東海林武×大前春子
何も変わりのない日常。お前が来た、それだけ、たったそれだけなんだ。大前春子。 「東海林所長」 S&F運輸名古屋営業所。 正式な契約を交わしてからは初めての出勤になる大前春子は、本日の仕事内容を東海林に確認するためデスクへと足を向ける。 既にデスクでパソコンを立ち上げていた東海林は、その自分を呼ぶ春子の声で顔を上げた。 本当はこちらに歩いてくる彼女に鼓動が速まっていたのだけれど、おくびにも出さずに、否出さないように春子を見る。 「おぉ、おはよう……大前さん」 「おはようございます」 今まで一人きり、孤独感に苛まれていた東海林にとっては、見知った人間が伴に働いてくれる、それだけで嬉しい。それも、己が悪く思っていない否、それどころか好意を抱いている相手ならば、尚更だ。 「いやぁ、いっつもとっくりとっくり呼んでたもんだからいざ『大前さん』て呼ぶとなんかこっぱずかしいな!『大前さん!』てな!」 自然と饒舌になるが、大前春子は眉一つ動かさない。目の奥に呆れの色は見えるけれど、それだけだ。 「時間が惜しいので業務の詳細を教えてください」 「相変わらず連れないねぇアンタ……ま、来てくれただけで嬉しいけど……さ」 後半は囁くような小さな声でもって言う。春子にきこえただろうか、と盗み見ると、苛立ったような表情が見下ろしていた。 ……ですよね。 「……えーっと、今日は事務の方をやってもらいます。資料は全部、そっちのデスクにあるから」 「わかりました」 軽口を叩くのは諦めて春子に業務の指示を出した東海林は自分も業務に着くために運送の日程の書いてあるボードをとって、事務所の時計を見る。 「八時四十五分……よし、んじゃちょっと外見て来ますんで、なんかあったらー……」 (って、聞いてねーかぁ……) 見れば、春子の他にいる二人の事務員はお喋りしながら珈琲を飲んでいるし、春子は、本社で見たあの至極真面目、というか仏頂面でキーボードをカタカタ叩いている。 「九時には一旦戻ってきます……」 誰からの言葉もなく事務所を後にした東海林は、ドライバー達のメンチを切るような視線の渦を思って、深い溜め息を吐いた。 「……って、んん?なんでとっくりの奴業務時間外なのにキーボード叩いてたんだ?」 始業のチャイムはまだ鳴らない。 ※※※ 事務兼ドライバーを二人分こなす、と仮契約をしてそのまま福岡へ向かった春子は、帰社すると東海林と本契約についての交渉を行った。 春子は一日の中で事務職とドライバーを兼務する、と粘ったが、結局東海林の 『運転に慣れているドライバーでも事故を起こすことがある。俺はアンタを信用してるし信頼もしてるけど、もし事務と兼務なんて慣れないことして、万が一、事故が起きればこの営業所だけじゃない、本社にだって迷惑がかかる』 という尤もな意見により、原則的には事務職、どうしても人手が足りないときだけはドライバーに回るという形で落ち着いた。 断じて『それに何より、アンタ自身にもしものことがあったら、ホント俺やってけねえよ』という、里中張りの子犬の目に胸がときめいて大人しく従ったわけではない。絶対。動揺だってしていない。 春子が邪念を振り払うようにカタカタキーボードを叩きつけていると、九時の始業のチャイムが鳴った。 ピタリ、と一瞬キーボードを叩く音が止んで、春子はバッと壁に掛かっている時計に目をやった。 (……仕事が溜まってるみたいだったから、九時前に始めただけなんだから) 動揺なんて、していない。 チャイムを合図に外で東海林に文句を垂れながら煙草をふかしていたドライバーがぞろぞろと入ってくる。その筆頭は売り言葉に買い言葉で東海林の下では働けない、と福岡行きをボイコットした土屋。 幾ら上司が気に入らなくとも、東海林の態度自体に問題があるわけではない。 相性の良し悪しはあってもそれだけで仕事を放棄するわけにはいかない、と一応は考えたらしい彼だった。 一番後ろからくっつくようにして入ってきた東海林は、ホワイトボードのある場所まで行くと、朝礼を始める。 