最終回翌日のこと・春子編(非エロ)
東海林武×大前春子


目を覚ますと、すっかり夜だった。

「私としたことが・・・」

――後で電話するから。

いけない、今何時?
私は慌てて飛び起きて、寝ぼけ眼でドアを開けた。

居間には灯りがついていた。
何かいい匂いがする。
視界の先で、奥のキッチンから、懐かしいシルエットをした長身の男が振り向いた。

「起きたか」
「・・・」
「ちょうど良かった、今できたとこだ」

東海林武はフライパンから皿に何かを盛り付けた。

「どうした?コート脱いで座れよ」

――私としたことが。

よほど間抜けな顔で突っ立っていたらしい。
私はコートを脱ぐと、テーブルにつく。隅に携帯が置いてあった。
不在着信。確かめると、全て目の前の男からかかってきたものだった。

「長旅続きだったからな。疲れてたんだろう。今日はもう遅いし、泊まってけよ。
フグは明日にするから、これ食って早く休め。うまいぞ〜。
俺様特製スペシャル焼きそばだ。これ賢ちゃんも大好きでさ」
「・・・」
「食おう!さ、どうぞ」

東海林はビール缶を私に向かって傾けた。
私がグラスを差し出すと、かすかに微笑んでそれを満たす。
素直で邪気のない笑顔。いつも小うるさくて激しやすい性格のくせに、
この男は時々こういう顔をする。

憎らしい。

東海林が手酌をしようとしたので、私は缶を取り上げた。
彼は嬉しさを隠せない様子で返杯を受けている。

――これしきのことで。バッカじゃなかろうか。

いつの頃からか、この男への悪態のネタを探すことが習い性になっている。
一人のとき、思わず表情が緩むのを抑えることも・・・。

「東海林くん。いろいろ有難う」

昼間、素直にそう言ったらひどく驚いていた。
でも彼は本当に甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。
この部屋に向かうために二人で車に乗った時、私の名古屋での新しい生活が
始まろうとしていることを実感した。
名古屋駅のコインロッカー。追加分の百円玉を入れながら、昨日からのことを反芻した。
荷物を預けた時は、一寸先は闇だった。

「私を雇って頂けますか?」

断られても仕方がないと思っていたのに、あの不遜な男が私を受け入れ、

「よろしくお願いします」

と頭を下げた。
荷物を積んで駅を出ると、
突然、彼が無口になった。横顔を盗み見る。

東海林武。

どうしてあなたはこんな可愛げのない女を見放さなかったの。
信号が赤になり、彼と目が合った。

どうして私はあなたを忘れられなかったんだろう。
どうして私はここにいるんだろう。

・・・いえ、答えはとっくにわかっている。
ふいに愛しさがこみあげて、どうしていいかわからなくなった。
視線を外すと、信号が助け船を出した。

「青ですよ」

何食わぬ顔で言えただろうか。

東海林の部屋はやけに片付いていた。会社の割り当てだという2DKのマンション。
仕事中毒だからなのか、まだ仮住まいの感覚が抜けないからなのか、
調度の類はごくシンプル。まだ開けていない段ボールも残っていて、やや殺風景だった。
この一年、彼がどんな思いでここに暮らしたかに思いをはせる。
ここを使ってくれ、と通された部屋は、小さなタンスとハンガーラック以外、
きれいに空けられていた。
東海林はベランダから布団を取り込んで次々と運びこみながら、あれこれとまめまめしく
私を気遣うと、慌しく事務所に戻って行った。

――ここが名古屋の家。今日からここで新しい生活が始まる。

東海林は拒絶を恐れているらしかったが、実のところ、とっくに心は決まっていた。
ふと体じゅうの力が抜けて、私は布団の山にもたれかかった。
太陽の匂いがする。温かい。

何だかほっとして、私はそのまま目を閉じた。

意外なことに、「俺様特製スペシャル焼きそば」はなかなかのものだった。
この男の焼きそばパン好きはダテではなかったのだ。

「・・・さすが焼きそばまで天パなんですね」
「天パ言うな!っていうか焼きそばはみんな天パなんだよ!」

ばかばかしくも、懐かしい応酬。
思わず口元が緩む。
彼の前では初めてのことだ。私としたことが・・・。
東海林は不意に神妙な顔つきになり、穏やかに尋ねた。

「うまいか?」

――うん。

そのまま口にした。

「そっか・・・よかった」

――同じ釜のメシ。

東海林の好きな言葉。一年前初めて誘われた時、私はひどい言葉で撃退した。
いえ、撃退したつもりだった。なのに、今は・・・。

「美味しい」

もう一度、素直に言った。

――名古屋に来てよかった。

・・・これは、まだ胸にしまっておく。






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