里中賢介×森美雪
![]() 今日も、遅くなってしまった。 東海林さんより遅いなんて、久しぶりだ。 「彼女は、社風に合わない」 桐島部長の声が頭の中を回る。 …自分の、歯軋りの音が聞こえた。 もやもやした気持ちのまま一人歩いていると、会社のすぐ近くの公園のベンチに一人座る彼女を見つけた。 つやつやの、きれいな茶色の髪。 細い肩。 後ろ姿でも、すぐにわかる。 「森くん」 「あっ、里中主任!」 声をかけると、森くんは振り向いてぱあっと笑顔になった。 「森くんの家、こっちの方なの?」 「いえ、ほんとは逆方向なんですけど」 「じゃあ、なんで?」 「あのですね、あそこの噴水」 そう言って森くんは真っ正面の大きな噴水を指さした。 水音と一緒に、その噴水は幾筋もの水の流れを作っている。 「もうすぐなんです。見ててください」 森くんは噴水から目を離さない。その目が、噴水の光を映し出してきらきら光っている。 ふいに、音楽が流れ始める。 それから、噴水の流れが変わった。 確か、この曲は「ダッタン人の踊り」。 きれいな旋律に合わせて水が何度も吹き上がり、くるくる回りながら弧を描き。 細かくはねる水の玉を、赤、黄、青と次々に色を変えるライトが彩る。 はあ、と溜息をついてうっとりと噴水を見つめる森くん。 「きれいでしょ?私会社で失敗とかした時にあれ見たらすっごく元気が出るんです」 にこにこしながら言う森くんに、そっか、と相づちを打って隣に腰かける。 「里中主任はこっちの方なんですか?」 「うん、そう。バスで20分ぐらいかな」 「そっかぁ」 踊る噴水を見つめながら、森くんは言葉を切った。 おれも森くんにならって、噴水に目を向ける。 …実はおれは、一時間ごとにこの噴水でこういうパフォーマンスがあることは知っていたんだけど。 税金の無駄遣い、としか思ったことなかったんだけど。 だから、気にとめたことなんて一度もなかったんだけど。 そっか、あれ、こんなにきれいだったんだ。 時折はねてくる細かいしぶきが冷たかったけど、今はそれがちょっと心地よかった。 「…やっぱり」 しばらくの沈黙のあと、森くんが口を開いた。 「やっぱり、迷惑なんですかね?」 「え?」 あまりにも小さい声だったから聞き返してみた。 でも、森くんはうつむいてしまって、言い直してくれる様子はなさそうだった。 …?あれ? 様子がおかしい。 突然。 本当に、突然。 さっきまでの穏やかな時間が突然終わったように思えた。 森くんの顔が真っ青になったように見えたからだ。 「森くん…?」 声をかけて、彼女の前に回ってみて、自分が間違ってなかったことが分かった。 森くんの息が荒い。荒くて、速い。 なのに、喉からはヒューヒューと空気が漏れる音。明らかに正常に息を吸えてない。 過呼吸。 「森くん!森くんっ、しっかり!」 紙袋!…なんて、持ってない。ビニール袋!…も、ない。どうする? なんだっていい。とりあえず乱れた呼吸を何とかするのが先決だ。 おれは森くんの後ろ頭を掴んで、森くんの顔を自分の胸に思いっきり押しつけた。 かなり苦しいのだろう、森くんはおれの腕を掴んできた。 「……聞こえる?慌てないで、ゆっくり息吐いて、ゆっくり、ゆーっくり……」 まだ森くんの息は荒い。肩が震えながら上下している。 「大丈夫、苦しくないからね?大丈夫だから…」 胸のあたりが微かに濡れる。たぶん、森くんの目から流れる涙だ。 「ゆっくりだよ、息全部吐き切って……吐いたらまたゆーっくり、吸うんだよ…」 森くんに聞こえるよう、ゆっくりゆっくり深呼吸する。 5分ほど続けたあと、…だんだん、呼吸が落ち着いてきた。 おれの深呼吸の音に、森くんの呼吸の音がだんだんと重なってくる。 もう心配ないみたいだ。おれは少なからずほっとして、森くんの頭を押さえつけていた手をゆるめた。 「………」 「…大丈夫?」 「……」 森くんは何も言わない。何も言わないで、うつむいている。 その真っ青な横顔と涙ぐんだ目を見ていると、胸が締めつけられそうになった。 「森くん、大丈夫?」 もう一度、聞いてみる。そしたら森くんが小さく頷いた。 「…ごめんなさい」 「…どうしたの?」 過呼吸の原因のひとつが、心因性によるものだ。って、別に詳しいわけでも何でもないけど。 ふざけて変な息の吸い方しても過呼吸にはなるけど、今の場合その可能性はゼロだし、 生まれつき過呼吸になりやすい人もいるけど、今まで森くんのそんな姿を見たことはなかった。 