、東海林さんがどうして 企画を僕らに譲ってくれたのか」 「・・・」 「きっと僕との友情のためなんだろう、とは思ってました。多分少なからず 僕のせいなんだろう、って。でも、まさかそんなこととは・・・」 「・・・」 ――あのひと。そんなこと、一言も言わなかった。 春子は思わず目を閉じた。 「プレゼンの日・・・僕が顔に青タン作ってたの、覚えてますか」 「ええ」 「前の晩、東海林さんとケンカしたんです」 「――そのようですね。わけは知りませんが・・・」 「あの夜の東海林さん、変だったんです。大事なプレゼンの前でナーバスになってる んだろうって思ってました。でも東海林さん、俺の心配なんかしてんじゃねえって、 歯がゆそうに、いらいらして・・・」 「・・・」 「僕の胸倉つかんで、もっとうまく立ち回れよ、って・・・涙流してくれた・・・」 「・・・」 「今思えば・・・あの時、東海林さんは知ってたんです。僕が飛ばされるってことを」 「・・・」 ――そうだったの。 ――ああ、そうだったの・・・。 春子の脳裏に、ふいにあの頃の東海林の姿が甦った。 「部長命令だ」と春子をプロジェクトルームに駆り出し張り切ってみせてはいたものの、 時折そっとこちらを窺う目が、とても心細げに揺れていたこと。 見合いの帰りに突然カンタンテにやってきてプロポーズした時もそうだった。 気が付いたら、知らないうちに人生の岐路に立たされていたのだろう。 東海林が人知れず迷子になりかけていることが、春子の目には明らかだった。 「友だちを思いやる心」すらも失くしてしまったようですね、と責めたてたのも、 「ハケンの敵とは結婚したくありません」とアンケートの表に書いたのも、 春子が東海林に、今こそ道を踏み誤って欲しくないと願っていたからだった。 だが・・・。 あのとき東海林が置かれていた本当の状況がわかった今、その胸中を思うと 春子は改めて胸が痛んだ。 そういえば。 この前の2月14日。名古屋に来て初めてのバレンタインデー、春子の誕生日。 いつもは東海林の会食の誘いをすげなく断る春子だが、その日は特別に部屋に招いて 誕生パーティをした。 春子が腕をふるったご馳走を前に、東海林が感慨深げに呟いた。 「二度目だな。お前の手料理」 「・・・」 「もっとも・・・前のハケン弁当は食えなかったんだ。前日、賢ちゃんと乱闘してボッコ ボコにされてさ。お蔭で遅刻するわ、口開けると痛いわ、もうさんざんだったよ」 いつものように茶化してぼやいてみせるが、どこか痛々しい。 「・・・」 「お前にもてっきり振られたと思ってたしな・・・」 「・・・」 東海林は遠い目でしばし物思いに耽った後、ことさらに明るい声で言った。 「――それじゃ、いただきます」 「さすがうまそうだな、ほんとに・・・。どれどれ。――うめーな・・・」 「そう?」 「うん・・・」 そのとき。 上機嫌で春子の手料理を口にしていた東海林が、ふいに言葉を詰まらせた。 「・・・」 「・・・どうしたの?」 「・・・あれ?・・・やべーな、俺・・・」 「・・・」 「お前の料理がうま過ぎんのかな、はは・・・」 「・・・」 無理に笑ってみせるが、いよいよ何かがこみ上げている。 それを抑えることができず、東海林は目を赤くしていた。 「・・・なんか・・・いろんなこと思い出して・・・」 「・・・」 春子の胸にもまた、様々な思い出が押し寄せた。 同期の出世頭として、うるさいくらい生き生きとしていた頃の東海林の姿。 反発し合っているのにどうしようもなく惹かれてしまい、自分を戒め続けていた日々。 プロポーズを受けたこと。アンケートの裏に電話番号を書いたこと。 東海林がプレゼンを辞退したと聞いた時の感慨。 そして・・・その後の、名古屋の日々。 春子が来るまでの一年をどんな思いで過ごしたのか、東海林は決して語らなかったが、 辛く孤独な道のりだったことは容易に想像がついた。 ――ごめんなさい。自分の気持ちから逃げないで、もっと早く名古屋に来ればよかった・・・。 「・・・かっこわりーな、俺」 東海林はこみ上げるものを懸命にこらえながら、春子から顔を背ける。 「・・・いいのよ」 「・・・」 「あなたは良心に恥じない行いをしてここに来たんです。胸を張るべきです」 「・・・ちがうよ」 東海林は自嘲するように鼻で笑った。 「俺はただ、横取りしたものを返しただけだ」 「――誰にでもできることじゃない」 「何だよ。何でお前が俺をかばうんだよ。調子狂うな全く」 「肝心なことを一人で抱え込むのは、あなたの悪い癖です」 「・・・お前に言われたくねえよ」 「そうですね」 「・・・」 「でも、もう・・・一人で抱え込まなくていいの」 「・・・」 東海林の横顔が歪んで、震える手がその目を覆った。 春子は立ち上がるとそばへ行き、東海林の髪にそっと手を差し入れる。 「いいの。いいのよ」 「・・・う・・・」 とうとうこらえきれなくなって、東海林が嗚咽を漏らした。 春子は、胸が引き裂かれるような思いに目を潤ませながら、優しく東海林の頭を抱いて 背中を撫で続けた。 「・・・いいのよ」 「う・・・」 今思えば、春子にすがりついて男泣きしたあの日ですら、東海林は深い事情を 明かさなかったのだ。 「知ってしまったら、いたたまれなくなって・・・気がついたら有給取って、 新幹線に飛び乗ってました」 里中が言葉を継いだので、春子はふと我に返った。 「・・・そうでしたか」 「でも、迷ってるんです。今さら東海林さんに何を言っても却って迷惑かも知れないし・・・」 「――そうですね」 「でも・・・知らん振りなんてできない・・・」 「・・・」 ――変わらないんだなあ、この人も。 春子は心の中で呟いた。 迷子の子犬のようだった以前の顔より、ずっと自信に満ちたいい顔つきになった。 だが、純粋で優しいところは何も変っていない。変わらないまま会社の利益と折り合いを つけ、成功してきたのだ。 「里中さん」 「はい・・・」 「何も言わなくて、いいんじゃないですか」 「・・・」 「何も言う必要はありません。あなたのせいじゃないんですから」 「でも」 「あなたもご存知のとおり、あのひとは・・・東海林さんは、組織の垢にまみれた会社 人間のようでいて、その実、バカがつくほど純粋な人です」 「・・・」 「要領よく立ち回る調子のいい人間に見えますが、本当はアホで不器用極まりない」 「大前さん・・・」 「だから・・・いつかはそんな自分と、向き合わなくてはいけなかったんです」 「・・・」 「自分の中にある一番大切なもの。あのひとはそれを守りました。それは、あのひとに とって必要なことだったんです」 「・・・」 「あなたが気にやむことはありません。純粋で心優しいあなたが、組織の常識に負けずに 道を切り開いて行くことが、あのひとにとっても励みになるはずです」 「・・・そうでしょうか・・・」 「あなたが出世するずっと前から、あのひとはきっと、あなたのその真直ぐさが うらやましかったんじゃないかと思いますよ」 「え?」 「最初からあなたのように生きられたら、あのひとも楽だったかも知れません。 でも、これからでも遅くはない。私はそう思っています」 「・・・」 「だから・・・黙って見守ってあげて下さい」 「・・・。東海林さんは、幸せ者ですね。大前さんみたいな理解者がそばにいて」 「・・・」 「あなたに話して良かった・・・。何だか、少しだけ・・・安心しました」 「・・・」 「大前さんがいてくれたら、東海林さんはきっと大丈夫ですね。また本社に戻ってきて くれるって、信じてます。僕の後ろめたさが減るわけじゃないけど・・・。 でも、東海林さんに謝って楽になろうとするなんて・・・俺、やっぱりダメダメですね」 「・・・」 「東海林さんが胸にしまってくれていたように、僕も・・・自分への戒めとして、 このことは胸に抱えておきます」 里中のまっすぐな視線に応えて、春子はにっこりと微笑んだ。 そのとき。 「賢ちゃん!ごめん!」 東海林がやってきて、座が一気に賑やかになった。 東海林が合流した後、里中の昇進祝いや互いの近況報告、たわいのない思い出話に花が 咲き、最終の新幹線の時間がやってきた。 名古屋駅の改札口を通った里中は、並んで見送る東海林と春子の二人を振り返り、 ほんの一瞬、感極まった顔をすると、大きく手を振って去って行った。 「・・・帰るか」 東海林がふと見ると、春子はじっと東海林の顔を見つめて穏やかな笑みをたたえていた。 「――何だよ?」 「あなたは本当に・・・友だち思いのいいヤツですね」 「・・・え?」 「今日は、ほめてあげます」 「何?賢ちゃんが何か言ったのか?」 「さあ」 「何だよそれ!大体な、俺が来たときお前ら妙にいいムードだったぞ」 「そうですか?」 「あんな笑顔、滅多に見せねえじゃねえか」 「妬いてるんですか」 「妬いてねえよ」 「・・・あなたは本当にバカですね」 「バカってなん・・・」 春子の唇が、東海林の口を塞いだ。 SS一覧に戻る メインページに戻る |