スタンド・バイ・ミー(非エロ)
東海林武×大前春子


「大前さん、ちょっといいかな」

その日、S&F運輸名古屋営業所のオフィスで、
東海林武が大前春子を別室に呼んだ。
東海林の先導につき従いながら、春子は、
いつになく無口なその背中を訝しく眺めていた。
東海林がミーティングルームのドアを開けた。

「どうぞ」

促され、春子が先に中に入る。

会議用に2列に並べられた長机が6本。
東海林は春子を奥へ通すと、向かいの席に座ってファイルを広げ、
目を落とした。
資料を読んでいるというよりは、どう口火を切るか考えているように。

――でも、何を・・・?

東海林の顔は明らかにやつれていた。春子は改めて胸を痛めた。

一週間前の雨の夜。
配送から戻った春子は、喪服姿の東海林を見つけた。
人気のない暗いオフィスで、東海林は両手で顔を覆っていた。
辞めてしまったスタッフの代わりに雇ったばかりの運転手が、
飲酒運転で人身事故を起こしたのだ。
被害者には妻子がいた。
東海林が告別式で見かけた娘は、中学生だったという。
あなたのせいじゃない、と必死で慰めようとした春子に、
東海林はただ「轢いたのは会社の車で、運転手は俺の部下だ。俺の責任だ」
と抜け殻のような表情で答えたのだった。

心無い従業員のせいで東海林の本社復帰の見込みは先送りになった。
あれからずっと、自分の将来や身の処し方を考えていたのだろうか・・・。
今、春子の目の前の東海林の顔は、やつれてはいるものの、
何かを吹っ切ったように穏やかだ。
春子にとって、そのことが何よりも訝しかった。

「――ご用件は何でしょう」

待ちかねた春子が尋ねる。東海林は顔を上げ、春子の目を見て言った。

「・・・大前さん」
「はい」
「ここへ来て2ヶ月半。よくやってくれた」
「いえ」
「でも・・・そろそろ後任を探そうと思う」

――え?

春子は一瞬、自分の耳を疑った。

「後任の運転手と事務、募集をかけるから、残り半月の間に引継ぎを頼む」

――ちょっと待って。何、それ?

「・・・どういうことですか」

冷静に業務用の口調で返したつもりだが、声が微妙に掠れた。

――私としたことが。

春子は心の中で舌打ちした。

「延長の意思があるかどうか、私に聞かないん・・・」
「悪いと思ってる」

東海林がさえぎった。

「でも東京に帰れ」
「・・・」
「――帰ったほうがいい」
「それは私が決めることです」
「雇うかどうか決めるのは俺だ」
「・・・」

――お払い箱ってこと・・・?どうして・・・?

胃のあたりがすーっと冷えていく。
春子は東海林を見据えた。東海林の真意が見えない。

「・・・あんたには感謝してる。これは本当だ」
「・・・」
「今まで支えてくれて・・・有難う」

東海林は深々と頭を下げた。

「――もう十分だ。東京に帰れ」
「・・・」

春子は二週間前のあの夜を思い出した。

憔悴した東海林がつぶやいた言葉。

「俺の船は泥船だ」

こうも言った。

「お前みたいに優秀な奴がいつまでもこんなところにいちゃいけない。
せっかく積んだキャリアやスキルをドブに捨てることはないよ・・・」

余計なお世話です、と春子が一蹴して、その時は終わった。
だが、東海林はあれからずっと、考えていたのかも知れない。
熟慮に熟慮を重ね、逡巡し尽くした果ての、穏やかな顔・・・。
この二週間の東海林の心の内を思うと、春子はやるせなかった。

――どうしてそんな、悲しいこと言うの?

以前、同じ台詞を東海林に言われたことをぼんやりと思い出しながらも、
春子の目が潤んだ。
東海林は思わず目をそらす。
春子はおもむろに立ち上がると、ゆっくりと東海林に歩み寄り・・・、
すぐそばに立って、見下ろした。
東海林も春子を見上げる。

「――東海林武」
「・・・」
「それは・・・あなたが私を必要としていない、ということですか?」

東海林の瞳が揺れる。
だが、目をそらしたら負け。今度はそらさない。

一瞬なのに、永遠のような沈黙が二人の間に横たわった。

「――そうだ」
「・・・」
「すまない・・・」

東海林の目が赤い。
春子はじっと東海林を見つめ、隣の椅子に座った。

「うそつき・・・」
「・・・」
「心にもないことを言うもんじゃありません」
「事情が変わったんだ」
「変わっていません」
「・・・」
「何も変わっていません。・・・あなたの私への気持ちが、変わったというなら別ですが」
「・・・」
「少なくとも・・・私の方は何も変わっていない」
「・・・」
「一緒に働くことは一緒に生きることだって・・・そう言ったのはあなたでしょ?
一緒に生きようって、先に言ったのはそっちでしょ?」
「・・・」
「だから私はここへ来た・・・。今さら追い払おうとしても無駄です」
「・・・とっくり・・・」
「あなたは家族と働きたいと言った。私はあなたの家族のつもりですが?」
「・・・」
「もう一度聞きます。――引き続き・・・、私を雇って頂けますか?」
「・・・」
「・・・」

初めて名古屋に来た日、同じ質問をした時と同じように、体が震えそうだった。
それでも春子はまっすぐに東海林を見つめる。

一瞬、東海林の瞳が揺れた。

だが次の瞬間、突然立ち上がり背を向けて、強い口調で言い放った。

「俺は雇わねえぞ」

「東海林くん」

春子の声がつい大きくなる。

「あんたは家族なんかじゃない」
「・・・」
「あんたもよく知ってるだろう。派遣だのバイトだのは所詮、使い捨てだ」
「・・・私の目を見て言って」

ぐっ、と言葉に詰まる。だが東海林はすぐに春子を見据えてみせた。

「――利用するだけ利用して捨てるもんだ」
「・・・」

――どうして・・・。

「あんたみたいに時給の高いバイト、これ以上雇えない」
「・・・二人分の働きはしてきたつもりです」
「でも体は一つだろ。こっちだって色々気遣ってんだよ」
「・・・」
「俺はもう自分のことで手一杯なんだ。あんたに気を遣っていられない」
「・・・」

――どうして?

「東京に帰ってくれ。・・・話はそれだけだ」
「東海林くん!」

取り付く島もなかった。

東海林の出て行ったドアの音だけが部屋に響いた。

気がつくと、春子は涙を流していた。
業務中に泣くなんて、決してあってはならないことなのに。

「わ・・・たしと、・・・したことが・・・」

そうひとりごちた声がいつのまにか震えていて、
春子はとうとうこらえきれずに嗚咽した。

東海林は逃げるように廊下を歩いていた。
今はただ、春子からできる限り遠ざかりたかった。
しかし、名古屋事務所はさほど大きくはない。
本社にいた頃なら、一人になれる場所はいくらでもあったのだが。

顔を強張らせたまま足早に裏口へ向かうと、何人かのスタッフとすれ違う。
無視するわけにもいかず、通りいっぺんの声をかける。

「お疲れ様です」

その声は小さく、とても低かった。

本当は、壁に頭を叩きつけて、叫びだしたい。

東海林は何とか人けのない物陰を探し出すと、ファイルを放り投げて
もたれかかった。
そのまま顔を覆って、うずくまる。

この二週間、熟慮を重ねたことのはずなのに、東海林は混乱していた。

事故があってから、春子が常にさりげなく自分を気遣ってくれるのを、
東海林は感じていた。
感じていながら、遠ざけていた。
春子の優しさにすがってしまったら、二人の間の取り決めを破って一線を踏み越えて
しまいそうだった。
東海林はそれほどに打ちひしがれていたのだ。
しかし。

私はあなたの家族のつもりです――。

あの大前春子が、あそこまで言ってくれるとは思わなかった。
最愛の女にあそこまで言わせておきながら、ひどい仕打ちをしてしまった。

だが、今の自分に他にどうしてやれるだろう。
彼女の支えにこれ以上甘えてしまえば、スーパーハケン・大前春子の
キャリアや将来はスポイルされてしまう。
これ以上、ここに縛りつけておくことはできない・・・。

――これでいいんだ。

泣きたい気分になるのを懸命に堪えながら、自分に言い聞かせる。

「・・・バカだなあ、俺・・・」

情けなさとやりきれなさに、胸が張り裂けそうだった。

だがふと、被害者の遺族の姿が脳裏をよぎる。
最愛の、本物の家族を失った妻子の姿――。
それを思うと、東海林にはやるべきことが山ほどあった。
いつまでもこんなところにうずくまってはいられない・・・。

東海林は、そばに捨て置かれていたファイルを拾い上げ、よろよろと立ち上がった。
事務所に戻ろうとして振り返る。

と、大きな人影が視界に入った。

ドライバーの土屋だった。

「・・・何してんだ、お前」
「・・・」
「――春ちゃんの首切るって本当か」
「・・・契約期間が終わるだけです」
「人手は足りてねえだろ。何で辞めさせるんだ」
「最初から三ヶ月の約束だったんだ」
「前に言っただろう。春ちゃん泣かせたら承知しねえって」

――そうだ。俺は最愛の女を泣かせた。

東海林は思わず目を閉じた。

あの減らず口の大前春子が、素直に優しい言葉を吐いて、拒絶されるとただ涙ぐんでいた。
せめて、最低な奴だとなじって欲しかった。
平手でもグーでもいいから、張り倒して欲しかった。

この際、誰でもいいから・・・。

「・・・余計なお世話だ」
「――なに?」
「あいつはあんたなんかの手に負える女じゃねえんだ。ひっこんでろ」
「・・・」
「あんな女、めんどくさくて気に障るだけだ。いなくなればせいせいするよ」
「おい、ネクタイ!」

土屋が東海林の胸倉を掴む。

――やれよ。

東海林は敢えて不遜な顔つきで土屋を見返した。
土屋も険しい表情で東海林をにらんでいる。

だが、そのまま手は出さなかった。

「・・・何だよ。やれよ」
「――何ヤケ起こしてんだ」
「・・・」
「あんな飲酒運転のバカ野郎に、人生狂わされたってか?そのうえ泣き寝入りか?」
「・・・」
「春ちゃんまで巻き込んどいて、そりゃねえんじゃねえのか」
「あいつはもう関係ねえ。今月いっぱいでおさらばだ」
「・・・お前、またかっこつけてんのか」
「そんなんじゃねえよ」
「アホか、ボケ」

土屋が手を放した。

「とっとと仕事しろ。所長さんよ」
「お前に言われたくねえな」
「・・・悪いが、俺はお前みたいなアホ殴るほどヒマじゃねえんだ」

そして、土屋は去って行った。

「・・・バカ野郎」

東海林は吐き捨てるように呟いた。
誰に向けて言えばいいのか、自分でもわからなかった。






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