いつも大抵この東海林の挨拶をちゃんと聞く者は居ないし、今日もそれは同じだろう。それでも決まりは決まり。 「えー、本日も皆さん宜しくお願いします。あー……今日から新しい派遣さんが入りました、原則的には事務職、人手が足りない時にはドライバーも兼務してもらいます。大前春子さんです。大前さん、何か一言挨拶を、」 「必要ありません」 朝礼中ということで手は休めているが、その顔には『とっとと仕事を始めさせろ』と大きく書かれている。その春子の慇懃な態度に、どこからかヒュウと口笛が聞こえた。 東海林は息を吐くがこの女の仕事におけるヒューマンスキルのなさは判っていたこと。特に気にもしない。けれど。 「あ……!」 興味なさげにペットボトルのお茶に口を付けていた土屋が、春子という女の名前にだけは反応した。 運送は男社会。必然的に女との接点は少なくなる。そんな中での興味。そして彼の目に映ったのは、つい先日知った顔だった。 「アンタ!うちの隣越してきた人じゃねーか!」 「……!」 途端に春子の表情が『しくじった』とでも言うように歪み、東海林の顔は不安に染まる。 仲間に自慢げに隣に引っ越してきた女の話をする土屋は、確実に生活範囲という意味で距離の近しいこの女に、興味を持ったようだった。 「……では、朝礼を終わります……各自持ち場についてください。えー、大前さんは仕事の前に確認したいことがあるので、応接室までお願いします」 (職権乱用するんじゃない!) 実に迷惑そうにこちらを見る春子に、東海林は不安げな視線を返した。 ※※※ 「お前、家が土屋さんの隣って……!」 どこで聞かれているかわからないため、小声で春子を問い詰める。何せ惚れた女が他の男に言い寄られるかも知れないのだ。東海林にとっては一大事である。 「厳密には家ではなく部屋です。住む場所がなければ私生活にも業務にも支障が出ますので、近い賃貸住宅を借りましたそれが何か?」 「だからってなんで土屋さんちの隣なんだよ……!」 「あの人の隣だから選んだわけではありません。あの人が此処で働いていることなんて知りませんし、偶々です」 「だ、ってお前……女一人で……」 「別に四方八方男で囲まれているわけではありませんが?」 「……」 春子は、ふっと息を抜くと改めて東海林を見た。こんな気弱な東海林武、本社では見たことがない。否、会社を辞めようとした時には同じような表情を見たが、それだけでこの男が追い込まれているのかがわかる。 (しょうのない人、どれだけ一杯一杯なんだ、全く……) 春子は、ロシア語で、東海林に話し掛けた。もし盗み聞かれていたとして、英語ならばわかる者は多いかもしれないが、ロシア語となれば話は別だろう。ただ、東海林にだけ伝われば良かった。 『私が此処に来たのは誰でもない貴方のため。それは今も、三ヶ月後も変わらない。わかった?』 今はこれしか言えないけれど、見つめた視線は絡んだまま、東海林が頷いたから大丈夫だろう。 「……わかりました」 「では、業務に戻ります」 ガチャリと扉を開ければそこには、なんでもない風体を装った土屋が立っていた。しかし幾ら繕っても、春子を待っていたことは明らかだ。 「あ、大前さん、何かわからないことがあったら何でも俺に!訊いて良いから、ほら、隣のよしみってやつでさ」 「……」 ノリが東海林と似ている、と思った。 「聞いてっか?」 「仕事とプライベートを混同しないで下さい。隣人であることと同僚であることは全く関係ありません」 バッサリと切り捨ててデスクに戻る春子を、土屋が放心したように見る。 そんな土屋になんとなしに目をやっていた東海林が土屋に『何見てんだよ、アァ?』と因縁を付けられるのは、数秒後。 すみません、と平謝りしながら、東海林はにやけそうになる口元を必死で引き締めた。 ヒューマンスキルゼロの女に、云われた言葉があまりに暖かかったせいだ。 何も変わりのない日常。お前が来た、それだけ、たったそれだけなんだ。大前春子。 (ああ、けれど、たったそれだけの変化が、まるで嵐の予感) SS一覧に戻る メインページに戻る |