流れ星に願いを(非エロ)
里中賢介×森美雪


―――S&F 営業ニ課

「森君、おはようございます」
「え、あ、しゅ、主任…!お、おはようございますっ!!」

森 美雪は、フロアに入って来るなり、今、まさに彼女の頭の中の役9割を占めている相手である里中に声をかけられ、心底驚いた様子だった。
相手の顔もろくに見ず、一息に挨拶を返す。そうして、壁際で体操する春子の姿を見つけるなり、急いで側に駆け寄り、小声で話しかけ始めた。

「春子先輩…!助けて下さい!もう…私、どうしたらいいか…」
「…体操中です。話しかけないで下さい」
「そんなこと言わないで助けて下さいよ〜、お願いします…!私、先輩だけが頼りなんです!」
「…自分で決めるように言ったはずです」

美雪の必死の呼びかけに対し、春子は聞く耳持たず、といった様子だ。里中主任のデスク側に背を向け、腰に手を当て、体操を続けている。
そんな中、東海林 武が出勤してきた。

「おう、賢ちゃん、おはよー!」
「――…あぁ、東海林さん。おはよう」
「ん?賢ちゃん、どうかした?元気ないな」
「え?…いや、そんなことないよ」


里中主任は明らかに元気がない様子だった。おおかた、先ほどの森 美雪の態度が自分のせいなのだと思い込み、独りで考え込んでいるのだろう。
そんな主任の様子を見た東海林 武は、恐らく、私が主任に何か言ったことが原因だと思っているのだろう。
彼の考えは容易に想像がつく。単細胞だからだろうか、自然と分かってしまうのだ。そうして案の定、背後に気配を感じる。もうすぐこちらへやって来る。
あと三歩…二歩…一歩――
そして、すかさず彼の歩み寄って来た方へ向き直り、その先の給湯室へ向かう。
東海林 武をからかえば、彼はきっと自分に突っかかって来る。そうすれば、森 美雪はもう私に相談ができなくなるだろう。
それは、森 美雪を1人にして、彼女自身と対峙させるためだった。頼りがなくなれば、彼女もきっとそれができるはずだ。

「な…、何だよ!急に振り返って!ビっ、ビックリするじゃねーか!」
「……」
「ちょっ、無視かよ!オイ、ちょっと!とっくり!聞いてんのか?!」

「せんぱぁい…」

美雪は、給湯室へ向かう春子の背に向かい、恨めしそうに呟くと、仕方なく自分の席に座った。
そして、意味もなく書類の整理を始めた。しかし、その動作は明らかに挙動不審だった。里中は里中で、そんな美雪の様子を心配そうに眺めていた。


「ちょっ、無視かよ!オイ、ちょっと!とっくり!聞いてんのか?!」
「…まだ就業時間ではありません」
「とっくり!お前、また賢ちゃんの傷付くようなこと言っただろ?!」
「…覚えがありませんが?」
「嘘をつけ、嘘を!だってほら、賢ちゃん、またあんな迷子の子犬みたいになっちゃってんじゃねーかよっ!!」
「……」

この男は本当に里中主任のことが心配なのだ。森 美雪のことは彼女自身の問題として、問題は里中主任だ。
あの人はすぐに何でも自分の責任として抱え込んでしまう。先ほどのことだってそうだ。でも、この東海林 武という男なら、主任の支えとなってくれるだろう。

「な…、何だよ?」
「邪魔です」

東海林の脇をすり抜けると、淹れ終えたコーヒーを持ち、自分の席へ戻る。

美雪は、今日ほど里中の席から最も遠い席でよかったと思ったことはなかった。
美雪の席は、春子の右隣、対面する東海林の席の前だった。つまり、里中と美雪は端どうしなのだ。
――と、春子が給湯室から戻って来た。美雪はそれを見るなり、すかさず、再び彼女にすがりついた。

「――っ…!ってまた無視かよ!オイ、ちょっと!とっくり!」

東海林 武の反論の声。

「先輩、少し!少しだけでいいんです!話を聞くだけでも――」

森 美雪のすがる声。

その時、絶妙のタイミングで就業時刻を告げるチャイムがフロア内に鳴り響いた。

「…就業時間です」

私はそう言い放ち、2人から逃れると、パソコン画面に向かい、書類作成を始めた。



―――cantante
深夜。
今日も、カレンダーに赤ペンで斜線を入れる。1日の終わる印。
そして、ふと窓の外を見る。

「…あ!」

一筋の流れ星が流れるのを見た。流れ星を見るのなんて何年ぶりだろう。願い事を3回唱えると願いが叶う、なんて非現実的だとは分かっていた。
だが、無意識のうちに森 美雪の幸せを祈っている私がいた。私が誰かの幸せを祈るなんて、考えられないことだった。そんな自分が何となくおかしかった。
そして次の瞬間には、不意に東海林 武の顔が思い浮かんだ。


【東海林 武 編】

―――S&F営業ニ課

今日も俺が出社すると、既に賢ちゃんたちが到着していた。

「おう、賢ちゃん、おはよー!」
「――…あぁ、東海林さん。おはよう」
「ん?賢ちゃん、どうかした?元気ないな」
「え?…いや、そんなことないよ」

そう言うと賢ちゃんは笑った。
賢ちゃんがそう言うなら、余計な詮索はしない方がいいんだろうけど…やっぱり親友だし、心配だ。

東海林は原因を探ろうと、さり気なく辺りを見渡してみた。壁際の方では、森 美雪が春子に対し、何やら里中の方をちらちらと見ながら小声で話しかけている。
だが、春子は春子で、そんな森 美雪の話を聞く耳持たず、といった感じで、相変わらずのいつもの変な体操をしていた。

…もしかしてとっくり か?あいつ、また賢ちゃんの傷付くようなことを言ったんじゃ――…

東海林は壁際で体操する春子に近づき、彼女に一言言ってやろうと身構えた。が、その瞬間、彼の気配を感じた春子は、急にくるりと東海林の方に向き直った。

「な…、何だよ!急に振り返って!ビっ、ビックリするじゃねーか!」
「……」

俺の反論を一瞥すると、無言のまま、とっくりは給湯室へ向かった。
無論、このまま無視される訳にはいかない。俺は少々ムキになって、とっくりの後を追った。

「ちょっ、無視かよ!オイ、ちょっと!とっくり!聞いてんのか?!」
「…まだ就業時間ではありません」

コーヒーを注ぎながら、“話しかけないで下さい”というように彼女が答える。
彼女の言葉を遮るように、俺は抗議を続ける。

「とっくり!お前、また賢ちゃんの傷付くようなこと言っただろ?!」
「…覚えがありませんが?」
「嘘をつけ、嘘を!だってほら、賢ちゃん、またあんな迷子の子犬みたいになっちゃってんじゃねーかよっ!!」
「……」

不意にとっくりが振り返り、至近距離まで歩み寄って来た。

怒った…のか?
俺は少し怯んだ。でも、それが彼女にバレないよう平静を装った。

「な…、何だよ?」
「邪魔です」

春子は東海林の脇をすり抜けると、淹れ終えたコーヒーを持ち、自分の席へ戻って行った。

「――っ…!ってまた無視かよ!オイ、ちょっと!とっくり!」

その時、就業時刻を告げるチャイムがフロア内に鳴り響いた。
「…就業時間です」
とっくりはそう言い放つと、パソコン画面に向かい、書類作成を始めた。
仕方ない。この話は持ち越しだ。

―――

その日の深夜。

俺と賢ちゃんは、フロアでビールを片手に語り合った。
S&Fに入社して依頼、俺たちは、どちらか一方が落ち込むと、自然とこうして語り合う習慣があった。まぁ、でも、俺が落ち込んで、賢ちゃんが励ましてくれる、というパターンの方が圧倒的に多いけど。

「賢ちゃん、何で今朝元気なかったんだよ?やっぱりとっくりか?またあいつに何か酷いこと言われたんだろ?可哀想に…」
「…え?あぁ、違うんだ」
「…違う?じゃあどうして?」
「実は――…森君の様子が変なんだ」
「――森 美雪の?」
「うん…。昨日の帰りもちょっと様子がおかしくて…。それに今朝あいさつした時にもぎこちなくて…。―…やっぱり昨日のことが迷惑だったんじゃ―…」
「…昨日のこと?」
「ほら…、昨日、部長のお見合い話を断るために、森君に彼女役になってもらったこと――」
「いやー、だからって。っていうか彼女、むしろ嬉しそうだったような―…?」
「明日、もう一度謝ってみるよ」
「そうか―…?ま、賢ちゃんがそう言うならいいけどさぁ」
「うん。心配してくれてありがとう、東海林さん」

賢ちゃんはいつでも、誰に対してもこうだ。真剣に向き合う。少しは肩の力を抜けばいいのに。肩凝るぞ。でもまぁ、それが賢ちゃんの良いところだ。
今日は俺も、少しぐらいは賢ちゃんの役に立てただろうか。“ありがとう”と言う賢ちゃんを見ながら、ふとそんなことを思った。

「あっ!流れ星…!」
「え!?ホント?」

窓の外には一筋の流れ星。

“賢ちゃんが早く元気になりますように”

俺はそっと心の中で願った。


【森 美雪 編】

―――S&F玄関
翌日。

「あの…!あの!すいません。これ、落としましたよ」
「え…?あぁ、すいません。ありがとうございます。」
「あ、いえ…」

正面玄関前で聞き慣れた声がした。私は、その声が誰のものなのかすぐに分かった。里中主任だ。
私の少し先を歩く主任は、女性の落としたハンカチを拾い、届けてあげていた。ハンカチの持ち主の女性から感謝され、
なぜか主任の方がはにかみながら、頭をペコペコ下げている。そしてその直後も、清掃カートを押しながらやって来た清掃員のおばさんに、
「どうぞ」と言ってエレベーターを譲っていた。
その光景を見て、美雪は、思わず優しい気持ちになった。


―――営業二課

就業時間になっても、私はどこか上の空だった。
昨日も今日も、春子先輩は相談に乗ってくれなかったし…。どうしよう…私、どうしたらいいんだろ…。
そんなことを考えていると、ふいに背後から声がかかった。
里中主任だった。

「森君、あの…ちょっといいかな?」
「…は、はい」

主任は、少し緊張した面持ちで私を呼ぶと、給湯室へ向かった。私もその後に続く。

何だろう… どうしよう…
主任は私に何を言うつもりなんだろう…
一昨日のディナー以来、私はまともに主任の顔を見ることができなくなっていた。何となく少し気まずい。


「ごめんなさい」

が、投げかけられたのは全く想定していない言葉だった。

「…へ?」

私は思わず、きょとんとして直立不動になってしまった。

どうして主任が私に謝ってるの?むしろ、謝らないといけないのは私の方なのに…
私は、この間のことが何となく恥ずかしく、結果的に主任を避けてしまっていた自分を思い返した。


「やっぱりこの間のこと、迷惑でしたよね?ごめんなさい。だから森君、昨日も様子が違ったんですよね?部長には僕からちゃんと言っておきますから――」
「あ、あの…!違うんです!」
「…え?」
「迷惑というより、むしろ夢のようというか…。いや、そうじゃなくて…―――あのッ…!…私、主任のこと――」

「里中君〜?ちょっと、どこ行ったのー?あ、いたいた!里中君、予算の見積なんだけど――ここの集計間違ってない?」

美雪が何事か言おうとした瞬間、現マーケティング課主任の黒岩 匡子がやって来た。手には書類を持っている。
主任は“少し待っていて下さい”という様に、私の方を申し訳なさそうに見た。

「…え?あぁ、どこですか?」
「ほら、ここ。東海林君の企画で疲れてるのは分かるけど――しっかりしてよー?」
「すいません…」


黒岩さんと主任のやりとりが聞こえる。
予算の見積――…昨日私が作った書類だ。
謝らなくちゃ

そして、美雪が2人の元へ向かおうとした時、ちょうど話が終わり、主任が給湯室へ戻って来た。

「すいません、主任!あの書類、私のミスなのに――…」
「…え?」
「だってあの見積の書類、私が作ったものですよね?」
「あぁ、違いますよ。あれは僕のミスです。最終確認するのは僕なんですから。気付かなかった僕の責任です」

主任は少し困ったように微笑みながら応えた。どうしていつも主任は他人のためにこんなにがんばるのだろう。優しくするのだろう。
その時、ふと今朝の正面玄関でのことを思い出した。
そうだ。主任はいつでも、誰に対しても優しいのだ。“私にだけ”でなく、誰にでも――

「…主任は誰に対しても優しすぎます」

気付いたときには、その言葉は口に出ていた。その言葉に自分自身でも驚く。

「…あ、すいません!あ、あの、私、資料室行って来ますね!」

逃げるようにして近くの女子トイレに駆け込み、洗面台の鏡の前でへたり込む。
またやっちゃった…。主任、きっとまた変に思ったよね…。

「今ので確実に嫌われちゃったよねー…私のバカ」
「そうね」

独り言のつもりの言葉に、予期せず返事が返って来た。声のした方を見れば、女子トイレの入口に大前 春子が立っていた。

「…春子先輩」
「まだ業務時間中よ。さっさと席に戻りなさい」
「嫌です…戻れません。だって私――」
「じゃあいつまでもここでそうやってるつもり?」
「それは――…」

そんな事ができるはずないことは分かっていた。でも…

「里中主任がどういう人なのか、あなたが一番よく知ってるはずよ」

そう言うと、春子先輩は歩み去って行った。その背中は、“あなた次第よ”と言っていた。

目の前の鏡を見る。そこには、情けない自分の顔が映っていた。
このままじゃダメだ。行動しないと何も変わらない。

「――よし…!」

頬を両手でパンっと叩くと、私もその場を後にした。


―――

フロアに戻ると、心配顔の里中主任と目が合った。

「…あ、森君。あの…」
「あ、主任。私、資料室でこんなの見つけたんですよ。ほら、これ」

まるで先ほどのことがリセットされたかのように振る舞う。
里中は一瞬、美雪の振る舞いに驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの調子で美雪に話し始めた。

「――秘伝のフルーツソース…ですか?」

美雪の差し出した過去の資料を見ながら里中が応える。

「はい!米ケーキに使えるんじゃないかな、と思って。でも、どんな味なんでしょうね〜?」

「“秘伝”って言うぐらいだからさ、きっとすっごく美味しいんじゃないですか?」
「単純だな〜、お前」

浅野さんと東海林チーフも交じる。いつもの会話。主任も笑っている。
私は少し安心した。

「材料は――砂糖、豆乳にバナナ、金時豆に―…味噌?!」
「みっ、味噌ォ?!」
「いや〜、味噌はナシでしょー?ねぇ、森ちゃん?」
「そうですよねー…、味噌はちょっと…」

「合いますが、何か?」

「…え?」

一斉に、みんなの視線が春子の方に集まる。

「とっくり!おまっ、味噌だぞ?!フルーツソースに味噌はねぇだろ?お前、いくらサバ味噌が好きだからってそれはねーよ。
なぁ、賢ちゃん?」
「うん…、僕も食べたことないから分からないけど…どうなのかな…?
あ、でもほら。味噌も豆からできてるんだし、そら豆や豆乳で豆つながり――ってことで意外と合うんじゃないかな?」

東海林の問いかけにより、正面から春子の視線を浴びる里中。言葉を選びながら曖昧に応えた。まるで猫に気を使う小型犬である。

「開発者の私が言うんですから、間違いありません!」
「… 開発者ぁ?!お前が?」
「大前です」
「ハッ、嘘つけ!そんな訳――」

「あ!ホントだ!ほらここに、大前さんの名前が…!」
「…確かに。書いてある。ほら、東海林さん、ここ」
「……マジかよ」

東海林はやや前のめりになりながら、浅野と里中に促されるままに、資料を見、次には春子を見上げた。

「で、でもどうせさぁ、ボツ案だろ?それ」

悔し紛れにそう言うも、東海林の言葉はすぐに浅野の言葉によって覆された。

「…いえ。このソース、商品化…されてます」
「え?商品化?!すご〜い!さすが春子先輩ですね!」
「すごいですね、大前さん」

「で、でもさ!今、そんな商品ないじゃん?ってことはさほど売れなかった、ってことだろ?
――まぁ、しょうがないよなぁー?やっぱり味噌じゃあ客は買わないよなー?」

得意気に、ニヤつきながら言う東海林だったが、またしてもその発言は一瞬にして覆された。大前 春子によって。

「そのソースはパン工房と共同で企画された“期間限定品”です。
初めから売り出す期間が決まっていましたが、それが何か?…トウカイリンチーフ?」
「…トウカイ…―って俺のことかよっ!分かんなかったよ、今!っていうか、音読みすんなよ!」

「――あれ?でもこの日付、5年前になってる…。間違ってますよね?」
「5年前にもこの会社で3ヶ月間派遣をしていましたが、それが何か?」
「えぇえー?!そうなんですか?」
「5年前…っていうと、東海林さんと僕はいたはずですよね」
「私はその頃、霧島部長のいた総務課担当で、奥の部屋で1人仕事をしていました」
「なるほど。だから会わなかったんですね」

里中の問いかけにこくり、と頷く春子。

「――あ、ということは、部長の弱みとか握ってたりするんですか?」
「…霧島部長とは長い付き合いになりますから」

浅野の質問に一瞬、間を置くと、春子は意味深に言葉を濁した。

「…大前さんって、やっぱすごいですよね」

浅野が感心したように呟く。里中も美雪も頷きながら、その言葉に同意を示した。

「…だ、だから何だって言うんだよ?!それはそれ、これはこれ、だ!
俺は味噌入りのフルーツソースなんて認めねぇからな…!」
「そういうセリフは試食してから言って下さい」
「あーぁ、いいぞ?望むところだ!食わせてもらおうじゃねーか!」

「それじゃあ一度、試食してみましょう。大前さん、作ってもらってもいいですか?」
「…分かりました」
「ありがとうございます。じゃあ僕は、調理室の使用許可もらって来ますね」
「どんな味か楽しみだな〜。ね、森ちゃん?…森ちゃん?」
「――え…?あぁ、そうですね」

気付けば、私はずっと主任を目で追っていた。浅野さんの問いかけで、ふと我に返る。
主任は、いつもの様に優しい笑顔で笑っていた。これで普段通り、元通りだ。
でもその一方で、“いつも通り”に戻りたくない自分がいた。

―――

【東海林 武 編】

それから2日後。
―――調理室

調理室へやって来るなり、東海林と春子は、お馴染みのやり合いを始めた。

「さぁ、作ってもらおうじゃね〜か」
「……」

とっくりはじっと俺を眺める。
目が怖いんだよ、目が…!

「…な、何だよ!」
「もしこのソースが美味しかったら――腹踊り、して下さい」

予測のつかないとっくりの言葉に少し驚いた。ってか、腹踊りってなんだよ!

「はぁ?!何で俺がそんなことしなきゃなんねーんだよ!」
「…自信がありませんか?」

図星を付かれ、俺は少し動揺した。
この女の料理が不味い訳がないと、どこかで思っている俺がいた。それがなんだか悔しかった。
なにせ、とっくりは「スーパー派遣」だからな。でも、ここで引き下がる訳にはいかない。俺も男だ。

「…あ、ああ、あるよォっ!いいよ、分かった!やりましょー?そこまで言うなら!腹踊りでも逆立ちでも!その代わり、もし不味かったら、お前には1日俺の言うことを聞いてもらうからな!」
「…分かりました」

とっくりは不敵な笑みを浮かべると、厨房に立ち、手際よく調理を始めた。
そして僅か20分足らずで、パウンドケーキと、その上にかける、本日の主役であるフルーツソースを仕上げた。


「…どうぞ」

目の前に綺麗に盛り付けられたケーキが出された。
ヤバい、美味そうじゃねーか…!
そんな動揺を悟られないように、俺は平静を装いながらフォークを手にした。

「…いただきます」

東海林が恐る恐る口にフルーツソースを含む。その動作は極めて慎重だった。

「――…どう、東海林さん?」

みんなの視線が俺に集まる。しばしの沈黙。緊張が走る。

…美味い!

でもここで「美味い」と言ったら、俺は腹踊りだ。しかもとっくりに1日、俺の言うことを聞かせる計画が潰れてしまう――…。いやいや、よく考えろ、俺!嘘はいけない、嘘は。そんな事したら、みんなを裏切ることになる。いや、でもなー…。
ちらっとみんなの顔を見る。 …期待されてる。 んー… ……

「………美味い」


葛藤の末に俺は応えた。蚊の鳴くような声で。瞬間、沸き起こる歓声。
勝ち誇ったかのようなあいつの顔は満足げだった。

「…約束通り腹踊り、して下さい」
「分かってるよ!やりゃーいいんだろ?やりゃー!」

そう言って、俺が上着とシャツを脱ぎ始めると、突然調理室のドアが開いた。そこには、2人の女子社員が直立不動で立っている。俺は俺で、ボタンに手をかけたままの姿勢で静止している。
あまりに突然のことだったため、俺は状況を理解するのに2、3秒かかった。

「――っ…キャーーッ!!」
「変態ー!!」

「…ちょっ、違うッ!違うんだ!これは、腹踊りをするために――…!え、あ、ちょっ…!」

必死に状況を説明しようとする東海林だったが、女子社員たちは聞く耳持たず、走って逃げていってしまった。
その後数日、そんな東海林の噂がたったのは言うまでもない。

―――

【大前 春子 編】

―――Cantante

その日の夜。
営業二課の面々はCantanteにやって来ていた。春子のフルーツソースが
米ケーキの材料として採用されたことのお祝いをするためだった。
テーブル席には里中と東海林と浅野が、カウンター席には美幸と小笠原が、それぞれ座っていた。
春子はカウンターに立っている。

「それでは大前さんのソースに、乾杯〜〜!!」
「乾杯〜〜!」

「どうしたんですか、春子先輩?せっかくのお祝いなんですから、ほら、ね?グラス持って下さい」
「そうだよ〜、春子ちゃ〜ん」
「…祝ってほしい、と言った覚えはありません。こういうことをされるのは、はっきり言って、迷惑です。
…それから、小笠原さんが何故ここに?」
「あ、バレちゃった?」
「正面玄関のところで一緒になって。せっかくだから、ってことでお誘いしたんです」
「いいじゃねーか!ねぇ、小笠原さん?さ、飲みましょ飲みましょ、ね?」

東海林 武がグラスを片手にカウンターへやって来た。今日の調理室での一件のせいか、いつもよりも飲むペースが早い。
彼の言葉を借りれば、“飲まなきゃやってらんねー”という感じだ。彼は小笠原さんの右隣の席に座ると、
自らのグラスを小笠原さんのグラスに合わせ、小さく乾杯した。

一方、小笠原さんの左隣の席の森 美雪は、先ほどまでの笑顔とはうって変わり、浮かない表情をしている。
彼女は、私が見ているのに気付くと、慌てて笑顔を作った。
大方、里中主任のことでも考えていたのだろう。彼女は、ここのところ空元気だった。
でもそれは、周りに心配をかけないための彼女なりの頑張りなのだろう。少なくとも浅野と東海林は気付いていない。
私たちは、フルーツソースの件で、店舗調査に出ることになっていた。そのため、昨日はほぼ1日中、外回りだった。
そのせいもあってか、彼女は主任と顔を合わせる機会がほとんどなかった。

「大前さん、ソースの件、ありがとうございました」
「…私はお時給の分の働きをしたまでです」
「もー、大前さん素直じゃないんだからーー…すいません」

お酒の力を借りて、気が少し大きくなっている浅野を目で制す。

「それから森君も、ありがとうございました。」
「…え?私…?あ、いえ、私は何もしてません。全部、春子先輩のお陰ですよ」
「ソースのアイディアになる資料を探してきてくれたのは森君ですから。」
「主任…」

切なげに里中を見つめる美雪。その横顔を見ながら、小笠原は何やら気付いた様子だった。

「…それじゃあ、僕はそろそろおいとましようかなー」

小笠原さんが席を立つ。軽い口調とは裏腹に、いつになく、どこか真面目な顔をしている。

「え?もう帰っちゃうんですか、小笠原さん?」
「…うん。あんまり遅いと、女房が寂しがるから」

美雪が寂しそうに言うも、小笠原はコートを羽織り、身仕度を整えた。
それは、飲み会が大好きないつもの小笠原からは想像もつかないことだった。

「じゃあ僕、送っていきます」
「いや、里中主任に送っていってもらうわけにはいかないよぉ〜。今日はね、浅野君に送ってもらうから、ね」
「えぇ?!俺ですか?」
「それじゃあ、また明日〜」

小笠原さんがちらりと私の方を見て、軽くウインクした。おそらく“後は頼むよ”と言っているのだろう。

「え?ちょっ、ちょっと待って下さいよ!小笠原さん!あ、お疲れ様でした!!」

Cantanteを後にする小笠原。その後を、訳が分からずに追う浅野だった。

なるほど――。ナマコ先輩も、たまには気が利くようですね。

「どうしたんだろ、小笠原さん…」
「ん?――あぁ、あいつに人生の何たるかを教えてやってるんじゃねーの?さっすが、小笠原さんだな」

カウンター席から、テ―ブル席の里中に向かって東海林が応える。

「こっち来いよ、賢ちゃん。ほら、ここ、な。一緒に飲もう」
「うん…」

小笠原の席が空いたため、里中はグラスを持ってそこに移動してきた。
そうすることにより、必然的に美雪は、里中の左隣になった。突然のことに絶句する美雪。
それは、現在の美雪にとって耐えきれないほどの緊張を意味していた。

「そ、それじゃあ私も――そろそろ帰ろうかな…。みなさん、お疲れ様でした。」

いたたまれなくなったのか、里中が席に付いてから、ほんの僅か2、3分で美雪は席を立った。
そして、深々とお辞儀をした。そんな美雪を、里中はじっと見つめる。

「あれ?キミも帰るの?」
「はい。明日の朝、寝坊しちゃうといけないので…」

美雪は東海林の問いかけに、困ったように笑って応えた。

「春子先輩、お会計お願いします」

森 美雪は笑顔で言った。でも、私はその顔に覚えがある。それは、泣きそうなのを必死に我慢する時の顔だった。

「それじゃあ、また明日。お疲れ様でした」
「あぁ、お疲れー」

会計を済ませると、美雪は足早に店を出ようとした。

――その時だった。

「森君、送っていきます」

「…え?」
「さ、行きましょう」

戸惑う森 美雪をよそに、その時の里中主任はいつもとは違い、少し積極的だった。
急いでコートを着ると、私に、お会計を頼んだ。

「えー…、賢ちゃんまで帰っちゃうのかよー?あ、そうだ!俺も付いて行って、後で飲み直そっか?よーし!じゃあ俺も帰ろ」
「…東海林チーフ、相談があるので残って下さい」

私は、すかさず東海林 武を引き止める。
この単細胞男。全くどこまで空気が読めないのだろう。やっぱり犬以下だ。

「…え?相談?お前が…俺に? ――ま、まぁいいや。
じゃあ、賢ちゃん。そういうことでさ、ごめん。俺、残るわ」

東海林 武はどこか嬉しそうだった。しきりにちらちらとこちらを伺ってくる。

「うん…。じゃあまた明日ね、東海林さん」
「おう、じゃあな」

そうして、森 美雪と里中主任は店を後にした。
私は私で、目の前に嬉々として座る、くるくるパーマ男の相手に追われることになった。
森 美雪と里中主任を2人にするため、ついこの男を引き止めてしまった。
私としたことが――…

―――――

【森 美雪 編】

夜中。
人通りの少ない路地。
Cantanteを出て、私はなぜか、里中主任と2人で歩いていた。
靴音が響く。
さっきから一言も会話がない。何だか少し気まずい。
えっと…どうしてこんなことになったんだっけ――…?と、とにかく何かしゃべらなきゃ。


「森君」
「へ?あ、ハイ」

私が話しかけようとした当にその時、逆に主任に話しかけられた。突然のことに驚き、素っ頓狂な声で返信をしてしまった。

「この間からずっと考えてたんです。森君のこと――」
「――はい……っえ?!わ、私のことッ?!」

主任が私のことを…?!
驚いて、思わず聞き返してしまった。

コクリと頷くと、主任は話を続ける。

「ほら、森君この間、僕は“誰にでも優しすぎる”――って言ってくれましたよね?」
「すいませんでした…!…私、失礼なこと――」
「いえ、感謝してるんです。僕はあの言葉で気付いたんです。僕が動くことで逆に傷付く人もいるんだ、って。…すいませんでした。僕は森君の仕事を奪ってしまっていました」
「主任、そんな…謝らないで下さい!悪いのは私なんです!私が勝手にヤキモチ焼いて言っちゃっただけですから!だから――」
「…ヤキモチ?」
「…あ、いや。えっと…それは――」

しまった。私ったら、どさくさに紛れて何言っちゃってるの?!もう!私のバカ〜!
何とか言い訳しようと顔を上げると、ちょうど真正面の里中主任と視線がぶつかった。

…ダメだ。こんなに綺麗な目でじっと見つめられたら、もう逃げ場はない。嘘はつけない。

「―…好きです、里中主任のこと」

里中は一瞬驚いたような表情をしたが、次にはいつもの笑顔に戻った。

「ありがとうございます。…僕も好きですよ、森君のこと」

――ウソ?!主任も私のこと――…?
夢みたい…。

「それに信用もしてます。東海林さんも大前さんも、浅野君も。それから小笠原さんも。」

そう言うと、里中は優しく微笑んだ。

「え…?みんなも…?」

ということは、これは「love」ではなく、「like」という意味の好き…ってこと?

「はい。みんな大好きで大切な仲間です」

主任は、無垢な笑顔でそう言った。
大好きで大切―…か。

「そうですね…」

どうしてだろう。主任の言葉1つで、こんなにも幸せな気持ちになれる。
私は驚くくらい穏やかな気持ちだった。

まぁ、いっか。今日はダメでも、またいつか絶対、里中主任に伝えよう。

美雪は空を仰ぎ見る。
火照った頬を掠めていく風が冷たくて気持ちいい。
空には半月が浮かんでいる。
満月まではあと半分。
何だか私と主任の関係みたい。…少しは進展してる…よね?気持ちも伝えたし。

…まぁ、主任にはちゃんと伝わってなかったけど。でも、少し変われた気がする。
上手く言えないけど、積極的に動けるようになった…というか。成長できた。


「あ、流れ星…!」

美雪の目線の先に、一筋の流れ星がすっと伸びる。見つけたことが嬉しくて、私は思わず子供のようにはしゃいで言った。

「え?!」
「ほら、あそこです!あ〜…、もう消えちゃいました。流れ星ってほんと一瞬ですよね」
「そうですね。実は僕、この間も見逃しちゃったんです…流れ星。見たかったな…」

残念そうに微笑む里中主任。
流れ星、見せてあげたいな…。

その時、私はあることを思い出した。

「そうだ!主任、見れますよ、流れ星!」
「…え?」
「確か今度、オリオン座流星群が来る、ってニュースで言ってました!!」
「ホントですか?!」
「はい!流星群ならたくさんの流れ星が見れますね!」
「そうですね。それで、いつなんですか?その流星群が来る日って」
「12月24日のクリスマスイウ゛です!」
「24日――米ケーキの販売最終日ですね。あ、せっかくだから、仕事の後、一緒に見ましょうか。みんなで」
「…みんなで。はい、そうですね」

正直なところ、私は、“2人で見ましょう”と言われるのを期待していた。そんな自分が何となく恥ずかしくて、それを悟られないように、続けて同意した。

「…あ、すいません。クリスマスだし、みんな予定がありますよね?」

美雪の同意までに少し間があったため、里中はその原因に思い当たった。

「い、いえ。予定なんてないです!ホントに」
「大丈夫ですよ」

主任は少し寂しそうに、でも、優しく笑った。

私は立ち止まった。主任が何事かと心配し、振り返る。

「私は…主任と一緒に見たいです!…流れ星」

気付けば口走っていた。


【大前 春子 編】


数日後
―――Cantante

午後10時35分
その日、里中 賢介はひとりで店にやって来た。

「…こんばんわ。ここ、いいですか?」
「…どうぞ」

彼は律儀に、カウンター席に座ってよいか私に尋ねると、そっと腰掛けた。
きっと何か私に話すことがあって来たのだろう。彼がひとりでこの店に来るときは、いつも決まってそうだったから。
だが一つ、いつもと違っていたのは、今日の里中主任はどこか落ち付かずそわそわしている、ということだった。
話の内容はだいたい検討がついたが、私は主任が話し出すのを待った。
グラスにアイスピックで削った氷を入れ、水を注ぐ。それを差し出すと、主任は“ありがとうございます”と言ってひと口飲んだ。
それを契機に話す決心がついたのか、彼は真剣な表情になった。

「大前さん…、大前さんは森君のこと――どう思いますか?」
「…は?」
「あ、いえ…。ちょっと聞いてみただけです。すいません」

主任は困ったような顔で笑った。
仕方ない、今日は付き合うことにするか…。私は彼の質問に応えることにした。

「――…無鉄砲で天然。マヌケ。ドジ。…でも、一途な人間だと思います」
「…そうですね」

里中は一瞬驚いたような表情をしたが、次には美雪の姿を思い浮かべるようにして、優しく微笑んだ。そんな里中の様子を春子はじっと見つめる。
主任は恐らく森 美雪のことについて、無自覚なんかじゃない。無意識のうちに自分自身を制御して、気付かないフリをしているだけだ。
主任と森 美雪がどうなろうと、私には全くもって関係のない話。でも――…

「…あなたにとって、森 美雪とは何ですか?」
「何…って――もちろん大切な仲間です」
「…では、あなたは“彼女の何”ですか?」
「え…?それは――…」

口ごもる里中。

「…主任。あなたは以前私に“自分のことが一番分かってないのは私”だと言いました。でもその言葉、今のあなたにそっくりお返しします」

そう言うと、私はカウンターの奥の部屋へ引っ込み、主任の前から姿を消した。

…私としたことが。

少し立ち入り過ぎた。いつからだろう。こんなふうにもう一度、他人の事情に介入するようになったのは。
主任は今、恐らくカウンター席で、また迷子の子犬のような顔をしているのだろう。でも、もうこれ以上は私がどうこう言うべきではない。主任が自分で判断すべきことだ。

「……」

春子が去った後、案の定、里中は少しうつむき、困ったような顔をしていた。迷子の子犬のような顔。
静かに、自覚という名の花の蕾がほころび始めていた。


【里中 賢介 編】

深夜。
その日、東海林さんと僕は、残業していた。とりあえずの仕事の目途が付き、缶ビールで乾杯する。

「くーーっ、うまい!」

東海林は美味しそうにのどを鳴らす。
一方里中はといえば、昨夜、春子に言われたことを思い返していた。

「ん?賢ちゃん、どうかした?」

黙り込む里中が気になり、東海林が訊ねる。

「…東海林さん」
「ん?」
「東海林さんにとっての僕って、何なのかな?」
「…あ?何だよ、賢ちゃん。恋人がするような質問しちゃってさぁー。…あ、あいつか!またとっくりに変なこと言われたんだろ?」

東海林の言葉に、里中は、たっぷりと間を置いて応えた。

「…分からないんだ。今まで人からどう思われてるかなんて、あんまり考えてこなかったから…」

正直に言えば不安だったのかもしれない。東海林さんが僕のことをどう思っているのか。自分は今まで親友だと信じて疑わなかったから。
でも、そう思っているのは、もしかしたら僕だけなのかもしれない…。大切に思う人であるだけに、不安になってしまう。
だが、彼の答えはもっとシンプルなものだった。

「――決まってるだろ?親友だよ」
「東海林さん…」
「でもさ、別に他人からどう思われようがいいんじゃねぇの?たとえかっこ悪くてもさ、それが俺の生き方なら俺はいいと思ってる。

大事なのはさ、“自分に正直に生きる”ってことなんじゃないかな。…な〜んて、ちょっとクサかった?」
東海林さんは話し終えると、おどけて笑った。でも僕は、その言葉に救われた思いだった。
自分に正直に生きる…か。

「…ありがとう、東海林さん」
「何だよ賢ちゃん、そんなマジな顔してー。照れるからやめろって。ほら、な、飲も飲も。」
「うん」

僕は答えを見つけたような気がした。そして、少しぬるくなった残りのビールを一気に飲み干した。


【森 美雪 編】


―――12月24日 クリスマスイウ゛

今日はいよいよ米ケーキの販売最終日だ。ケーキは、クリスマスの一週間前から、営業ニ課の東海林チーフ率いるプロジェクトチームで販売している。
売れ行きは好調。でも今日は、人気ブランド ペティットの指輪が抽選で1つケーキの中に入る日ということもあってか、いつもの3倍ぐらいのお客さんで大忙し。会場はごった返していた。

春子先輩は、今日もウグイス嬢として、お客さんを集めている。やっぱり先輩はすごいなぁ〜。

「今日は、年に一度のクリスマスぅ〜。恋人と食べる甘ぁい苺ケーキ、家族と食べるだんらんマロンケーキ、ひとり会社で食べるツラぁい不景気〜…」

春子はそこまで言い終えると、少し離れた位置からこちらを見ている東海林を睨んだ。また親父ギャグだ。東海林は、そんなのお構いなしに、にこにこしながら春子の方を見ている。


「森君、そろそろ休憩して下さい」
「ハイ。あ、でももう少し。もう少ししたら休みます」
「無理しないで下さいね」

主任は私に微笑むと、去っていった。
あの笑顔だけで、私の疲れはどこかへ飛んでいってしまった。

春子は、いつもより張り切っている美雪の様子を見て、今日の美雪の予定を察した。そして一言“分かりやす…”と呟くと、口の端を少し緩めた。


―――

夕方、5時40分

すべてのケーキを売り終え、みんな充実感に満ちた顔をしている。

「みなさん、本当にお疲れ様でした」
「何かやりきった、って感じですよね」

主任と浅野さんは嬉しそうだった。

「ホント。大盛況でしたね」

もちろん私も嬉しかった。2人に同意し、応える。

「それじゃあ今日はみんなでパーっと打ち上げでもいきますかーっ!?」
「あ、いいですね!行きましょう!」

東海林チーフが言った。浅野さんも乗り気だ。
どうしよう…。確か、ニュースでは、オリオン座流星群は7時過ぎごろから徐々に流れ始めて、8時にはピークを迎えるって言ってたし―…
なんとか間に合うかな?でも、打ち上げをしてたら途中ではなかなか抜けられないだろうし…

「今日はクリスマスイウ゛なので、うちの店は休みですが、何か」

私がひとり、頭の中でぐるぐると考えていると、春子先輩が助け舟を出してくれた。

「クリスマスなのに休み、って…そんなことある訳ないだろ!かき入れ時だぞ?!かき入れ時!
あ、とっくり。お前、俺たちがまた店に行って騒ぐのが面倒だからそんなこと言ってんだろ?!」
「…それが何か?」
「やっぱりそうか!店、開いてんじゃねーかよ!」
「…それだけ分かってるなら来ないで下さい。迷惑です」
「かー…!!こいつと話してても埒があかねぇー!おい、賢ちゃん、乗り込むぞ!」

東海林がコートを羽織り、鞄を小脇に抱えて里中を促す。だが、里中は困り顔だ。

「…あの…東海林さん、ごめん。今日はちょっと予定があるんだ」
「え、予定?」
「あれ〜?主任、デートですか?」

浅野がにやけながら尋ねるのを、里中は困ったような微笑みでやり過ごす。
そんな浅野を東海林が制す。

「あのな、賢ちゃんが予定っつったら家族に電話するとか、何かそんなのに決まってるだろ?」
「…ですよね」
「それにしても賢ちゃんがいないんじゃあなぁ…。じゃあ打ち上げはまた後日、ってことにするか。な?」
「そうしましょう!みんな揃ったときの方がいいですよ!」

ここぞとばかりに私は東海林チーフに同意した。ちょっとわざとらしかったかなぁ…?

「…そうですね、そうしましょう」
「よし、じゃあそういうことでっ!」

結局、打ち上げはまた後日、Cantanteで行うことになった。最も、春子先輩はそれに納得してなかったみたいだけど…。

「それじゃあ、また明日」
「お疲れ様でした」

「森 美雪!」

みんなに挨拶をして、コートを羽織ろうとした瞬間、私は春子先輩に呼び止められた。

「…?はい」

先輩は私に歩み寄って来る。

「…後ろ」
「へ?」
「後ろを向きなさい!」
「は、ハイっ!」
「…コレ。付いてました」

先輩は白い糸くずを摘んで見せた。

「あ…、ありがとうございます」
「じゃっ」

そう言うと、春子先輩は回れ右をして歩み去って行った。

「おっ、お疲れ様でした!」

私は、その後ろ姿に挨拶を返した。

「それじゃあ、行きましょうか?」
「ハイ」

そして、主任と連れ立って歩き出す。
もうそれだけで嬉しくて、心臓の鼓動がいつもの2倍くらい早くなっているのが分かった。

―――

腹が減ってはなんとやら。
私たちは、星を見る前に夕食をとることにした。さすが、クリスマスイウ゛。ガラス張りの店内の様子を外から眺めるも、どの店も混み合っている。

「どこも混んでますねぇ…」
「クリスマスイウ゛ですからねぇ…」
「とりあえず、中に入りましょうか」
「そうですね」

美雪たちは、近くのレストランに入った。親子連れやカップルの客が多い。
順番待ちの名前を記すメモには、既に8組ほどの名前が書き込まれている。そして顔を見合わせると、9組目の客となることにした。

―――
40分待ちの末、私たちはその約半分の時間で夕食を済ませ、レストランを後にした。
そこから小走りで約30分。
私たちはようやく目的地に到着した。

午後7時48分
美雪たちの頭上では、もうオリオン座流星群がピークに近づいていた。

「やっと着きましたね」

裏路地にある古いビルの屋上。
そのビルは8階まであり、それぞれの階に、弁護士事務所やヨガ教室などが入っていた。屋上への入口の扉は、鍵が錆びついて壊れているため、
誰でも簡単に立ち入ることができた。それほど高いビルという訳ではなかったが、星がよく見える。
この辺りは、商店街が近くにあり、それらはいつも8時には店を閉めていた。だが、今日はクリスマスイウ゛ということもあり、
いつもより早く店を閉めたようだった。そのため人通りは少なく、灯りといえば、ほんの申し訳程度に、街路樹の枝に青と白の電球の飾りが巻きつけてあるくらいだった。

「すごい…、東京にも星がこんなに綺麗に見える場所があったんですね」

里中は上を向いたまま、ポカンと口を開け、感慨深げにそう言った。
そんな里中の横顔を見ながら、美雪は微笑む。

「私、このビルの1階にあるパン屋さんによく来るんです。特に食パンがふわふわで美味しいんですよ」
「そうなんですか。それじゃあ、僕も今度買いに来ようかな」

主任が嬉しそうでよかった…。
美雪は、そこに設置されていたベンチに腰を下ろす。

――と、主任がくしゃみをした。

「どうしよう…すいません。もっと温かいところにすればよかったですよね。あ、そうだ!私、ひざ掛け持って来たんです。よかったら使って下さい」

美雪は鞄から、ひざ掛けを取り出すと、それを里中に差し出した。

「え、いや、いいですよ。僕なら大丈夫ですから。森君が使って下さい」
「ダメですよ。主任が風邪引いちゃったらどうするんですか?!」
「…それじゃあ、2人で使いましょうか」
「へ…?」
「迷惑…でしたか?」
「い、いえ!そんな…!」

里中は美雪の隣に座り、ひざ掛けを受けとると、少し美雪の側に多めになるようにそれを掛けた。

「寒くなったらいつでも言って下さいね。すぐに返しますから」
「いえ、私なら大丈夫です。――というか、何だかさっきから背中が温かいような気が…?」

背中をさすると、何かが貼り付いていた。

「あれ?カイロ…。私、カイロなんて貼って来なかったのに、どうして…
――あっ!あの時!あの時、春子先輩が付けてくれたんだ…!」

帰り際、春子先輩は糸くずを取るふりをしてカイロを貼ってくれたんだ。

「大前さんらしいですね」
「そうですね」

私たちは何だか可笑しくて、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。


【東海林 武 編】

―――12月24日 クリスマスイウ゛

クリスマスといえばケーキ、ケーキといえば米ケーキ。今日は米ケーキ販売の最終日。大忙しで、嬉しい悲鳴だ。
さすが、俺たちの企画。ま、もともと考えたのは俺なんだけどね。――ん?ってことはアレか?俺がスゴいってことか?!
そんなことを考えながら、東海林は1人、にやにやしていた。端から見ればちょっとした不審者だ。

「邪魔です。ぼーっとなさるのはあなたの勝手ですが、どこか人目につかないよそでやって下さい。会社の品位が疑われます」

とっくりだった。サンタクロースの衣装を着ている――というより、着せられている。正確には俺が着るように指示したのだった。
その衣装が気に入らないらしく、あからさまに不満顔だ。

「俺に品がねぇーって言うのかよ?!だいたいな、そんな格好したやつに言われたかねぇーんだよ!」
「こんな格好をしろと指示したのはあなたですが、それが何か?」

サンタクロースと言えば、子供にプレゼントを配る、言わば夢のある存在だ。それなのに、そんなメルヘンなものに全く縁遠いこいつがそんな衣装に扮しているのが何だか可笑しかった。
まぁ…自分で指示しといて何だけれども。

「ま、まぁそれはその…そうなんだけど…。ほ、ほら!お前もさ、1週間の間に段々とそのサンタの格好も様になってきたし、いいじゃねぇーか、な?」
「……」

俺は言葉を濁しつつ、見え透いた嘘を言う。するととっくりは、無言で近寄って来た。ヤバい、怒らせたか…?

「な、何だよ?」
「…コレ」

とっくりは俺に、ピンクの包みを差し出した。

「ん?何だよ、コレ?――…待てよ?え?まさかコレって、プ、プププ――…」
「…プレゼントです」

こいつが俺にプレゼントをくれるなんて、予想もしてなかった。何だよ、可愛いとこあるじゃねぇか。

「あ、ありがとう。あの…、開けてもいいかな?」

春子は口の端を緩めながら、ゆっくりと頷いた。

東海林は嬉しさのあまり、いつもよりも言葉が柔らかくなっていた。だが、自身ではそれに気付かずにいた。
俺は、ワクワクしながら包みの中身を確かめた。彼女は俺のために、一体何を選んでくれたのだろう。
覗き込むと、まず、茶色いフェルト生地が見えた。

――ん?マフラーか?

更に探ると、今度は、赤い円が見える。

――何だ?益々分からない。

俺は包みから“それ”を取り出すことにした。

「――ん…?何だ、コレ?」
「…トナカイの被り物です」

その被り物は、顔の部分だけが丸く空いており、頭部には耳や角、そして真っ赤な丸い鼻が付いていた。

「はぁあ?!」
「クリスマスぐらいその被り物を違う被り物で隠してあげればどうかなーと思いまして」

とっくりは、俺の頭部に視線を向けている。

「これは地毛だ!被りモンじゃねぇー!」
「それにこの間、私の衣装を見て羨ましがっていらっしゃった様なので」
「…あ、アレは―…!」

思わず口ごもる。
こいつ…、この間俺がサンタの衣装をからかったのをまだ根に持ってるな。
それともアレか?俺のダジャレの利いた台本が気に入らなかったからか?!いずれにしても、これは絶対報復だ。
俺にこれを被せて、みんなの笑いものにしようとしてるんだ。これじゃあ“真っ赤なお鼻の東海林チーフ”じゃねぇーか…!

「里中主任、今日は東海林チーフも加勢してくれるそうです」
「ホントですか?ありがとう、東海林さん!」

とっくりが側を通りかかった賢ちゃんを呼び止めた。すると、賢ちゃんは嬉しそうにこちらへ駆け寄って来た。
まるで尻尾を力一杯振った子犬だ。

「へぇ〜、かわいいね。トナカイ?」
「いや、違うんだ、賢ちゃん。こいつが勝手に―…って、あれ?いない」

だが、そこには春子の姿はもうなかった。
あいつ、いつの間に…?また瞬間移動か?!
そして、改めて東海林が里中に事情を説明しようとしたとき、ちょうど浅野が里中を呼んだ。

「主任、ちょっといいですか?」
「あ、はい。――じゃあ頑張ってね、東海林さん」

そう言うと、賢ちゃんは行ってしまった。

「ちょっ、賢ちゃん…!」

どうしよう…、賢ちゃんめちゃめちゃ期待してたよな、このトナカイ…。
俺は1人立ち尽くしたまま、右手に持った被り物に目をやる。そして、溜め息混じりに呟いた。

「…やってみるか」

―――

夕方、午後5時40分
遂に米ケーキ完売。

「みなさん、本当にお疲れ様でした」
「何かやりきった、って感じですよね」
「ホント。大盛況でしたね」

「それじゃあ今日はみんなでパーっと打ち上げでもいきますかーっ!?」

俺はみんなに提案した。場所は勿論Cantante。それは言わずと知れた俺たちの間の暗黙の了解だった。
打ち上げ=Cantante。そういう式が成り立っていた。

「あ、いいですね!行きましょう!」

よし!これで今夜はどんな形にせよ、とっくりと一緒にいられる。俺の心は躍った。

「今日はクリスマスイウ゛なので、うちの店は休みですが、何か」

その時、とっくりがそう言い放った。…ウソだろ?!休み??!
俺は内心焦りながらとっくりに詰め寄る。

「クリスマスなのに休み、って…そんなことある訳ないだろ!かき入れ時だぞ?!かき入れ時!
あ、とっくり。お前、俺たちがまた店に行って騒ぐのが面倒だからそんなこと言ってんだろ?!」
「…それが何か?」
「やっぱりそうか!店、開いてんじゃねーかよ!」
「…それだけ分かってるなら来ないで下さい。迷惑です」
「かー…!!こいつと話してても埒があかねぇー!おい、賢ちゃん、乗り込むぞ!」

俺は賢ちゃんを誘って、強引に店に乗り込むことにした。でも、賢ちゃんから返って来たのは、俺が予想したのとは違う応えだった。

「…あの…東海林さん、ごめん。今日はちょっと予定があるんだ」
「え、予定?」

「あれ〜?主任、デートですか?」

浅野が賢ちゃんに探りを入れている。

「あのな、賢ちゃんが予定っつったら実家に電話するとか、何かそんなのに決まってるだろ?」
「…ですよね」
「それにしても賢ちゃんがいないんじゃあなぁ…。じゃあ打ち上げはまた後日、ってことにするか。な?」
「そうしましょう!みんな揃ったときの方がいいですよ!」

仕方ない。打ち上げは延期だ。
それにしても、今夜はどうしよう…。
これで、あいつの店に堂々と行く口実がなくなってしまった。
せっかくのクリスマスイウ゛。
確か、今日はナントカ座流星群も来るらしい。あいつは知ってるのかな?


【大前 春子 編】

午後7時12分
Cantante 帰宅。
店に着き、扉を開けると、見知った頭部――もとい、見知った顔の男がいた。

「あら、春子。お帰りなさい」

ママの声に、その男がこちらへ振り返る。目が合った。相手は私を見るなり、手をひらりとさせて挨拶した。

「よぉ!」

その顔を見て、私はもう一度、扉を閉めようとした。

「ちょっ、待て待て!何でもう一回、出て行こうとしてんだよ!?」
「…用事を思い出しました」
「ウソをつくな、ウソを!」
「…今日の打ち上げは無しになったはずですが」
「…そ、それは――…。ま、まぁ細かい事はいいじゃねぇーか、な?」
「…失礼します」
「オイ、ちょっと待てよ…!…一緒に飲まないか?」
「…ここはキャバクラではありません」
「そんな仏頂顔のホステス、いねーよ!」
「……」

相手をじろりと見やる。

「…いや、あの、そういうことじゃなくってさ…。つまりその…お前と話がしたいんだよ」

この男の言葉はいつもストレートだ。
なぜか胸にズシンと響く。
でも、今日は誰とも一緒に居たくない。今日はクリスマスイウ゛…。私は何となくこの日が苦手だ。

「…私は話すことなんてありません」

そう言って奥の部屋へ立ち去ろうとした時、不意に左腕に衝撃があった。
東海林 武が私の腕を引っ張ったのだ。

「ちょっと来い…!」

彼はいつになく真剣な顔で私を店の外へ連れ出す。
リュートとママは目配せして、やれやれという顔をしていた。

―――

店の外
勝手口付近に回る。

「…何かここ、懐かしいな。ほら、俺がお前に告白して、次の日風邪ひいてさ」
「……」
「あの日、お前も風邪ひいてたんだってな。なのに俺の代わりに頑張ってくれて――。
今回のコンペだってそうだ。俺の分の営業の仕事、やってくれてたんだろ?――俺ってホント、お前に助けてもらってばっかりだよなぁ」
「……」

そんなことはない。私は彼の真っ直ぐな言葉に、どれだけ救われたことか。

「…ありがとな」

東海林の言葉が優しく響く。

「…あなたは変わりました」
「変わった…?俺が?」
「あなたは変わりました」
「変わった…?俺が?」
「あなたは、人を思いやれるようになりました。出会ったころに比べると、随分成長しましたね」
「お前に褒められるなんて…何か落ち着かねぇな。雪でも降るんじゃねぇか」

彼は照れながらそう言った。そして、星空を見上げる。

「あ…!流れ星!」

私も次いで、空を見上げる。

「雪じゃなくて、流れ星が降ってきちゃったよ。そういえば今日、ナントカ座流星群が来るってニュースで言ってたな」
「…オリオン座流星群です」
「何だとっくり、お前知ってたのか。…そうだよな、知ってるよな。――いや、もし知らなかったら教えてあげようかな〜…とか
思ってたんだけど…そっか、知ってたか」

ちらり、と隣の東海林 武を見る。彼はまだ空を見ている。もしかして、それを伝えるために来てくれたのだろうか…。

「…ありがとうございます」

気付くと、何となく素直にその言葉が出ていた。次の瞬間、私は我に返ると、自分の言葉が何となく恥ずかしくなり、目線を空に切り替えた。
春子が目線を移したのに一呼吸遅れて、東海林は春子を見た。いつになく素直な春子に少し驚いたような表情をして、それから微笑む。

サンタクロースから赤鼻のトナカイへのクリスマスプレゼント――それは、自分のコンプレックスを良いと認めてくれたサンタの「言葉」だったのかもしれない。
星を見ながら、ふとそんなことを思う東海林だった。


【森 美雪 編】

「――あ、流れ星!」

主任の声に、次いで私も空を見上げる。
深い藍の空。まるで宝石のような星々が、あちこちに散りばめられて輝いている。

「あー…消えちゃったみたいですね」

流星を見てはしゃぐ主任は、子供のように無邪気な横顔をしていた。

「――よかったですね、主任」

私の言葉に応じるように、里中主任は柔らかな微笑みを浮かべた。

「森君のおかげです。ありがとうございます」
「いえ、そんな…!私は主任と一緒に流れ星が見たかっただけで―…あっ!いや、その…そういうことじゃなくって
―…あ、そうだ!」

美雪は鞄の中から、綺麗にラッピングの施された包みを取り出した。赤や緑のリボンが掛けられている。

「あの、これ。クリスマスプレゼントです」

そしてそれを里中に差し出す。

「…僕にですか?」
「はい。あの…全然大したものじゃないんですけど…」
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」

微笑みながら包みを開ける主任。

「マフラーだ」

里中は無邪気な微笑みを美雪に向ける。

「…あの、主任もうマフラー持ってるし、どうしようかなと思ったんですけど…。
やっぱり違うものの方が―…」

美雪が言い終わらないうちに、里中は早速、自分の巻いていたマフラーを外すと、美雪からもらったそれを首に巻いた。

「すごく温かいです。ありがとうございます」
「主任…」

嬉しくて嬉しくて、涙が出そうだった。

「僕からも、森君にプレゼントがあるんです」

主任は鞄の中から、長方形の藍色の小箱を差し出した。

「…えっ?!…私に――ですか?」
「はい」
「ありがとうございます。あの…、開けてもいいですか?」
「どうぞ」

私は受け取った小箱を開く。中には、ハートのモチーフが付いたペンダントが入っていた。

「わーっ、かわいい!これ、もしかしてペティットの―…?」

私の問い掛けに主任が頷く。

「どんなものがいいか、全然分からなかったんですけど…森君に似合うんじゃないかなと思って」

主任が私のことを考えて選んでくれた、それが何より嬉しかった。

「私、大切にします!本当にありがとうございます!」
「喜んでもらえたみたいで、よかったです」

里中は優しく微笑んだ。そして、しばし嬉しそうな美雪を見た後、真剣な表情に変わった。

「――森君。僕の話、少し聞いてもらってもいいですか?」
「へ…?あ、はい」
「ありがとうございます」

主任が私に話…?何だろう?
私は再び主任に向き直ると、どんな話が始まるのかと、少し緊張して待った。期待と不安が交錯する。

「僕はこれまで、自分に嘘をついて生きてきたのかもしれません…。」
「…嘘…ですか?」
「はい。いつも自分の気持ちは置きっぱなしで――…きっと、本当の自分が見れていなかったんだと思います」
「――私が見てました。私、いつも頑張ってる主任のこと、ちゃんと見てたから知ってます」
「森君…」
「主任、自分にもっと自信を持ってください。主任は素敵です」

主任は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。“そうですね”と言いながら。

「だから… これからは、僕は自分に正直に生きることにします」
「主任になら絶対、できると思います」

私には、その話の具体的な内容は分からなかったけど、主任が自分に何か大切なことを話してくれている、
というのは分かった。それが嬉しかった。
そんな美雪を、里中は真剣な面持ちでじっと見つめる。そして一呼吸置くと、決心したように口を開いた。

「…僕は、森君のことが好きです」

美雪は、その言葉に一瞬驚いたが、先日の一件のことを思い出し、少し残念そうに笑った。

「――あぁ、ありがとうございます。“仲間として”ですよね。私も主任のこと――」

“好きですよ”と言おうとした瞬間、その言葉は遮られた。

「違うんです」
「へ…?」
「…僕は森君のことを“1人の女性として”好きなんです」

一瞬、何が起きたのか、私には分からなかった。思考停止状態が5秒ほど続くと、私はようやく状況を飲み込んだ。
真剣な表情を通り越して、少し困ったような顔の里中主任。どうやら私が応えるのを待っているようだ。

「ほんと…ですか?」

それは、私の搾りだした精一杯の言葉だった。

「…はい」

主任は尚も、私を見つめている。澄んだ綺麗な瞳。
それがなんとなく恥ずかしくて、私は少し、目を逸らしてしまった。

「あの…ありがとうございます」
「いえ…」
「…私も…、私も主任のことが好きです…。もちろん“1人の男性として”」

そう言いながら、主任に向き直る。嬉しくて、思わず目が潤んでしまった。

「――ありがとうございます」

そう応える主任の笑顔は優しかった。それは、見ていて安心できる微笑み、幸せになれる微笑みだった。
里中と美雪はしばしの間見つめ合った。お互いに微笑みながら。


「あ…!また流れ星!」
「あ!あっちにも…!」

午後8時12分
オリオン座流星群の流れる頻度はピークを迎えている。

夢に見た奇跡が今、目の前で起こっている。サンタさん、最高のプレゼントをありがとう。


【浅野 務 編】

時刻は午後8時過ぎ。
街にはクリスマスソングが流れ、赤や青の電飾を巻かれたツリーが至る所に立っている。人ごみの半数以上がカップルで占められている。そして、それらの人々はみな、一様に空を見上げている。

テレビにはそんな映像が映し出されていた。それは生放送らしく、中継先のキャスターは人々の波に押され気味だ。

「ん〜ン、美味しい!」
浅野 務はケーキを一口フォークですくい、口へ運ぶ。自分で予約しておいた米ケーキ。何となく寂しいが、気にしない。
そして、テレビ画面に目をやる。
「…あれ?このキャスターの人、何かちょっと大前さんに似てるような…?――ま、いっか」
一瞬、手を止めるものの、すぐに再びケーキに夢中になった。
テレビでは、流れ星が映し出されている。


【小笠原 繁 編】

「お〜ぉ…、寒い。やっぱり年寄りに冬の夜はこたえるねぇ〜…」
縁側に座り、じっと空を見上げる1人の年老いた男。

「あなた、どうぞ」
「あぁ、ありがとう」

小笠原 繁は声の方へ振り返り、妻からほうじ茶の入った湯のみを受け取ると、微笑んだ。
そのとき、彼の背後に一筋の流れ星が通り過ぎていった。


【黒岩 匡子 編】

「あー…、寒っ!今日は一段と冷えるわねぇ〜…」
黒岩 匡子は仕事を終え、帰宅途中にあった。煌びやかなイルミネーションの輝く、楽しそうな街中を独り歩く。
が、ふとショーウィンドーの前で立ち止まり、その中に飾られたウェディングドレスをじっと見つめる。そして、小さく溜め息を漏らした。
憂い顔で何気なく空を見上げると、たまたま一筋の流れ星が目に入った。
「…あ、流れ星」
匡子はそっと微笑むと、再び家路へと歩み始めた。


【一ツ木 慎也 編】

「あー…、そうですか。でもね、佐々木さん。もうちょっとだけー…頑張ってみましょうか?ね?
――いやいや、あなたならできますよ、ね?――いやー…、そんなこと言わないで、ね?」
一ツ木 慎也は、今日もハケンライフのマネージャーとして奮闘している。
携帯の相手は、派遣先の会社を辞めると言い出した。それをなだめるのに必死だ。
「あ、ちょっと!佐々木さん?!――あー…切れちゃったよ…」
“あちゃー…”という顔でゆっくりと携帯を閉じる。そして、上を向きながら、溜め息をついた。
「…あ」
一瞬のうちに、一ツ木の目の前を、流れ星が通り過ぎていった。


【近 耕作 編】

「は〜い、ケーキでちゅよ〜?“あーん”してくださ〜い?」
近 耕作は家で家族団欒中だ。
「パパうじゃい」
「え…?!ウザイ…??!」
「うそだよ」
「よかった〜…!!ん〜、チュッ」
現在もなお、娘にメロメロ。楽しそうな近。窓の外には流れ星が流れていった。


【大前 春子 編】

「でもさ、今日、お前と一緒に見られてよかったよ。流星群」
「……」
「だってさ、次見られるのって確か60年後だろ?
そん時じゃぁ、あんたも俺も、もうこの世にいないだろうし」

――そうだ。私たちはいつかみんなこの世から消える。私も、この男も――。
当たり前のことなのに、私は急にそれが怖くなった。

「―…とっくり」
「…何か?」
「メリークリスマス」

東海林 武の声。それは辺りに優しく響いた。

「…メリークリスマス」

私は僅かに口の端を緩め、それに応じる。

夜空には星が輝いている。
この星空に、どれくらいの人々が願いを込めたのだろう。そして、その願いはどのくらい叶えられるのだろう。
それは私には分からない。でも1つ言えるのは、今日、この人が側にいてくれてよかった、ということだ。
ありがとう…
私はもう一度、心の中でそっと呟いた。






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