東海林武×大前春子
プルルルル。呼び出し音が鳴っている。 初めてかける、とっくりの携帯電話。 「あとで電話する」と言っておいたのに、もう20回も鳴ったまま 一向に出る気配がない。 どうしたんだろう。 まさか、気が変わって東京に・・・いや、そんなわけない。 とりあえずマンションに戻ってみよう。時刻は夜7時。 大前春子は昨日、何の前触れもなく俺の目の前に現れると、 いきなり福岡便の穴を埋め、大型トラックで去って行った。 やっぱり幻だったんじゃないか・・・と心配せずに済んだのは 賢ちゃんが一緒に見ていたからだ。 そして昨夜、福岡のとっくりから俺の携帯に電話があった。 ――あいつが俺の電話番号を捨てずにいたなんて。 かくして、俺の携帯にあいつの番号が残った。 捨ててしまったアンケートの裏に書いてあったという、幻の携帯番号。 露と消えないうちに番号を登録しながら、俺はこの後のことを考えた。 家に戻って、下の階を気にしながら夜の大掃除を始めた。 翌日、ルームシェアを提案すると、とっくりは意表をつかれたのか しばらく黙って聞いていた。 下心はない、あんたにこれ以上負担をかけたくないんだ、見てみてから 返事してもらっても構わない・・・。俺は誠意をこめて説明した。 「物件を見なくては何とも言えませんね」。 とっくりは言った。 ちょうど昼休みだ、今見に行こう・・・俺はとっくりを車に乗せて 走り出した。 とっくりは名古屋駅に寄って欲しいと行った。荷物を置いてあるという。 ロータリーで待っていたら、バックパック一つ背負って戻ってきた。 「随分身軽だな」俺は思わず呟いた。 「雇って頂けなければそのまま帰るつもりでしたので」 そう答えると、とっくりは再び助手席に乗り込んだ。 あいつがどんな気持ちで名古屋に来て、この荷物をコインロッカーに 詰めていたのか・・・ふとそれを考えた。 抱きしめたくなった。 「下心はない」と言った手前、ぐっとこらえたけど。 車が発車しても、俺は饒舌になれず、沈黙が続いた。 助手席にいるとっくりを確かめたくて、信号待ちの時にあいつを見ると、 あいつも俺を見つめていた。 大前春子。 胸がいっぱいになる。 ふいにあいつが視線を外し、「青ですよ」と言った。 マンションについた。 俺は今朝干したばかりの布団をベランダから取り込むと、とっくり用に空けた部屋に 運び込んだ。 「ルームシェアのことはゆっくり考えてくれればいい。疲れただろう。 仮眠でもとったらどうだ。これ、シーツも枕カバーも洗ってあるから。 家を探しにいきたければ、休んでから行けばいい。いいところが見つかるまで 荷物を置いてもらっても、泊まってもらっても構わない。 スペアキーはここに置いておくから、いらなければ後で返してくれ。 冷蔵庫のものは何でも飲み食いしていい。寝巻きはあるか? あ、風呂入るならガスのスイッチはここで・・・」 一通りまくし立てる間、とっくりは一言も喋らなかった。 「腹へったか?昼メシは?」 「ご心配なく」 「夜は歓迎会させてくれよ。フグでも食べに行こう、な。後で電話するから」 「・・・わかりました」 「・・・じゃ、・・・俺は社に戻るから・・・ごゆっくり」 俺が玄関に向かうと、とっくりはついてきた。そして外に出た時、あいつが誰かを呼んだ。 「東海林くん」 ――え?・・・俺のこと? 「いろいろ有難う」 ――何だって? ドアが閉まる直前の俺は、さぞやマヌケ面だったろう。 プルルルル。応答なし。 大前春子はまだ電話に出ない。 一抹の不安を抱えながらマンションに戻ると、部屋の中は昼間あいつを連れてきた そのままだった。 だが、何かが低い音で鳴っている。 居間のテーブルを見ると、見慣れない携帯がサイレントで振動していた。 携帯を置き忘れたまま、部屋にでもいるんだろうか。 俺はあいつに提供した部屋の半開きのドアをそっと押した。 暗がりに居間からの漏れ灯りが差し込む。 大前春子。 大前春子は眠っていた。 昼間、俺が部屋の隅に積んでいった布団を枕に、コート姿のまま丸くなっていた。 よほど疲れていたんだろうか。 バックパック一つ背負って、見知らぬ土地にやってきた女。 断られたら帰るつもりだったとこいつは言った。 落ち武者みたいにいつも鎧をまとっているくせに、こんなに小さな女。 初めて見る寝顔。 猫のように丸くなって眠るその姿のいじらしさに、俺の視界は潤んだ。 ――こんなところで寝て。風邪引くぞ。 起こそうと思ったが、思い直して毛布をかける。 時刻は夜7時半。 フグは明日までお預けだ。 今夜は東海林武特製スペシャル焼きそばでガマンしろ。 味に文句は言わせねえぞ。 SS一覧に戻る メインページに戻る |