だから、おれには森くんを激しく動揺させる何かがあったとしか思えなかった。 …とそこまで思考を巡らせて、自分の馬鹿さ加減に頭を抱えそうになる。 森くんを動揺させる要因なんて、ひとつしかないじゃないか。 「今日…一ツ木さんとお話ししたんです」 案の定、森くんは更に下を向いてしまった。 長い髪で横顔が少しだけ隠れる。 けれど、震える声と肩で森くんの今の気持ちがすぐわかった。 「…契約、切るって」 「…うん…」 いや、「うん」って… もっと他に何かあるだろ。 そう思ってまた自分の馬鹿さ加減を呪っていると、森くんがそっと頭をあずけてきた。 うっすらと、涙を浮かべて。 でもそれは、こぼれるほどの重さは持たずにそっと瞳の側に溜まっている。 分かっていたことを本人の口から聞くのは、とても辛い。 自分は、あまりにも無力で。 どうにかしたい、なんとかしなきゃ、と思ってもその方法も分からなくて。 「……契約、切るって…言われちゃったんです……」 真っ赤になってそれ以上涙があふれてこないように頑張っている森くんの頭を、 おれは黙って撫でてあげることしかできなかった。 「…ごめんなさい!」 しばらくした後、森くんが突然頭を上げて身を離した。 濡れた瞳のままにっこり笑った森くんはベンチに座り直して空を見上げる。 「当然ですよね、私なんにもできないんだから」 「そんなこと…」 ないよ、と言おうとしたおれの言葉を遮り、彼女は続ける。 「最初っから失敗ばっかりだし、そのたびいっつも春子センパイや主任に助けてもらってたし」 「…森くん」 「いいトコなんかなんにもないんだから…だから、仕方ないんですよね」 ふんわりと笑った唇から紡がれるのは、あまりにも悲しい言葉ばっかりで。 なのに、それを努めて明るく声に出そうとする森くんを見ていると、胸がぎゅうっと音をたてた。 「…おれのせいだ…」 絞り出すような震えた声が口から漏れた。 いつの間にかうつむいていたけれど、森くんが驚いたようにこちらを見たのが分かった。 「…おれが、何もできないから……」 「えっ!?なんで!いっつも何でもしてくれてるじゃないですか!」 疲れてるときにコーヒー淹れてくれたり、 パソコンの入力手伝ってくれたり、 伝票の見方とか教えてくれたり…それに… こないだ地震が来たときなんか守ってくれたじゃないですか! っていうか、さっきだって過呼吸になった私のこと助けてくれたし! それから… あたふたと、おれが普段何をしてあげているのか必死で指折り数える森くんを見た。 たくさんのことを出しても出しても満足できないみたいで、もっともっと、と考えている様子だ。 …ほんとに、この子は真っ直ぐで、透きとおっていて。 彼女がいるだけで、マーケティング課の雰囲気はとても明るくなる。 小笠原さんや浅野なんか、森くんが笑うと本当に、本当にいい笑顔をする。 大前さんだってなんだかんだ言ってくっついてくる森くんのことを嫌がらないし。 近くんも、おれも、森くんが笑うだけでほっとするし、元気が出る。 確かに森くんはスキルも……だし、仕事も……だけど。 だけど、スキルとかなんかよりもっともっと、価値のある、見えないものを持ってる。 目に見えないものを、くれる。 たぶん、森くんは自分が何を他の人に与えているのか自分ではわからないんだろうし、 それを説明されたところで消化することも納得することもできないんだろう。 それでも、この子のもつ、人の心の中を温かくする力は変わることはなくて。 「彼女は、社風に合わない」 また桐島部長の声が頭の中に響いた。 おれが、企画者の名前を森くんにしたから? おれが、余計なことをしたから? だから、森くんが社風に合わない? …社風って、何だよ。 そんなことでこの子が傷つくのは、おれは絶対に許さない。 「あなたは森美雪を、守れますか?」 ちょっと種類は違うけれど、やっぱり透きとおった瞳をもつあの人の声が頭の中を流れた。 「…守る」 「はい?」 まばたきをして、不思議そうにおれの顔を見る森くんを見つめた。 大前さんはあの時、おれのことを「甘い」とバッサリ切ったけど。 確かに自分は甘いんだろうし、どうすればいいのかさっぱり浮かんでこないけど。 それでも。 「絶対、守るから」 驚いたような表情で黙っている森くんの瞳は、やっぱりさっきの噴水みたいに透きとおっていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |