東海林武×黒岩匡子
私の恋は、たぶんもう実らないだろうということを、私は知っている。 変な天然くるくるパーマ。 調子のいい減らず口。 イケメンじゃあ、ない。 でも、私は。 あの人がとてもかっこよく見える瞬間をちゃんと知っている。 仕事に対する強い信念。 会社に対する深い愛情。 その、芯の部分を見せてくれたときの眼差しは、きっとずっと忘れない。 …でも、もう。 いつも書類やらファイルやら雑然と置かれていたデスクの上は、さっぱりしてしまった。 いなくなったのはたった一人なのに、販売二課全体ががらんとしている気がする。 そりゃ、最初は何とも思ってなかったわよ。 顔で言ったらもちろん里中くんの方が好みよ。 …っていうのは、きっと彼自身がよく分かってたんだと思う。 何がどう間違っても、匡子が俺に惚れるわけない、って。 ほんとに、自分でも思う。 何がどう間違っちゃったんだか。 それなのに彼は何も知らず、 「早くいい男見つけろよ」ばっかり言って笑うし。 バレンタインにチョコあげても義理チョコさんきゅって笑うし。 「俺はいい仲間をもったよ」って笑うし。 他人のことはすっごく敏感なクセして、自分のことはほんっと鈍いんだから。 その証拠に、私の気持ちには全然気づかないでハケンの大前さんに惚れちゃうんだもんね。 だから、言えなかった。 私にとって、東海林くんは同僚。仲間。 よく言えば、同志。 それ以上でも、それ以下でもない。 そう、信じて疑いもしないおバカな東海林くんを見ていると。 …ほんとに。 ほんっとに、ほんっとにバカ。 何の相談もしてくれないで、ひとりでカッコつけちゃって。 主任の仕事、こんなにたくさん残ってるのにいきなり名古屋に異動なんて。 何で私が東海林くんの残した仕事のせいで残業しなきゃいけないのよ。 デスクで一人で食べるコンビニのサンドイッチ、すっごくまずいんだけど。 がらんとしたオフィスには、私しかいなくて。 片づけても片づけても仕事は残っていて。 でも電話して東海林くんに説明してもらわなきゃいけないようなことはなくて。 そのぐらい、あの人は完璧に資料から何から全て整理して残していて。 まるで、こうなることを分かっていたかのように。 「…バカ」 無意識のうちに言葉が漏れる。相手はここにはいないのに。 さっきからずっと手が止まっている気がする。 …ダメだ、もう明日にしよう。 大きく溜息をついて立ち上がった、そのとき。 私のポケットで携帯が震えた。 七色にライトを光らせて、携帯を震わせる電話の向こうの相手は。 『東海林 武』 …なんてタイミングのいい男なんだろう。 「もしもし?」 『もしもし、匡子?今、大丈夫か?』 「ん、大丈夫」 携帯を持ち直して、椅子に腰かける。 少しでも近くに声を聞きたくて、受話音量を上げた。 『名古屋着いたからさぁ、報告ーと思って』 「…そ。お疲れ」 心の中がちくりと痛む。 東海林くんはそんなこと全く知らず、「うなぎ食っちゃったよ、うなぎ」とか言って笑う。 『あとな、コーチン』 「はいはい、よかったわね」 『やっぱうめーの、これがまた』 「…私はサンドイッチだったわよ。デスクで」 『うわっ!わびしーなぁ』 「うるさいっ」 『いっつもバカみてーに高いランチ食ってたじゃねーか』 「ランチはいつも通りよ」 『じゃあ夜がサンドイッチか?デスクで』 「そうよ、悪い?」 『なに、お前まだ会社にいんの?』 「そうよ、悪い?」 『珍しいなあ』 「そんなの私が一番そう思ってるわよ」 『残業なんかしてねーでデートのひとつでもすりゃいいのに』 「…ちょっと、それ禁句」 『ははっ、スイマセンね』 「残念ながら、そんな時間はありませんのでね」 『そっかぁ』 「ここんとこ毎日残業なんだから」 名古屋に来たからって、うなぎとコーチンって…単純なんだから。 しかも無神経なことに私にとっての禁句を口走る始末。 そんなだから少し意地悪してみたら、東海林くんは急に黙ってしまった。 それから。 『……ごめんな?匡子』 しばらく黙ったと思ったら、急に。急に優しい声出すもんだから。 …今まで頭の中だけにしまっておいた文句がぽろぽろ出てきた。 「…そうよ…あんたのせいで私のプライベートの時間がどんどん削れてくわよ」 『うん』 「中途半端に手つけた仕事が多すぎんのよ」 『うん』 「なんか来年度は常識のない変なガキが来そうだし」 『そっか』 「っていうか、オフィスがいきなり静かになっちゃったわよ」 『そっか』 「里中くんだって、すっごく寂しそうなんだから」 『…そっか』 何を言っても『うん』とか『そっか』で、東海林くんは何の反論もしてこない。 だだをこねる子どもをなだめるような、穏やかな声なのが本当に癪に障る。 あんまり言いたい言葉ではないけれど……むかつく。 だから私の文句は更に彼にとって耳の痛い方向へ滑っていってしまう。 「だいたいいきなり辞表とか失踪とか名古屋とか、バカじゃないの?」 『…うん』 「何の相談もしてくれないで、一人でそんな大事なこと決めちゃうなんて…」 『そうだな』 「…8年間も、一緒に仕事してきたのよ?…そんなに信用できなかったわけ?」 そう、8年間も。 入社してから8年間も。ずっと一緒にいた。 東海林くんも私も気が強くて頑固だから、最初はよくぶつかり合った。 おろおろする里中くんを置いてきぼりに、答えの出ないようなことでたくさんバトルした。 でも、だからこそ何も言わないでもお互いやりたいことが分かるようになった。 東海林くんと里中くんと私で、ツーカーの仲だと思ってたのに。 …ツーカー?私も古いな。 『いや、逆だよ』 え、新しいわけ?…って、違う違う。ツーカー関係ないから。 なんだっけ?…あ、私が信用できなかったのか!っていうやつか。 それまで私の言葉を全く否定しなかったのに静かに反論した東海林くんは、少し黙ってから言った。 『匡子にはさ、言いたくなかったんだ』 思考が止まる。言葉の意味が、分からない。…涙が出そうになる。 でもそんなことには気づかない、気づくわけがない東海林くんは更に続ける。 『お前なら、すげーいいアドバイスくれるだろうってことぐらい、わかってたよ』 「!……」 『たぶんお前に相談しとけばこんなトコ来なくてすんだだろうってこともちゃんとわかってた』 「…だったら!」 『…でもさぁ、めちゃめちゃ心配するだろ?』 少しだけ笑って、穏やかな声で、東海林くんは言った。 どうせお前のことだから。それもわかってたんだよ、って。 『ずっとそうだったもんな。お前きっつい女に見えるけど、意外とお人好しだから』 「………」 『世間じゃそういうの、ツンデレっていうんだぞ。覚えとけよ』 「…何言ってんのよ」 『ま、それが裏目に出て倍ぐらい心配させる結果になっちまったけど』 「そうよ、バカ」 『…うん。ごめんな』 東海林くんの声が、あまりにも穏やかなもんだから。 私はこぼれそうになる涙を必死で堪えて、泣きそうになってるのを隠すので精一杯で。 やわらかい沈黙が、優しかった。 でも、苦しくなるぐらい痛かった。 『……じゃ、さ。もう遅いからお前も帰れよ』 「…うん」 『変なおっさんとかに捕まんなよ』 「うん」 『早くいい男捕まえろよ』 「余計なお世話」 『ははっ…後、よろしくな』 「…うん」 『じゃあ』 「うん……あ、そうそう」 『ん?』 言いたいことが、たくさんあった。 今言わないと、もう言えないと思った。 必死に、息を吸った。 「チョコのお返し、今回5倍返しでよろしく」 元気でね。 『やだよ!お前、3倍でも苦しいっつーのに』 そっちでも頑張ってね。 「迷惑料よ、迷惑料!そんぐらいはしなさいよね」 東海林くんなら、きっと大丈夫。 『…うーん…財布と相談だわ』 「…ね、東海林くん?」 今までありがとう。 『うん?』 「……あのね…」また、会えるよね? 『…ん?』 「………うーん、やっぱいいや」 全然気づいてなかったと思うけど、 『あ?…まぁいいや、気ぃつけて帰れよ』 「うん、おやすみ」 『おう。お疲れ』 プツッツーツーツー …ずっと、好きだったの。 電話の向こうから聞こえてくる無機質な音が、耳障りだった。 携帯を閉じて、デスクに置いて、溜息をついたら、つう、と伝った。 こぼれた涙は熱くて、でも、すぐに私の頬を冷やした。 でもまたすぐに、熱い涙が頬を伝って、次々と落ちていく。 CMなんかでよく、「電話でつながることができる!」とか何とか聞くけど。 そりゃ、何の連絡手段も行方も分からない状態よりは確かにいいけど。 でも電話なんて話したとしても顔も見られないしその人の空気も感じられないし、 っていうかそれ以前に、相手の名前を表示して発信ボタンを押すときに必要な勇気がハンパじゃない。 それが、片思いの相手で、その人を好きな度合いが強ければ強いほど。 そして、私はそんなに勇気のある人間じゃない。 言えばよかったのに。言いたかったのに。 なんで、何も言えなかったんだろう。 なんで、本心と全然違う言葉になっちゃったんだろう。 あんな会話、別にしたかったわけじゃないのに。 チョコのお返しが何倍だろうが、そんなことどうだっていい。 そんなことより難しい言葉でも何でもなかったのに、どうして出てこなかったんだろう。 涙が止まらない。 頭が働かない。 胸が痛い。 今私がこんなに泣いてること、東海林くんは知らない。知りようがない。 誰も気づかなかった、誰にも気づかせなかった私の恋は。 伝えることすらできなかった私の恋は。 たぶん、本当にもう実らないだろう。 …マスカラ、ウォータープルーフに替えてよかった。 化粧崩れがものすごいだろうから、帰る前にトイレ行かなきゃ。 ああ、ほんとに。 ここに誰もいなくてよかった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |